903 名前: 【最期のひととき】1.幼女ショップにて(1/2) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:10:45.56 ID:5tdo3/oo
宵闇の中、今日も間延びした電子音が、客の入店を告げた。
ピーン、ポーン
新しい客に視線を向けた店員は、緩めていた顔を真面目に引き締め
宵闇の中、今日も間延びした電子音が、客の入店を告げた。
ピーン、ポーン
新しい客に視線を向けた店員は、緩めていた顔を真面目に引き締め
店員「いらっしゃいませ」
幼女ショップに似つかわしくない壮年の男性に頭を下げる。
鞄を持ったスーツ姿、この時間に会社帰りのサラリーマンが立ち寄ることは珍しくない。
ただ、顔は正面を向けたまま視線だけを左右に泳がせている。
恐らく幼女ショップは初めてなのだろう。
鞄を持ったスーツ姿、この時間に会社帰りのサラリーマンが立ち寄ることは珍しくない。
ただ、顔は正面を向けたまま視線だけを左右に泳がせている。
恐らく幼女ショップは初めてなのだろう。
店員「お客様、幼女ショップへのご来店は初めてですか?」
男性「わかるかな? ここでは家事ができる幼女を売っていると聞いてきたのだが」
男性「わかるかな? ここでは家事ができる幼女を売っていると聞いてきたのだが」
応える男性の表情に興奮はなく、落ち着かない視線に下心はない。
店員「はい、当店では予め訓練された幼女を、お客様の好みに応じてお選びいただけます」
店員「ただしお値段もそれ相応のものになりますが」
男性「構わん、早速だが見せてもらえるか?」
店員「分かりました、こちらへどうぞ」
店員「ただしお値段もそれ相応のものになりますが」
男性「構わん、早速だが見せてもらえるか?」
店員「分かりました、こちらへどうぞ」
904 名前: 【最期のひととき】1.幼女ショップにて(2/2) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:11:44.05 ID:5tdo3/oo
店員は男性客を、グッズ売り場の奥にあるカーテン状の仕切りの奥へと招いた。
そこには鉄格子がずらり並んでいた。一畳ばかりの小部屋に一人ずつ、幼女がいる。
店員は男性客を、グッズ売り場の奥にあるカーテン状の仕切りの奥へと招いた。
そこには鉄格子がずらり並んでいた。一畳ばかりの小部屋に一人ずつ、幼女がいる。
店員「家事ができる幼女は何人かおりますが、他に何か条件はございますか?」
男性「条件、と言うと?」
店員「一口に幼女と申しましても、それぞれ個性がございまして」
店員「素直で従順な幼女もいれば、気まぐれな幼女や気難しい幼女もいます」
男性「ふむ……そこまで考えてはいなかったな」
店員「でしたらこちらの、初心者にも飼いやすい素直タイプの幼女は如何でしょう」
男性「条件、と言うと?」
店員「一口に幼女と申しましても、それぞれ個性がございまして」
店員「素直で従順な幼女もいれば、気まぐれな幼女や気難しい幼女もいます」
男性「ふむ……そこまで考えてはいなかったな」
店員「でしたらこちらの、初心者にも飼いやすい素直タイプの幼女は如何でしょう」
店員が示した檻の奥に、その幼女は立っていた。前髪も後ろ髪も腰ほどまで長い、
黒い髪に黒い瞳の幼女。見慣れぬ男性を恐れているのか、両手で毛布を握りつつ、
しかし男性を見る目は好奇のそれだ。首には1310と刻印された首輪が付いている。
黒い髪に黒い瞳の幼女。見慣れぬ男性を恐れているのか、両手で毛布を握りつつ、
しかし男性を見る目は好奇のそれだ。首には1310と刻印された首輪が付いている。
店員「最初は多少人見知り致しますが、頭のいい子なので、すぐになつきますよ」
店員「教えたことはすぐ覚えますし、お客様次第で様々な用途にお使いいただけるかと」
店員「教えたことはすぐ覚えますし、お客様次第で様々な用途にお使いいただけるかと」
店員が説明している間に、幼女は恐る恐る鉄格子に寄ってきた。気づいた男性と
視線が合うと、にっこり微笑み、鉄格子の間から手を伸ばした。
視線が合うと、にっこり微笑み、鉄格子の間から手を伸ばした。
男性「? なんだ?」
男性がしゃがみ、幼女の手を取ろうとすると、幼女は男性の頭を撫でて言った。
幼女「泣かないで、元気出してください」
男性「!」
店員「こら、お客さんに失礼だぞ、幼女1310」
幼女「でも……」
男性「……店員さん、この子にしよう。いくらかな?」
男性「!」
店員「こら、お客さんに失礼だぞ、幼女1310」
幼女「でも……」
男性「……店員さん、この子にしよう。いくらかな?」
905 名前: 【最期のひととき】2.家族(1/3) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:12:39.22 ID:5tdo3/oo
とあるベッドタウンの高層マンション。男性と幼女1310は、
服や餌など飼育セット一式を抱え、マンションの一室の前にいた。
男性は鍵を開けながら、幼女に言う。
とあるベッドタウンの高層マンション。男性と幼女1310は、
服や餌など飼育セット一式を抱え、マンションの一室の前にいた。
男性は鍵を開けながら、幼女に言う。
男性「今日からここが、お前の家だ。妻がいるが、大丈夫だろうな」
幼女「はい、ご主人様」
男性「ただいま」
幼女「はい、ご主人様」
男性「ただいま」
ガチャ、と扉を開けた瞬間、ふんわりと煮魚の香りが漂ってくる。
男性「おい、晩飯の仕度は俺がするから寝てろって言っただろ」
女性「でも家にいるのに何もしないんじゃ落ち着かなくって」
女性「でも家にいるのに何もしないんじゃ落ち着かなくって」
言いながら痩せた壮年の女性が、男を玄関まで出迎え、幼女に目を留めた。
女性「あらあなた、この子は?」
男性「ああ、この間言ってた幼女って奴だ」
男性「またお前が倒れたりしたら、いろいろ不自由するだろうと思ってな」
女性「家のことなら私ができる範囲でやりますから、心配なさらなくてもよろしいのに」
男性「ああ、この間言ってた幼女って奴だ」
男性「またお前が倒れたりしたら、いろいろ不自由するだろうと思ってな」
女性「家のことなら私ができる範囲でやりますから、心配なさらなくてもよろしいのに」
男性は靴を脱いで上がりながら、慣れた手つきで鞄を妻に渡した。
そのまま男性は幼女セットを持ち奥へ引っ込んだが、
女性は夫についていこうとして、幼女が玄関に立ったまま俯いているのに気づいた。
そのまま男性は幼女セットを持ち奥へ引っ込んだが、
女性は夫についていこうとして、幼女が玄関に立ったまま俯いているのに気づいた。
女性「どうしたの、幼女ちゃん? お上がりなさいな」
幼女「あの……私……ここへ来て、迷惑でしたか?」
女性「迷惑だなんて……どうして?」
幼女「だってご主人様は私を……家事ができるからって選んでくれたんです」
女性「違うわ、幼女ちゃん。主人はたぶん、あなたみたいな娘が欲しかったのよ」
幼女「娘……」
女性「主人にとって娘なら、私にとっても娘でしょう、ね?」
幼女「――ありがとうございます、こちらこそよろしくお願いします」
幼女「あの……私……ここへ来て、迷惑でしたか?」
女性「迷惑だなんて……どうして?」
幼女「だってご主人様は私を……家事ができるからって選んでくれたんです」
女性「違うわ、幼女ちゃん。主人はたぶん、あなたみたいな娘が欲しかったのよ」
幼女「娘……」
女性「主人にとって娘なら、私にとっても娘でしょう、ね?」
幼女「――ありがとうございます、こちらこそよろしくお願いします」
906 名前: 【最期のひととき】2.家族(2/3) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:13:43.40 ID:5tdo3/oo
二人分の椅子しかない四人がけのテーブル。クッション代わりに古新聞が積まれた椅子に
幼女が座り、妻には踏み台替わりに使われている丸椅子が宛がわれた。
テーブルに慎ましく並んだご飯と煮魚二人分は、幼女のために端に寄せられる。
二人分の椅子しかない四人がけのテーブル。クッション代わりに古新聞が積まれた椅子に
幼女が座り、妻には踏み台替わりに使われている丸椅子が宛がわれた。
テーブルに慎ましく並んだご飯と煮魚二人分は、幼女のために端に寄せられる。
妻「でもあなた、幼女ちゃんの食事はどうしましょう?」
妻「あなたが何もおっしゃらなかったから、二人分しか用意してませんよ」
夫「心配するな、餌は買ってきた。普段は人間の食事でも構わんが、」
夫「週に一度は専用の餌を食べさせろと店員が言ってた」
妻「あなたが何もおっしゃらなかったから、二人分しか用意してませんよ」
夫「心配するな、餌は買ってきた。普段は人間の食事でも構わんが、」
夫「週に一度は専用の餌を食べさせろと店員が言ってた」
と言う会話の後、どんぶりに盛られたクッキータイプの幼女フードは、テーブルで異彩を放っていた。
妻「じゃあ今日はそれで我慢して頂戴ね、幼女ちゃん」
幼「はい、私は平気ですから気にしないでください」
幼「はい、私は平気ですから気にしないでください」
その横で夫は箸を手に取り、味見もせず煮魚に醤油を掛ける。
妻「もう……あなたったら、醤油の量は減らしてくださいっていつも――」
妻が叱る横で夫は構わず箸を進める。それはいつもの夕食の風景。しかし不意に夫の手が止まった。
夫「ああ、そうだ、明日からしばらく会社を休むぞ」
妻「しばらくって……どのくらいですか?」
夫「とりあえず半年分の休暇届を出してきた」
妻「半年ってあなた……まさかお仕事を……まだ定年まで2年もあるのに」
夫「早期退職制度って奴だ、今までの貯金もあるし、ずっと働き詰めだったんだ」
夫「ここらで半年くらい休んでもバチは当たらんだろ」
妻「でもわざわざ私のために仕事を辞めるなんて……馬鹿なんですから」
夫「老後は二人であちこち行きたいって言ってただろ。それが少し早まっただけだ」
妻「あなた……私のために働いて、私のために仕事を辞めて……本当に……」
妻「しばらくって……どのくらいですか?」
夫「とりあえず半年分の休暇届を出してきた」
妻「半年ってあなた……まさかお仕事を……まだ定年まで2年もあるのに」
夫「早期退職制度って奴だ、今までの貯金もあるし、ずっと働き詰めだったんだ」
夫「ここらで半年くらい休んでもバチは当たらんだろ」
妻「でもわざわざ私のために仕事を辞めるなんて……馬鹿なんですから」
夫「老後は二人であちこち行きたいって言ってただろ。それが少し早まっただけだ」
妻「あなた……私のために働いて、私のために仕事を辞めて……本当に……」
妻の頬に、光るものが伝い落ちた。
907 名前: 【最期のひととき】2.家族(3/3) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:14:54.26 ID:5tdo3/oo
幼「奥様……?」
妻「ごめんなさいね幼女ちゃん、せっかく幼女ちゃんが来てくれたのに」
妻「幼女ちゃんが来て初めての夕食なんだから、もっと楽しくしないとね」
幼「奥様……?」
妻「ごめんなさいね幼女ちゃん、せっかく幼女ちゃんが来てくれたのに」
妻「幼女ちゃんが来て初めての夕食なんだから、もっと楽しくしないとね」
妻は涙を拭き、笑顔を見せた。穏やかで上品で、しかし悲しみの混じった笑顔を。
妻「ところであなた、幼女ちゃんの名前はどうしましょう?」
妻「いつまでも"幼女ちゃん"じゃ呼びにくいですし、家族らしくありませんわ」
夫「確かにな。でも名前なんて今まで考えたことないし、どうしたもんかな」
妻「幼女ちゃんは、今まで使ってた名前なんてあるのかしら?」
妻「いつまでも"幼女ちゃん"じゃ呼びにくいですし、家族らしくありませんわ」
夫「確かにな。でも名前なんて今まで考えたことないし、どうしたもんかな」
妻「幼女ちゃんは、今まで使ってた名前なんてあるのかしら?」
幼女は首を横に振った。
幼「私たちは登録番号で管理されているので、名前を持っていません」
幼「以前の飼い主に名前を貰った幼女もいますけど、私は初めてですから……」
幼「私の登録番号は1310番なので、ショップの店員は幼女1310って呼んでました」
妻「1310……ねぇ、ちさと、ではどうかしら?」
夫「ちさと?」
妻「ええ、1000と310ですから、千で"ち"、3と10で"さと"なんて思ったんですけど」
夫「なるほど、いいな……よし、お前の名前は"ちさと"だ」
幼「ち・さ・と……はい! ちさと……私はちさと……」
幼「以前の飼い主に名前を貰った幼女もいますけど、私は初めてですから……」
幼「私の登録番号は1310番なので、ショップの店員は幼女1310って呼んでました」
妻「1310……ねぇ、ちさと、ではどうかしら?」
夫「ちさと?」
妻「ええ、1000と310ですから、千で"ち"、3と10で"さと"なんて思ったんですけど」
夫「なるほど、いいな……よし、お前の名前は"ちさと"だ」
幼「ち・さ・と……はい! ちさと……私はちさと……」
幼女"ちさと"は何度も自分の名前を呟いては、微笑んだ。
908 名前: 【最期のひととき】3.初めての夜(1/2) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:16:25.28 ID:5tdo3/oo
夕食後、夫はテレビを見ながら、店員がサービスで付けてくれた幼女飼育本を広げていた。
一方、妻とちさとは一緒に食器を片付けると、部屋の片隅に古新聞を敷いた。
腰まで長いちさとの髪を、とりあえず動きやすいよう散髪するためだ。
夕食後、夫はテレビを見ながら、店員がサービスで付けてくれた幼女飼育本を広げていた。
一方、妻とちさとは一緒に食器を片付けると、部屋の片隅に古新聞を敷いた。
腰まで長いちさとの髪を、とりあえず動きやすいよう散髪するためだ。
夫「……幼女の味覚は人間より鋭敏なので、幼女用の食事は薄味にしてください、だそうだぞ」
妻「じゃあこれからは、ちさとに合わせてご飯は全部薄味にしますからね。文句は言わないでくださいよ」
妻「じゃあこれからは、ちさとに合わせてご飯は全部薄味にしますからね。文句は言わないでくださいよ」
チョキン、チョキンとちさとの髪にハサミを入れながら、妻が夫に応える。
妻「こんなものかしら……ねぇ、あなた?」
夫「ん……いいんじゃないか?」
妻「ちさとは気に入ってくれるかしら?」
夫「ん……いいんじゃないか?」
妻「ちさとは気に入ってくれるかしら?」
妻がちさとに手鏡を渡した。そこに映っているのは、古い日本人形を思わせるおかっぱ頭。
ち「わあ……初めて切ったから何だか新鮮です、奥様」
妻「気に入ってくれたみたいね、ありがとう。それとひとつ」
ち「?」
妻「奥様、じゃなくておかあさんって呼んで頂戴。あの人はおとうさん」
ち「あ、はい、わかりました、奥……おかあさん」
夫「おいおい、俺たちの歳でこんな歳の娘はないだろう」
夫「同期のKなんかは、もう孫までいるんだぞ」
妻「でも、ちさとが呼んでくれるのなら、おとうさんおかあさんって呼ばれたいじゃありませんか」
夫「……わかった、好きにしろ」
妻「気に入ってくれたみたいね、ありがとう。それとひとつ」
ち「?」
妻「奥様、じゃなくておかあさんって呼んで頂戴。あの人はおとうさん」
ち「あ、はい、わかりました、奥……おかあさん」
夫「おいおい、俺たちの歳でこんな歳の娘はないだろう」
夫「同期のKなんかは、もう孫までいるんだぞ」
妻「でも、ちさとが呼んでくれるのなら、おとうさんおかあさんって呼ばれたいじゃありませんか」
夫「……わかった、好きにしろ」
夫は言い捨てると、再び飼育本に没頭した。
909 名前: 【最期のひととき】3.初めての夜(2/2) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:18:36.99 ID:5tdo3/oo
髪を切った後、ちさとは妻と風呂に入り、三人で川の字になって布団に入った。
慣れない事態に疲れていたのか、夫は横になってすぐ、軽い寝息を立て始めた。
そんな夫の安眠を妨げないよう、妻はちさとに囁いた。
髪を切った後、ちさとは妻と風呂に入り、三人で川の字になって布団に入った。
慣れない事態に疲れていたのか、夫は横になってすぐ、軽い寝息を立て始めた。
そんな夫の安眠を妨げないよう、妻はちさとに囁いた。
妻「一度でいいからこうやって、親子で川の字に寝てみたかったの」
ち「お子さん、できなかったんですか?」
妻「……ええ……私のせいで」
ち「あ、ご、ごめんなさい、悪いこと訊いちゃいました」
妻「いえ、いいのよ。ちさとのせいじゃない、私が悪いんだから」
ち「おかあさん……そんなふうに自分を責めないでください」
ち「私を買いに来たとき、おとうさん……泣いてました」
妻「! あの人が?」
ち「心の中でずっと、泣いてました。きっと、おかあさんが自分を責めてるのがつらくて、」
ち「でもどうやってなぐさめればいいのか分からなかったんだと……思います」
妻「……」
ち「おとうさんが幼女を飼おうと思ったのは、たぶん」
ち「おかあさんは何も悪くないんだよってことを、伝えたかったんじゃないでしょうか」
ち「お子さん、できなかったんですか?」
妻「……ええ……私のせいで」
ち「あ、ご、ごめんなさい、悪いこと訊いちゃいました」
妻「いえ、いいのよ。ちさとのせいじゃない、私が悪いんだから」
ち「おかあさん……そんなふうに自分を責めないでください」
ち「私を買いに来たとき、おとうさん……泣いてました」
妻「! あの人が?」
ち「心の中でずっと、泣いてました。きっと、おかあさんが自分を責めてるのがつらくて、」
ち「でもどうやってなぐさめればいいのか分からなかったんだと……思います」
妻「……」
ち「おとうさんが幼女を飼おうと思ったのは、たぶん」
ち「おかあさんは何も悪くないんだよってことを、伝えたかったんじゃないでしょうか」
妻は布団の中で、ちさとをぎゅっと抱き寄せた。
ちさとの鼻を、石鹸の香りがふんわりくすぐった。
ちさとの鼻を、石鹸の香りがふんわりくすぐった。
妻「……ありがとう、ちさと。あの人がちさとを選んだ理由が、分かる気がするわ」
妻「さ、もう遅いわ。おしゃべりはこれくらいにして、おやすみなさい」
ち「はい、おやすみなさい、おかあさん」
妻「さ、もう遅いわ。おしゃべりはこれくらいにして、おやすみなさい」
ち「はい、おやすみなさい、おかあさん」
温かな腕と石鹸の香りに浸るように、ちさとは目を閉じた。
あったかい。ちさとは思った。こんな温かな夜は初めてだった。
あったかい。ちさとは思った。こんな温かな夜は初めてだった。
910 名前: 【最期のひととき】4.過去(1/3) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:20:55.29 ID:5tdo3/oo
翌朝。朝食を終え、夫はちさとと散歩に出かけた。
散歩と言っても、今日は概ね、幼女を飼うための各種書類を提出に行くためだったが。
予防接種の記録を保健所に提出し、紹介された幼女専門医院への挨拶を終えると、
郊外にある大きな自然公園のベンチに、二人は腰を下ろした。
翌朝。朝食を終え、夫はちさとと散歩に出かけた。
散歩と言っても、今日は概ね、幼女を飼うための各種書類を提出に行くためだったが。
予防接種の記録を保健所に提出し、紹介された幼女専門医院への挨拶を終えると、
郊外にある大きな自然公園のベンチに、二人は腰を下ろした。
夫「こんなに歩いたのは久しぶりだ」
ち「私も、こんなに歩いたの初めてです。いろんなところ見られて、すごく楽しいです」
夫「そうか」
ち「はい、ずっとショップの中でしたから、外がこんなに広くて明るいとは思ってませんでした」
ち「私も、こんなに歩いたの初めてです。いろんなところ見られて、すごく楽しいです」
夫「そうか」
ち「はい、ずっとショップの中でしたから、外がこんなに広くて明るいとは思ってませんでした」
夫は頷くと、向こうの芝生で幼女を遊ばせている飼い主たちを眺めながら、
夫「ちさと……」
ち「何ですか、おとうさん?」
夫「言わなくても分かってるだろうと思うが、俺たち夫婦には子供がいない」
ち「はい、昨夜……おかあさんから伺いました」
夫「あいつ、結婚したばかりの頃は毎日、いつか子供ができたときのことを想像してた。でも」
夫「子供ができない体になったとき、あいつは自分の気持ちを心の奥に押し込めた」
夫「だから、せめてあいつが死ぬ前に……あいつの夢を、母親になりたいって夢を、叶えたかったんだ」
ち「何ですか、おとうさん?」
夫「言わなくても分かってるだろうと思うが、俺たち夫婦には子供がいない」
ち「はい、昨夜……おかあさんから伺いました」
夫「あいつ、結婚したばかりの頃は毎日、いつか子供ができたときのことを想像してた。でも」
夫「子供ができない体になったとき、あいつは自分の気持ちを心の奥に押し込めた」
夫「だから、せめてあいつが死ぬ前に……あいつの夢を、母親になりたいって夢を、叶えたかったんだ」
夫は遠くを見つめたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
911 名前: 【最期のひととき】4.過去(2/3) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:22:47.12 ID:5tdo3/oo
夫「もう30年以上前の話だ……俺たちが結婚して1年を過ぎた頃、あいつが突然倒れた。白血病だった」
夫「できる治療は全部試したが、どれも駄目だった。残った方法は骨髄移植だけだった」
夫「そのとき……骨髄移植を受けるなら、子供は諦めてください、と医者に言われた」
夫「骨髄移植を受けると、子供ができる見込みは……0じゃないが、ほとんどない、とな」
夫「あいつは俺に離婚しようと言った。他にいい女を見つけて幸せになってくれ、と」
夫「でも俺は、あいつの目の前で離婚届を破り捨てた」
ち「……」
夫「親類には骨髄の適合者がいなかったが、運良く3ヶ月で適合者が見つかった」
夫「その適合者はアメリカ人で、移植もアメリカで行うことになった」
夫「費用は目玉が飛び出るほど高かったが、あいつが助かるならいくらでも払う覚悟だった」
夫「俺は親戚中に頭を下げて、労組に借金して、寄付を募って費用を捻出した」
夫「移植の前治療はつらかったようだが、移植は成功し、あいつは助かった。だが」
夫「それ以来あいつは、変わったんだ」
夫「もう30年以上前の話だ……俺たちが結婚して1年を過ぎた頃、あいつが突然倒れた。白血病だった」
夫「できる治療は全部試したが、どれも駄目だった。残った方法は骨髄移植だけだった」
夫「そのとき……骨髄移植を受けるなら、子供は諦めてください、と医者に言われた」
夫「骨髄移植を受けると、子供ができる見込みは……0じゃないが、ほとんどない、とな」
夫「あいつは俺に離婚しようと言った。他にいい女を見つけて幸せになってくれ、と」
夫「でも俺は、あいつの目の前で離婚届を破り捨てた」
ち「……」
夫「親類には骨髄の適合者がいなかったが、運良く3ヶ月で適合者が見つかった」
夫「その適合者はアメリカ人で、移植もアメリカで行うことになった」
夫「費用は目玉が飛び出るほど高かったが、あいつが助かるならいくらでも払う覚悟だった」
夫「俺は親戚中に頭を下げて、労組に借金して、寄付を募って費用を捻出した」
夫「移植の前治療はつらかったようだが、移植は成功し、あいつは助かった。だが」
夫「それ以来あいつは、変わったんだ」
夫の顔に苦い表情が浮かんだ。ちさとは夫を見上げたまま、ただ黙って、次の言葉を待った。
夫「借金を返すため、俺は働いた。あいつも、体が動くようになってからは」
夫「月に一度、再発検査に通いながら、パートで働いてくれた」
夫「子供がいない分、時間に余裕はあったし、生活費もかからなかったから」
夫「借金はそれなりに早く……返し終えた。それでも俺たちは、働いた」
夫「あいつの白血病が再発するかも知れない。違う病気でまた治療費が必要かも知れない」
夫「今度は俺の番かも知れない。そういう不安を、俺もあいつもどこかで感じてた」
夫「たぶん不安を忘れたかったんだろうな、俺たちは必死で働いた」
夫「おかげで、老後の生活に困らない程度の貯金もできた」
夫「あいつの白血病も再発する様子がないまま、10年が過ぎ20年が過ぎ30年が過ぎた」
夫「俺たちはいつの間にか、不安を忘れていた」
夫「この歳まで再発しなかったんだから、もう大丈夫だと、どこかで思ってたんだろうな」
夫「でも……あいつの白血病は再発した。一週間前の話だ」
夫「月に一度、再発検査に通いながら、パートで働いてくれた」
夫「子供がいない分、時間に余裕はあったし、生活費もかからなかったから」
夫「借金はそれなりに早く……返し終えた。それでも俺たちは、働いた」
夫「あいつの白血病が再発するかも知れない。違う病気でまた治療費が必要かも知れない」
夫「今度は俺の番かも知れない。そういう不安を、俺もあいつもどこかで感じてた」
夫「たぶん不安を忘れたかったんだろうな、俺たちは必死で働いた」
夫「おかげで、老後の生活に困らない程度の貯金もできた」
夫「あいつの白血病も再発する様子がないまま、10年が過ぎ20年が過ぎ30年が過ぎた」
夫「俺たちはいつの間にか、不安を忘れていた」
夫「この歳まで再発しなかったんだから、もう大丈夫だと、どこかで思ってたんだろうな」
夫「でも……あいつの白血病は再発した。一週間前の話だ」
912 名前: 【最期のひととき】4.過去(3/3) 投稿日: 2008/03/01(土) 11:23:37.78 ID:5tdo3/oo
夫は目をつぶり深呼吸すると、遠い目のまま再び話し始めた。
夫は目をつぶり深呼吸すると、遠い目のまま再び話し始めた。
夫「医者からは、骨髄移植を受けるとき言われてた」
夫「非血縁から骨髄移植を受けられるのは、一生に一度だけです、とな」
夫「つまり……再発したら、もう後はない」
ち「!」
夫「あいつに残された時間は、もうない。だから俺は、せめて最期にあいつの願いを」
夫「あいつがあの日以来、ずっと胸の奥に押し込めてきた"母親になりたい"って願いを」
夫「どんな形でも……いいから……叶えて……やりた…」
夫「非血縁から骨髄移植を受けられるのは、一生に一度だけです、とな」
夫「つまり……再発したら、もう後はない」
ち「!」
夫「あいつに残された時間は、もうない。だから俺は、せめて最期にあいつの願いを」
夫「あいつがあの日以来、ずっと胸の奥に押し込めてきた"母親になりたい"って願いを」
夫「どんな形でも……いいから……叶えて……やりた…」
夫の声が途切れた。夫の目から、堰を切ったように止め処なく涙が溢れていた。
ち「おとうさん……」
夫はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。まだ目は赤かったが、もう涙はない。
夫「悪かったな、つまらない話を聞かせて。さて、そろそろ帰らないと昼になるな」
ち「つまらない話じゃ、ありません」
夫「――ちさと?」
ち「おとうさんが、おかあさんのことすごく大事にしてるって話でしょう?」
夫「……」
ち「私たち幼女は、誰かに買ってもらうまで大事にはしてもらえません」
ち「私が死にそうになっても、泣いてくれる人なんていません」
ち「だから、おとうさんがおかあさんを大事に思う気持ちが、つまらないなんて思いません」
夫「ありがとう、ちさと。だが、お前はひとつだけ間違ってる」
夫「お前が死んだら泣く人間は……もう二人もいるじゃないか」
ち「つまらない話じゃ、ありません」
夫「――ちさと?」
ち「おとうさんが、おかあさんのことすごく大事にしてるって話でしょう?」
夫「……」
ち「私たち幼女は、誰かに買ってもらうまで大事にはしてもらえません」
ち「私が死にそうになっても、泣いてくれる人なんていません」
ち「だから、おとうさんがおかあさんを大事に思う気持ちが、つまらないなんて思いません」
夫「ありがとう、ちさと。だが、お前はひとつだけ間違ってる」
夫「お前が死んだら泣く人間は……もう二人もいるじゃないか」
夫が手を差し出した。
ち「あ――はい!」
夫の大きな手を、ちさとは小さな手でしっかり握った。
24 名前:【最期のひととき】5.義妹(1/5)[sage] 投稿日:2008/03/03(月) 02:45:24.89 ID:Ts4viVAo
午後から、ちさとは妻と一緒に、散歩も兼ねて夕食の買い物に出かけた。
初めてのスーパーで、ちさとは山積のキャベツやトマトやジャガイモやニンジンに目を丸め、
牛肉と鶏肉の値段の違いに首を傾げ、魚屋の店員に声を掛けられ飛び上がるほど驚いた。
午後から、ちさとは妻と一緒に、散歩も兼ねて夕食の買い物に出かけた。
初めてのスーパーで、ちさとは山積のキャベツやトマトやジャガイモやニンジンに目を丸め、
牛肉と鶏肉の値段の違いに首を傾げ、魚屋の店員に声を掛けられ飛び上がるほど驚いた。
魚屋「お、奥さん久しぶり。具合でも悪かっt……って、その子、首輪付いてるけど幼女かい?」
妻「ええ、昨日主人が、うちの手伝いをさせるのに買ってきたんですよ。ちさと、挨拶なさい」
妻「ええ、昨日主人が、うちの手伝いをさせるのに買ってきたんですよ。ちさと、挨拶なさい」
まだ怯えているちさとは妻の背に隠れながら、無言で頭だけ下げた。
魚屋「ちさとちゃんってんだ、よろしくな。ところで奥さん、今日はアンコウどうだい?」
――
ち「ただいまー」
妻「ただいま帰りました」
夫「おかえり」
妻「ただいま帰りました」
夫「おかえり」
一人家に残っていた夫は、物置部屋からテーブルセットの使っていなかった椅子を
引っ張り出していた。夫の話ではかなり汚れていたらしいが、新品同様に磨き上げられ、
部屋にも埃一つ落ちていなかった。
引っ張り出していた。夫の話ではかなり汚れていたらしいが、新品同様に磨き上げられ、
部屋にも埃一つ落ちていなかった。
ち「すごいです、まるでおとうさんが手品で取り出したみたい」
ちさとに褒められ、夫は嬉しそうに微笑んだが、不意に思い出して妻に言った。
夫「そうだ、さっき義妹さんから電話があってな、近いうちに顔を見せるそうだ」
妻「義妹さんが? また株の話じゃないでしょうね」
妻「義妹さんが? また株の話じゃないでしょうね」
25 名前:【最期のひととき】5.義妹(2/5)[sage] 投稿日:2008/03/03(月) 02:46:06.56 ID:Ts4viVAo
ち「?」
夫「ああ、義妹さんと言うのは、妻の弟の嫁でな」
ち「?」
夫「ああ、義妹さんと言うのは、妻の弟の嫁でな」
ちさとがきょとんとしているのに気づいて、夫が説明した。
夫「こう言っちゃ何だが……金に汚い人で、正直、親戚からはあまりよく思われていない」
妻「あなた……」
夫「ちさとにも教えておいた方がいい、でないと義妹さんが」
夫「何も知らないちさとを騙して――何もかも台無しにするかもしれない」
妻「……」
妻「あなた……」
夫「ちさとにも教えておいた方がいい、でないと義妹さんが」
夫「何も知らないちさとを騙して――何もかも台無しにするかもしれない」
妻「……」
妻は目を伏せ、押し黙った。その様子を見て、ちさとは夫を見上げる。
ち「その義妹さんて人、悪い人なんですか?」
夫「悪い人……なのかな。少なくとも、金に関しては悪い人だ」
夫「うちに来るときは大抵、金を借りに来るか、変な金儲けの話を持ってくるかだしな」
夫「金を借りた後は何も言っても聞こえない振りで、いつも妻弟さんが頭を下げて金を返しに来る」
ち「……」
夫「義妹さん、最近は特に、老後の資産運用とか言って株に投資しろ、自分に任せてくれたら」
夫「倍にして返すからって言ってくるんだが、今まで一度も自分で金を返しに来たことないのに」
夫「そんなこと言われても信用できないだろ?」
夫「後で写真を見せてあげるが、ちさと、義妹さんだけは何があっても絶対に信用しちゃいけない」
ち「――分かりました、おとうさん」
夫「悪い人……なのかな。少なくとも、金に関しては悪い人だ」
夫「うちに来るときは大抵、金を借りに来るか、変な金儲けの話を持ってくるかだしな」
夫「金を借りた後は何も言っても聞こえない振りで、いつも妻弟さんが頭を下げて金を返しに来る」
ち「……」
夫「義妹さん、最近は特に、老後の資産運用とか言って株に投資しろ、自分に任せてくれたら」
夫「倍にして返すからって言ってくるんだが、今まで一度も自分で金を返しに来たことないのに」
夫「そんなこと言われても信用できないだろ?」
夫「後で写真を見せてあげるが、ちさと、義妹さんだけは何があっても絶対に信用しちゃいけない」
ち「――分かりました、おとうさん」
ちさとが頷くと、夫は手をパンと叩いて
夫「さ、嫌な話はおしまいだ。明日はホームセンターに、ちさと用の踏み台とかいろいろ買いに行くぞ」
26 名前:【最期のひととき】5.義妹(3/5)[sage] 投稿日:2008/03/03(月) 02:47:07.20 ID:Ts4viVAo
それから数日後。
ちさとの加わった生活に必要なものを一通り揃え、三人での新生活が落ち着いた頃、
例の義妹が訪れた。50前後であろう小太りな中年の女は、真面目で堅実で上品な夫妻とは
対照的に、化粧も服装も派手で香水がぷんぷん匂っていた。
20代前半と思われる連れの青年は、義妹の息子、すなわち夫妻の甥だ。
曰く「いい歳して一日中パソコンに向かっているから、今日は運転手として連れてきた」とのこと。
それから数日後。
ちさとの加わった生活に必要なものを一通り揃え、三人での新生活が落ち着いた頃、
例の義妹が訪れた。50前後であろう小太りな中年の女は、真面目で堅実で上品な夫妻とは
対照的に、化粧も服装も派手で香水がぷんぷん匂っていた。
20代前半と思われる連れの青年は、義妹の息子、すなわち夫妻の甥だ。
曰く「いい歳して一日中パソコンに向かっているから、今日は運転手として連れてきた」とのこと。
義妹「これ、お見舞いですけど」
妻「あらまあ、わざわざありがとう、義妹さん」
義妹「お義姉さんこそ体、大事にしてくださいよ。男の人なんて奥さんいないと、すぐ駄目になるんですから」
夫「義妹さんいらっしゃい、お、甥くんも久しぶりだな。姪ちゃんはどうしてる?」
甥「久しぶりっす伯父さん。姉貴ならこないだ二人目ができたとかで、いろいろ忙しいみたいっすよ」
夫「ほう、もう二人目か、今からお祝いを考えておかないといかんな」
甥「……後ろの子、もしかして幼女っすか?」
妻「あらまあ、わざわざありがとう、義妹さん」
義妹「お義姉さんこそ体、大事にしてくださいよ。男の人なんて奥さんいないと、すぐ駄目になるんですから」
夫「義妹さんいらっしゃい、お、甥くんも久しぶりだな。姪ちゃんはどうしてる?」
甥「久しぶりっす伯父さん。姉貴ならこないだ二人目ができたとかで、いろいろ忙しいみたいっすよ」
夫「ほう、もう二人目か、今からお祝いを考えておかないといかんな」
甥「……後ろの子、もしかして幼女っすか?」
夫の背に隠れて付いてきたちさとに、甥は目をやった。
夫「ああ、ちさとと言うんだ。甥くんは幼女のこと詳しいのか?」
甥「詳しいってほどじゃないけど、俺に分かることなら何でも聞いてもらっていいっすよ」
甥「詳しいってほどじゃないけど、俺に分かることなら何でも聞いてもらっていいっすよ」
それから数時間、妻が倒れたときの話や幼女の話が終わると、二人は帰っていった。
ち「あのお兄ちゃんのお話、ちょっと変わってたけど、楽しかったです」
夫「そうか、また遊びに来てもらえるといいな」
夫「そうか、また遊びに来てもらえるといいな」
妻は夫の横に、ちさとと反対側に座ると、にこにこ顔のちさとに聞こえないよう、囁いた。
妻「ちょっとあなた、いいかしら? 今日の義妹さん、いつもと違って変でしたよ」
夫「変? 俺にはいつもと一緒に見えたが?」
妻「でも……今日は一度も、お金の話しなかったんですもの。変でしょう?」
夫「……それは確かに変だな。義妹さんが何も企んでなければいいんだが」
夫「変? 俺にはいつもと一緒に見えたが?」
妻「でも……今日は一度も、お金の話しなかったんですもの。変でしょう?」
夫「……それは確かに変だな。義妹さんが何も企んでなければいいんだが」
27 名前:【最期のひととき】5.義妹(4/5)[sage] 投稿日:2008/03/03(月) 02:48:18.18 ID:Ts4viVAo
一方、その日の妻弟家では。
一方、その日の妻弟家では。
義妹「……でね、お義姉さんのところ、幼女がいたのよ」
妻弟「幼女?」
甥「それがさ親父、その幼女、肌が真っ白で髪の毛も真っ黒でさ」
甥「ああ言うのを人形みたいって言うんだろな、すんげー可愛かった」
妻弟「ふうん……姉貴んとこは子供がいないから、幼女は気に入ったろうな」
義妹「そうなのよ、何かにつけてちさと、ちさとって、ったく……」
妻弟「幼女?」
甥「それがさ親父、その幼女、肌が真っ白で髪の毛も真っ黒でさ」
甥「ああ言うのを人形みたいって言うんだろな、すんげー可愛かった」
妻弟「ふうん……姉貴んとこは子供がいないから、幼女は気に入ったろうな」
義妹「そうなのよ、何かにつけてちさと、ちさとって、ったく……」
義妹は顔をしかめた。
義妹「幼女なんかに使う金があるんなら、この前の話に乗ってくれればいいのに」
妻弟「何言ってんだ、姉貴も義兄さんも、今はそれどころじゃないだろ。そっとしといてやれよ」
義妹「そんな悠長なこと言ってらんないわよ。だってもう、お義姉さんは長くないんでしょ?」
妻弟「おい、お前にとっちゃ赤の他人でも、俺には実の姉貴なんだぞ、それを――」
妻弟「何言ってんだ、姉貴も義兄さんも、今はそれどころじゃないだろ。そっとしといてやれよ」
義妹「そんな悠長なこと言ってらんないわよ。だってもう、お義姉さんは長くないんでしょ?」
妻弟「おい、お前にとっちゃ赤の他人でも、俺には実の姉貴なんだぞ、それを――」
しかし義妹は構わず続ける。
義妹「男の人は、奥さん亡くしたら長くないって言うし、」
義妹「今のうちから遺産を分けてもらえるよう根回ししとかないと、あなた」
義妹「あたしたちはお義兄さんと直接は血縁関係ないから」
義妹「お義兄さんが死んでも私たちは遺産もらえないのよ。遺言があれば別だけど」
妻弟「……お前、変なところだけ詳しいな……」
義妹「だってお義姉さんのところは子供いないから、もしかしたらあたしたちが」
義妹「面倒みるかも知れないでしょ? そうなったらやっぱり、それだけのものはもらわないと」
妻弟「……」
義妹「今のうちから遺産を分けてもらえるよう根回ししとかないと、あなた」
義妹「あたしたちはお義兄さんと直接は血縁関係ないから」
義妹「お義兄さんが死んでも私たちは遺産もらえないのよ。遺言があれば別だけど」
妻弟「……お前、変なところだけ詳しいな……」
義妹「だってお義姉さんのところは子供いないから、もしかしたらあたしたちが」
義妹「面倒みるかも知れないでしょ? そうなったらやっぱり、それだけのものはもらわないと」
妻弟「……」
妻弟は、諦めたように大きく溜息をついた。
28 名前:【最期のひととき】5.義妹(5/5)[sage] 投稿日:2008/03/03(月) 02:48:50.29 ID:Ts4viVAo
甥「な、お袋、さっきの話だけどさ」
甥「な、お袋、さっきの話だけどさ」
妻弟がトイレに立ったところを見計らって、甥が言った。
甥「もし伯父さん伯母さんが遺産をくれるんなら、俺あの幼女欲しいな」
義妹「何言ってんのよ、あんたじゃマトモに世話しきれない癖に」
義妹「あの幼女、結構いい値段なんでしょ? あんたにやるくらいなら、誰かに売った方がマシだわ」
甥「お袋こそ何言ってんだよ、俺が幼女の世話をするんじゃなくて、幼女が俺を世話するんだろ」
義妹「……何よ。幼女があんたの就職の世話でもしてくれるってーの?」
義妹「何言ってんのよ、あんたじゃマトモに世話しきれない癖に」
義妹「あの幼女、結構いい値段なんでしょ? あんたにやるくらいなら、誰かに売った方がマシだわ」
甥「お袋こそ何言ってんだよ、俺が幼女の世話をするんじゃなくて、幼女が俺を世話するんだろ」
義妹「……何よ。幼女があんたの就職の世話でもしてくれるってーの?」
義妹は典型的なおばさんだった。つまり、幼女についての知識は上っ面だけで、
"幼女は人の形をした頭のいい犬猫"程度の認識しかなく、若者の間で流行っていること、
値段がやたら高いこと、くらいしか知らないのだ。
"幼女は人の形をした頭のいい犬猫"程度の認識しかなく、若者の間で流行っていること、
値段がやたら高いこと、くらいしか知らないのだ。
甥「馬っ鹿だなーお袋は。俺だったらネットで適当に男集めてさ、1人1回2時間で……」
甥「1万じゃ安いかな? それでも一晩で5万、いや10万は稼げるぜ?」
義妹「本当に? あんなちびっこいだけで、何の役にも立たなそうなのが?」
甥「いやいや役に立つって。まーとにかく俺に任せてくれりゃ、あの幼女一匹で」
甥「一生遊んで暮らせるだけ稼いでみせるからさ。な? 考えといてくれよ」
義妹「ふーん……あんたがそこまで言うんなら……そのときはあんたに任せるわ」
甥「やった! そうと決まれば、今のうちから懐くようにしといた方がいいな」
甥「懐いてくりゃ、伯父さんが生きててもヤれるかも知れないし」
義妹「……? 何の話?」
甥「え、いや、なんでもないよ、こっちの話」
甥「1万じゃ安いかな? それでも一晩で5万、いや10万は稼げるぜ?」
義妹「本当に? あんなちびっこいだけで、何の役にも立たなそうなのが?」
甥「いやいや役に立つって。まーとにかく俺に任せてくれりゃ、あの幼女一匹で」
甥「一生遊んで暮らせるだけ稼いでみせるからさ。な? 考えといてくれよ」
義妹「ふーん……あんたがそこまで言うんなら……そのときはあんたに任せるわ」
甥「やった! そうと決まれば、今のうちから懐くようにしといた方がいいな」
甥「懐いてくりゃ、伯父さんが生きててもヤれるかも知れないし」
義妹「……? 何の話?」
甥「え、いや、なんでもないよ、こっちの話」
甥は慌てて首を振った。
691 :【最期のひととき】6.冬の足音(1/3) :2008/04/01(火) 01:39:19.71 ID:V3i9Wbko
三人の生活が始まって半月も経たない間に、関東地方で木枯らし一号が吹き、
季節は着実に冬へと歩みだしていた。
三人の生活が始まって半月も経たない間に、関東地方で木枯らし一号が吹き、
季節は着実に冬へと歩みだしていた。
その日の午後は天気が崩れた。雪にならない雨がしとしと降る中、夫は今朝の散歩で買った
地元の観光情報誌を広げていた。ちさとは、一緒に買った小学生用の漢字練習帳で文字の勉強中だ。
地元の観光情報誌を広げていた。ちさとは、一緒に買った小学生用の漢字練習帳で文字の勉強中だ。
妻「ちさと、蒸しパンできたわよ。そろそろ一休みしたら?」
ち「はぁい」
夫「お、懐かしいな」
ち「はぁい」
夫「お、懐かしいな」
夫が鼻を鳴らした。蒸した南瓜のにおいがふんわり心地よい。
まだ湯気が立つ、ところどころ黄色い欠片が入った、真っ白で素朴な手作り蒸しパンだ。
まだ湯気が立つ、ところどころ黄色い欠片が入った、真っ白で素朴な手作り蒸しパンだ。
妻「はい、ちさとの分」
妻がちさとに差し出したのは、3つの蒸しパンのうち、他の2つの4倍もある大きなものだった。
ち「一番おっきいの、いいんですか?」
ちさとが半ば嬉しげに、半ば不安げに夫妻を見る。
夫「おとうさんとおかあさんは、昔たくさん食べたからな。今はちさとがたくさん食べる番だ」
ち「わかりました、いただきまぁす」
ち「わかりました、いただきまぁす」
ちさとはニコニコ顔で蒸しパンにかぶりついた。夫妻もそれを見て蒸しパンを食べ始め、
すぐに食べ終わると、ちさとが食べ終わるまでずっと、その嬉しそうな顔を見ていた。
すぐに食べ終わると、ちさとが食べ終わるまでずっと、その嬉しそうな顔を見ていた。
692 :【最期のひととき】6.冬の足音(2/3) :2008/04/01(火) 01:39:41.80 ID:V3i9Wbko
おやつが終わると、夫は先ほど見ていた観光情報誌を片手に、どこかへ電話を掛け始めた。
断片的に「幼女は……」「大浴場……」などの声が聞こえてくる。
ちさとは漢字練習帳の続きをしていたが、顔を上げ、窓の外を見やった。
いつもなら、そろそろ散歩兼買い物の時間だが、雨足は強くなる一方だ。
おやつが終わると、夫は先ほど見ていた観光情報誌を片手に、どこかへ電話を掛け始めた。
断片的に「幼女は……」「大浴場……」などの声が聞こえてくる。
ちさとは漢字練習帳の続きをしていたが、顔を上げ、窓の外を見やった。
いつもなら、そろそろ散歩兼買い物の時間だが、雨足は強くなる一方だ。
買い物だけなら、夫が運転する自家用車で行けば済む話だが、幼女は健康維持のため
(と言う建前で実際は飼い主のニート化を防ぐため)定期的に散歩をさせる必要があった。
ちさとも例外ではない。それに、ちさとは夫妻との散歩で、様々なものを毎日見て歩くのが
密かな楽しみだった。ちさとの賢さは、こうした好奇心の賜物でもあるのだ。
(と言う建前で実際は飼い主のニート化を防ぐため)定期的に散歩をさせる必要があった。
ちさとも例外ではない。それに、ちさとは夫妻との散歩で、様々なものを毎日見て歩くのが
密かな楽しみだった。ちさとの賢さは、こうした好奇心の賜物でもあるのだ。
ち「……ふぅ」
溜息をついたちさとが、再び漢字練習帳に目を落としたとき、
妻「ちさと、ちょっと来て頂戴」
ち「はぁい」
ち「はぁい」
とてとて、と軽い足音で、ちさとはキッチンへ急いだ。引き戸を開けた向こう側では、
テーブルの横が何やら少し広げられ、ビニール袋に包まれた大きな白い塊が床に置かれている。
テーブルの横が何やら少し広げられ、ビニール袋に包まれた大きな白い塊が床に置かれている。
ち「? これ、なんですか?」
妻「うどんの生地よ。これをこねると、美味しいうどんができるのよ」
妻「でね、ちさとはこの上に乗って」
妻「うどんの生地よ。これをこねると、美味しいうどんができるのよ」
妻「でね、ちさとはこの上に乗って」
言いつつ、妻がテーブルに片手をついて、バランスをとりながら生地の上に乗る。
妻「こうやって、全体をムラなく踏んで頂戴。おかあさんがいいって言うまでね」
ち「はい」
ち「はい」
交代してちさとが生地に乗ると、足の裏の柔らかい感触が、変な感じだが気持ちいい。
恐る恐る踏み始めると、バランスを取って立つのが以外に難しい。
まるでバランスを取るゲームのようで、ちさとは夢中になって生地を踏んだ。
恐る恐る踏み始めると、バランスを取って立つのが以外に難しい。
まるでバランスを取るゲームのようで、ちさとは夢中になって生地を踏んだ。
693 :【最期のひととき】6.冬の足音(3/3) :2008/04/01(火) 01:40:06.79 ID:V3i9Wbko
今日の分と作り置きの分の生地を、交互に踏み終えたちさとは、そのまま妻を手伝って
初めての麺打ちに挑戦していた。妻は慣れた手つきで、生地を四角く伸ばして折りたたんだが、
さすがに初めてのちさとでは四角にできず、生地の厚みにもムラがある。
今日の分と作り置きの分の生地を、交互に踏み終えたちさとは、そのまま妻を手伝って
初めての麺打ちに挑戦していた。妻は慣れた手つきで、生地を四角く伸ばして折りたたんだが、
さすがに初めてのちさとでは四角にできず、生地の厚みにもムラがある。
ち「おかあさん凄いです、お店で売ってるうどんみたい」
妻「もう30年も作ってるもの。これでも最初の頃は、今のちさとよりもっと下手だったのよ」
ち「おかあさんが? ……だったら私も、ずっと作ってたら上手くなれますか?」
妻「なれるわよ、ちさとは私の若い頃よりも、ずっと料理が上手だもの」
妻「もう30年も作ってるもの。これでも最初の頃は、今のちさとよりもっと下手だったのよ」
ち「おかあさんが? ……だったら私も、ずっと作ってたら上手くなれますか?」
妻「なれるわよ、ちさとは私の若い頃よりも、ずっと料理が上手だもの」
生地を折りたたんだ後は、それを細く切って麺の形にし、作り置きの分を1人前ずつラップに包んだ。
包んだ麺を冷凍庫に入れた後は、野菜とエビ、鶏肉を刻んで……今夜はうどんすきだ。
包んだ麺を冷凍庫に入れた後は、野菜とエビ、鶏肉を刻んで……今夜はうどんすきだ。
夫「お、二人とも頑張ってるな」
妻「今日のうどんは、ちさとが打ったうどんですよ」
ち「おかあさんみたいに上手くはできませんでしたけど」
夫「ちさとが作ったうどんだ、美味しくないわけがないだろう」
妻「今日のうどんは、ちさとが打ったうどんですよ」
ち「おかあさんみたいに上手くはできませんでしたけど」
夫「ちさとが作ったうどんだ、美味しくないわけがないだろう」
夫に言われ、ちさとは照れくさそうに微笑んだ。
ち「まだ食べてもないのに、早いですよ」
夫「ちさとの料理は全部美味しいぞ、うどんだけ不味いってことはないだろう」
妻「そうよちさと、それにちさとは料理を覚えるのが早いから、私も本当、助かるわ」
ち「ありがとうございます。おとうさんおかあさんに褒めてもらえて、私、本当に嬉しいです」
夫「ちさとの料理は全部美味しいぞ、うどんだけ不味いってことはないだろう」
妻「そうよちさと、それにちさとは料理を覚えるのが早いから、私も本当、助かるわ」
ち「ありがとうございます。おとうさんおかあさんに褒めてもらえて、私、本当に嬉しいです」
微笑みながら、ちさとの胸は少しだけ痛んだ。妻の言葉に……いつの日かやってくる、妻が
料理を作れなくなる日を、感じて痛んだ。しかし今は幸せでいよう。終わりが来るからこそ、
幸せで要られる間は精一杯幸せでいよう。ちさとは思った。
料理を作れなくなる日を、感じて痛んだ。しかし今は幸せでいよう。終わりが来るからこそ、
幸せで要られる間は精一杯幸せでいよう。ちさとは思った。
694 :【最期のひととき】7.幸せと痛みと(1/3) :2008/04/01(火) 01:40:32.89 ID:V3i9Wbko
その日の夕食のうどんすきは、三人でひとつの鍋を囲んだ。鍋をつつきながら夫が、
夕方の電話について話し始めた。
その日の夕食のうどんすきは、三人でひとつの鍋を囲んだ。鍋をつつきながら夫が、
夕方の電話について話し始めた。
夫「ほら、旅行にでも行こうと前に言ってただろ? この時期だから紅葉でも見に行こうと思ってな」
夫「調べてみたら、ちょうど来週の土日に、VIP寺で紅葉祭りがあるそうだ」
ち「もみじまつり?」
夫「ああ。紅葉を見ながら、野外ステージで地元小学生の和太鼓演奏とか、」
夫「演歌歌手のコンサートとかがあるらしい。後は地元で取れる魚や野菜の特売もあるそうだ」
妻「VIP寺の紅葉祭りは、確か野点(のだて)もあったはずですね」
ち「のだて?」
妻「お茶を立てる……って言っても、ちさとに分かるかしら?」
妻「お抹茶って言う、いいお茶の葉を粉にしたものを、一人分ずつお湯で溶いて飲むのよ」
夫「調べてみたら、ちょうど来週の土日に、VIP寺で紅葉祭りがあるそうだ」
ち「もみじまつり?」
夫「ああ。紅葉を見ながら、野外ステージで地元小学生の和太鼓演奏とか、」
夫「演歌歌手のコンサートとかがあるらしい。後は地元で取れる魚や野菜の特売もあるそうだ」
妻「VIP寺の紅葉祭りは、確か野点(のだて)もあったはずですね」
ち「のだて?」
妻「お茶を立てる……って言っても、ちさとに分かるかしら?」
妻「お抹茶って言う、いいお茶の葉を粉にしたものを、一人分ずつお湯で溶いて飲むのよ」
ちさとは、この初めて聞くお茶の飲み方に興味を持ったようで、瞳を輝かせた。
夫「でな、日帰りだとおかあさんがきついだろうから、一泊しようと思ってな」
ち「本当ですか!?」
ち「本当ですか!?」
ちさとは驚き、ますます笑顔になった。泊りがけで出かけるのも、ちさとは初めてなのだ。
夫「紅葉だけじゃないぞ。近くにやる夫屋敷って言う、明治時代の地元の名士の屋敷があって」
夫「その人が集めた当時の美術品なんかが展示してあるそうだ」
妻「さっき言った、お茶を立てるのに使う茶器とか、すごく綺麗な着物とかが飾ってあるのよ」
ち「へぇ……そういうのがいっぱい見られるんですか? なんだか面白そう!」
夫「その人が集めた当時の美術品なんかが展示してあるそうだ」
妻「さっき言った、お茶を立てるのに使う茶器とか、すごく綺麗な着物とかが飾ってあるのよ」
ち「へぇ……そういうのがいっぱい見られるんですか? なんだか面白そう!」
初めて見聞きするものは、何でもちさとの興味の的だった。それがじっと見ていても動くはずのない、
ただの湯のみでも。遠足を待ちわびる小学生のように、ちさとは準備を整えつつその日を待ちわびた。
ただの湯のみでも。遠足を待ちわびる小学生のように、ちさとは準備を整えつつその日を待ちわびた。
695 :【最期のひととき】7.幸せと痛みと(2/3) :2008/04/01(火) 01:41:07.53 ID:V3i9Wbko
旅行の準備をしているうちに、あっと言う間に日にちが過ぎ、いよいよ出発前日となった。
その日は通院日で、妻の薬を貰うため病院へ行くと、かかりつけ医は妻に入院を勧めた。
白血病が発症した状態で日常生活を送るのは、自殺行為にも等しいと。しかし妻は頑なに入院を拒んだ。
「では」とかかりつけ医は、幼女を提供者にした臓器移植の例を挙げ、付き添いで来ていた
ちさとの骨髄が妻の骨髄と適合するか、検査を勧めた。幼女は法律上は「飼い主の所有物」であり、
臓器移植の際は親族に準じた扱いになるらしい。少しでも可能性があるのなら、と
ちさとは検査を志願し、生まれて初めて採血された。検査結果は、判明次第知らせるとのことである。
旅行の準備をしているうちに、あっと言う間に日にちが過ぎ、いよいよ出発前日となった。
その日は通院日で、妻の薬を貰うため病院へ行くと、かかりつけ医は妻に入院を勧めた。
白血病が発症した状態で日常生活を送るのは、自殺行為にも等しいと。しかし妻は頑なに入院を拒んだ。
「では」とかかりつけ医は、幼女を提供者にした臓器移植の例を挙げ、付き添いで来ていた
ちさとの骨髄が妻の骨髄と適合するか、検査を勧めた。幼女は法律上は「飼い主の所有物」であり、
臓器移植の際は親族に準じた扱いになるらしい。少しでも可能性があるのなら、と
ちさとは検査を志願し、生まれて初めて採血された。検査結果は、判明次第知らせるとのことである。
ちなみに、妻が骨髄移植を受けた後に生まれた親族、姪と甥も年齢が条件に達した時点で
採血、検査を受けて適合しないことが判明している。姪が最初の子を産んだときに採取した
臍帯血(さいたいけつ、へその緒の中を通っていた血で、骨髄と同様の治療効果あり)も、
骨髄に比べると適合の可能性は高かったが、検査結果は駄目だった。姪が二人目を妊娠した現在、
その臍帯血と言う可能性も生まれたが、妻の体がそのときまで持つかどうか分からない以上、
ちさとの骨髄は最後の賭けと言っていい。
採血、検査を受けて適合しないことが判明している。姪が最初の子を産んだときに採取した
臍帯血(さいたいけつ、へその緒の中を通っていた血で、骨髄と同様の治療効果あり)も、
骨髄に比べると適合の可能性は高かったが、検査結果は駄目だった。姪が二人目を妊娠した現在、
その臍帯血と言う可能性も生まれたが、妻の体がそのときまで持つかどうか分からない以上、
ちさとの骨髄は最後の賭けと言っていい。
ち「おかあさんの病気って……本当に大変なんですね」
採血された痕をガーゼの上から揉みほぐしながら、ちさとが呟いた。
診察が終わり、妻が診察代を支払う間、ちさとは夫と待合ロビーの椅子に座っていた。
診察が終わり、妻が診察代を支払う間、ちさとは夫と待合ロビーの椅子に座っていた。
夫「ああ。ここまでして治る見込みがほとんどないのに」
夫「残る一生を病院のベッドの上で過ごせ、なんて俺には言えん……」
夫「残る一生を病院のベッドの上で過ごせ、なんて俺には言えん……」
カウンターで処方箋を受け取る妻の背を、夫はじっと見つめていた。
696 :【最期のひととき】7.幸せと痛みと(3/3) :2008/04/01(火) 01:41:29.95 ID:V3i9Wbko
出発当日、金曜の朝はどんより重い冬の曇り空だった。それでも、初めての旅行と言うことで
ちさとの喜びは隠しようがなかった。夫の車は、そんなちさとのおしゃべりをBGMに出発した。
出発当日、金曜の朝はどんより重い冬の曇り空だった。それでも、初めての旅行と言うことで
ちさとの喜びは隠しようがなかった。夫の車は、そんなちさとのおしゃべりをBGMに出発した。
目的地、VIP寺の門前町までは、車で片道2時間。午前中から昼にかけては車で観光する予定だ。
後部座席に座ったちさとは、窓から見えるいつもと違う景色に、興奮しっぱなしだった。
地平まで続く屋根に目を見張り、普通の道路と高速の違いに首を傾げ、間近で見る山の大きさに驚いた。
助手席の妻は、ちさとが不思議がるたびに優しく教え、ちさとが驚くたびに相槌を打った。
運転している夫は、そんな二人の会話を聞きながら、時々ちさとが驚くようなものを指し示し、
時々ちさとをからかっては、膨れるちさとを妻と二人で笑った。ちさとも妻に優しく諭され、
すぐに機嫌を直す。そんな、飽くことない2時間が続いた。
後部座席に座ったちさとは、窓から見えるいつもと違う景色に、興奮しっぱなしだった。
地平まで続く屋根に目を見張り、普通の道路と高速の違いに首を傾げ、間近で見る山の大きさに驚いた。
助手席の妻は、ちさとが不思議がるたびに優しく教え、ちさとが驚くたびに相槌を打った。
運転している夫は、そんな二人の会話を聞きながら、時々ちさとが驚くようなものを指し示し、
時々ちさとをからかっては、膨れるちさとを妻と二人で笑った。ちさとも妻に優しく諭され、
すぐに機嫌を直す。そんな、飽くことない2時間が続いた。
そうしているうちに、気づけばもう目的の門前町まで来ていた。昼食には少し早い時間だったが、
予約していた懐石料理の店はすでに満席だった。三人は個室に案内され、松茸(!)の炊き込みご飯や
加茂茄子の味噌田楽(茄子に味噌を塗って焼いたもの)、紅葉麩の吸い物などに舌鼓を打った。
ちさとは食事の最中もずっと感動しっぱなしだったが、最後、濃い黄金色のゼリーに目を見張った。
予約していた懐石料理の店はすでに満席だった。三人は個室に案内され、松茸(!)の炊き込みご飯や
加茂茄子の味噌田楽(茄子に味噌を塗って焼いたもの)、紅葉麩の吸い物などに舌鼓を打った。
ちさとは食事の最中もずっと感動しっぱなしだったが、最後、濃い黄金色のゼリーに目を見張った。
ち「わぁ、綺麗……」
妻「柚子のゼリーみたいね。いい香りがするわよ」
妻「柚子のゼリーみたいね。いい香りがするわよ」
言われて匂うと、鼻の奥に甘酸っぱい柑橘類の香りが広がった。
ち「何だか食べるのもったいないです」
夫「だったら俺が貰おうか?」
ち「もう、おとうさんったら!」
夫「だったら俺が貰おうか?」
ち「もう、おとうさんったら!」
慌てて皿を引き寄せるちさとを、夫妻が笑った。
954 名前: 【最期のひととき】7.幸せと痛みと(4/4) 投稿日: 2008/04/09(水) 16:21:01.38 ID:9EFvlAko
昼食の後は、町の中心にある大きな古い屋敷を訪れた。地元の名士、丹鷽久手(にうそくで)やる夫が
明治期に築いた通称『やる夫屋敷』だ。一見すると純和風だが、中に入ると壁に洋風の暖炉が
据え付けられた部屋があり、また一方で純和風の床の間や茶室が備えてあったり、庭は典型的な
日本庭園だったりする、絶妙なバランスの和洋折衷である。磨かれて黒光りする黒檀の高級柱や、
幾何学模様が美しい篭目の欄間などは、ちさとだけでなく夫妻をも感嘆させた。
また、やる夫が集めたと言う『やる夫コレクション』は、茶器を中心とした陶器に掛け軸、
やる夫が財を成した製糸業に関連して絹織物など、日本の伝統工芸品が主なものだ。
中には歴史的に非常に価値が高く、有名美術館に貸し出されているものまであるらしい。
昼食の後は、町の中心にある大きな古い屋敷を訪れた。地元の名士、丹鷽久手(にうそくで)やる夫が
明治期に築いた通称『やる夫屋敷』だ。一見すると純和風だが、中に入ると壁に洋風の暖炉が
据え付けられた部屋があり、また一方で純和風の床の間や茶室が備えてあったり、庭は典型的な
日本庭園だったりする、絶妙なバランスの和洋折衷である。磨かれて黒光りする黒檀の高級柱や、
幾何学模様が美しい篭目の欄間などは、ちさとだけでなく夫妻をも感嘆させた。
また、やる夫が集めたと言う『やる夫コレクション』は、茶器を中心とした陶器に掛け軸、
やる夫が財を成した製糸業に関連して絹織物など、日本の伝統工芸品が主なものだ。
中には歴史的に非常に価値が高く、有名美術館に貸し出されているものまであるらしい。
屋敷の大広間では、やる夫本人に会った老婆が交代で、やる夫の様々なエピソードを語ってくれた。
その話によると、やる夫は様々な文化人を招いたり学校などの建設に大金を寄付したりと、
町の発展に寄与した非常に偉い人物らしいが、気さくな人柄で町中の者に慕われていたと言う。
実際、デフォルメされたやる夫マスコットは町のシンボルになっていて、観光案内の看板に
描かれたり、やる夫の人形焼ややる夫キーホルダーなどがお土産に売られていたりする。
尊敬されている割には偉人らしからぬ扱いを見ると、本当に気さくな人物だったのだろう。
遠まわしな宣伝文句と共に話は締めくくられ、土産物屋になっている土蔵に案内された。
夫妻も土産物をいろいろ見ていたが、気づくと、ちさとがいない。夫が土蔵の中を見渡すと
その話によると、やる夫は様々な文化人を招いたり学校などの建設に大金を寄付したりと、
町の発展に寄与した非常に偉い人物らしいが、気さくな人柄で町中の者に慕われていたと言う。
実際、デフォルメされたやる夫マスコットは町のシンボルになっていて、観光案内の看板に
描かれたり、やる夫の人形焼ややる夫キーホルダーなどがお土産に売られていたりする。
尊敬されている割には偉人らしからぬ扱いを見ると、本当に気さくな人物だったのだろう。
遠まわしな宣伝文句と共に話は締めくくられ、土産物屋になっている土蔵に案内された。
夫妻も土産物をいろいろ見ていたが、気づくと、ちさとがいない。夫が土蔵の中を見渡すと
ち「……」
手作りらしい、15cmほどのやる夫人形を、じっと見つめていた。
妻「ああ、そうだったわね。ちさとも女の子だもの、お人形のひとつくらい欲しいわよね」
ち「いいんですか? おかあさん」
妻「当たり前じゃない、子供が親に遠慮するものじゃないわ。ね、あなた」
夫「もちろんだ、ちさとはもっとわがまま言っていいんだぞ」
ち「はい、ありがとうございます」
ち「いいんですか? おかあさん」
妻「当たり前じゃない、子供が親に遠慮するものじゃないわ。ね、あなた」
夫「もちろんだ、ちさとはもっとわがまま言っていいんだぞ」
ち「はい、ありがとうございます」
ちさとは人形の入った土産袋を受け取ると、大事そうにそっと抱えた。