※死にネタ注意
※長文注意
※2人きりの部屋でベッドの上に冥たん、という美味しい状況があるにも関わらずエロが一切ありません。すみません。
「そういえば今日、狩魔検事はどうしたんだ?」
何気なさを装って問われた言葉に、私は内心、来たか、と溜息をついた。
問いの主は隣にいる成歩堂だったが、この事務所内にいる全員――つまりは真宵と春美と糸鋸も、雑談を止めてこちらを注視している。おそらく4人とも、最初からそう尋ねたかったに違いない。
「ああ……」
緩慢な動作でグラスを傾け、不自然にならない程度に若干の時間を稼ぐ。
『言い訳』を考えておかなかったわけではない。ただ、
「……どうしても片付けておきたい仕事があるから来られない、とのことでな」
こんなあからさまな嘘を述べるのは、やはり気が引けたのだ。
隣からは短い嘆息が聞こえ、周囲から集まっていた視線は失望の色を帯びる。特に春美など見るからに肩を落としていた。
無理もない。今日はただの集まりではなく、彼女の誕生日パーティだったのだから。
「春美くん、その……彼女はとても多忙で……だから、プレゼントさえ選ぶ余裕も無かったほどで。
謝っておいてほしいと言われている。来られるならば来たかったと」
「い、いえ。……おシゴトでは仕方ありませんから……」
幼い彼女の大人びた言葉がますます痛々しい。
来られなかったと言えば矢張も別の用事で……交友関係を差し置いての用事となるとおそらく女絡みだろうがそれはさておき、とにかく彼も来ていないのだ。しかし意外とマメな奴で、きちんとパーティ開始時刻に届くようプレゼントを手配してあった。
それが、冥の不在をさらに際立たせてしまった。カンペキな彼女が何も用意せず欠席などするはずがないと。
そしてそれはおそらく、春美たちの中にひとつの疑念を抱かせてしまっている。
「……わたくしはあの方にシツレイな態度ばかりとっていましたし」
私の推測を裏付けるかのように、春美がぽつりと呟いた。
「!! ち、違うよはみちゃん! そのっ、えーと、そ、そのよーなアレじゃないよ!」
「そ、そッス! あの人に限ってそんなはずねえッス!」
真宵と糸鋸が慌てて慰めにかかるが、春美は手元のカップに目を落としたままだ。
慰めている側2人にもその疑念は宿っている。その言葉に迷いが無いはずもなく、幼い霊媒師の肩の震えを止められるわけもなかった。
痛ましい姿に思わず声をかけそうになるが、グラスの中身を飲み干してどうにか堪える。
……私に、そんな権利は無いのだから。
「オマエが来る前にさ」
自己嫌悪に陥りかけたその時、唐突に成歩堂が話し出した。
視線は真宵たちに向けたまま、
「イトノコさんと、最近は事件が少なくて平和で良いって話をしててさ。
だからオマエたちも時間通り来られるはずだって聞いてたから」
「……そうか」
最も無難な理由にしたつもりが、見事に地雷を踏んでいたらしい。
言葉を濁すためにもう一口飲もうとして、先ほど飲み干してしまったことに気づいた。
「だからさ」
グラスを置こうとした私の手を制し、2杯目を注いでくれながら成歩堂は言う。
「何かあったら、相談しに来てくれよ。特別にタダで聞いてやるからさ」
「……………」
『何かあったのか?』ではなかったことに安堵し、同時に感謝した。
コイツのことだ、きっと何らかの事情があると勘付いているだろう。それでも深く立ち入らずにいてくれることが有難い。
「……ありがとう」
だから素直に礼を述べたのに、何故か全員から一斉に驚愕の眼差しが向けられたのだった。
ささやかな宴を早々に辞し、車に乗り込み彼女の元へと急ぐ。
誕生日を祝うにしてはあまりにも短い滞在だったが、これでもギリギリの時間だった。早くしなければ面会時間が終わってしまう。
やがて真白の建物の前に到着し、駐車もそこそこに中へ飛び込む。自動ドアのひらく間さえもどかしい。
エレベーターのボタンを押し、荒れた呼吸を戻すために溜息をひとつ。本当は形振りかまわず階段を駆け上がりたかったが、彼女の部屋は最上階の一番奥に注意深く隠されていた。
しかしエレベーターの方が早く着くとはいえ、この待ち時間が異常に長く感じられ、精神的にはあまりよろしくない。
段々と下がってくる階層表示の光を目で追いかけ、やがて『1F』の表示が光ると同時、こじ開けんばかりの勢いでエレベーターへ。
エレベーター恐怖症?
今の私には、それよりもっと恐ろしいことがある。
かくして目的の部屋の前に辿り着き、私は髪と襟元を手早く整えた。
深呼吸を数回、それからようやくノックをする。
返事を待たずにドアを開けると、広い個室の奥のベッドに、彼女は横たわっていた。
「……レイジ……?」
「すまない、起こしてしまったか?
ああ、そのままで」
ベッドの傍らの椅子に腰掛け、起き上がろうとする冥を制止する。
「そこまで過保護にしなくていいのに」と呟く彼女の身体は、また少し痩せたように見えた。
「それより……貴方、パーティは18時からって言ってなかった?
どうしてこんなに早く……」
「いや、春美くんが睡魔に負けてしまってな。
主役が眠ってしまっては……ということで、早めに解散となったのだよ」
彼女を安心させるための嘘ならスラスラ出てくる自分の口が不思議でならない。
それでもやはり目の前の天才検事を騙すには力不足らしく、小さく苦笑されてしまった。
「……礼を言わせてもらうわ。私の分まで出席してくれて。
それで……私が行けなかった理由は……」
「安心したまえ。うまく誤魔化しておいた」
実際はうまくも誤魔化せてもいないが、これも嘘は方便ということでお許し願いたい。
現に冥はそれを聞き、安堵したように息を吐いた。
「……だが……」
しかし続く私の言葉に、不審そうに眉間を寄せる。
私はそれには気づかぬ振りをし、
「……本当に、彼らには言わ」
「それよりお願いがあるのだけれど」
問いを遮る、硬い声。
意識はこちらに向けられていても、視線は反対側のカーテンの閉まった窓へ。こうなるともう彼女は他人の言う事など聞きはしない。
私は内心で溜息をつきながら、
「……ああ。何だろうか?」
「本よ」
彼女は顔をこちらに戻し、薄青の瞳でサイドテーブルの上を指し示す。そこには確かにハードカバーの本が1冊置かれていた。
「ああ、私がおととい贈った本か」
「そうだけど、もう読み終わってしまったの」
……辞書並みに分厚い洋書だったはずだが、狩魔冥相手にそれは愚問なのだろう。
明日にでも新しい本を贈ることを約束し、感想を聞いて当たり障りのない会話を楽しむ。
“本当に、彼らには言わなくていいのか?”
――最も問いたいその言葉を、喉の奥に潜めたままで。
今日も検事局はひどくざわついていた。
表向きはあくまでいつもの清らかな静寂を保っていたが、端々では小さな話し声が洩れ聞こえてくる。そして私が姿を見せた途端、今度は不自然なほどの沈黙が場に落ちるのだ。
(……いつまでも機密ではいられない、か)
局内とはいえここまでわかりやすいと、警察側にまでひた隠しにしている意味が無い気がする。
さすがに今では糸鋸刑事も違和感を抱いているだろう。数週間前にアメリカからこちらに来ているはずの彼女と、全く顔を合わせていないのだから。
入国の情報さえ届いていなければ、彼女は来ていないと突っぱねることもできたのだが……。
「御剣検事、刑事課長からお電話です」
思案に没頭しかけた私を、事務員の声が現実に引き戻した。
努めて冷静に受話器を取り、検事・御剣怜侍を演じ出す。相手からは次の公判についていくつか確認されただけだった。
電話を切って、改めて気を引き締める。すぐに思考に囚われるのは私の悪い癖だ。
今はとにかく雑務を片付け、少しでも早く退勤しなくては……。
私はまずデスクのスペースを確保するため、机上の半分以上を埋める書類の束を倒しにかかった。
「……それで?」
「まさか書類に目を通すだけの仕事に半日もかかるとは思わなかった」
憮然とした顔で私は言ったが、何故か冥に笑い声を立てられた。
今日は随分と調子が良いらしく、私が来た時既に彼女は半身を起こして待ってくれていた。たったそれだけのことが無性に嬉しく、つい饒舌になってしまったようだ。
冥の方も『弟弟子』の情けない一面を聞けてご満悦のようで、得意げに指を振って見せる。
「貴方、意外と整頓が下手なのよね。
公判にばかり気を取られているからそういう目に遭うのよ?」
「ム……これからは、事務仕事にも気をつけるようにしておこう」
毎日少しずつやればいいのだろう、と言いかけて止めた。小学生の夏休みの宿題でもあるまいし。
「ええ、そうね」
冥も笑って頷き、そして何気なく言う。
「でも、無理だけはしないで頂戴ね?」
「…………」
しまった、と。まずそう思った。
おそらく深い意味は無い台詞だったのだろう。だが私の表情の強張りが、室内の空気を一変させてしまった。
「……私に言われたくはなかったかしら?」
冥の口元には笑みが残っていたが、やはり声にはどこかしら硬さが含まれていた。
「無理をして過労で倒れるような検事だものね。そんな人間に姉気取りをされるのは我慢ならないかしら」
「違う、メイ」
「違わない」
つい先程まで穏やかに微笑んでいた瞳には、今や剣呑な怒りが滲んでいる。
「貴方も……貴方も、局長やアメリカの同僚たちと同じ。
狩魔冥はもう法廷に戻れない、検事失格だと思ってるんだわ」
「違うんだ。メイ、話を…」
「違わない!」
――それは久方ぶりに耳にした、鋭く怜悧な法廷の声。
しかし声の主は途端に咳込み、苦しげに震えてベッドに倒れ伏す。
「メイ!」
「っ……みず……」
慌てて水差しを引っ掴み、グラスに注いで飲ませてやる。口の端から幾筋か垂れたがどうにか飲めたようで、冥は息を吐いてベッドに身体を預けた。それでも彼女の目は、未だ苦しそうに細められている。
「……違うなら、どうして私はここにいるの」
掠れた声。搾り出すような。
「どうして叫んだだけで息が苦しくなるの。どうして別れを惜しむ手紙が届くの。どうして局長が引継ぎの話をしてくるの。
……どうして私は、自分で歩くこともできなくなってるの…っ!」
痩せたけれど、やつれたほどではない体。
元々とさほど変わらない色白の肌。
――けれどその細い手が私を掴んでも、弱々しい感触を残して滑り落ちるばかり。
「……すまなかった」
私が謝罪を口にすると、はっとしたように冥は顔を上げた。
「……どうして謝るの?」
「全て、私のせいだからだ」
「……そんなもの、かえって無責任だわ。
自分に関係の無いことまで背負おうとするのは傲慢以外の何物でもない」
「違う。本当に全て、私のせいなのだ」
そして背負えてすらいない。
彼女が言葉をぶつけてくるまで、きっと私は、わかっているつもりでわかっていなかったのだ。
押し潰されそうになっていた彼女の不安も、近いうちに必ず来たる現実も。
「だから、私を罵ってくれていい。私はそれくらいしか役に立てない。
だが、局長やアメリカの同僚たちを……そして自分自身を卑下するような言い方はやめたまえ。
彼らはキミの為を思ってこそ行動しているのだし、メイ、キミには何ひとつ非は無いのだから」
「…………………」
返答は無かったが、代わりに彼女は無言で再び起き上がり、私の腕を力なく掴んで寄りかかってくる。
……細い肩が震え始めた頃、彼女が顔をうずめている私の胸には、ひたすらに無力感ばかりが溢れていた。
『はーい、こちら亀有……あ、すいません、さっきまで再放送見てたんで間違えました。
えっと、こちら成歩堂弁護士事務所です。事件ですか、リコンですか?』
底抜けに明るい声が、今の私には夏の陽射しのように思えた。
眩しすぎて、ただただ、つらい。
『はいはいお電話かわりました成歩堂ー。
悪いな、倉院の里のテレビが壊れたらしくて。ぼくとしては春美ちゃんが出てくれた方がまだ安心して任せられ……イテッ! いや真宵ちゃんの悪口じゃないから! 電話中だからビンタはやめてー!
――ごめん、それでどうしたんだ? 携帯じゃなく事務所に電話なんて珍しいな』
やはり事務所の電話だからか、くだけた内容でも声はしっかりと『弁護士』だった。
そのせいで、ますます自分の情けなさを思い知らされる。
幼馴染は弁護士として励み、かつて大事な友が生死もわからぬ状況であっても、決して諦めずに戦っていたというのに。
こちらはほんの少し泣かれた程度で、こうして誰かに連絡するほど動揺してしまっている。
『? 御剣?
……何か、あったのか?』
数日前には言ってほしくなかったはずの言葉が、今は何よりも有難かった。
聞いてほしい。聞いて、そして、助けてほしい。救ってほしい。
『…………今…………
何て、言った…………?』
「……狩魔冥は余命幾許も無い身だ、と言った」
――――私には、彼女を、救えない。
成歩堂が待ち合わせ場所に選んだのは、因縁浅からぬひょうたん湖公園だった。
捜査したこともあれば、逮捕されたこともある。今の私のちぐはぐな心境にはぴったりかもしれない。
やがて成歩堂がやって来て、2人で足の向くままに歩き出す。
「どうなの? 狩魔検事の……えっと、病状は」
「……自力で歩く体力も残っておらず、ベッドの上から動けない状態だ。
薬で病気の進行は抑えているが、それはあくまで悪化を遅らせているだけで、治療法は全く無いと……」
医師の話を思い出しながらつらつらと述べるが、詳しいことは話す気にはなれなかった。
病名を聞いて資料や文献、慣れないパソコンでまで調べを尽くしたが、調べれば調べるほど悪い結果ばかり見る羽目になったからだ。
ただ、一気に体力が落ちた後、緩やかに死へ向かっていく。それがこの病の全てだと言う。
「心臓が動いているのが奇跡だと言われたよ。
見た目はほとんど変わらないのに、体内はもうどこも病魔に食い荒らされていると」
「……何で、そこまで……?」
言いづらそうに、しかし嘘を許さない眼差しで、成歩堂は問うてくる。
先進医療を持つアメリカやこの国で、若く健康だった冥がそこまでの病を得てしまった理由。おおむね想像はついているのだろう。
言い当てて責め立ててくれれば、私も言い訳ができるのに。そんな情けないことを考えてしまう。
「…………私が」
いつの間にか湖畔に近づいていたらしい。
湖側を歩く私の足跡が、風によって立てられた小波に流され、消える。
「私が、気づいてやるべきだったのだ。
この国とアメリカの往復、2国でそれぞれ抱えた案件の処理、国際警察への協力……そして、私との時間。
……ひとりの人間が背負うには、あまりにも多すぎる」
気づく機会は、いくらでもあったはずだった。
情事のさなかに眠ってしまった彼女を、可愛いと笑って眺めるだけでなく、疲労の重さも悟って然るべきだったのに。
忙しいのはお互い様だからと、自分がうまく遣り繰りできているからと、彼女の負担を考えようともしなかった……!
「ここまで悪化してしまったのは、全て私のせいなのだ。
だから……毎日のように見舞い、彼女の望みをひとつでも多く叶えようとした。それが助けになると思っていたのだ。
……しかし彼女の真の望みは、回復し、法廷に帰ること。それは、私にはどうしようもない……」
どちらからともなく、足を止める。
成歩堂はずっと無言だったが、私の言い訳がましい言葉を真剣な顔で聞いてくれていた。
どんなに不利な状況でも被告人が取り乱さずにいられるのは、きっとこの頼もしい顔を見ているからなのだと思う。
「頼む、成歩堂。私にはもう何も考え付かないのだ。
どうすれば彼女の心を救えるのか……。どうか、知恵を貸してほしい」
「……………」
顎に手をあて考え込む。法廷では見慣れた仕草だ。
しかしすぐに手は離れ、「あのさぁ」といつもの気安い声がかけられた。
「前にお前、言ってなかったか?
依頼人を救うつもりなんて傲慢も甚だしい、みたいなこと」
「……? 言ったか?」
「言ったよ。ほら、真宵ちゃんさらわれてメチャメチャ大変だった時。
いや覚えてないならそれはそれでいいんだけどさ、とにかく、今のお前もそうなんじゃないか?」
つま先で足元の土を弄いながら、成歩堂は言葉を続ける。
「彼女の心を救う、なんて。
たぶんそれは、誰にも無理だ」
「……………」
彼の出した結論に、絶望が私の胸を襲った。
数々の逆転劇を見せてきた成歩堂龍一でさえ、やはり何の手も打てないのか。
それなら私など、もはや手も足も……
「だからさ」
再び続いた言葉に顔を上げると、そこには不敵な笑みを浮かべた成歩堂がいた。
「彼女の心を救うことも、彼女の望みを叶えることもできないならさ。
とりあえず、自分の望みから叶えてやったら?」
「………………は?」
「あるだろ? 色々してあげたいこととか、一緒にしたいこととかさ。
可能かどうかはさておき、食事を取ったり、散歩に出たり……
たとえ何の足しにもならないことでも、長い入院生活の暇潰しぐらいにはなるんじゃないか?」
……流石というか何というか、その言葉には妙な説得力があった。
自分の望み。そんなこと、考えもしなかった。
しかし急に言われても、私が冥と一緒にやりたいことなど……
「――――ある」
気づいた時には、既に声が口から滑り落ちていた。
心が勝手に出した答えを脳が認識したのはその直後のことで、私は自分自身を疑ってしまう。
……こんな突拍子も無い願望を、無意識の内に抱えていたのか、私は?
「あるなら、やった方がいい」
成歩堂は混乱する私を面白そうに眺めながら、
「自分の近くにいた人がいきなり死ぬって、想像以上にキツいもんだから」
「……………」
そういえば、と思い至る。
目の前の同級生は、いくつもの死を目の当たりにしてきたのだ。
私も父や師を亡くしているが、父の死の記憶はほとんど無く、師と仰いでいた男は私のいないところで刑に処された。そういう意味では私は近しい人間の死を目にしたことがない。
成歩堂はいつもの底を見透かすような笑みを浮かべ、
「しかもオマエの場合、相手は好きな子だろ?
今のままじゃきっと後悔するぞ。ぼくでさえあれこれいろいろ言っときゃ良かったって思ったくらいなんだから」
「……後悔など、とうにしている……」
「じゃ、これ以上後悔しなくて済むように頑張れよ」
同い年のはずなのに、一体どうしてここまで度量が違うのか。
ほんの数分の会話で私に道を与えることに成功した弁護士。彼が幼馴染でなければ、嫉妬さえしていたかもしれない。
……私にもこれほどの力があれば、冥を苦しませずに済んだだろうか?
「成歩堂」
「んー?」
私にはもはや後悔する暇すらない。そんなことをしているうちに、冥はどんどん私の手の届かない場所へ行ってしまうのだ。
のんびり振り向く成歩堂の顔を真正面から見据え、
「気づかせてくれてありがとう。
そして、頼みがある。今すぐ真宵くんと春美くんを呼んでもらいたい」
できる限りの感謝と誠意を込めて、深々と頭を下げた。
全ての準備が整ったのは、それから1日あとのことだ。
私は逸る気持ちをどうにか抑え、病室のドアをゆっくりノックする。
返事は無い。構わずにドアを開けると、彼女は身体を起こしてこちらを見ていた。
「……もう来ないかと思ってたわ」
怒っているような、安心したかのような、様々な色が綯い交ぜになった顔。
「何故だ?」
「だって、昨日は来なかったし……それに一昨日、あんなブザマな姿を見られたもの」
「何を言う。あれのどこがブザマなものか」
あれでブザマなら、私など合わせる顔も無い。
……いや、止そう。今日は自分をこき下ろしに来たわけではないのだ。
私は椅子に腰掛け、冥の顔を真っ直ぐに見据える。
「それより、今日こそ言わせてもらうぞ。
メイ。本当に、彼らには言わなくていいのか?」
「……。ええ、言わないで頂戴」
言葉より先に睫毛がかすかに震えたのを、間近の私は見逃さなかった。
視線はただひたすら彼女の瞳へ。そして冥もまた、強張った顔で懸命に見返してくる。
「一般人の成歩堂たちはともかく、糸鋸刑事ぐらいには話してもいいのではないか?」
「ダメよ。きっとヘンに感情移入して、捜査に身が入らなくなるに違いないわ」
「今も充分身が入らなくなっている。キミが来ているはずなのになぜか顔を見せない、と気にしていたからな。
それに、もう刑事部にまで噂が行ってしまっている。荒唐無稽なものから的を射ているものまで様々に」
「……………」
「こうなった以上、事実を話してやった方が、彼も仕事に支障が出ないのではないか?」
「…………。……ダメよ……」
論理的に諭しても、冥は一向に首を縦に振ろうとはしなかった。
――予想通り。そして、予定通りだ。
「やはり、な」
「……?」
「筋道立てて説得しても、キミは必ず拒否するはずだと思っていた。
それは何故か? キミは、全く別の理由を持っているからだ」
こちらを見据えるかんばせが、次第に不審さを抱き始める。
「貴方、一体何が言いたいの……?」
「プレゼントだ」
「はぁ?」
「プレゼントを、何故私に用意するよう頼まなかった?
綾里春美の誕生日を祝う気がなかった? いや、キミは入院するまではパーティに参加するつもりがあった。だからこの時期にアメリカからやって来たのだ。
とっさに何を贈るべきか思いつかなかった? 前述の通りパーティに参加するつもりでいた以上、プレゼントの見立てもある程度終えていたはずだ。
祝うつもりはあったのに、入院した途端にパーティどころかプレゼントまで放棄した理由」
もはや冥の顔はすっかり青ざめていた。
驚きに目を見開かせ、口を挟むこともできずに、ただ見つめることしかできていない。
かつて彼女の父から学んだロジックが、彼女の真意を白日の下に曝け出した。
「キミは綾里春美に、そしてパーティの参加者たちに、嫌われてみせるつもりだったのだろう?
そう遠くないうちに死んでしまう自分に、少しでも愛着を与えないために」
――視線を外したのは、冥の方が先だった。
冥が倒れて以来、彼女の前で『死』という言葉を使うのはこれが初めてだ。けれどもう目を背けるわけにはいかない。
これは、いつか来たる、現実である。
「……わかっているなら、言うとおりにして頂戴」
つぶやくように言われた言葉は、かすかな震えが感じ取れた。
「近しい人間の、……死、は、とても辛いもの。
私はそれを知っているのに、彼らにまで味わわせるわけにはいかないわ……」
その瞳には、断固たる決意が宿っている。
こうと決めたら突き進む彼女のことだ。何としてもこの意志を突き通し、邪魔する者は遠慮なく叩き潰すだろう。
だから、
「先に謝っておこう。すまない」
「……え?」
冥が呆けた声を出すのと、ドアが勢いよく開かれたのは同時だった。
一気に数人分の人影が雪崩れ込み、私を突き倒して冥へと駆け寄る。
「か、か、か、狩魔検事イィィィッ!! 自分は、自分はッ、う、うぅぅうぅぅぅッ!!!」
「かるま検事のバカぁー!! そんなのっ、ぜ、全然、カッコよくないよぅー!!」
「……えっと。ごめん、ぼくに話したのは御剣だけど皆に話したのはぼくです」
予想外の人々の登場に、呆然として目を瞬かせる冥。
ゆっくりと、倒れた椅子を起こしている私の方に顔を向ける。
「……話した、の?」
「話した。
個人情報漏洩だな。後で検事局長に殴られに行く予定だ」
「…………。
良かったわね、御剣怜侍。私が健康だったらそこにムチが加わっていたところよ」
口では横柄な態度を取りながらも、その顔には安堵の笑みが広がっていた。
その様子を見て私もほっとする。やはり死を間近に秘密を抱え、独りで耐え続けるのは辛かったのだろう。
そして成歩堂たち3人も、何も知らされずに亡くなられるよりは……
(………………3人?)
そこでようやく、あるはずの影がひとつ足りないことに気が付いた。
「真宵くん。春美くんはどうした?」
「え?」
目尻の涙を拭う真宵も言われてやっと気づいたらしく、室内を見回してうろたえる。
「え、あれ? さっきまで一緒に……いたのに……うーん……
あ、いた」
あちこち覗いた末にドアを開けた真宵はそう声を上げ、すぐ外にいるらしい春美に手を伸ばした。
「ほら、何してるの? こっちこっち」
半ば引っ張られるように入ってきた春美は、なぜか深く俯いている。
真宵に背中を押されてベッドの傍へやって来ても、冥と目を合わせようともしない。
……先程の話は聞いていたはずだが……まさか、まだ怒っているのだろうか?
「……ごめんなさいね」
短い沈黙の後、先に語りかけたのは冥の方だった。
「せっかくのパーティだったのに、プレゼントもあげられなくて。
遅くなったけど言わせて頂戴。お誕生日、おめでとう」
「……………………………………」
幼い少女の肩が、震える。
気づいた真宵がそっと手を置いた直後、
「う、うわぁぁぁぁぁあんっ!!」
――夕刻の病院に、甲高い泣き声が響き渡った。
「わ、わたくし、いけない子です…!
か、かるま検事さんがいらっしゃらないのは……わたくしが、き、キラわれているからだとっ……
でも、わ、わたくし、それでもっ、それはわたくしがシツレイだったからなのに、……かるま検事さんのこと、お心のせまい方だと、ちょっとだけおウラみしてしまったのです……!!
う、うわああああん! ごめんなさい、ごめんなさい…!!」
装束が濡れるのも構わず、ひたすら泣いて謝る春美。
状況を考えれば無理もなく、取るに足らない瑣末な罪だ。それでも彼女にとっては極刑に値する重罪だったのだろう。
歳相応の可愛らしい罪の告白に、元来こども好きの冥もまた、いとおしげに微笑んでいた。
「バカね。黙っていればわからないのに」
細い指先で、春美の目元の涙を拭う。
「でも、私もいけなかったわ。
あなたを泣かせることになるくらいなら、最初から話しておけば良かった」
「……! か、かるま検事さんはわるくありません!
ええ、わたくし、きっと! ご病気と聞いただけでも泣いていたに違いないですから!」
それは堂々と言うようなことなのか、などと無粋な突っ込みを入れるつもりは無論ない。
これまでどこか暗い影に覆われていた病室は、今や温かな雰囲気に満ちていた。
「そろそろいいんじゃないか?」
しばしの雑談の後、唐突に声を上げたのは成歩堂だった。
主旨のとれない発言に冥はきょとんとし、真宵と春美は「あー!」と嬉しそうな声を上げる。そこの刑事、紙吹雪の準備をするな。気が早い。
「何の話?」
意図を知らないのが自分だけだと気づき、不審そうに首を傾げる冥。
そんな彼女を余所に成歩堂たちはそれぞれ2、3歩下がり、ベッド脇のスペースを開けた。
……こうして誤解も解けて丸く収まった今、これからのことは蛇足になりかねない気もするのだが……
(いや。これは、私がしたくてすることだ)
手の中に『それ』を隠し持ってから、彼女の傍らに、――跪く。
「な、何……?」
戸惑う冥の右手を空いている方の手で取り、
「メイ」
そして『それ』を、紺色の小さな箱を、片手で開けて掲げ持つ。
――現れたのは金の台座にダイヤモンドを戴いた、オーソドックスな指輪だった。
「私と、結婚してほしい」
……しばしの沈黙。
その間に、冥が赤くなったり青くなったり金魚のように口を開閉させたりするのを、私は間近で堪能する。
やがて落ち着きを取り戻した冥は、
「……何でっ、大勢いる前で言うのよ……!」
私は最初の返事が拒絶ではなかったことに内心ほっとしつつ、チッチッと指を左右に振ってみせた。
「彼らが来たのは見舞いのためだけではない。元々、この立会人として来てもらったのだ。
たとえ婚姻届にサインした後でも、キミならまた何かの理由で反故にしかねないからな」
「こ、婚姻届!?」
「うム。この通り」
私の分だけ既に記入してあるそれをひらりと掲げて見せると、真宵と春美が歓声を上げる。そこの刑事、紙吹雪をまくな。気が早い。
しかし彼らの笑顔とは裏腹に、冥は追い詰められた猫のような表情で指輪を見つめていた。
「……私、は」
自分の右肩を抱き、唇を噛み締める。
「私は……もうすぐ、死ぬ人間なのよ?」
ぴたりと歓声が止み、一瞬にして重い沈黙が場に落ちた。
しかし私は再び指を振り、笑みを浮かべて沈黙を吹き散らす。
「だからこそ、だ。
だからこそ、その前にひとつくらい、私の我侭を聞いてもらいたい」
「……我侭なんて、嘘ばっかり。
同情みたいなものでしょう? 結婚もできずに死ぬなんて、哀れだって――」
「悪いが」
自嘲気味に言う冥の声を強い口調で遮り、
「私は死期の近い病人と結婚するつもりはない。
検事として共に育ち、挫けそうだった私の心を何度も救ってくれた、狩魔冥という名の女性に求婚したつもりだ」
「……っ……」
「命がどうなるかなどわからない。
キミの病気の特効薬が明日できるかもしれないし、その時私は事故で死んでいるかもしれない。
……だから今は、メイ、キミの気持ちだけで答えてほしいのだ」
「……………」
彼女の右手を握っていた手が、柔らかく振りほどかれる。
冥は小箱を私の手から取り上げると、中の指輪を眩しそうに見つめ、
「……私、この国の文化については詳しいのよ?」
「?」
「死者の肉体は火葬にされる。
そしてその際、棺の中に指輪を入れることはできない」
それを文化と呼んで良いのかどうかはさておき、確かにその通りだった。
この国では火葬で弔うのが一般的であるし、貴金属は燃えにくいため禁止される場合が多い。
私が頷くと、パチンと小箱が閉じられた。
「だから――私が亡くなった後、貴方が私を偲ぶ品として大事にしてくれるなら。
まぁ、受け取ってあげてもいいわ」
……………。
……………………受け取る、と言ったか? 今?
「やったぁー!」
「おめでとうございます、みつるぎ検事さん!」
私が理解するより早く、後方の真宵と春美から拍手喝采を、そして糸鋸から紙吹雪を浴びせられる。
ようやく頭が状況に追いつき、私は大きく安堵の息を吐いた。
……九割がた勝訴だと信じていたとはいえ、いざ判決が下るとなると、心臓に悪いものだな……
「それにしても、貴方にしては随分と趣味の良い指輪ね。綺麗だわ」
冥は再び小箱を開き、中の指輪をしげしげと見つめる。どうやら気に入ってもらえたようで何よりだ。
「ああ、それは真宵くんと春美くんに昨日……ぐはっ!?」
選ぶのを手伝ってもらったのだ、と言う前に背中の左右を同時にどつかれた。
振り向くと、そこには余計な事を言うなと言わんばかりの目をした霊媒師が2人。な、何故だ……?
「それよりホラ! つけましょうよ、指輪!」
「ええ、そうです!
わたくし、存じておりますとも。殿方が女性の薬指にはめて差し上げるのですよね!」
たった今暴行罪を犯した2人は無邪気に笑って口々に言い合い、冥も微笑んで手の甲を差し出してくる。
(何だか女性陣のペースに乗せられている気がするが……)
とはいえ確かに指輪の方も、いつまでも小さな箱の中に閉じ込められていたくはないだろう。
私は咳払いをひとつしてから、震えそうになる手をどうにか抑えて指輪を取り出し、冥の左手をそっと掴む。
そして指輪を、薬指へ――――
(……ッ!)
私も、見守っていた周囲も、はっと息を呑んだ。
――サイズが合わない。
(しまった……)
私は自らの失策に舌打ちしそうになった。
この婚約指輪のサイズは、冥の自宅にあった指輪と同じ大きさを指定したはずだ。
しかしこれは遠目から見ても緩く、手を下に向ければ落ちてしまうであろうほどだった。サイズを間違えたわけではない――冥の指の方が、痩せ細っていたのである。
「……すまない。すぐ、作り直しを……」
言って指輪を外そうとしたその時、温かな水滴が私の手に落ちた。
「……いいの。
これで、いい…………これがいい」
震える声で呟く冥の目から、大粒の涙が次々に零れる。
しかし彼女はそれを拭おうともせず、ぶかぶかの指輪を照明の光に透かし、
「一生、大事にするわ」
いとおしそうに、口づけた。
――後から聞いた話によると。
それからの1週間を、担当の医師は「奇跡だ」と称していたらしい。
事実、冥はそれからよく喋り笑うようになり、時にはどこからか話を聞きつけてやって来た矢張に向かってムチを振り回せたほどだった。
だから誰もが、奇跡を信じた。
このまま冥は回復し、検事として法廷へ――そして妻として私の家へ帰れるのだ、と……。
「メイ?」
その夜、冥は眠っているように見えた。
ノックをしても声をかけても返事が無い。私は薄暗い病室を静かに歩き、持ってきた果物かごをサイドテーブルに置く。
そして、その横に『先客』がいたことに気が付いた。
(……指輪の小箱?)
なんとなく手に取り開けてみると、なぜか中の指輪が消えていた。
サイズが大きいので、この箱に入れてしまっておくと言っていたはずなのに……?
(……?)
よく見てみると、小箱の下にメモ用紙が1枚置かれている。
流麗な英語で書かれたそれは、久方ぶりに目にした冥の筆跡だった。
――“やっぱり一緒に持っていくわ”――
意味の取れない、短い一文。
しかし読んだ途端に心臓が高く鳴り、全身から汗が噴き出した。
「……メイ? メイ!」
電灯を点けることも忘れ、彼女の身体を無遠慮に強く揺さぶる。
けれどそれでも、彼女の瞼が開かれ、あのアイスブルーの瞳が私を見ることはなかった。
もう、二度と。
……それからのことは、あまりよく覚えていない。
気づいた時には私は病室の外に出され、隣では成歩堂と糸鋸が肩を落としていた。
そのうち冥の姉もやって来たが、ろくに挨拶もせず、ただぼんやりと座り込んでいた気がする。
医療スタッフに「最期のご対面を」と亡骸の前へ連れて行かれても、何をすればいいのかわからず、顔を見ることさえできなかった。
ただ、ベッドに縋り付いて泣く春美を見て、何故か羨ましいと思ったことだけは覚えている。
葬儀の手配、友人知人への連絡、納棺する遺品の仕分け……。
成歩堂たちの申し出も断り全てを一手に引き受け、ひたすら作業に没頭した。
自分でも驚くほど冷静にこなし、もしかすると私は妻の死を悲しめない薄情者なのではないかと自問したほどだ。あんなに恐れていたことが現実になってしまったというのに。
やがて葬儀の日が訪れ、彼女の身体が狭い棺の中に閉じ込められても、これから炎で焼かれるという時になっても――
私の心は、動かない。
「喪主様、少々よろしいでしょうか?」
係員がそう声をかけてきたのは、火葬の終了を控え室で待っている時だった。
何かトラブルでも起きたのかと眉間を寄せる。ここまで滞りなく進んだのに、最も大事な収骨の段階で何かあっては、冥が安らかに眠れないかもしれない。
冥の姉に一言声をかけてから、控え室を出て廊下の隅に立つ。
係員はなぜか両手で包むように白いハンカチを持ったまま、
「実はひとつ、確認致したいことがございまして……。
私どもが貴金属類の納棺を禁止させて頂いていることは、ご説明申し上げておりましたでしょうか?」
「? うム、了承しているが」
そうでございますか、と係員は手のひらを広げた。
白いハンカチが開かれ、中には………黒い、輪?が載せられている。
細かい装飾の台座がついた、まるで指輪のような―――
(………指、輪?)
“私、この国の文化については詳しいのよ?”
「火葬を終えて奥様のご遺骨を収骨用皿にお移ししておりましたら、こちらが見つかりまして。
貴金属の紛失などは特にトラブルになりやすいので、念のためにご確認頂こうと……」
冥が生前使っていた指輪は未だ彼女の自宅に残されたままだ。
現時点で所在不明の指輪など、ひとつしか思いつかない。
“死者の肉体は火葬にされる。そしてその際、棺の中に指輪を入れることはできない”
「……ひとつお伺いしたいことがある」
情けないほど震えている指で焼け焦げた指輪を摘み上げ、声だけはどうにか冷静に振舞う。
「この、指輪だが……」
“やっぱり、一緒に持っていくわ”
「……見つかったのは、肋骨の辺りでだったのではないか?」
すると係員は驚いたように目を見開き、
「ええ、はい、そう聞いておりますが……何故おわかりに?」
「……いや」
煤けた指輪は本来の輝きなどとうに喪われ、台座の主も焼失してしまっている。
元の姿の面影すら残っていないそれを、私は強く握り締めた。
「私ならそうする、と思っただけだ」
愛する人に貰った大事な大事な指輪と共に逝くために、より確実な方法を。
――決して誰にも気づかれぬ場所へ飲み込んで。
(ああ)
結局のところ、私はわかっていなかったのだ。
私にとって彼女がどんなに大きな存在だったのか。あの高潔な強さにどんなに救われていたのか。
それでももう、空(から)の台座にダイヤモンドは還らない。
ようやく理解した私の頬を、一粒の涙が静かに流れていった。
最終更新:2010年10月24日 10:54