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あの日を境に、私はあまり矢島さんと喋らなくなった。
次の日も、その次の日も、矢島さんは今まで通りに接してくれた。
でも、私は今まで通りに接することが出来なかった。
どういう風に接したら普通なのかがわからなくて、自然と距離を置くようになった。
だけど、これが本来のタレントとマネージャーの距離なのかもしれない。
タレントとマネージャーという関係は、それ以上にはならない。
でも、それ以下にもならない。
だったらそれでもいいのかもしれない。
最初からそれ以上になろうとしてた私がバカだったんだ。
それ以上になれないなら、せめてそれ以下にならないようにしなきゃ。

「はぁ…」

帰り支度をしながら、重たいため息をついた。
思えば、こうして控え室に一人でいる時間も増えた。
今までは矢島さんを無理矢理引き止めて、話し相手になってもらっていたことだってあったのに。
その話をナキ子さんにしたら
「えぇ!矢島ちゃんそんなことしてくれるの!?私の相手なんて全然してくれないのに!」
って、オーバーな動きで驚かれたことがある。
その時のナキ子さんを思い出して、一人で静かに笑った。
でも、もうそんなこと出来ないよ。
出来なくなっちゃったよ、ナキ子さん。

どうしたらいいんだろう。
このままだなんて絶対嫌だ。
何とかしなきゃと思うのに、どうしたらいいかわからなくて、どうにも出来ずにいる。
今までみたいに話しかけてもいいのかな。
ちゃんと矢島さんは今までみたいに答えてくれるのかな。
突き放されるのが怖くて、自分から避けてばかりいる。
このままじゃ駄目だと思う。
でも、どうしたらいいの?
矢島さんは私のことをどう思ってるの?

あれからずっとこんなことばかり考えて、一歩も進めずにいた。
諦めなきゃいけないってわかってる。
でも、それに反抗するように好きな気持ちはどんどん膨れ上がる。
好きで、大好きで、思えば思う程苦しい。
どうして私はタレントで、矢島さんはマネージャーなんだろう。
どうしてこんな出会い方しか出来なかったんだろう。
どうして、矢島さんだったんだろう。
思うのはどうにもならないことばかりで、浮かぶのは矢島さんのことばかりだった。

「よし…っと」

ようやく帰り支度を終え、カバンを肩に掛けた。
あと10分もすれば迎えの車も事務所に着くだろう。
矢島さんに挨拶だけして帰ろう。
矢島さんがいつも仕事をしている部屋のドアをコンコンと遠慮がちにノックして、ゆっくりとドアを開いた。
デスクに向かう矢島さんの姿が見えて、思わず緊張してしまう。
しかも、もう矢島さん以外はいないみたいだった。

「矢島さん」

静かに呼びかけてみても、矢島さんはデスクに向かったまま動かない。
不思議に思って、足音を立てないように近付いて見たら、矢島さんはペンを握ったまま眠っていた。
器用に眠る矢島さんを見て思わず笑ってしまったけど、いつも遅くまで頑張ってるんだなぁ…とビックリした。
ちゃんと寝てるのかな。
ちゃんとご飯は食べてるのかな。
仕事をしてる矢島さんはすごくカッコイイけど、でも、無理はしないでほしい。

「矢島さん」

さっきよりも大きな声で呼びかけてみる。
それでも矢島さんは起きようとしない。
どうしよう…。
後でちゃんと起きるのかな。
それが心配で、だけど無理矢理起こしたくもなくて、私はその場を動けずにいた。
それにしても、本当に綺麗だと思う。
寝顔を見るのが初めてなことに気付いて、私はしばらく矢島さんの寝顔を眺めていた。
薄く開いた唇に目が止まり、無意識に唾を飲み込んだ。
キス、したいな…。

そう思ってからは、本当に無意識だった。
ゆっくりと顔を寄せると、うるさいぐらい心臓が動くのがわかった。
少し眼鏡が邪魔だったけど、外すわけにもいかないからそのままにしておいた。
目を閉じて、息を止めて、私は唇を矢島さんのそれにそっと重ねた。

「っ…!」

急に我に返って、私は急いで顔を離した。
私、今…キス、しちゃった…?
右手で唇に触れた瞬間、顔がカーッと熱くなるのがわかった。
矢島さんはまだ起きない。
大変なことをしてしまった。
私は再びカバンを肩に掛けて、急いで部屋を飛び出した。

「はぁ…っ、はぁ…っ」

無我夢中で走って、エレベーターも使わずに私は階段を駆け下りた。
胸が苦しい。
それでも、さっきの感触は忘れられない。
矢島さんの唇に触れた感触が、ずっと私の中から離れてくれない。
私、なんであんなこと…!
初めてするキスという行為が、まさか無意識だなんて。
矢島さんへの思いがそれほど大きくなっているということに、今更になって気付いてしまった。
起きてなかったよね…?
大丈夫だよね…?
ただでさえ矢島さんを困らせているのに、これ以上迷惑は掛けたくなかった。
せっかく今まで通りに接してくれているのに、もうそれさえしてくれないかもしれない。
もしかしたら、担当が矢島さんじゃなくなってしまうかもしれない。
矢島さんと居るのは辛いけど、矢島さんと会えなくなるのはもっと嫌だ。
どうか矢島さんが気付いていませんように。
家に帰る間も、ずっとそれだけを願っていた。
最終更新:2010年05月19日 22:04