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私が立ち上がると、彼女が不安そうに私を見上げる。
すぐに戻りますと言って、私は振り返らずに部屋を出た。
あの目で見られると、あの場から動けなくなってしまいそうだった。
出来ればずっと傍にいてあげたい。だけど、私にはまだやるべきことがある。
今日の撮影が中止になってしまったことを、監督をはじめとしたスタッフの方達に詫びて回った。
前回のジャケット撮影の時と顔ぶれが変わっておらず、鈴木さんのことを知っている人ばかりだった。
そのおかげで、きつく言われることはなかった。
一度一緒に仕事をしただけなのに、もうこれだけの人に良く思われている。
改めて鈴木愛理という人物の力を感じた。

「お待たせしました」

急いで彼女の元に戻ると、彼女はソファでぐったりとしていた。
撮影中よりも具合が悪くなっている気がする。
私は慌てて彼女の傍に駆け寄った。

「大丈夫ですか?立てますか?」
「はい…」

私に寄り掛かりながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。
私は彼女の荷物と自分の荷物を持って、駐車場に向かった。

「家まで送りますから、もう少し頑張って下さい」 私がそう言うと、彼女は何も言わずに頷いた。

車内はとても静かだった。
今は体調が悪いから仕方が無いけど、必要以上の会話をしてこなくなったのは前からだった。
私が彼女の好意を拒絶したあの日から、彼女は私の前で笑うことも少なくなった。
これでいいんだと思っていた。
だけど、今はそれがとても寂しく感じる。
自分の中で彼女の存在が大きくなっていることに気付いて、私はそれ以上考えないようにした。

撮影所から1時間程で彼女の家に着いた。
一度挨拶に来たことがあるけれど、何度見てもこの家の大きさに慣れることはないと思う。
もうこれ以上稼がなくてもいいんじゃないかってぐらい立派な家だった。
誰もいないとは言っていたけど、念のためにインターフォンを鳴らした。
少し待ったけど、やっぱり誰もいないみたいだ。鈴木さんのカバンの中から鍵を探して、私は鈴木さんの家にお邪魔することにした。

「お邪魔します…」

玄関口も広くて、つい私はキョロキョロしてしまった。
はっと我に返って、慌てて鈴木さんに声を掛ける。

「部屋はどこですか?」
「二階です」
「わかりました」

立っているのも辛そうな彼女を支えながら、ゆっくりと階段を上る。
いくつかあるドアの中に「AIRI」と書かれたボードが提げられたドアがあった。

「ここですか?」

私が聞くと、彼女は大きく頷いた。
何故だかわからないけど、すごく緊張していた。
どんな部屋なんだろう。
今まで抱いたこともなかった好奇心が、今になって込み上げる。

「失礼します」

部屋の中は整頓されていて、ところどころに彼女の可愛らしい一面が見える。
私はドキドキしている自分を落ち着かせるように、一度大きく深呼吸した。
パジャマの場所を聞いて、私服からパジャマに着替えさせた。
それから、ようやく彼女をベッドに寝かせることができた。

「何か欲しいものはありますか?」
「だいじょうぶです…」
「ここに水置いておきますから、ちゃんと水分補給して下さいね」
「はい…」
「明日の仕事もキャンセルしておいたので、ゆっくり休んで下さい」
「はい、すいません…」

彼女の額の汗を拭ってから、冷えピタを新しいものに貼り替えた。
本当は家に送り届けたら帰るつもりだった。
それ以上のことはマネージャーとしてやってはいけないと思っていた。
だけど、荒く息を吐く彼女を見ていたら心配で仕方なかった。
薬ぐらい、飲ませてから帰ろうか。
そう思って、私はおかゆを作って帰ることにした。

「台所借りますね」
「…じま、さん…」

立ち上がった私を見上げて、不安そうに名前を呼ぶ。
いつものような元気な彼女の面影はそこにはなく、今にも消えてしまいそうだった。
今にも消えてしまいそうなのに、存在を確かめる為に抱き締めることも出来ない。
そう思ったら、無性に泣きたくなった。

「大丈夫です。おかゆ作ったら、また戻ってきます」
「本当ですか…?」
「ちゃんと戻ってきますから、鈴木さんは寝てて下さい」

そう言って、出来るだけ優しく笑って見せた。
わかりましたと言って目を閉じる彼女を愛しく思う。
どうして、抑えようとすればする程、気持ちは溢れようとするんだろう。
おかゆを作って薬を飲ませたら、絶対にすぐに帰ろう。
ずっとここにいたら、きっと何かしてしまう。
今まで抑えていた自分の気持ちが抑えられなくなる気がして、私は早足で部屋を後にした。

料理をするなんて久しぶりだ。
最近は忙しくて、買って済ませてばかりだった。
駄目だとは思うけど、なかなか料理をする気にもなれなかった。
私はスーツの上着を脱いで、シャツの袖を肘まで捲り上げた。
おいしく作れるだろうか。
彼女に作るんだと思ったら、急に緊張してきた。
今日はつくづく自分の気持ちを思い知らされる日だ。
今まで目を逸らしていた気持ちと、今日は正面から向かい合ってばかりだ。
沸騰している鍋を見つめながら、私は大きくため息をついた。

「熱…っ」

彼女のことを考えながらお椀に移していたら、うっかり指の上に落として火傷してしまった。
水で指を冷やしながら、何をやってるんだろうとまたため息をついた。
私らしくないと思う。
だけど、彼女のことになると、いつだって私らしく振舞えなかった。
軽く台所を掃除してから、お盆を持って部屋へ戻った。

「鈴木さん」

呼び掛けても、彼女は動かなかった。
ベッドサイドにお盆を置いて、彼女の顔を覗き込む。
すると、彼女は苦しそうに眉間に皺を寄せていた。
首に触れると、汗もたくさんかいているようだった。

「鈴木さん…?」

少し肩を叩いて呼びかけてみても、彼女は苦しそうに唸るだけだった。
どんな夢を見ているんだろう。
うなされているのは確かで、早く起こしてあげたかった。

「…いで…」
「え?」
「きらいに…なら…ないで…」

嫌いにならないで…。
鈴木さんはそう言って、静かに涙を流した。
これは、私に向けて言ってるの…?

「鈴木さん…っ」

嫌いになるわけがない。
こんなにも好きなのに、嫌いになるはずがない。
自分が我慢すればいいと思っていた。
彼女を苦しませない為に、自分が我慢すればいいと思った。
だけど、結局それが彼女を苦しませてしまっていた。
彼女の為だと思っていたことは、自分の為でしかなかった。

タレントとマネージャーという関係を超えてしまった時、私は自分で自分が抑えられるか不安だった。
もしバレて、離れ離れになってしまったら。
私以外の人が彼女の担当になることになったら。
そう思ったら、途端に怖くなった。
8歳という年の差だって、きっと彼女は何も気にしてないんだろう。
だけど、私はずっとそれが怖かった。
彼女はまだ若い。
ただの憧れだったということもありえるし、同年代の素敵な人が現れたらきっとすぐにそっちを向いてしまう。
気付いていないフリをしていたけど、結局私は自分が捨てられるのが怖かったんだ。
自分を守る為に、ずっと自分の気持ちや彼女の気持ちから目を逸らしていた。
だけどそれは、知らない間に彼女を傷つけていた。

「…ごめん、なさい…っ」

涙を流す彼女の手を握り締めながら、私も涙を流した。
謝っても謝りきれない。
だけど、謝る以外にどうしたらいいかわからなかった。

「…あい、り…」

初めて呼んだ名前は、思った以上に自分の胸の鼓動を加速させた。

「好き…」

この気持ちは、絶対に伝えてはいけない。
彼女の傍にいたいから、彼女のマネージャー以上になるわけにはいかない。
それでも、囁いた言葉は確かな熱を持っていて、私の気持ちが抑えられそうにないことを表していた。
最終更新:2010年05月19日 22:27