アットウィキロゴ
 
舞美ちゃんのことを考えると喉が渇く。
おそらくこの感覚はだれにも理解されないだろうし、あまり口に出すべきものでもない。
私はじっと渇きに耐える。
息を殺して、目を閉じる。
耐えられないことはないような、そう思うことにしている。
耐えられなくなったからといってどうにもできはしない。
私と舞美ちゃんは、付き合っているのに、この焦燥感は一体何なのだろう。

渇きから解放される瞬間もある。
しかしそれも舞美ちゃんが絡んでいる、渇きよりも一層悪い感情だ。
たとえば舞美ちゃんが誰かの肩を抱いたり、誰かの首に悪戯したり、
そういったときに、衣服の下の擦り傷から血が滲みでるように
一部の光もない黒がじわじわと私の心を塗りつぶしていく。
息を止めてしまっては頭の中が黒い感情でいっぱいになってしまうから
私はあえて息を長く吐くようにしている。
誰にも悟られないように、私はやはり息を殺す。
私の真夜中の気配に舞美ちゃんは一度も気づいたことがない。

以前は、こんな気持ちに胸を焼く自分が醜く、疎ましく思った。
しかし思ってしまうことは止められないし感情は自分で抑制できるものではない。
いちいち自分を愚かだと落ち込むことは無駄だと割り切ることにした。
そんなことより、舞美ちゃんの前では心はきれいになれなくても、見せないように笑っていようと思った。
と、同時に、無意識の中の拭いきれない黒い塊がじりじりと私を侵食していく。
一緒に笑っていられる良い関係を続けていきたい反面、
どうしようもない渇きを求める関係になっていきたかった。
どんな風になるか想像はつく。
理性は私を押しとどめようとしながらも悪魔の囁きは少しずつ私の腕を引いていった。

今日はBuono!のコンサートで、舞美ちゃんはいつも通り見に来てくれるらしい。
何時頃楽屋に行くと前日にメールがきていた。
私はその時間帯をおよそ見計らって桃に近づく。
くりくりと桃が私を見上げて、心臓のあたりに手を当てる。
「もも、緊張してきた。心臓バックバクだよ。」
「私も、手、が汗で濡れてる。」
「あいりんカッパみたい。」
桃が私の手を取って触る。
廊下の方からスタッフの人以外の、明るく爽やかな声が聞こえてくるのを感じながら、
私はあえて桃の後ろに動いて、桃の背中から抱きしめた。
「もぉー、あいりんどうしたのー?桃に甘えたい気分?」
「そんなんじゃないですー。」
冗談めかした会話を続けながらも舞美ちゃんの気配はしっかり感じ取っている。
軽やかに近づいてくる足音に、こんなときでも私の心は渇いていく。
だから余計に悪戯な心は私の体を支配して、桃の耳に息を吹きかけたり顔を近づけたりさせた。
傍から見れば蜜月みたいに甘く、甘く見えるように。
この演技が成功したら、という甘美な妄想は演技に拍車をかけた。
足音がすぐそばまできて、おはよう、という、舞美ちゃんの空気がさっきとは一転するのを背中で感じる。
「あ、舞美おはよう。」
桃が私を背負ったまま舞美ちゃんに向く。
私は行為の後のような気だるさを意識的に微かに纏って、今気がついたかのように舞美ちゃんに笑いかけた。
「おはよ。早かったね。」
時間よりすこし早く来る舞美ちゃんの癖を知っている。
時計の長針は宣告していた時間にあとすこしで届くくらいだ。
「そ、だね。」
私と桃に挨拶されて、舞美ちゃんは意識を取り戻すも、私が想像していたより衝撃が大きいみたいだ。
黒い瞳がふらふら揺れて動揺が手に取るようにわかった。
私は気がつかないふりをして笑う。そのたびに舞美ちゃんは泣きそうな顔になる。
舞美ちゃんの表情に背筋にぞくぞくと電気が走っていくようだった。
傷つく舞美ちゃんに対して沸く小さな罪悪感すら、私の黒い喜びを引き立てるスパイスにしかならない。
心ここに在らずといった舞美ちゃんと会話するうちに、みやが私たちを呼んだ。

「あいり、ももー。最後の確認だって。」
「だって、舞美。またあとでね。」
桃が小走りでみやのいる部屋に向かい、私はそれを追いかけるふりをして、わざとわずかに出遅れた。
そんな私の手を舞美ちゃんが、ほとんど無意識だったのだろう、追いつめられたような顔で掴んだ。
私は何にもわからない顔で振り返る。
「どうしたの?」
手はしっかりと私を握っているのに、舞美ちゃん自身はそれがどうしてかわかっていないようだった。
「あ、ごめん。頑張って。」
無理やりしぼった笑顔は完全に引きつっていた。
私は満面の笑みで返した。
「うん、いってくるね。」

本番が終わり急いで片付けや着替えを済ませる。
その間に舞美ちゃんが楽屋に来て事務所の人やスタッフさんなど、色々な人との挨拶を済ませている。
それでも、意識が私に向いているのが良く分かった。
嬉しくてにやけそうになるのをこらえる。
あくまで、知らないふりを続けなければならない。
外向けの笑顔を振りまき終わり、舞美ちゃんはまっすぐ私のところに来た、
ものの、今日もよかった、という感想しか言えなかった。
楽しかったという割に表情は暗く、私の手すら掴めないで、困惑しているようだ。
私は頬が緩みそうになるのをこらえて舞美ちゃんの顔を覗き込む。
「どうしたの?具合悪い?」
違う。そうではない。

舞美ちゃんがこんな顔をする理由は、たった一つ。
「ううん、違うの。」
舞美ちゃんは純粋で私とは違う。
黒い感情に無縁な人だと思う。
真っ直ぐなたち振る舞いも、心の持ち方も、美しくて私の目がつぶれてしまいそうなほど。
そんな舞美ちゃんだから自分の感情がわからないのだろう。
生まれてきてから今まで、もしかしたら知らなかった感情なのかもしれない。
私は助け船を出すふりをして知恵の実を差し出す。
「ちょっと、トイレ行こうか。」
おろおろする舞美ちゃんの手を引いて私たちは一番使われていないトイレに入った。
廊下から聞こえる声は別の世界のようだ。
「ごめん愛理。」
人の目がなくなった瞬間舞美ちゃんは私を抱きしめた。
抱きしめる腕の強さも、私の服を握る強さも、いつもより力が強い。
「舞美ちゃんどうしたの?」
私はおずおずと華奢な背中に腕を回す。
「わかんない、けど、なんかね、桃といるところ見てから、変なの。」
全部わかっている。
わかっていながら、自分の感情に戸惑う舞美ちゃんを見て喜んでいる。
「落ち着かなくて、だめ、みたい。」
ねえ知ってる?それ嫉妬って言うんだよ。
言葉に出さないまま舞美ちゃんから見えないのをいいことに私は笑った。
それから、表情を戻して、舞美ちゃんの背中から腕を離すと、舞美ちゃんも私から腕をほどく。
いったん広がった距離を私から埋める。
唇はすぐに離れたけれど、舞美ちゃんが苦しそうな顔でもう一度近づいた。
いつもなら腕はつかまないのに逃げられないように捕まえられた。
不安な分だけキスが長くなっていくようで舞美ちゃんが離れようとしない。
こういう感情を私との関係で初めて知ったのなら、と考えるとキスが一層気持ちよかった。
でも残念なことにあまり長居はできない。

「舞美ちゃん、時間。」
「うん。」
しぶしぶ体を離して廊下に出る。
楽屋に戻る途中で、私は一つ提案した。
「今日うちに泊まっていこうよ。」

急に泊まりなんて迷惑だから、という舞美ちゃんを説き伏せて、
迎えに来たお母さんに説明したらあっさりと承諾を得たから、舞美ちゃんのお母さんにも連絡を取った。
舞美ちゃんは諦めて私の家に泊まることになった。

その夜の舞美ちゃんは、いつもより長い時間をかけて私に触れた。
前までに愛情を感じなかったわけではないけれど、今日は特に、激しかったように思う。
与えるより求めるような、触れる指や舌や唇から私というものを補給しようとして、
いったん満たされても足りなくなりまた求めてくる。
私のことを追いつめるくせに、舞美ちゃんのほうがずっと追いつめられているようだった。
そんな顔は初めてだった。
もっと、もっと。私は与えられるのにまだ喉が渇いている。
こうやってどこまでも舞美ちゃんに溺れていきたい。
舞美ちゃんが私に溺れて、二人で一緒に水底まで、堕ちていきたい。
だからもっと、私に夢中になってよ。
最終更新:2010年04月16日 21:19