ミスケン

概要
1990年代後半から2004年頃にかけてACぷよぷよ通において一時代を築いた、伝説的な全一プレイヤー。現在は引退。
階段積みや鍵積みなどのいわゆる定形連鎖が常識であった時代に、GTR(考案はタナカッチ)やサブマリン、だぁ積みなどの「不定形」の研究を独り進め、これを実戦レベルに昇華して抜きんでた強さを体得した。1997年以降の大会・格付け勝負では無敵を誇り、数々の伝説とともに全一の名をほしいままにした。今でこそGTRなどはもはや逆にテンプレの積み方となっているものの、当時その革新的な連鎖スタイルはプレイヤーたちに衝撃を与え、また、連鎖構築において将来的に使う形を想定しながらぷよを設置し後からつなぎ合わせるという、先置き「合体」の概念を初めて確立した。
戦術面では、相手の画面を注視する「凝視」や相手の連鎖を打たせる「発火催促」といった既知の基礎戦術や、相手の中盤手に連鎖を合わせる「クロス」(現代ではあまり用いられない語となったが、「シンクロ発火」もしくは限定的な「置き去り」に近い)などの概念を自身の実践によって広く普及し、同世代のseta(千葉聡)と並んでこれらの戦術面の発展を大きく推し進めたプレイヤーと認識される。圧倒的な強さで長年全一に君臨したカリスマ的存在であったと同時に、戦術史の面からみれば、ぷよぷよが「連鎖を組むゲーム」から対戦型パズルゲームへと革新する上での現代の競技性に通ずる基礎を形成した“始祖”の全一プレイヤーであると言える。
戦術面では、相手の画面を注視する「凝視」や相手の連鎖を打たせる「発火催促」といった既知の基礎戦術や、相手の中盤手に連鎖を合わせる「クロス」(現代ではあまり用いられない語となったが、「シンクロ発火」もしくは限定的な「置き去り」に近い)などの概念を自身の実践によって広く普及し、同世代のseta(千葉聡)と並んでこれらの戦術面の発展を大きく推し進めたプレイヤーと認識される。圧倒的な強さで長年全一に君臨したカリスマ的存在であったと同時に、戦術史の面からみれば、ぷよぷよが「連鎖を組むゲーム」から対戦型パズルゲームへと革新する上での現代の競技性に通ずる基礎を形成した“始祖”の全一プレイヤーであると言える。
出身は神奈川県。
1996年、コンパイルが主催した各都道府県での大会「ばよえ~んツアー'96 」宇都宮大会で優勝し、続く全国大会では敗退した。後年に振り返って「当時は無名だったが、全一への手応えを感じており、全国でも優勝する自信はあった」と語っている。
全国大会敗退後、当時用いていた鍵積みを辞め、新しい形の開拓に可能性を見出し、ちぎりなしの不定形連鎖の練習を開始した。これを1、2カ月で実用レベルまで習得すると、同年末にはプレーステーション大会の場で実践した。この時期には、近所に住む千葉兄弟(千葉聡とその兄)の家に出入りして対戦を繰り返し、ともに実力を磨いた。
翌1997年3月、幕張メッセで行われ延べ3万人を動員した「第3回全日本ぷよマスターズ大会」に出場した。実に2万人もの参加者から本選の64人の中に残っていたが、ベスト4手前で、鎬を削り合ったライバルの千葉聡と当たり、お邪魔ぷよを受けて不利を被るなか置きミスで3列目を埋めてしまい窒息。ベスト8で敗退した(千葉はその後優勝)。
そして、昨年のリベンジを期して臨んだ「ばよえ~んツアー'97 」では、不定形を用いて宇都宮大会を優勝。優勝後のエキシビションで前年度全国覇者のぷよまつ(松金輝久)と対戦して3−0で完勝を収めた。その後、東京大会でもくまちょむ(服部崇)との決勝を制して優勝。その後、1997年9月に行われた全国大会(ファイナル)でも優勝を果たし、一気に最強プレイヤーの座に躍り出て、その一強時代が幕を開けた。
1997年12月には、「第2回ぷよぷよ名人戦」に出場し、予選の組み分け抽選では2ブロックのうち、高橋健太郎、村田篤史、服部(くまちょむ)、亀山(Kamestry)、山川藤彰、古橋充ら当時の強者が偏って集った予選Bブロックに配された。しかし、これを物ともせず、22人の総当たりを村田に1敗したのみの21勝1敗(勝率95%)で1位通過すると、本選でも全勝で優勝した。これにより名人位挑戦権を得て初代名人の田中浩生にも5-4、5-1で勝利し、2代目「ぷよぷよ名人」の称号を手にした。
1996年、コンパイルが主催した各都道府県での大会「ばよえ~んツアー'96 」宇都宮大会で優勝し、続く全国大会では敗退した。後年に振り返って「当時は無名だったが、全一への手応えを感じており、全国でも優勝する自信はあった」と語っている。
全国大会敗退後、当時用いていた鍵積みを辞め、新しい形の開拓に可能性を見出し、ちぎりなしの不定形連鎖の練習を開始した。これを1、2カ月で実用レベルまで習得すると、同年末にはプレーステーション大会の場で実践した。この時期には、近所に住む千葉兄弟(千葉聡とその兄)の家に出入りして対戦を繰り返し、ともに実力を磨いた。
翌1997年3月、幕張メッセで行われ延べ3万人を動員した「第3回全日本ぷよマスターズ大会」に出場した。実に2万人もの参加者から本選の64人の中に残っていたが、ベスト4手前で、鎬を削り合ったライバルの千葉聡と当たり、お邪魔ぷよを受けて不利を被るなか置きミスで3列目を埋めてしまい窒息。ベスト8で敗退した(千葉はその後優勝)。
そして、昨年のリベンジを期して臨んだ「ばよえ~んツアー'97 」では、不定形を用いて宇都宮大会を優勝。優勝後のエキシビションで前年度全国覇者のぷよまつ(松金輝久)と対戦して3−0で完勝を収めた。その後、東京大会でもくまちょむ(服部崇)との決勝を制して優勝。その後、1997年9月に行われた全国大会(ファイナル)でも優勝を果たし、一気に最強プレイヤーの座に躍り出て、その一強時代が幕を開けた。
1997年12月には、「第2回ぷよぷよ名人戦」に出場し、予選の組み分け抽選では2ブロックのうち、高橋健太郎、村田篤史、服部(くまちょむ)、亀山(Kamestry)、山川藤彰、古橋充ら当時の強者が偏って集った予選Bブロックに配された。しかし、これを物ともせず、22人の総当たりを村田に1敗したのみの21勝1敗(勝率95%)で1位通過すると、本選でも全勝で優勝した。これにより名人位挑戦権を得て初代名人の田中浩生にも5-4、5-1で勝利し、2代目「ぷよぷよ名人」の称号を手にした。
その後は、1998年3月にコンパイルが経営破綻したことで大規模な公式大会の場はなくなったが(『ぷよぷよ』の版権は2002年8月まで保持)、ACぷよぷよ通の聖地に数えられるゲームセンター明大前ナミキの公認大会・対戦会に現れては「異次元」と評されるプレーでギャラリーを魅了した。
1999年には、kuroroの誘いを受けて田中浩生宅でkuroroと100先を行い、100-36で勝利。この対戦は録画されており今でもニコニコ動画で見ることができるが(→動画リンク)、連鎖の技術もさることながら当時からすでに高い凝視精度と中盤意識をもって対戦していることがうかがえる。この録画ビデオ(VHS)はその場に居合わせたくまちょむによってすぐにダビング(複製)を重ねられ、各所に配られて鑑賞・研究された。
2001年10月に公式で行われた最後の「第7回昇段戦」では、予選・本選ともに全勝で「2段」に昇格した。
一方で、上級者同士では100先での格付け勝負が行われ、その中で他の追随を許さない桁違いの強さを示し、圧倒的全一としてその名を轟かせ続けた。同世代のプレイヤーで後に「四強」と称されるくまちょむ、Kamestry、kuroro、そして同じ横浜セブンアイランドで台頭した直弟子ALFらとの100先は常に50〜60本以下に抑えていた。
2001~03年には、関西に招かれて現地のプレイヤーらと連戦を繰り広げるイベント「ミスケンフェスタ」が計3度開催された。ここでも圧倒的な戦績を挙げ、各地のプレイヤーや後進の実力伸長にも大きな影響を与えた。
1999年には、kuroroの誘いを受けて田中浩生宅でkuroroと100先を行い、100-36で勝利。この対戦は録画されており今でもニコニコ動画で見ることができるが(→動画リンク)、連鎖の技術もさることながら当時からすでに高い凝視精度と中盤意識をもって対戦していることがうかがえる。この録画ビデオ(VHS)はその場に居合わせたくまちょむによってすぐにダビング(複製)を重ねられ、各所に配られて鑑賞・研究された。
2001年10月に公式で行われた最後の「第7回昇段戦」では、予選・本選ともに全勝で「2段」に昇格した。
一方で、上級者同士では100先での格付け勝負が行われ、その中で他の追随を許さない桁違いの強さを示し、圧倒的全一としてその名を轟かせ続けた。同世代のプレイヤーで後に「四強」と称されるくまちょむ、Kamestry、kuroro、そして同じ横浜セブンアイランドで台頭した直弟子ALFらとの100先は常に50〜60本以下に抑えていた。
2001~03年には、関西に招かれて現地のプレイヤーらと連戦を繰り広げるイベント「ミスケンフェスタ」が計3度開催された。ここでも圧倒的な戦績を挙げ、各地のプレイヤーや後進の実力伸長にも大きな影響を与えた。
2003年頃にはぷよぷよのプレー頻度がやや低下したものの、実力的にはいまだ一強を保った。しかし、成長めざましかったくまちょむとの2003年3月に行われた100先では100-77と、初めて70本台を許した。
2004年5月16日、明大前ナミキにて引退試合となるくまちょむとの100先を行った。当初は30先想定で行われ、29-30で先に30本を許したものの、その後そのまま続行することになり100先に移行した。最終的に100-95の僅差でこれに勝利し、無敗のまま引退した。
2004年5月16日、明大前ナミキにて引退試合となるくまちょむとの100先を行った。当初は30先想定で行われ、29-30で先に30本を許したものの、その後そのまま続行することになり100先に移行した。最終的に100-95の僅差でこれに勝利し、無敗のまま引退した。
引退後は格付け勝負はもちろん、人前でプレーする機会はほとんどなくなったが、稀に対戦会に姿を見せることはあり、ぷよぷよを楽しむ様子が見られた。
2013年11月には「Redbull 5G 2013」の東日本オフライン予選に参加した。
2018年9月、大阪のK1スタジアム内「関西ぷよぷよ道場」にて、Kamestryと30先を行った(結果は23-30)。
2019年1月には、埼玉県のデイトナ蕨にて行われた「momoken連戦祭」でmomokenと組手の10人目(最後の対戦相手)として対戦。11-30で敗れた。
エピソード
- 第3回マスターズ大会で千葉聡に敗れて帰宅した後は、徹夜でCOM相手に連鎖練習をしたという。「優勝できなかったことではなく、聡に負けたことが悔しかった」と後年振り返っている。
- 100先などの連戦は、ほとんどが「今からやろう」の突発で行われたが、それでも常に圧倒的な戦績であった。
- SFC版『マリオカート』では、レインボーロードの最速記録を持っていた。
- テレビ東京「マリオスタジアム」に出演したことがあり、『マリオカート64』のマリオサーキットのタイムアタックに挑戦。番組記録を大きく更新した。
- 2002年頃、明大前ナミキの対戦会でいつも以上に異常な強さと技術を発揮した日があり、途中で「爪が割れて血が出てきた」と呟き、「血の日」と言われている。
- 2003年頃にkuroroがミスケンの家に初めて訪れた際、モニタとキーボードが異様に離れていることを不思議に思い、その理由を聞くと「目が疲れないよう、長時間集中できるため」と答え、その姿勢に感嘆させられたという。
- 数々の伝説・逸話を持つが、中には「ぷよをやらない日でも3連鎖」「ガッツポーズしただけで5連鎖くらい起きた」などの大喜利的なエピソードもまことしやかに語られている。
- ジャグリングを特技としていた。お手玉7個の日本最年少記録を立てたことがある。
主な戦績
- ばよえ~んツアー'96 宇都宮大会 優勝
- 第3回全日本ぷよマスターズ大会 ベスト8
- ばよえ~んツアー'97 ファイナル 優勝
- 第2回ぷよぷよ名人戦 優勝
呼称・二つ名
宇宙人、超人、ぷよぷよ名人、三須健太郎(本名)
チャンネル・SNS
Twitter:@misuken_now
生年
1981年