947 名前: SS@ミク 投稿日: 2008/11/08(土) 14:41:36.42 ID:yztOtQAO
電車を降りると、にわかに目の前に見馴れた風景が広がった。
電車を降りると、にわかに目の前に見馴れた風景が広がった。
ホームはすでに暗闇に覆われていて、何かの慰めみたいに灯された蛍光灯には
羽虫が飛び交っていた。
吹き抜ける風はこれ以上無いくらいに冷たい。
羽虫が飛び交っていた。
吹き抜ける風はこれ以上無いくらいに冷たい。
しかしこうして歩いていると
たちまち冷汗が粒になって額に浮かんでくる。
胃の中身が込み上げてくる感触がある。
たちまち冷汗が粒になって額に浮かんでくる。
胃の中身が込み上げてくる感触がある。
そろそろ限界だろうと思った。
色々なことが、限界に達していた。
このまま結論を後回しにし続けることにも、ミクが隣にいないことにも。
このまま結論を後回しにし続けることにも、ミクが隣にいないことにも。
これ以上続けては、だめになる。
不安定な均衡は、きっと音をたてて崩壊してしまう。
不安定な均衡は、きっと音をたてて崩壊してしまう。
俺を取り巻く事柄が、変わり始める頃にあった。
948 名前: SS@ミク 投稿日: 2008/11/08(土) 14:42:04.67 ID:yztOtQAO
だから俺は、とうとうこの場所に来た。
ずいぶん間をおいての帰郷だが、そこに感慨は無い。
だから俺は、とうとうこの場所に来た。
ずいぶん間をおいての帰郷だが、そこに感慨は無い。
全てが始まり、そしてこれから収束するはずの場所だった。
…ミクの姿を、一番多く見た街だった。
…ミクの姿を、一番多く見た街だった。
機械のような手順で改札をパスして出口へと歩き出す。
遠くで次の電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえる。
それぞれの方向に歩き出した人々の無言が聞こえる。
それぞれの方向に歩き出した人々の無言が聞こえる。
俺はわざと大通りから外れた脇道を選ぶ。
街灯が無いので、他に人の姿はなくなる。
街灯が無いので、他に人の姿はなくなる。
949 名前: SS@ミク 投稿日: 2008/11/08(土) 14:42:47.12 ID:yztOtQAO
道はひっそりとしていた。
道はひっそりとしていた。
俺はコートに身を埋め、息を白くしながら歩を進めた。
寒さで耳がじんじんと痛んだ。
無意識の内に歩みは早くなってゆく。
寒さで耳がじんじんと痛んだ。
無意識の内に歩みは早くなってゆく。
不意に目の前の靄がぱっと散ったような気がした。
次の瞬間、その光景は唐突に広がった。
次の瞬間、その光景は唐突に広がった。
俺は往来に一人立ったまま、長いあいだそれを見ていた。
ここを出る前にこれから毎年見ようと約束した、あの桜並木。
ここを出る前にこれから毎年見ようと約束した、あの桜並木。
どの樹木も葉はぜんぶ落ちてしまっていて、まして
花など残っているはずもない。
それでも力強い幹が暗闇に凛と浮ぶその風貌には、一種の
威厳のようなものが感じられた。
花など残っているはずもない。
それでも力強い幹が暗闇に凛と浮ぶその風貌には、一種の
威厳のようなものが感じられた。
950 名前: SS@ミク 投稿日: 2008/11/08(土) 14:46:48.19 ID:yztOtQAO
彼女が密かにこの街に帰っていたとしたら…と、俺は想像する。
この桜並木を、見に来ただろうか。
この桜並木を、見に来ただろうか。
…きっと、見ただろう。
そこに花がないことなど気にもとめず、彼女は
心にいつかの風景を描き出し、この景色と照らしたに違いない。
心にいつかの風景を描き出し、この景色と照らしたに違いない。
思えば桜など、一度も見たことが無かった。
半年前こうして木を目の前にした時でさえ、
俺は決してこの力強い幹を捉えていなかった。
半年前こうして木を目の前にした時でさえ、
俺は決してこの力強い幹を捉えていなかった。
なのに今は彼女のことを思うだけで、
こんなにも胸がつまる。
こんなにも胸がつまる。
直ぐこの場で頭を抱えて、崩れ落ちてしまいそうになる。
951 名前: SS@ミク 投稿日: 2008/11/08(土) 14:52:42.24 ID:yztOtQAO
長い時間が経過した。
俺は暗闇のなかに呆然と立ち尽くしていた。
彼女の愛した風景から、目をそらすことができなかった。
彼女の愛した風景から、目をそらすことができなかった。
…しかしこのまま懐かしさに見惚れ続けていることはできない。
この続きを、次は二人で見出さなければ――
この続きを、次は二人で見出さなければ――
そんな思いで、ようやくその場所に背を向けることができる。
それでも歩き出すのに、少しの時間を要する。
952 名前: SS@ミク 投稿日: 2008/11/08(土) 14:53:08.60 ID:yztOtQAO
やがて俺はさびれたアパートにたどり着く。
その階段を、ゆっくりと上ってゆく。
その階段を、ゆっくりと上ってゆく。
足がよろめき、何度も踏み外しそうになる。その度に注意深く
手すりにしがみくようにしなければならない。
手すりにしがみくようにしなければならない。
部屋の前に立ち、番号を確かめる。
ドアには鍵はかかっていない。
ドアには鍵はかかっていない。
…決死の逃避行も、ただ問題を先送りにしたに過ぎなかった。
本当に守ろうとしたものは、いつしか
手の届く距離にさえ遠ざかって、今はもう見えない。
本当に守ろうとしたものは、いつしか
手の届く距離にさえ遠ざかって、今はもう見えない。
953 名前: SS@ミク 投稿日: 2008/11/08(土) 14:53:53.01 ID:yztOtQAO
…本当は、ずっと前からわかっていた。
俺がどうこうできる段階なんてものは、とうに過ぎてしまった。
気づいた時、事態はもう誰にも止められないところまで迫って
彼女の存在を侵していた。
気づいた時、事態はもう誰にも止められないところまで迫って
彼女の存在を侵していた。
間に合わなかった…そんな考えから、目を背け続けた。
ミクを、守りたかった。
…守れると、自分で信じ込んでいたかった。
954 名前: SS@ミク 投稿日: 2008/11/08(土) 14:54:21.61 ID:yztOtQAO
どこかで向き合わなければならなかったのだ。
…本当は、もっと早く。
…本当は、もっと早く。
それにはきっと一人であることが必要で、孤独がつきまとう。
でも、彼女の結末を受け止めなければ。
でも、彼女の結末を受け止めなければ。
俺は一つ息をついて、ドアに手をかける。
そこから先は、もう考えない。
停止した時間が動き始める。
扉が、開く。
停止した時間が動き始める。
扉が、開く。
そこには、長い間俺の捜し求めていたものがあった。
178 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/04(土) 20:45:53.43 ID:lVL2Cf20
明かりを点けるとそこには、見慣れた部屋模様があった。
しかし、部屋は片付いていた。
あの日、急ぎのあまり散らかしたままだったはずの俺の所有物は
すべてあるべきところに収められていた。
あの日、急ぎのあまり散らかしたままだったはずの俺の所有物は
すべてあるべきところに収められていた。
そんな男の一人暮らしらしからぬ部屋の様相には、見覚えがある。
それは遠い昔のようで、しかしごく最近のようでもある、不思議な懐かしさだ。
それは遠い昔のようで、しかしごく最近のようでもある、不思議な懐かしさだ。
179 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/04(土) 20:46:35.23 ID:lVL2Cf20
部屋の空気は、外にいても変わらないくらい冷たかった。
しかしそれとは別の温かさというものを、俺は久しぶりに感じた気がした。
しかしそれとは別の温かさというものを、俺は久しぶりに感じた気がした。
きちんと畳んでタンスに仕舞われた衣類も、テーブルのコップに生けられた野花も。
ここにあるすべてから彼女の気配が感じられた。
ここにあるすべてから彼女の気配が感じられた。
…しかし、ここにミクはいなかった。
引越しの支度を終えたあとの部屋のような、独特の生活感の無さが
やたらともの寂しかった。
やたらともの寂しかった。
180 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/04(土) 20:49:42.69 ID:lVL2Cf20
まず間違いなく、彼女はここへ来ている。だが今はいない。
その事実が不可解で、悲しかった。
受け入れられなくて、もう一度部屋を見渡した。
受け入れられなくて、もう一度部屋を見渡した。
そして、見つけた。
テーブルの上に置かれた、白いメモ翌用紙を。
181 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/04(土) 20:51:03.13 ID:lVL2Cf20
俺の真向かい、いつも彼女が座っていた場所。
そこに一瞬だけミクの姿が浮かんで、すぐに消えた。
そこに一瞬だけミクの姿が浮かんで、すぐに消えた。
腰掛け、紙を手に取る。…確かにミクの字だ。
目の前にあるコップの花は、まだ枯れてない。
ということは、彼女がここを出たのはごく最近ということだ。
ということは、彼女がここを出たのはごく最近ということだ。
また、ミクにあえる。
再会の予感を感じながら、俺は手紙に視線をおとした。
そして、その長い手紙を読み始める。
そして、その長い手紙を読み始める。
ゆっくりと、その一つ一つからミクの思いを読み取るように。
188 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/07(火) 01:37:34.42 ID:xSz1uWA0
わたしが自分は他と違うと気づきはじめたのは、いつからでしょうか。
それでも時が経てば、そんな矛盾も、ひとりの寂しさも、犯してきた許されない罪でさえ、
すっと閉じ込めて、いつしか忘れてしまうものだと思ってました。
わたしという存在の全てが、所詮はそれを受け入れるためだけのものだったと、割り切る
ことができました。
でもあの日、お兄さんに会ってしまって…お兄さんも先輩さんもあまりに優しくするも
のだから、わたしはきっともう自分の気持ちを知らんぷりすることなんてできなくなっ
たんです。
「わたしは幼女じゃありません。でも人間でもないんです。」
…ずっと、そう言いたかった。知ってほしかったよ。
それだけじゃありません。あろうことか、わたしはそれを誰かに認めてほしかった。
「それでも大丈夫」と、許してもらいたかったのです。
だからはじめて会ったあの日…おぼえてる? カレーを食べさせてくれて、服もくれて、
「よろしく」って言ってくれて。
きっとあのとき、わたしは命以外のいろいろなものまで救われたんです。
その時の気持ちを忘れることなんてできません。うれしかった。本当に嬉しかったから。
189 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/07(火) 01:38:53.08 ID:xSz1uWA0
…ただ幸せであればあるだけ、同じように私は怖かった。だってそうでしょう?
きっとあの時、私は間違いなく世界のどんな幼女より幸せだった。それは本当は、私にかわ
って殺されたあの子のものだったのに。 私が、奪った。
わたしそれが申し訳なくて…どうすればいいのかわからなかった。それがため、時には
お兄さんに辛く当たりました。…最悪だよね。ごめんね。ごめんなさい。
こんなふうに、周りを不幸にさせながらも生きている自分が嫌いでした。だから二人で家を
出てから、色々な街へ行って、その間ずっと私は考えていました。
そして、とうとうみつけたのです。お兄さんに迷惑かけるばかりでどうしようもなかった私
にたったひとつ残された、お兄さんを楽にできる方法。
すべてをまるではじめから何も無かったみたいに、もとにもどす方法。
私は、もういなくなります。
190 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/07(火) 01:40:18.12 ID:xSz1uWA0
考えたんだけど、それが一番いいんです。私が企業の手に渡れば、きっと私みたいな幼女が
たくさん作られますよね。それはだめです。たぶん不幸な子を増やすだけ。
私はまず、誰にもわからない場所へ行きます。そこで静かに、誰にも知られないように生存
装置を壊します。大丈夫。簡単だよ。それはきっとほんの一瞬のこと。
だから死そのものへの苦しみはありません。痛みもありません。怖いのは…少しあるけど。
でもお兄さんがどうしようもなく優しいのを、私は知ってるから。
私がしようとしてることを知ったら、きっと何としてでも止めに来てくれるよね。
それは本当にうれしいことなんだけど…でも、そうなるとやっぱりすこし、困ります。
何よりもういちどお兄さんの顔を見てしまったら、私だって決心を保てる自信ないから。
だから、面と向かってさよならできませんでした。ごめんね。
191 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/07(火) 01:44:37.82 ID:xSz1uWA0
お兄さんがこの手紙を読んでいる頃、もう私は全てを終えたあとだと思っていいです。
断言できます。もうその世界に、私はいません。
それは私の中の、お兄さんを想う気持ちが揺るがないのと同じだけ、絶対なのです。
…私の言いたいこと、ちゃんと伝わってるかな?少し自信ないです。
私の中で死ぬのが怖い気持ちより、お兄さんを好きな気持ちのほうが強いから、この計画を
失敗することはないといえるの。
…ねえお兄さん。やっぱりこの罪を償うにはこうするしかなかったんだよ。
最初から、決まってた。ただいくつか偶然がかさなって、わたしはそれに一番ふさわしい時
期をえらぶことができたの。この時がくるのを、ずっと待ってた。
だから、大丈夫だよ。わたしもお兄さんもきっと大丈夫。
きっとここからすべてのことが、良い方へ動き出すから。そんな気がするよ。
PS 最後に、ここへきてから歌をうたいました。
いつもわたしが使ってたカセットレコーダー。机の上においておきます。
きいてね。
いつもわたしが使ってたカセットレコーダー。机の上においておきます。
きいてね。
192 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/07(火) 01:46:27.46 ID:xSz1uWA0
何度も何度も、俺はその手紙を読みかえした。
手紙のすぐ横に、いつも彼女がつかっていたウォークマンがあった。
中には一本のテープが入っていた。
中には一本のテープが入っていた。
彼女はこの家にきてから、一人でこの歌をうたい、カセットにおさめた。
イヤホンをつけ、再生する。
イヤホンをつけ、再生する。
それは俺がはじめてきいた彼女のうたでもあり、彼女の最期のうたでもあった。
声だけで一切の伴奏の欠落したその音の並びは、どこまでも優しく、どこまでも透明に
俺の中に響き続けた。
声だけで一切の伴奏の欠落したその音の並びは、どこまでも優しく、どこまでも透明に
俺の中に響き続けた。
それはおおよそ、これから死に向かうものの歌声ではなかった。
本当にうれしそうに、気持ちよさそうに、彼女はうたっていた。
本当にうれしそうに、気持ちよさそうに、彼女はうたっていた。
でももう、この世界のどこにも彼女はいないのだ。
消えてしまったのだ。
消えてしまったのだ。
193 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/07(火) 02:45:22.47 ID:xSz1uWA0
一年前
ソファはお世辞にも十分な広さとはいえない。
ということは、必然的に俺はこの可憐な美少女を抱き寄せる形になる。
Tシャツ一枚でシャンプーの香りをまとった、この美少女を。
密かに自制心を案ずる俺とは裏腹に、なぜか機嫌のいい少女だった。
Tシャツ一枚でシャンプーの香りをまとった、この美少女を。
密かに自制心を案ずる俺とは裏腹に、なぜか機嫌のいい少女だった。
「こういうの、ちょっとドキドキするよね」
「そりゃ、まあねえ…」
「ねえ、せっかくだからキスの一つもしときますか」
「ぶっ!」
いきなり何つった、こいつ。からかってる…だけだよな?
などと考えてる間に目の前の美少女は目をつむり、形の良い唇をつんと突き出している。
一瞬迷ったが、苦渋の決断でその眉間にチョップ(強め)を打ち込んでやった。
思いがけず良い音がした。
一瞬迷ったが、苦渋の決断でその眉間にチョップ(強め)を打ち込んでやった。
思いがけず良い音がした。
194 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/07(火) 02:46:09.23 ID:xSz1uWA0
「いたい…」
「いきなり何を言うのかね、この子は」
「むぅ、ちょっと悪ノリしただけなのに。冗談だよ」
そう言いながら、少し涙を浮かばせつつデコをさする少女。
冗談…ね。危ないところだった。一瞬の決断を誤らなかった自分をほめてやりたい。
冗談…ね。危ないところだった。一瞬の決断を誤らなかった自分をほめてやりたい。
その後互いに目を瞑り沈黙を喫したのだが、正直眠れるわけねーだろ。
こいつはもう眠ったのか、疲れていたようだしなあ…などと考えていたら、
不意に眠っているはずの少女がごそごそと起き上がる気配がした。
こいつはもう眠ったのか、疲れていたようだしなあ…などと考えていたら、
不意に眠っているはずの少女がごそごそと起き上がる気配がした。
目を瞑っていてわからなかったのだが、俺の口に何かとてつもなくやわらかいものが
一瞬、触れた。
触れると同時に、
一瞬、触れた。
触れると同時に、
「…ありがと」
という優しく消えてしまいそうな声を聞いた気がした。
それで少女は気が済んだのか、ごそごそと元の位置にもどっていった。
それで少女は気が済んだのか、ごそごそと元の位置にもどっていった。
…このやろう、冗談じゃないじゃねーか。
195 名前: SS@ミク 投稿日: 2009/04/07(火) 02:47:19.03 ID:xSz1uWA0
その後すぐ、どうやら今度は本当に寝てしまったようで、
すやすやと気持ち良さそうな寝息をたてはじめた。
すやすやと気持ち良さそうな寝息をたてはじめた。
一方俺はというと、いよいよ完全に目が冴えてしまった。
とても眠れるなどという状態じゃない。
とても眠れるなどという状態じゃない。
体を起こして少女に目をやると、天使のような寝顔を浮かべている。
…こいつは人の苦労も知らないで。
…こいつは人の苦労も知らないで。
毛布をちゃんとかけてやって、手を頭に伸ばすと、一瞬身体をすくませた。
しかし撫で続けていると少女の寝顔はすぐに安らかさをとりもどしていった。
しかし撫で続けていると少女の寝顔はすぐに安らかさをとりもどしていった。
…今までのこいつの世界が辛かったのなら、夢の中だけでも幸せになってくれたら良い。
しかしそんな思いとは裏腹に、そのとき少女が蚊の鳴くような小さな声で
しかしそんな思いとは裏腹に、そのとき少女が蚊の鳴くような小さな声で
「ごめんなさい」
と呟いた。
声は、震えていた。
俺はそのまま眠くなるまで、ずっとずっと髪を撫でていた。
声は、震えていた。
俺はそのまま眠くなるまで、ずっとずっと髪を撫でていた。
なにもかもが懐かしい、とりもどせない日々だった。
もう一度あの日に帰れたなら、少女のもとで一緒に眠り、
もう二度と目を覚まさなければ良いのにと思った。
もう二度と目を覚まさなければ良いのにと思った。
371 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:47:12.60 ID:wGk2JgAO
ただ時間だけが流れた。
ずいぶん経ったようで、実はそうでもないのかもしれない。
…いや、そんなことはそもそも、もう重要では無いのだ。
今さらそんなことを考えたところで、何になるというのだろう。
今さらそんなことを考えたところで、何になるというのだろう。
どうしたって、もう彼女はいないのに。
俺は思考を停止させたまま、空白の時間をやり過ごすだけだった。
これほど残酷な時間を、俺は今まで知らなかった。
辛くて、寒くて、孤独な活動だった。
これほど残酷な時間を、俺は今まで知らなかった。
辛くて、寒くて、孤独な活動だった。
372 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:47:55.50 ID:wGk2JgAO
――いつしかこの部屋に、俺以外の『誰か』の気配が加わっている。
俺は半ば夢の中にいるような心地で、しかしそれに気づく。
俺は半ば夢の中にいるような心地で、しかしそれに気づく。
その誰かが台所で、何かの作業をはじめる。かつて俺が一番多く彼女の後ろ姿を見つけたであろう場所。
だが、それが彼女でないことを俺は知っている。
ならこの現実に、どんな意味があるというのだろう。
ならこの現実に、どんな意味があるというのだろう。
やがてその人物は俺に近づく。
コトリと乾いた音を立てて、皿が置かれる。
コトリと乾いた音を立てて、皿が置かれる。
「…なにか食べないと、体に悪いから」
その声も今や雑音として靄がかって、うまく聞きとれない。
ちょうどテレビの砂嵐のように。
ちょうどテレビの砂嵐のように。
もはやそれらの音に、意味はなかった。
俺の中にはこの世界でまだ唯一意味のある音が、ずっと流れていた。
稚拙で、おぼつかなくて…それでも優しくて、あたたかい音色。
俺の中にはこの世界でまだ唯一意味のある音が、ずっと流れていた。
稚拙で、おぼつかなくて…それでも優しくて、あたたかい音色。
ほかのどんな音も、その音色の前では雑音でしかなかった。
373 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:48:39.74 ID:wGk2JgAO
――不意に温かくて柔らかなものに抱きしめられた。
その感触さえ、もはや夢をみているように心許なく、現実味がなかった。
…先輩は、泣いているようだった。
彼女は声も上げず、ただぱらぱらと涙を流した。
彼女は声も上げず、ただぱらぱらと涙を流した。
ああ、彼女は俺たちが出ていってから
毎日この部屋を訪れたのだろうか。
そして今この気丈な人は、嘘のように弱々しく自分にすがりつき、泣いている。
毎日この部屋を訪れたのだろうか。
そして今この気丈な人は、嘘のように弱々しく自分にすがりつき、泣いている。
だがその現実も、もう俺には届かない。
俺は――――
374 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:49:07.27 ID:wGk2JgAO
『あいつに、何をしてやれた?』
喉から吐き出された声は、他人のようだ。
「何もしてない」
「…そんなこと」
「家事ばかり押しつけて…話をしたって、いつも俺ばかり。学校やバイトの愚痴ばかり喋って…
あげくの果てに、家を出て、連れ出して」
あげくの果てに、家を出て、連れ出して」
「……」
「やさしい言葉も、あまりかけてやれなかった」
「あぁ…俺まだ、『ありがとう』って言ってない」
いくら言っても足りないくらい、救われていたのに。
「『ごめんな』も」
数えきれないほどの、情けない姿を見せた。悲しませることを、した。
「『好きだ』も」
あいつはいつも自分が人に嫌われていると悲観し、決めつけていた。
それゆえいつも、不安定だった。
それゆえいつも、不安定だった。
「ちゃんと言えばよかった」
ちゃんと示せばよかった。
お前は誰にも嫌われていないんだと、だから幸せになれば良いんだと――
そう、言いたかった。
そう、言いたかった。
375 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:51:52.17 ID:wGk2JgAO
どれだけ取り戻せない日々を求めても。
どれだけ多くの後悔を数えても。
救いなど、降ってくるはずはなかった。
そんなこと、知っていた。
どれだけ多くの後悔を数えても。
救いなど、降ってくるはずはなかった。
そんなこと、知っていた。
「お願いです。一人にしてください」
俺は顔も見ずに嘆願する。
「…空っぽで辛いんです。これ以上、俺を見ないでください」
俺は遠くに、ドアの閉じる音をきく。
さみしくはならなかった。
むしろ、ずっとさみしかった。
むしろ、ずっとさみしかった。
――を、失ってから。
「ミク…」
376 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:52:11.77 ID:wGk2JgAO
口に出したその名に、行き場はもうない。
ただ空しく、部屋の暗闇に吸い込まれていった。
ただ空しく、部屋の暗闇に吸い込まれていった。
彼女と出会い、一緒に暮らしてから。
わずかな間に、俺はあまりにその名前を呼び慣れすぎた。
はじめて呼んだとき、「きれいな名」と。「私、好きだな」と――。そう言った。
たしかに俺にとって一番特別だったその呼び名は、今はもう
苦しいばかりの懐かしさと哀惜に浸されて、とりもどせない。
苦しいばかりの懐かしさと哀惜に浸されて、とりもどせない。
彼女にまつわる全てのものの意味が、こうして死んでゆく。
それが、哀しかった。
それが、哀しかった。
だから俺は、まだ損なわれていない彼女の面影を追い求めた。
部屋には、一切の雑音がなくなった。
俺は静かに、自らの中を流れる歌声に身を委ねた。
377 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:52:32.33 ID:wGk2JgAO
それから何時間経ったのだろう。いや、何日かもしれない。
あれから先輩を何度も見た気もするし、あの一回きりだったような気もする。
いや、もしかしたら最初のそれすら幻だったのだろうか。
いや、もしかしたら最初のそれすら幻だったのだろうか。
時間の感覚は、とうに失っていた。
一人の時間はもう苦痛にも、慰めにもならなかった。
それはただ連続するものとして、俺を通過してゆくだけだった。
それはただ連続するものとして、俺を通過してゆくだけだった。
そこには何の意味も、意志も、表情も含まれてない。
そんな時間を、俺はミクの残したテープを聞くことでやりすごした。
曲が終われば、またはじめから―――その声が、決して終わってしまうことの無いように。
曲が終われば、またはじめから―――その声が、決して終わってしまうことの無いように。
そうすればいつまでもミクが寄り添い、語り続けてくれる気がしたから。
優しく透明な、あの声で。
少し照れながら、「大丈夫だからね、お兄さん」と。「ほら私は、ちゃんとここにいるでしょ?」と。
優しく透明な、あの声で。
少し照れながら、「大丈夫だからね、お兄さん」と。「ほら私は、ちゃんとここにいるでしょ?」と。
偽っていることなら知っていた。
しかし俺には、もう何も残されていないのだ。
しかし俺には、もう何も残されていないのだ。
そんな空虚な時間が、この先も永遠に続いてゆくように思われた。
しかしその日俺は、夢を見た
378 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:55:34.17 ID:wGk2JgAO
夢の中で、俺は何も無い空間に立っていた。
それは一人の人間には広すぎる空間のように思えた。
景色はどこまでも、途方もなく真っ白で
ぞっとするほどだった。
景色はどこまでも、途方もなく真っ白で
ぞっとするほどだった。
しかし、今はもう暗闇を覗き込むような恐怖は感じない。
沈黙も、あの部屋にいたときのように
もう俺を脅かすことは無い。
沈黙も、あの部屋にいたときのように
もう俺を脅かすことは無い。
目の前にミクがいるからだ。
彼女はいつもの人なつっこい笑顔で、俺を見た。
少し照れるような、はにかむような笑顔。
何よりも、俺が一番見たかった笑顔。
少し照れるような、はにかむような笑顔。
何よりも、俺が一番見たかった笑顔。
誰がなんと言おうと、俺は幸せだった。
379 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:56:11.57 ID:wGk2JgAO
一瞬何が起こったのかわからなかった。
彼女の体が、突然白い光を発したのだ。
彼女の体が、突然白い光を発したのだ。
その光はまるで雪のよいに小さな粒となり
一つ一つ、彼女から離れると
解き放たれたように遠い空に昇っていった。
一つ一つ、彼女から離れると
解き放たれたように遠い空に昇っていった。
それにつれて彼女の姿は少しずつ滲み、うすれてゆく。
「待ってくれ」と叫ぼうとしても声が出ない。
俺の知っているイメージでは、この後彼女は泣いてしまう。
やっと取り戻したもう二度と失いたくない笑顔を、また俺は失ってしまう。
それはほとんど、絶望と言ってよかった。
俺の知っているイメージでは、この後彼女は泣いてしまう。
やっと取り戻したもう二度と失いたくない笑顔を、また俺は失ってしまう。
それはほとんど、絶望と言ってよかった。
――しかし、ミクは――
自分の体に生じた変化を認めると、ちょっとだけ残念そうな表情を見せ。
そして、こっちへ向きなおす。
そのとき、柔らかな彼女の黒髪が
白い空間にふわりと広がる。
そのとき、柔らかな彼女の黒髪が
白い空間にふわりと広がる。
彼女は――――
ただ幸せそうに笑って、少し手をふった。
穏やかな表情に、ほんの少しのさみしさを秘めて。
380 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 17:57:13.05 ID:wGk2JgAO
――目がさめたとき、俺は泣いている。
泣きながら、耳に彼女の囁きを聞く。
「…お兄さん、きこえてる?
えっと…本当は歌だけで、もう行くつもりだったんだけど。
でも、もしお兄さんが、本当に苦しんでしまった時のことを考えて。
でも、もしお兄さんが、本当に苦しんでしまった時のことを考えて。
テープの最後に今、こんなものを録ってます。
だから気づかないでお兄さんが立ち直ってくれたら、それはそれでいいの――なんて…ふふ、
少し傲慢ですか?
だから気づかないでお兄さんが立ち直ってくれたら、それはそれでいいの――なんて…ふふ、
少し傲慢ですか?
あのねお兄さん。
私ね
今まで本当に楽しかったし、嬉しかったし、幸せだったの。
一緒にいたのは、本当にちょっとの時間だったかもしれない。
でもね、その間私、本当に一秒も休まず恋しいと想い続けてきたんだよ。
もったいないと思うくらい、幸せを受け止めてきたんだ。
もったいないと思うくらい、幸せを受け止めてきたんだ。
だから…ね、私の声、聞こえる?
ちっとも怖くないし、悲しくもないんだ。
ちっとも怖くないし、悲しくもないんだ。
うれしい…というのは、ちょっと違う気がするけど。
なんていうか、今はね。
切なくて、愛しいよ。
切なくて、愛しいよ。
だからお兄さん。苦しまないでください。
私は、哀しんでないです。
私は、哀しんでないです。
こんなに素敵な人と一緒にいられて、なんて私は幸せだったんだろうと思います。
381 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 18:00:33.57 ID:wGk2JgAO
だから――――
ありがとう。お兄さん。
優しくしてくれて、ありがとう。
人間と呼んでくれて。
人間にしてくれて、ありがとう。
人間と呼んでくれて。
人間にしてくれて、ありがとう。
人間を好きにさせてくれて、ありがとう。
ゆるしてくれて、ありがとう。
哀しんでくれて、ありがとう。
ありがとう
ありがとう
ありがとう。
ありがとう
ありがとう。
お兄さん、さようなら。
…体に、気をつけてね。
大好き――――」
―――
――
―
――
―
382 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 18:01:35.69 ID:wGk2JgAO
俺はゆっくり、目をあける。
これで、動きだせると思った。
もう充分長い間、この場所にはとどまったのだから。
もう充分長い間、この場所にはとどまったのだから。
最後にミクが、助けてくれた。
たしかに夢を見る前後で、この世界に実質的な変化は無いかもしれない。
だが、今までずっと追い求め、見出せないでいたミクの面影を今
なぜか、ふっとつかんだ気がした。
なぜか、ふっとつかんだ気がした。
さがしていたこたえが、やっと手の中に収まった気がした。
383 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 18:02:21.69 ID:wGk2JgAO
信じられないくらい低い確率で世界で唯一の自我をもつ幼女として生まれ、
人からみれば、彼女は薄幸であったかもしれない。
人からみれば、彼女は薄幸であったかもしれない。
しかしそれにもかかわらず、ミクは自らの一生を幸せと振り返った。
先輩と、そして、俺と出会えて。
本当に幸せだったんだと―――たしかに、そう記した。
…では、俺は?
俺もまた彼女に出会えて、まちがいなく幸せだったといえる。
彼女にまつわるすべてが、いつか立ち止まり、ふりかえれば
そっと笑えるような、優しい思い出になるのだろう。
彼女にまつわるすべてが、いつか立ち止まり、ふりかえれば
そっと笑えるような、優しい思い出になるのだろう。
だからミクは、笑った。
…それだけで、充分な気がした。
384 名前: SS@ミク 投稿日: 2010/01/31(日) 18:03:18.74 ID:wGk2JgAO
窓の外を見ると、もう朝だった。
俺は立ち上がる。
長い間そこにいたせいで、身体は石のように固く、冷たくなっている。
長い間そこにいたせいで、身体は石のように固く、冷たくなっている。
それでも、俺が笑顔を見せなければならない人がいる。
夢の中で彼女が俺にしたように、もう大丈夫と
声をかけるべき人が。
声をかけるべき人が。
コートをつかみ、簡単に身支度をする。
ミクが最後に残してくれたウォークマンは少し迷って、しかし
やはりテーブルの上に置いたままにしておく。
ミクが最後に残してくれたウォークマンは少し迷って、しかし
やはりテーブルの上に置いたままにしておく。
ドアに手をかける。
そのとき、自分にしかきこえないような声で
本当にささやかな決意をする。
本当にささやかな決意をする。
…進もう。君のいない道を。
ノブをまわし、ゆっくりと引く。
外はまばらに雪が降っていて、昨日の夢を彷彿させる。
そこにはたしかにミクの面影があった。
うたう幼女 完