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本番はまだ先で、私は時間を有効活用するために、楽屋で教科書とノートを開いて、カチカチとシャーペンをノックする。
でも、さっきからずっと、カチカチと芯を出してはしまっての繰り返しで、時間を有効に活用出来ていない。教科書に書いてあることが一つも頭に入らない。
だって、前の席には舞美ちゃんが座っている。

小説を読んでいるらしくて、舞美ちゃんの視線は本に固定されている。
それは私にとって都合の良いことだった。
教科書を見ているふりをしながら、舞美ちゃんを見ることが出来る。
教科書から少し目を離して、舞美ちゃんの方を見たってばれない。

長い髪をばっさり切ってショートになった舞美ちゃん。
真剣な目をして文字を追う舞美ちゃん。
時々、眉間に皺を寄せたり、んー、なんて呟いてる舞美ちゃん。

そんな舞美ちゃんをこっそりと見ていると、視線を感じたのか突然、舞美ちゃんが顔を上げた。
目が合ってしまって、私は慌てて視線を教科書へと戻す。
勉強をしているふりをして、ノートにシャーペンを走らせる。
でも、芯が出ていなくて、ノートをひっかいただけだった。
慌てたせいか思いっきりひっかいてしまって、ノートがベリベリと破けた。
あー、とか、うー、とか思う前に白い綺麗な手が伸びてきて、私の心臓は止まりかける。

「愛理。やぶけてるじゃん」

舞美ちゃんがシャーペンを持つ私の手を掴む。
心臓がぎゅって締め付けられて、息が止まる。
吸って吐く。
そんな簡単なことが出来なくなる。

「あ、そうだ。英語で破けるってなんていうの?」

そんなの、知らない。

英語の教科書を開いているからだと思う。
ノートに英単語が並んでいるからだと思う。
舞美ちゃんが唐突にそんなことを聞いてくるけれど、頭には何も浮かばない。
学校で習ったかどうかも思い出せない。

握られた手にだけ意識が集中する。
返事はまだ出来ない。
握られた手が心臓になったみたいで、苦しい。
舞美ちゃんの手を振りほどきたいけれど、もっと触っていて欲しくて、どうしたらいいのか迷う。

「おーい、愛理?」

私と繋がっていた舞美ちゃんの手が離れ、顔の前でぶんぶんと振られる。
手、離さないで。
手を振りほどきたいと考えていたことなんか忘れて、そんなことを思った。
本人に言えたらいいけれど、言えないのは私の中にやましい気持ちがあるからだ。

「愛理、大丈夫?」

何も答えない私に、舞美ちゃんが心配そうな顔をする。

「あ、ちょっと、ぼーっとしてた」

曖昧に笑って、とりあえず嘘を答える。
本当のことは絶対に言えない。
言ってしまったら、私は舞美ちゃんの側にいられない。
今ですら、いられないのにもっといられなくなる。

私は昔ほど舞美ちゃんの側へ行かなくなった。
昔は舞美ちゃんが大好きで、舞美ちゃんが王子様みたいに見えて、舞美ちゃんが側にいると嬉しくて仕方がなかった。
もちろん、今だって大好きで側にいたいと思う。
だけど、今は意図的に距離を取っている。
おとぎの国の王子様とお姫様ごっこが苦しくなったからだ。
舞美ちゃんは絵本の中の王子様なんかじゃない。
もっと近くて、普通の女の子だ。
そして、私にとって特別な女の子だ。
それに気が付いてしまったから、今までのように側にはいられない。

あの頃のように純粋な私はもう、いない。

「風邪でもひいた?」

熱でもあるのかと思った舞美ちゃんが私の額に手を伸ばし、その手をぺたんとくっつけた。
顔を覗き込まれる。
手を掴まれた時より、心音が早くなる。
そして、体温が上がる。

くっつけられた手は温かかった。
でも、それ以上に私の額は熱い。
理由は風邪なんかじゃない。

「ごめん。トイレ、行ってくる」

椅子から立ち上がる。
勢いよく立ち上がったから、椅子が派手な音を立てた。
その耳障りな音に、楽屋にいた舞美ちゃん以外のメンバーも私を見た。

みんなの視線から、舞美ちゃんの心配そうな視線から、私は逃げ出した。
私に舞美ちゃんから心配される権利なんて、欠片もない。

廊下へ出て走る。
ピカピカに磨かれた床が靴と擦れて音を立てる。
トイレを通り過ぎる。
それでも、走る。
エレベーターの前も通り過ぎる。
曲がる。
階段を上る。
一段、二段、三段。

足が止まって、私は階段に座り込んだ。
健康のため、とか、ダイエットのため、とかそんな理由でもない限り、みんな階段を使わないのか、人気がない。
電気だけが無駄についていて、私を照らす。

きっと、舞美ちゃん。変に思った。

風邪かも、と心配してくれた舞美ちゃんを置いて、楽屋から飛び出した私をおかしいと思わないわけがない。
額に当てられた手は、強引に引きはがしたみたいになってしまったから、もしかすると、私が舞美ちゃんを嫌っているみたいになってしまったかもしれない。

どうしてこうなっちゃったんだろう。
いつまでも舞美ちゃんの妹みたいな存在でいたかった。
絵本の中にいる王子様とお姫さまみたいでいたかった。
こんな風に好きになりたくなかった。

ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
手の甲で拭う。
また落ちてくる。
それを拭う。

たぶん、目が赤くなっている。
本番までまだ時間はあるけれど、このまま泣いていたら目が腫れて、もとに戻らなくなる。
そんなことはよくわかっているけれど、でも止まらない。

止まらない涙をごしごしと擦っていると、どこかから、かつかつと足音が聞こえてくる。
足音は階段の方へ向かってくる。
健康に気をつけている人か、痩せたい人か知らないけれど来ないで、と思う。
だけど、足音は確実に私の方に向かってきている。
涙も止まらないし、立ち上がることも出来ない。
どうしよう、と膝に顔を埋めると、聞きたくないのに一番聞きたい声が聞こえてきた。

「愛理。ここ、トイレじゃないよ」

冗談なのか、本気なのかわからない口調で舞美ちゃんが言った。

私は顔をのろのろと顔を上げる。
その間に、舞美ちゃんが私の隣に座り込む。
肩を抱かれ、ぎゅっと抱きしめられる。
子供の頃は見上げていた顔が、今は随分近くにある。

昔なら、安心できたはずの腕の中。
今は安心出来るどころか落ち着かない。

「目、腫れちゃうよ」

流れっぱなしの涙を舞美ちゃんが拭う。
もっと涙が止まらなくなる。

「私、愛理にやなことした?」

ううん、と答えるかわりに首を振る。

「ほんとに?」

今度は頷く。

「じゃあ、なんで泣いてるの?お腹でも痛い?」

的外れな問いかけに、私は舞美ちゃんと自分は違うのだと思う。
私が思うように舞美ちゃんは思っていなくて、舞美ちゃんが思うようには私は思っていない。
忘れたいことを再確認させられる。

ねえ、舞美ちゃん。
私、舞美ちゃんのことが好きなんだよ。

そう言ったら、信じてくれるだろうか。
嫌わないでいてくれるだろうか。

言えるはずのない言葉を胸の中で呟いて、私は首を左右に振った。

「どこか痛いところあったら言って」

何も答えられない私に、舞美ちゃんが背中をさすってくれる。
さっきよりも距離が近い。
身体がぴったりとくっついていて、余計に何も喋ることが出来ない。

嫌われたくないから舞美ちゃんから逃げてるのに、近寄って来ないでよ。

そう言いたくても言えない。
もう、どうしていいかわからなくなる。

「舞美ちゃん」
「なに?」

何とか声を出して、身体を少し離す。
すると、心配そうな目でじっと見つめられた。
目をそらせないのに、意識は別の部分へ行く。
私は吸い寄せられるように、舞美ちゃんの唇にキスをしていた。

いや、実際にはキスをしかけただけで、出来なかった。
もう、あと1センチぐらい。
それぐらいで唇が触れそうだった。

唇が触れる瞬間、自分のしようとしていることに気が付いて顔を離した。
舞美ちゃんのびっくりした顔が目に焼き付いた。
涙はもう止まっていた。

「愛理?」
「なんでもない」

自分がしようとしたことを誤魔化すように、私は言った。
ずっと我慢していたのに、台無しになんて出来ない。

「なんでもなくないよ」

舞美ちゃんは引き下がらない。
あれだけ顔を近づけたんだから、何でもないようには見えないとは思う。
それでも、私は何でもないことにしたい。
私は舞美ちゃんに嫌われたくない。

「ほんと、なんでもないから」
「そうなの?」
「うん。だから、今の忘れて」
「でも、愛理。なんか、おかしくない?」

止まった涙がまた流れそうになる。
おかしいに決まってる。
でも、それは舞美ちゃんのせいだ。
なんで、舞美ちゃんは私をおかしくさせておいて、何でもなさそうに私を見ているんだろう。

酷いよ。舞美ちゃん。

さっきは理性で止める事が出来た。
あのまま放っておいてくれたら良かった。
私の理性はもう役に立たない。

理性なんて簡単に消えてなくなる。
嫌われたくないとか、今まで我慢してきたのにとか、そういう思いごと消えてなくなる。

私は、舞美ちゃんの首筋に唇を押しつけた。
短くなった髪が頬をくすぐる。
シャンプーの匂いが鼻をかすめる。
一回、二回と唇で首筋に触れる。
私は場所を少しかえて、二回キスをした。

「おかしいよ、私。舞美ちゃんといるから、変になる」

唇を離すと、舞美ちゃんが私を押しのけた。
さっきよりも驚いた顔をしていた。
当たり前だ。
驚かないわけがない。

「先、楽屋に戻って。私、このまま舞美ちゃんといたら、何するかわかんない」

やっとのことでそれだけ言って、私は膝に顔を埋める。
私と舞美ちゃんの関係は主に私によって保たれていて、私は今日、自分でそれを壊した。
嫌われたくないのに、嫌われるようなことをしてしまった。

涙がまた溢れ出していた。
目が熱い。
鼻がぐしゅぐしゅ鳴る。
そんな私の耳元に優しい声が聞こえてくる。

「一緒に行こう」
「やだ。行きたくない」
「愛理」

舞美ちゃんが肩を掴んで、私の顔を上げさせようとする。
仕方なく顔を上げると、少し迷ってから舞美ちゃんが言った。

「――愛理の好きとは違うかもしれないけど、でも私、愛理のこと好きだから」

それは月並みな答えだった。
何の役にも立たない答えのくせに、私は嫌われていないことが嬉しくて、身動きが取れなくなる。
こんな好きをもらってもどうにもならないのに、安心する。

「そういうの、迷惑だよ」

舞美ちゃんには伝わらない。
それがわかっていても、私は迷惑だと伝える。
切り捨ててくれたら、どんなに楽だろう。
中途半端に優しくされるから、私は立ち上がることも出来ずに舞美ちゃんの隣に座っている。

「いいんだ、迷惑でも。一緒に帰ろう」

ほら、やっぱり伝わらない。
だから、もう一度強く言う。
伝わらなくても、言わずにはいられない。

「良くない。すごく迷惑」
「一緒に行こう」
「やだ。行きたくない」
「愛理。楽屋に戻ろう」

駄々をこねる私をなだめるように、舞美ちゃんが優しく声をかける。
何度も言われたら断れなくなることを知っているように、舞美ちゃんがもう一度「行こう」と言う。

もう、舞美ちゃんと二人っきりになんかならない。
なったら、今度こそ舞美ちゃんに嫌われる。
私は、何をするかわからない。

私の中にいるもう一人の私が酷いことを考える。
それなのに、舞美ちゃんは私の手を握って言った。

「このまま愛理のこと置いてったら、きっと愛理、私のこと嫌いになる。私、愛理に嫌われたくないよ」

繋がれた手が痛い。
手を離せない自分が嫌い。
手を離してくれない舞美ちゃんが――。


私は、好きで嫌になる。
最終更新:2010年02月15日 20:13