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玄関ドア越しに背中に感じる部屋の空気は、
電気が点いていなければ留守だと思うだろうほど静かだった。
嗚咽も聞こえないけれど、物音も全く聞こえない。
テーブルの側で静かに泣いているのであろう鈴木さんの姿が容易に想像できて、足が動かない。
だからと言って、もう1度部屋に入ることもできずに立ちすくんでいた体を、
何軒か先の家の戸が開いて人が出てくる気配に突き動かされて、やっと歩き出す。

マンションを出たところで、「あら?」と声をかけられる。
意識は完全に別世界に飛んでいて周囲など全く気にかけていなかったから、
心底驚いて思わず悲鳴を上げそうになったのをなんとか堪えて顔を向けると、
そこにいたのは鈴木さんのお母さんだった。

「あ、こんばんは」
「こんばんは。矢島さん、どうなさったんですか?」
専属のマネージャーを持つ人でない限り、事務所の人間がタレントの送り迎えをすることはまずない。
遅くなればタクシーか鈴木さんのように家族と住んでいる子は親御さんの車で帰宅する。
今日ぐらいの時間であれば、電車で帰るのが普通だ。
当然の疑問に、理由を話す。

「それはわざわざすみません。お茶でも飲んでいってください」
「あ、いえ、今お邪魔していたので」
鈴木さんにふるまわれた、という風に聞こえる言い回しだが、大丈夫だと思う。
このくらいの話に合わせることは、鈴木さんならしてくれるはずだ。
とにかく、このまま部屋に戻るわけにはいかない。
「じゃあ」と会釈して辞そうとしたら、「あ、矢島さん」と呼びとめられた。

「はい」
「急がれてます? ちょっといいですか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「一度、ちゃんと申し上げなきゃ、と思っていたんです」
改まった言い方に緊張が走る。
心当たりが、ない、とは言えない。
出来ることなら聞きたくないと思っているのだから、やはり脛に傷を持つのだ。
痛いほど速くなっている動悸を感じながら、平静を装って、お母さんの次の言葉を待つ。

「矢島さん」
「はい」
声が震えている気がする。
「ありがとうございます」
「はい?」
身構えていたのとは全く別の類の言葉に、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「ありがとうございます、あの子の担当をしてくださって」
「え?」
肩透かしを食らって、安心する前に状況を把握できなかった。
お礼を言われたのを理解したら、今度はなぜ言われたのかが理解できなかった。

担当は私が決めたことではない。会社が指名したことで、それはお母さんもご存知のはずだ。
だからそういう意味ではないはずだけれど、じゃあどういう意味なのだろう。
疑問の表情を浮かべた私に、お母さんはとても柔らかい表情で続けた。

「矢島さんが担当で、本当に良かったと思っているんです。
 あの子、毎日楽しくて仕方ないみたいで、それは矢島さんのおかげですから」
そんなことはない。あるはずがない。
楽しい毎日と思っているのは本当かも知れないが、でもそれは私のおかげではないと言い切れる。
私は彼女を楽しくさせるようなことは何もしていないんだから。
「とんでもないです」と手を振って本気で否定する私に、お母さんはもっと表情を柔らかくして言った。

「もうね、家に帰ると、今日の矢島さんはああだったこうだったって、そればっかり。
 それなりに辛いこともあるんじゃないかと思うんですけれど、そんなこと、全然言わなくて。
 心配かけたくないってのもあるのかも知れないですが、言いたいとも思ってないんでしょうね。
 矢島さんとの楽しかったことばかりが頭に残ってるみたいですから」
酷く居心地が悪い。
淡々と事務的に接している私の何をそんなに楽しく語れると言うのだろう?
彼女はお母さんにも完璧に表情や話を作っているのだろうか?

「そんなことないです、私は無愛想で・・・」
我知らず懺悔してしまったら、お母さんは「そこがいいんです」と思いもよらない反応をした。
「愛理は、無愛想じゃなくて、クールって言ってますけど。
 ほら、周りは自分のこと褒めたり笑いかけたりしてくれる人ばかりでしょう?
 でも、それが本心からじゃない人もいるじゃないですか」

大人の世界は多かれ少なかれどこもそうだろうが、特にこの世界はおべっかやお世辞だらけだ。
ボイトレやダンスの先生、プロデューサーなど極一部を除けば、ちやほやしてくれる人ばかり。
そのくせ、一皮剥けば、悪意に満ちていて足を引っ張り合う。
ファンからの褒め言葉は本当に好意だろうけれど、
それだって、作り上げた幻想――こちらが意図的に作り出してもいるのだが――に対して狂信的に抱いた、
不安定で儚いもの。

賢明な鈴木さんは、この世界の虚構にすぐに気づいただろう。
キレイな理想を持って入った彼女が、失望せず、いや失望はしているのかも知れないが、
それでも100点満点の笑顔を保って、完璧に仕事をこなしている、まだ16歳の子が。
そのプロ意識に、やり易い仕事相手という以上に、人間として頭が下がる。

「笑顔を素直に受け止めてはいけないって分かっているみたいです。
 でも、矢島さんは、普段クールだからこそ、たまに笑ってくれると、それは本物だって信じられるし、
 すっごく嬉しいって。宝物だって」
本気で話を遮って逃げたくなった。
全く覚えがない。木で鼻をくくったような態度の私に笑顔など、あるわけがない。
彼女はきっと、私が微かに緩ませただけの表情を、そんな風に受け止めていたんだ。
そう考えると、そして今の彼女の部屋での姿を思い浮かべると、土下座したくなってくる。

「あの子、長女でしょう?
 小さい頃から、しっかりしなきゃって、無意識にかも知れないですけど、思ってるみたいなんですが、
 やっぱりどこか、誰かに甘えたい部分もあるんでしょうね。
 でも、学校のお友達には余りできないみたいで」
それはそうだろう。あの子は大人っぽいし、プライドも高い。
一般の同世代には甘えにくいと思う。

「あの子にとって矢島さんが、唯一甘えられる綺麗なお姉さん、なんです」
良家の人間だからだろうか?
親子ともども、こっちが困惑するほどに真っ直ぐに人を褒める家だ。
顔が火照ってくる。

「そんな・・・」
「お綺麗ですよ。愛理もいつも言ってます。矢島さんは本当に美人だって。
 メガネで隠してるけどって」
「な・・・っ!」
相槌も出来ないほどに驚く。

実のところ、顔立ちを褒められることは少なくなかった。
でも、タレントさんによっては、自分の周囲の人間が褒められることを快く思わない人もいる。
雲の上の人間に思えるマドンナですら、
バックの女性ダンサーに自分より美人は選ばない、と言われている。
仕事先にだって、仕事ぶりならともかく容姿をマネージャーが気に入られる必要はない。
だから私は、コンタクトを縁の目立つメガネに変えた。
そんな裏事情を鈴木さんが知っているはずはないのに。
心を隠している部屋の扉を揺さぶられているようで、気持ちが波立つ。

「それに、とっても優しい目をなさってるって。
 メガネの奥に、すごく柔らかい目が見えるって」
「・・・!」
頭が真っ白になって言葉も出なかった。
驚いたなんてものじゃない。呼吸が止まって、崩れ落ちそうだった。

私は、優しいだなんて言われたことがないのだから。


…1最後、えりに言われて以来。
最終更新:2010年05月19日 22:19