深い霧の中で女性の声が懐かしい音に聞こえた。
それがスチュワーデスのアナウンスだと気づくまで、それほど時間はかからなかったが、目を開ける力も勇気もなかった。
成田を発つその日の朝まで、アルバムのデモテープ作りのため至極当然のように睡眠不足を続けていた。スタッフエンジニアの連中は皆笑いながら、
「機内で死ぬほど寝ればいいですよ。ジェットラグがなくていいじゃないですか」
「勝ったかなあ?」
「綺麗なスチュワーデスにあたらないで、ちゃんと寝てからですよ」
睡眠の不足がある線を越えると、今度はまったく寝られなくなってしまう。これは本当に辛い。何度も経験をしながらも、どこか心の隅に、
(これはしょうがない。またやってしまうだろう)
という納得もある。そんな思いでシートに体をあずけたのが12時間前だった。
仕事との精神状態で重要なのはバランスだと思っている。アーティストと呼ばれる仕事についてから、その時間が増す度に、自分の中の独立自尊を大切にしたい気持ちが重なり、首を横に振ることが多くなった。デモテープ作りなど最たるものだと思っている。今回のアルバムのためにまず5曲のデモを仕上げたが、歌詞は最後の最後なので、タイトルにはM1、M2、M3、M4、M5、としてある。Mはミュージックの略であり、海外ではT1、T2、T3と、トラックの略を使うことが多い。
バーニッシュストーンスタジオは世田谷の住宅街のあるビルの中にある。様々なアーティストがここで音を仕上げ、外がうすら明るくなる頃「おつかれ」とビルを後にする。
今回はそのビルの二階にあるワークルームで5曲を仕上げたが、どうしてもM1が納得のいく曲にならない。ロンドン滞在、半年間の荷物の整理も満足に出来ないまま、いよいよ出発の二日前になってしまった。ここ二週間、満足に体を横にしていなかったせいか、足が浮腫んで靴が小さくなってるような気がする。「この1曲はロンドンに着いてからにしよう。ここいらで眠らなきゃな」という体に対しての強迫観念も手伝って、多少気弱になっていた。デジタル24チャンネルマルチ、シンクラビア、音色の数、そして何よりも朝まで文句ひとつ言わずに付き合ってくれるスタッフ……。どれをとってもここを離れるのは惜しかった。
ここで出発を延ばせば、7月5日スタートの現地でのレコーディングに影響が出てしまう。すでにメンバーはブックしてあるし、葛藤の交錯状態だった。
「あと2日か……」
「だいじょうぶですよ。ここまで出来てるんですから」
エンジニアの横山が気遣ってくれる。
「チャゲはどうだろう?」
「なんですか?」
一気にいろんなことが頭を駆け巡っているため、質問が自分の頭の中だけで解決してる。
「曲作りだよ。どこまでいってる?」
「さあ……3曲は終わったって聞いてますけど……」
チャゲにはTOKYO FMで会ったが、連日連夜作業の中での出演だったので、仕事はおろか、なにを喋ったか……。とにかくその場所にいるのが精一杯だった。
「3曲か……。けっこう渋いな」
そんな話をしてる最中、スタジオのドアが遠慮がちにゆっくり開いた。
「おはようす」
それほど明るくないスタジオの中でも、その人物が程よく日焼けしているのがわかる。
宇佐元恭一であった。彼とは彼がまだアマチュアの頃からの知り合いで、当時福岡からコンスタンスにアマチュアがデビューしていた中の、彼もそのひとりであった。ユイ音楽工房からのデビューであったが、彼の音楽性から、伸びる方向性のエネルギーを上手く表現できずにここまできている。僕らはそんな彼の才能を深く認めていたこともあり、この度、C&Aの所属するリアルキャストのアーティストとして彼を迎え、一緒に活動していくことになった。
「やってますか」
「おう、かわらずな。どうした、今日は?」
「頼まれた時任三郎の曲が出来たんで、渡しにきたんですよ」
「ああ、話は聞いたぞ。えらいいい曲らしいね」
「まかしてくださいよ。でも、自分のアルバムに入れたくなったすけどね」
「楽曲提供のときは、毎回そう思うようになるよ」
さっきまでの重苦しい空気が一瞬消えたせいか、頭のどこかでプラス信号が鳴った。
こういうときは一気に青空が見えてくるし、屋根のない期待がどこまでも体を走る。
彼は幼少の頃からクラシックピアノを続けており、どんなジャンルでも驚くくらいこなす。
「宇佐元、おまえ、ピアノ弾いたことあるか?」
「ええ、前世で一度くらいなら」
「ちょっとこの譜面のこのテンポで弾いてくれないかな」
「やってみましょうか」
4カウントのあと、ワイルドなリズムに乗せて指が走っていく。まわりのオケを引っ張っていくような、勢いのあるピアノだった。かなり曲の印象は変わってきたが、やっぱりどこか違う。
メロディーが胸を打たない。何度も何度も繰り返した。
「こりゃ、ニュアンスがどうのこうのって問題じゃないな」
「どういうことですか?」
「メロディーとテンポの兼ね合いかなあ……。宇佐元、ちょっと席を変わってくれないか」
キーボードの前に座った。思うことがある。扉はひとつじゃない。いくつか並んだ扉が目の前にあり、偶然手にした鍵がどの扉を開けるか。コードをやわらかく押さえた。メロディーを呟くように。皆の見守る中、気づかれたくないかのように、そっとそっと綱渡りのように渡った。
リズムもなにもないピアノだけの響きの中で、何か懐かしいものがある。懐かしさが消えないうちに、何度も呟いてみる。そして、ひとつの扉の錠が外れた。
「飛鳥さん、それいいですね」
「だろう。こういうことだったんだよ」
そのコード進行とメロディーは、ワイルドなリズムの中では上手く生きられなかった。リズムパターンが全ての雰囲気を壊していたのだ。
一度錠が外れてしまえば、そこから光をこぼすように先へ進んだ。
「宇佐元、おまえ明日は何時からだよ」
「わかってますよ。朝まで付き合いますよ」
すべてのアレンジをその場で壊し、ベーシックから録り始めた。夜中の2時をまわってからの勢いと勇気であった。レコーディング独特のものである。
終わったのは、お昼の1時半だった。
目を覚ますと、紺色の制服に包まれたスチュワーデスと目があった。
「お目覚めですか?」
「あ、はい」
「よくお眠りでした。あと30分程でヒースローに到着しますけど、なにか冷たいものでもお持ちしましょうか?」
「じゃあ、コーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
成田を発ってから何度も寝ようとしたが、15分、30分で目覚めてしまい(こりゃ完全に時差ボケだぞ。今回も負けだな)そんなことを考えながら、後部座席に座っているスタッフの吉岡のところへ行ったり来たりしていたが、4時間程前から眠り込んだらしい。もうろうとする意識の中、運ばれてきたコーヒーをすすり、入国用のカードを乱雑なスペルで書いた。
機内は最後のアナウンスを響かせ、マッチ箱のように建ち並ぶ家並みを分けるように、2年ぶりにこの国に降りた。
そして僕は、無造作に六月のやわらかな服をつかんだ。
最終更新:2025年08月17日 20:59