【哀】は「悲しい」とともに、「せつない」意味も含まれています。喜怒哀楽のうち、もっとも抽象的で、だけど人の感情の中でもデリケートな心の動きだと思います。そして、せつない気持ちがあればこそ、心のわび、さびも理解できるのです。チャゲや飛鳥も【哀】の感情にはとても敏感。自分の哀しみだけじゃなく、人の哀しみをも察して、素敵な歌に変えているのです。さて、彼らが感じる【哀】には、いったいどんなドラマが隠されているのでしょうか。
【缶コーヒー】
五月九日から十二日間にかけて、C&A一行はモナコ、シンガポール、香港の三カ国を旅したのだった。哀しい出来事は出発当日に起こった。
成田空港へはリアルキャストの車が出されたが、それぞれの荷物が多いために一台では入りきらない。そこで太っ腹のチャゲは、自分の車を提供し、出発前日からリアルキャストの駐車場に待機させていた。そして出発の日。スタッフの岡田はチャゲの車を運転してチャゲの家へさっそうと迎えに行った。リアルキャストの車には飛鳥が乗っている。二代連ねて、成田までしばしのドライブとなった。ところが車に乗り込むとき、チャゲはある忘れ物に気がついた。缶コーヒーである。ドライブのお供には大好きな缶コーヒー。これ、チャゲの鉄則。しかもしばらく日本を離れ、缶コーヒーが飲めない。「しまった…」チャゲにとってはけっこう痛い忘れ物だった。
ふと気がつくと、目の前の缶ホルダーに一個の缶コーヒー。「ああ、岡田がおれのために買っておいてくれたんだ…」。運転する岡田の横顔をジーンとして見つめる。でも、いつまでたっても岡田は自分に缶コーヒーを勧めない。そのうちに、太い指で缶コーヒーを開け「いやー、今日は日曜日で道路が空いてますねー。グビグビ」。そう。岡田はチャゲのためではなく、自分のためだけに缶コーヒーを買っていたのだ。しかもチャゲの車のチャゲの缶ホルダーに差し込んで。
チャゲは哀しかった。モナコ音楽祭でアジアの代表としてステージに立つ。そして日本一のアーティストであるチャゲが、缶コーヒー一本のためにずっと嘆いていたなんて、誰が信じようか…。
【沈黙の戦艦】
同じく五月九日。チャゲ同様に飛鳥にも哀しい出来事が待っていた。
モナコへは「僕等には翼がある」でお馴染みのJALを利用した。移動が大の苦手の飛鳥は、延々と続く十二時間という時間をどうしたものかとずっと悶々として過ごしていた。チャゲやナベさんは機内映画に没頭している。飛鳥はさして見る気もなく、ただひたすらCDを聴いて退屈しないように気分を高めていた。やがて映画が終わる。チャゲが飛鳥の席に駆け寄る。「おい、映画おもしろかったぞ。今度の回で見てみろ」。映画のタイトルは『沈黙の戦艦』。さっそく次の回を待ち、手元のスイッチをオンにしてみた。スティーブン・セーガル主演のその映画は、飛鳥の大好きな戦争と空手の入り交じったハードアクションもの。「これはおもしろい」。飛鳥はどんどん映画に入り込む。心が沸きたち、頬もいつの間にか紅潮してくる。さあ、これからがいいところだ。これからヒーローが暴れ出す。行け行け、ワクワク。と思ったら、いきなり映像がブチン。機内アナウンスは「皆様、間もなく着陸でございます」
いちばんいいところで強制的に映像を切られてしまった飛鳥の心は、完全なおいてきぼりをくらってしまったのだった。
「あの映画、最後まで見たかった…」。モナコ音楽祭でアジアの代表としてステージに立つ。そして日本一のアーティストである飛鳥が、たった一本の映画のために嘆いていたなんて、誰が信じようか…。
【飛鳥ばかりがなぜ】
相棒のチャゲの仕業で、いつも哀しい思いをさせられているのは飛鳥。
最近ふたりは野球チームを結成したが、コンサート中だったし、試合に出るのは控えていた。ところがチャゲが「キャプテンが出ないとしまらん」と出ると言ってきかない。「チャゲが出るなら…」と飛鳥も疲れた体にムチ打って試合に望んだ。でも、チャゲはこなかった。家で寝ていた。
と、こんなのはほんの一例にすぎない。約束したのに先に行ってしまった。自分の荷物を飛鳥に押しつけてどこかへ行ってしまった。買い物に行っても、自分の物を買ってしまったらとっとと帰ってしまう。事務所などで店屋物を取ると言っといて、気がつけば外で食べてるなどなど、挙げればキリがない。
飛鳥はチャゲの仕打ちに対して、ずっと哀しい思いをさせられているのだ。でも、十四年間も続ければ、もう慣れっこにもなっていて、今はチャゲによって哀しい思いをさせられているスタッフを、慰める側にまわっている。
【きちっと名前を呼んでほしい】
外人にとって日本人の名前を覚えることは確かに難しいだろう。でも、日本語を覚えろとは言わない。せめて名前はきちっと呼んでほしい。
今回の海外で、ほぼ全員が外人に名前を呼び間違えられた。
●チャゲの場合 シンガポールエアラインのスチュワーデスに本名柴田を「ミスターシビタ」と何度も呼ばれた。
●飛鳥の場合 同じくシンガポールエアラインのスチュワーデスに本名宮崎を「ミスターミタザキ」と、最後まで呼ばれた。
●ナベさんの場合 モナコのホテル・ド・パリのボーイに、渡辺を「ミスターワナタベ」と呼ばれ、しばし自分が呼ばれていることに気がつかなかった。香港のグランドハイアットホテルのボーイには「ミスターマタナベ」と呼ばれた。
●ミヨコの場合 シンガポールのラッフルズホテルのボーイに、天野を「ミスアノマ、ミスアナモ」と二回も呼び間違われた。
滞在中、みんなヤケになって、それぞれを呼び間違われた名前で呼び合っていた。
【言葉よカムバック】
ワープロで詞を書くことがすっかり定着した飛鳥。キーボードに言葉を打ち込んで、並べて入れ換えてと、浮かんだ言葉をどんどん入力して作詞をしていっている。作詞はかなり体力のいる作業だから、キリのいいところで休憩することもある。あるとき、1コーラスが出来上がって席を立ったとき、足でワープロの電源を引き抜いてしまった。当然のように入力した言葉はこの世から消えてしまった。
「詞ってその瞬間の感性で生まれてくるものだから、細かいテニヲハまで覚えてないわけよ。だから、一度消えると二度と同じ言葉は生まれなかったりするんだ…」
自分自身に怒るというより、これはもう哀しい感情しか湧いてこない。
作詞以外でも同じような経験がある。去年、月刊カドカワに連載していた『六月のやわらかい服を着て』を執筆中の出来事。
「ロンドンのスタジオで書いていて、ちょうどページ数にすると1ページ半を書きおわったときかな。ミキサーのノエルが通りかかって、コンセントを足で蹴っ飛ばして抜いちゃったんだ。一気に1ページ半がなくなっちゃった。ノエルはすまなそうな顔をしたけど、怒っても仕方ないし…。セーブしてなかったこっちが悪いんだからね…」
以来、ワープロを使うときは必ず数行ごとにフロッピーに入れてセーブすることを忘れない飛鳥であった。
【香港の夜景】
モナコ、シンガポール、香港と十二日間も旅をしていたのに、毎日が忙しく、同行したビデオクルー、スチールクルーは思いどおりの絵を収められないでいた。そこで岩沢監督の「夜景をバックに撮りたい」というたっての希望もあって、香港で帰国を一日延ばすことを決意。
最終日となったその日、香港市内のあちこちでC&Aを映像に収めた。そして最後のサビとも言える夜景をバックに撮るがために、一行は香港のフェリーに乗り込んだ。
「今まで、何度もきれいだきれいだと聞かされていた夜景が、特にせつなくジーンと胸にきました。歌っている楽しさより、背筋にひとすじ走るせつなさみたいなものがあって、それがビデオにもちょっと出ているかもしれません」(飛鳥)
長い旅の最後の仕事となった夜景撮影。海と空が同じ色に溶け合って、ビロードの空間の中に浮かぶ星々。香港の夜景は旅で疲れた心に、しんしんとしみ入った。撮影終了後は大拍手で盛り上がるのが常だが、今回は誰もがとても静かな笑顔を浮かべていたのが印象的だった。
最終更新:2025年06月23日 22:10