英語、嫌いじゃない。むしろ5教科の方では好きな方だ。
わからない単語を電子辞書で引くと思いもよらない訳語があったり、
英語で書かれていても物語は物語だから読んでいて楽しい。
それなのに今日は全然集中できない。
せっかくのオフを宿題にまわしている。提出は明日。
やらなきゃという気持ちはあるのだけれどなかなかうまくいかない。
そんな現実にため息が出る。
気になって仕方がないから遠くに置いたのに結局気になってしまっている。
鳴らない携帯を睨みつけても、開いて文字を打って送らなければ何も届かない。
わかっている、届いてしまっても困る。
連絡したらきっとそっちに夢中になって勉強がはかどらない。
連休中ずっと一緒にいたのに、どうしてだろう。
ノートに頬を押しつけるとひやりと紙の感触がした。
たとえ一緒にいなくても仕事中なら我慢できる。
だらしないとは絶対に言われたくないし、そういったことでパフォーマンスに影響があってはプライドが傷つく。
反対にこういうときの方がだめらしい。
宿題を終わらせる予定の時間はとっくにすぎている。
時計が進むのが早いような遅いような、よくわからなくなった。
休みの日は会えない。
会えない時間をこうやって持て余してしまう。
寂しい時間とずっと向き合っていると、もしかしたらこの先もこのままなんじゃないかとも思えてくる。
明日は事務所で打ち合わせがあるから会える、から、なんとかマイナスな考えを打ち消そうとする。
会えない日ってこんなに長かったっけ。
好きになればなるほどそう感じる。
せめて声が聞きたい、と思った瞬間に、携帯が震えた。
どうやら着信らしく、私は慌てて椅子から飛びだして、転びそうになりながら携帯を開いた。
そこには舞美ちゃんの名前が表示されている。
呼吸を整えて電話に出ると、電話越しの舞美ちゃんの声が、聞こえる。
「もしもし。」
「あ、愛理。今大丈夫?」
「うん。どうしたの?」
電話を通した声はどうして少し甘く聞こえるんだろう。
舞美ちゃんの声がいつもより幼く聞こえた。
「ちょっと声が聞きたくて。」
たった一言が胸にしみる。
同じことを考えていてくれたことが嬉しい、と同時に、声しか届かないことが寂しい。
せめて舞美ちゃんの声を漏らさずに聞きたくて、立ったまま目を閉じた。
「今日何してたー?」
「今日は出かけないで宿題してたよ。英語の。」
答えると、もしかして邪魔しちゃった、と慌ててしまったから、終わったということにした。
舞美ちゃんのことを考えていたらはかどらなかったとは言いたくない。
「よかった。ご飯は?」
「食べた。おいしかった。舞美ちゃんは何してたの?」
ときどき車が走る音が聞こえているし、音の反射の様子から多分家ではないと思った。
「親戚が来て、さっき見送ったついでに今は散歩してる。」
「そっか、気をつけてね。」
もう女の子が一人で出歩くには遅い時間だった。
襲われたりしないだろうか。少し不安になる。
こんな時間に一人で散歩は珍しい、と感じた。
「ありがと愛理。」
ふわ、と笑う空気が伝わる。表情まで目に浮かぶ。
けれど、浮かぶだけで本物ではない。
触れようと手を伸ばせば空を切るし、舞美ちゃんの匂いも、体温も、何もない。
かろうじて声だけがそばにある。
そのことが明日会えるなんて悠長な考えを吹き飛ばしてしまった。
今すぐ、会いたい。
そんなわがまま言いたくなかった。困らせるようなことは言いたくなかった。
それなのに、舞美ちゃん相手だとうっかりと零れてしまう。
秘密の箱から星が一つ転げ落ちるみたいに。
ため息に乗って言葉になった瞬間思わず口をつぐんだけれどもう遅い。
電話で顔が見えない分、微かな沈黙が怖い。
「愛理?」
戸惑ったような声に一瞬で後悔した。
やってしまった。そう思った。
反射的に謝ろうとした声は、舞美ちゃんのくすくす笑う声にさえぎられる。
「舞美ちゃん?」
「あのね、今、同じこと思ってた。すごいね。」
一人で興奮する舞美ちゃんに私が戸惑う番になった。
気持ちが通じているのは嬉しいけれど今喜ぶことじゃないような、そんなことは言えないのだけれど。
「そう思ってくれてるの、嬉しいよ愛理。」
あたしだけかと思ってた。
昨日も一昨日も一緒にいたのに、まだ足りなくて、なんにも手につかない。
自分に苦笑いしながら舞美ちゃんは、おかしいでしょ?と付け加えた。
私は電話越しなのに首を横に振った。
「そんなことない。私も、ずっと舞美ちゃんのこと考えてた。」
英語の文字はもちろん、日本語だって頭に入らない。
何してるんだろう、何を誰と話したり、誰かとご飯したり、笑ったり、泣いたり、怒ったり、
共有できないことが苦しかった。
いつだって舞美ちゃんと分かち合うのが自分でありたいし、
自分のことも舞美ちゃんと分かち合いたい。
一緒の時間を過ごしたい。
昨日や明日だけじゃなくて、今日も、そうしたかった。
「ずっと舞美ちゃんに会いたいって思ってた。」
そういったらふふ、と笑う声が聞こえた。
「あのね、今日、すごく星がきれいなんだ。だからもしかしたら星に願ったら、叶うかもしれないよ。」
舞美ちゃんの言葉に私は何か感じ取って急いで窓を開けた。
そうしたら、星に願う前に願い事は叶ってしまった。
「舞美ちゃん。」
電話なんかいらない距離に舞美ちゃんは立って、私に手を振る。
私は窓も閉めずに部屋から飛び出し、階段を駆けくだり、お母さんと顔も合わせずに靴をはいた。
「ちょっとコンビニ行ってくるー。」
大きな声で宣言して、気をつけなさいよ、といい終わる前に外に飛び出た。
そのまま走って舞美ちゃんに抱きついたら舞美ちゃんが少しだけよろめいた。
「舞美ちゃん。」
本物だった。抱きしめた感触も匂いも、私を迎え入れるその反応も、舞美ちゃんだ。
嬉しくてちょっと泣きそうになる。
「ごめんね、勝手にきちゃって。こんなつもりじゃなかったんだけど。」
舞美ちゃんの腕の中で私は首を振る。
「でも会えたからよかった。」
舞美ちゃんが笑っている。目を細めて幸せそうな顔をしている。
つられて私も笑った。
私の家から舞美ちゃんの家は遠い。
家に上がっていって、と言うと舞美ちゃんは急だし、明日も朝が早いから、とすぐに帰ることになった。
せめて、と最寄り駅まで手をつないで一緒に歩く。
舞美ちゃんは今日来た親戚の話をしてくれた。
まだちっちゃくてちゃんと話せないのがすごくかわいいとか、笑った顔が可愛いとか、
とりとめもなく他愛のない話をした。
そうするうちにあっという間に駅についてしまった。
改札の前で立ち止り、繋いだ手を二人で見つめている。
多分今も、同じことを考えてる。
そう思って舞美ちゃんを見ると目が合って、思わず笑った。
一度ぎゅっと二人で手に力を入れてから離す。
舞美ちゃんの体温が離れるのが寂しいけれど、舞美ちゃんも同じことを思ってるから、我慢しようと思った。
じゃあね、って二人とも言いたくなくて沈黙が流れる。
私たちの横を少ないけれど人が通っていく。
何人目かが通った時、舞美ちゃんが乗る電車のアナウンスが流れた。
さすがにもう行かなければならない。
一緒にいる時間が幸せであればある程離れる瞬間が悲しくなる。
舞美ちゃんが、息を吸って私を見据えた。
電車が来る音にかき消されてしまう前に、舞美ちゃんは、明日ね、と笑った。
いつものように屈託のない笑顔ではなかった。
私も同じような顔で、同じ言葉を返した。
改札を通り抜けて何度も舞美ちゃんが振り返る。
最後の最後まで私たちは手を振りあっていた。
最終更新:2010年05月19日 22:14