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御剣記憶退行・7 

「…………」
成歩堂が全て話し終えた後も、僕は声を発することができなかった。
「……僕が話せるのはここまでだ。あとはどうするかはお前次第だよ、御剣」
奴は最後にそう告げると、しばらく後に電話を切った。同時に力が抜けた僕の手から、受話器が滑り落ちる。
自分では何も考えることができなくて、ただ頭の中で、成歩堂の言ったことがぐるぐる回っているだけだった。
僕の父さんは、殺された。冥さんのお父さん……狩魔豪に。
「…………」
どうしても、僕の中に浸透してこない。受け入れることができないのだろうか。だって信じられないじゃないか。もしそれが本当なら、僕は父さんの敵の娘と……
「……ぐっ……!」
僕は口を押さえ、とっさに立ち上がった。洗面所に走って、込み上げて来たものを吐き出す。蛇口から流れ出る水が渦を作る様を、僕はただただ呆然と見つめていた。

彼女が、僕の父さんを殺した人間の……娘。
成歩堂が告げた事実は、僕をさらに奈落の底に突き落とした。
「……め……い、さん……」
歯切れが悪い……僕はどんな風に彼女を呼んでいたんだっけ。どんな気持ちで、彼女のそばにいたんだっけ。
彼女が言っていたことの意味が、ようやくわかった。
―私と貴方は元々……共にいるべきではないのよ―
こういう意味だったんだ。
冥さんの言っていたのは、こういうことだったんだ。
「…………」
もう何もわからない。体に力が入らない。
僕は足を引きずるように、洗面所を出て寝室のドアを開けた。
昨日、彼女と二人で眠ったベッド。そのことを思い返すだけで、胸の奥をかきむしられるような感覚に陥る。
この気持ちは何だろう。
悲壮感?
嫌悪感?
それとももっと別の……いや、もうどうでもいい。
僕は自分自身を誤魔化すように、床を蹴ってシーツの上に飛び込んだ。
眠りたい。眠って、目が覚めた時、僕はどうなっているんだろう。やっぱり状況は、変わらないのだろうか。
それとも、これはただの悪夢で、彼女がいつもの笑顔で「おはよう」と呼びかけてくるのだろうか。
……ううん、きっと本当は。何もかも忘れて、冥さん含むすべての記憶を、胸の痛みを失いたいんだ。
あれだけ、記憶を取り戻すことを望んでいたのに。今の僕は……冥さんのことも、父さんのことも、成歩堂達やその他……自分自身の事さえも忘れ去りたいと願っている。何もかも忘れて。辛い現実を、再び記憶の底に押し込めてしまいたかった。
なのに……
「……っ」
閉じていた目を開けても、そこにあるのは見慣れた室内と、何ら変わりのない僕自身。
「……っ……う、うっ……ッ!」
一気に押し寄せた息苦しさに、僕はシーツをかきむしった。
「いやだ……いやだ!父さん……うああああ!」
大好きだった、父さん。仕事には厳しい父さんだったけど、僕にはとても優しかった。
そして、絶体絶命の依頼人の無実を信じ、いつも全力で救って。
僕の、憧れだった。
なのに……その父さんが、どうして殺されなければいけなかったんだ……!
会ったことも無いのに、憎くてたまらないそいつの名前を呟く。
「狩魔……豪……っ!」
自分でも驚くくらいの、地の底から吐くような、絞り出したような声が漏れた。
狩魔豪……僕の父を殺した男。
そして……冥さんの父親。
そう。
なぜ、父さんを殺した人間が、冥さんの父親なんだろう……
僕はここまで来ても、うちを出て行った冥さんのことが気になっていた。
冥さんは、僕の父親を殺した男の娘。なのに、彼女に対しては、憎しみが湧くことは微塵にも無かった。
あくまで父親がやったこと。彼女は何も悪くない。そう言ってしまえば、それまでだが。
しかし、冥さんには狩魔豪の娘であることは、事実なのに。
「ごめ……父さん……」
僕は、薄情な人間だ。
憧れていた人も奪われたのに。信じていたその手を振り解かれたというのに。
どうしても、冥さんを恨むことができない。
「……僕に、どうしろというんだ……!」
こんな時。大人の僕だったら、一体どうするんだろう。
「……っ!」
弾かれるように、シーツから顔を上げた。
そうだ。
大人の僕。
成歩堂は、こうも言っていた。
DL6号事件の真実を知った後も、『僕』は変わらず彼女の側にいた……と。
「どうして……」
だって、自分の父親を殺した男の娘なのに。
なおも、彼女の恋人で居続けてたなんて。
ふと脇を見ると、彼女のドレッサーがあった。鏡に、僕の顔が映っている。憔悴しきっているけれど、その姿は紛れもなく青年の僕。
記憶を失った当初は、成長した僕が物珍しくて、頻繁に鏡を覗いていた。
でも最近は、逆にわざと目をそらしてたくらいだった。体は大人なのに、中身がてんで子供なのが辛くて。
「……ん?」
その時、ドレッサーの上にあるものに気がついた。化粧品の瓶の下に置いてある、一つの封筒。
少し右上がりの字で、
「レイジへ」
とだけ書かれている。
僕は、無意識のうちに、ゆっくりと手を伸ばして、それを取った。中身を出すと、手紙が入っていた。

『レイジへ

向こうに着いたら、一度連絡します。
当面の生活費は、成歩堂に預けてあるから、相談して使いなさい。無駄遣いしないように。

冥』

手紙にはこう簡潔に書かれていた。実に彼女らしい。
もしも何も知らないままだったなら、安易に受け止めて、彼女からの連絡を待ちながら過ごしていただろう。
けれど、すべてを知ってしまった今となっては……
これが、彼女からの最後の置き手紙になるのだろうか。
だけど。
手紙を仕舞おうと、畳んだ時に、それに気がついた。
便せんの裏に、小さく書かれた、

『 ひとりにして、ごめんね 』

この一文に、僕の心がざわつき始めたのだ。

僕に宛てた言葉なのだろう。
でも、本当に独りだったのは。
……冥さんの方、じゃないのか……?


仕事も、家事もこなして。
どんなに忙しくても、仕事を持ち帰ってまで、早く帰ってきてくれて。
どうしても遅くなりそうな時は、成歩堂たちを寄越して。
いつだって、僕の服、ベッドのシーツ、ハンカチを、きれいに洗ったものを用意してくれて。
僕のおみやげを喜んで受け取ってくれて。
お鍋を焦がした僕を叱って。
鼻血を出したときは本気で心配してくれて。
僕のいないところで、隠れて僕を思って涙を流して。

僕に寂しい思いをさせないために。
気丈に振る舞ってくれていたのは、誰だ?

僕が記憶を取り戻したいと熱望していたのは、誰のためだった?

今の僕にとっての『真実』は。

冥さんからの、抑揚のない別れの言葉じゃなくて。
未だに思い出せない、人伝に聞いた過去でもなくて。

冥さんと過ごした日々そのものじゃないのか?


体の奥底から、何かが僕をせっついて来る。
倒れるな、立ち上がれ、と、僕を煽ってくる。
まるで意識をつなぎ止めようとするように、シーツを力強く掴んでいる。

僕が今やるべきなのかは、僕が一番よくわかっていた。

「…………」
ベッドから降りて、しっかりと二本の足で立つ。まだちょっと震えてる足で一歩ずつ踏み出して、足の裏の感触を確かめると、僕は部屋を出た。
玄関で靴をはいて、うちを飛び出す。
ちょうど止まっていたエレベーターに乗り込み、地上へのカウントダウンを、僕はジリジリと見つめていた。
マンションのエントランスを出たところで、クラクションの音がした。
目を向けると、ものすごい勢いで、一台のパトカーがこちらに向かってやってくる。
けたたましいブレーキ音と共に、車は僕の前に止まった。
何事かと思って目を丸くしていると、開いた窓から一人の大柄な男が顔を覗かせた。
「御剣検事!」
なんとも言えない色の薄汚れたコートを着た無精髭の彼は、僕のことをそう呼んだ。
「御剣検事、早く乗るッス!」
聞き覚えのあるその声や口調に僕は、あっと声を上げた。
「イトノコギリ、ケイジ……?」
「そうッス!事情はアノ青く尖った弁護士に聞いたッス!御剣検事……大変だったッスね……でも、行くんスよね!?」
助手席のドアを勢い良く開けて、イトノコギリさんは身を乗り出して僕の顔をまっすぐ見た。
「狩魔検事の所に……行くんスよね!?」
顔に似合わず、真剣な表情で僕を見上げてくるイトノコギリさん。そんな彼に、僕は力強く頷いた。
「……はい!」
「なら早く乗るッス!全速力で飛ばすッスから!」
イトノコギリさんが体を引くと同時に、助手席に滑り込む。あろうことか彼は、僕がシートベルトを付ける前にアクセルを踏んだ。
「うぉぉぉお!しっかり掴まるッスよー!」
すごいスピードで急発進するパトカー。本当にこのひと、刑事なんだろうか。そう思ったけど、このひとの雰囲気に、緊張が幾分かましになったのも本当のこと。

相手は一筋縄じゃいかない。
会えるかどうかもわからない。
だけど……このまま追いかけずにはいられないのだ。

大人の僕なんか関係ない。
今、僕がやりたいこと。

もう一度……冥さんに、会う。
例え、これが最後になろうとも。

最終更新:2010年11月13日 15:50