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愚直な騎士の疾走と追憶




 その日の検事局は珍しく至って穏やかだった。
 上級検事室1202号では御剣怜侍の羽ペンの音だけが軽やかに紙面を踊る。
 部屋の主は時折手を休めて傍らの紅茶を口に運んだ。
 前日まで厄介な公判を抱えてばたばたしていた御剣にとって、この時間はつかの間の安息だった。
 (こんな日がせめて、今日一日だけでも続いてほしいものだ)
 御剣が心の中でそう念じてから、きっかり5秒後。
 そのささやかな願いは騒音と怒声で打ち破られた。

「み、みみ、御剣検事いぃ~! た、大変ッスうぅぅぅ~!!」
 1キロ先まで聞こえそうな声と、それに負けないくらいの大きな体の持ち主が、無駄に騒音をまき散らしながら部屋の中に駆け込んでくる。
「なんだ。騒々しいぞ、糸鋸刑事。それに部屋に入るときはノックくらいしたまえ。いつも言っているだろう」
 御剣は目の前の大男に視線を向けた。睨まれたカエルのごとく、糸鋸圭介は慌てて敬礼をする。
「はいッ! すまねッス! い、いやでもそれどころじゃないッス。大変なんッスよ!」
 しかし今日の糸鋸刑事は挨拶もそこそこに、慌てふためきながら御剣の方へ身を乗り出してきた。
 そのあまりの様子に、御剣の背中に嫌な予感が走る。

「どうした。報告したまえ」
「はいッス! 実は――」

 続けて出てきた言葉は、御剣の心を弾丸のように撃ちぬいた。



   ******



「御剣検事、は、走るの早いッス! 待ってくださいッス」
 5メートル後ろから糸鋸刑事の情けない声が聞こえてくる。
 しかし今の御剣にはそれに答える暇などなかった。
 持てる限りのスピードで走る御剣の脳内に、先ほどの言葉が巡る。


「狩魔検事が、今日これからお見合いするらしいッス!」

 糸鋸刑事がもたらした言葉はまさに青天の霹靂だった。
 狩魔検事……狩魔冥。お見合い。今日。
 何だそれは。
 思いもよらない報告に、思考が停止する。
「検事局のおエライさん主導で進んでたことらしいッス。狩魔検事は何度も断ったらしいッスが相手側もエラい人ッスから、かなり強い要請で断り切れなくなって……」
 そんな話は一言も聞いていなかった。
 脳が、ロジックをつなぐことを拒否している。

「御剣検事、いいんスか?! 止めなくて!」
 呼吸さえ忘れそうになっている御剣を現実に引き戻したのは、目の前の部下の大声だった。
「……止める?」
「そうッスよ。ジブンは御剣検事のことを良く知ってるつもりッス。だから御剣検事が狩魔検事のことを大切に思ってることもわかってるッス」
 糸鋸刑事は半ば御剣の胸ぐらをつかむような格好で言った。

「このままでいいわけないッスよ。一生後悔するッス!」

 彼はちょっと抜けたところがあるが、常に部下としてそばに控え、大事なところでは年長者としての機転を見せる男だ。
 年上の部下のまっすぐな瞳が、御剣の脳に失いかけた光を充填する。
「今ならまだ間に合うッス!」
 次の瞬間、御剣は椅子を蹴って部屋を飛び出していた。


「ホテルバンドー・インペリアル。ここで間違いないんだな」
 赤い毛氈が敷き詰められた広い廊下を走りながら、少し後ろにいる部下を振り返って聞く。
「はいッス! ここの離れの藤の間で……! っととっ、検事、前!」
 糸鋸刑事の警告のおかげで、御剣は障害物に当たる寸前のところで足を止めた。

「お客様! 廊下を全力疾走されては困ります」
 目の前に男が立ちふさがっている。
「退きたまえ。急いでいるのだ」
 無視して通り過ぎようとしたが、男は慌てて御剣を取り押さえた。
「いえ、当ホテルはVIPのお客様も多くいらっしゃいます。走られては多くの方に迷惑がかかりますゆえ、支配人といたしましては……うわああぁぁ!」
 先を急ぎたい御剣と、止めたい男。
 押し問答状態だったが、突然、御剣を押さえていた男が目の前で空に浮いた。
「検事、ここはジブンが止めるッスから、早く狩魔検事のところへ!」
 糸鋸刑事が、男の首根っこを掴みながら叫ぶ。
「すまない。行かせてもらうぞ!」
 御剣はそう言うと、振り返ることなく駆け出した。

「御剣検事いぃ~! 頑張るッスよおぉぉーー!」

 ひときわ大きな声が、御剣の背中を力強く押した。


   ******


 『藤の間』と彫られた重厚な板に目をやりつつ、少しだけ呼吸を整える。
 すぐそばにあるのは上品な襖だった。
 自分と目標を遮るその薄い板を、御剣は一気に横に引く。
 視界が開けた先に、見たかった顔があった。

「……怜侍?」

 訝しげに自分を見上げるその顔は確かに狩魔冥だった。
 しかし、今日の彼女は髪を結いあげ、薄い水色の地に華麗な花々がちりばめられた日本の伝統衣装をまとっている。
 初めて見る振り袖姿の冥に、御剣は息をのんだ。

「だれだね、君は」
「一体何の用だ!」

 部屋の中は他の者たちの驚きと憤慨の声が飛び交っていたが、どれも頭上を通り過ぎていく。
 御剣はただ、黙って冥を見つめることしかできなかった。
 ここに来たら言おうと思っていたことがいくつもあったはずなのに、顔を見たら気が抜けてしまって何一つ出てこない。
 先に動いたのは冥だった。

「ご苦労だったわね、御剣怜侍」
 冥は突然立ち上がると、御剣のもとへ歩み寄った。 
 なんだ。何が始まるのだ。
 まだ半分呆けている御剣を指し示しながら冥はこう言った。
「彼は私の同僚の検事よ。重要な事件が起こったから、私を呼びに来たのね」
 ね、と言われても……。 
「こんな席を設けてもらったのに残念だけど、そういうわけで私は事件の捜査に行くことになったわ。さ、行くわよ怜侍。現場はどこ?」
 どこ、と言われても……。
「今日の返事は後日お手紙でさせていただくわ。それじゃあ失礼するわね」
「メ、メイ……! うわっ」
 冥は強引に御剣の腕を取ると、そのまま御剣を引っ張って開け放したままの襖をくぐり抜けた。
 当然ながら『ま、待ちなさい狩魔検事!』とか『見合いはどうするんだ?!』という台詞が背中から追いかけてくる。
 しかし冥はすがすがしいほどそれらを無視して、御剣の腕を掴んだまま歩みを止めなかった。
「メイ、どこへ行くのだ?」
「………黙ってついてきなさい、このバカ!」

 離れから本館に戻り、ロビーのあたりまで来たところで、ようやく腕が解放された。
「メイ、一体、これはどういうつもりなのだ。重要な事件など、何も起きては……」
「どういうつもりですって? それはこちらの台詞よ、御剣怜侍!」
 御剣の言葉が終わる前に、鼻先に冥の細い指が突き付けられる。
「何故怜侍がここにいるの。そしてなぜ突然あの場に乱入してきたのかしら?」
「そ、それは……」
 事情を説明しようとしたところで、御剣は周囲の視線に気づいた。
 ここはホテルのロビーで、行き交う客や従業員がこちらをちらちら見ている。
 冥もそれに気が付いたようで、突き付けていた指をきまり悪そうに下ろして言った。
「着物の着付けや準備があったから、ホテルに部屋を取ってあるの。そこに行きましょう」


 振り袖姿で歩き慣れない冥をエスコートしながらたどり着いたその部屋は、ホテルの最上階に位置し、洋間のほかに畳敷きの小上りがある広いものだった。
 洋間にはテーブルセットや小型の冷蔵庫、テレビなどがあり、こちらはおそらくリビングのような使い方をするのだろう。
 畳の方は着付けに使用したらしく、着物を掛ける折り畳み式の木枠や薄い箱のようなものが置かれている。
 木枠の方は『衣桁』、箱の方は『衣装盆』と呼ぶのだと、二人分の紅茶を淹れながら冥が言った。
 部屋に備え付けてあるティーバッグの紅茶だったが、温かい飲み物は御剣の心にしばらくぶりの落ち着きを取り戻させてくれる。
 そんな御剣の様子を見て、冥は半ばあきれたように口を開いた。

「まさかお見合いの最中に乱入してくる男がいて、しかもそれが怜侍だなんて、さすがの私も驚いたわ。私がとっさに気を利かせなければ、怜侍は今頃袋叩きに合っていたところよ」
「君が、無理矢理見合いをさせられていると聞いて……つい」
「聞いたって……、ああ、ヒゲからね。全くあのおしゃべり刑事!」
 形の良い眉を吊り上げて、冥は怒りの表情を見せた。
 話が脇道にそれないうちに、御剣は話題を元に戻す。
「君は今日の件をずっと断っていたとも聞いた」
「検事局上層部に昔なじみの検事がいて、その人が仲介人なの。ずっと打診されていたけれど勿論その都度お断り申し上げたわ。
 でも、先方が私の写真を見てどうしてもと。会う前から断るのも失礼だって言われて。あまり無下に却下するのも……」
 冥はそこで言葉を濁した。
 立場がどうであれ、いつも自分の意思をはっきり表明する冥が、なぜか口ごもる。
 御剣の中でロジックがつながった。

「君に見合いの仲介をした上層部の検事。それは多分、君の父親であり、私の師匠でもある狩魔豪にゆかりのある人物か……」
 さっと伏せられた冥の瞳が、御剣の推理は正しいことを証明している。
「パパの件は、本人だけではなく、検事局全体の信頼を地に落とすに値するものだったわ。外部からも内部からも批判が沸いた。実の娘である私が日本で法廷に立つときも、仕方のないことだけれど少し余波はあって……。
 いま上層部にいる検事のうち数人はパパの知り合いで、私のことも良く知ってくれていたから口添えしてくれたのよ。彼らの助けが無かったら私の立場はもっと別のものになっていたかもしれないわ。
 そんな人の頼みを、無下に断ることがどうしてもできなくて……」
「しかし、だからと言って見合いまでしなくてもいいだろう。断ることも可能とはいえ、多くの場合は縁談も絡んでくる話だぞ」
「そうね。でも重要な話だからこそ、断るのも難しいのよ……」
 淡々と事情を説明してはいるものの、冥の言葉にはここ数か月の彼女の迷いや、逡巡する想いが積み重なっていた。
 数か月。いや、もっと。
 その間、自分は何ができたのか。何もできていない。すぐそばにいたのに。

「とにかく、今日あなたが突然部屋に乱入してきた理由はわかったわ。私の身を案じてくれたということだし。お礼も言わなければならないわね」
 冥は軽く溜息をつきながら立ち上がり、窓際へ歩み寄る。
 一歩ごとに、纏った振り袖がつかみどころなく彼女の周りで揺れた。
 テーブルに置かれた2客のティーカップはすっかり冷め、最上階から見える景色はいつの間にか夕暮れに変わっている。
 しばらく窓の外を眺めたあと、冥は不意にこちらを振り返った。
「もし、次にこんなことがあっても、もう気にしなくていいわ」
「……何だって?」
「だから、もし次に私がお見合いをすることになっても、止めに来なくていいと言っているのよ」
「しかし、先ほど自分で断るのは難しいと」
「解っているわよそんなこと。解ってる……。私だってどうしても嫌なときは断るわ」
「断れなかった結果が、今日のこの事態ではないか」
 甘い仮定に事実で対抗すると、冥は押し黙って唇を噛む。
 しばらくの沈黙の後、彼女は目をそらしたまま呟いた。

「……どちらにしろ、怜侍には関係のないことだわ」

「関係ないわけがないだろう!」
 御剣は思わず声を荒らげた。
 そのあまりの剣幕に、冥は目を見開いたまま呆然としている。
 御剣は窓のそばで立ち尽くす冥のもとへ歩み寄り、腕を掴んだ。
 何層かに重なった着物の生地を通してさえ、華奢な身体の感覚が伝わってくる。
「痛っ……、何をするの怜侍」
「聞きたまえ」
 抵抗しようとする冥を一喝した。

「何故、私が今日、君の見合いを壊しに来たのか。いちいち説明した方がいいのだろうか」
「えっ……?」
「糸鋸刑事に話を聞いたときは、この世の終わりかと思ったぞ」
「なっ……何を言ってるの」
 冥の頬がさっと朱に染まった。
 御剣は構わず先を続ける。
「人生を掛けて止めようと思った。止めなければ後悔すると。そうでなければ、こんなに息を乱して、取り乱して、走ってきたりはしない」
 腕を振りほどこうと抵抗していた冥は、いつの間にか身じろぎひとつせず、御剣を見つめていた。
 御剣はもう一方の腕も拘束し、顔を彼女の耳元に寄せて囁くように問う。
「まだ、説明は必要か?」
「……怜侍」

 腕をいったん解放し、背中ごと引き寄せる。
 しかし抱きしめる寸前で、冥は御剣の胸板を軽く押し戻して言った。
「待って。説明……、必要だわ」
 冥の薄いブルーの瞳が、滲むように潤んでいる。
「怜侍の今の気持ち。説明してと言ったら、してくれるの?」
 必死に強気の表情を保ちながらも、涙腺は決壊しそうで。
 そんな彼女がたまらなく愛おしかった。
「……上手く伝わるかどうかはわからないが」
 胸板にかかっていた冥の力がすっと抜ける。
 今度こそ抱きしめた腕の中で、彼女は言った。 
「説明しなさい」

「承知した」
 細い顎に指を絡ませ上を向かせる。
 そのまま目を閉じて、唇を重ねた。


   ******


 着物の帯を解きながら、畳へ上がり込む。
 帯を解いてしまうと着物の前はあっけなく開き、すべて脱がすのにさほど手間はかからなかった。
 薄い水色の生地の下から露わになった肌の白さに、思わず見惚れる。
 身体じゅうに口付けながら自らも衣服を解き、組み敷いて肌を重ねた。

 初めて会った時、まだ冥は年端の行かない少女で、大切な師匠の娘だった。
 それからいろいろなことがあった。一言では片づけられないほどに。
 顔を合わせれば叱責されたり機嫌を損ねられたり。
 それでも、迷った時に聞きたいのは彼女の言葉で、実際に幾度も助けられた。
 ただのお転婆だと思っていた彼女を、一人の女性だと意識したのはいつだろう。

「やっ」
 白い膨らみの頂上にある突起に触れると、冥の身体がぴくんと上下する。
 触れるのをやめずにいると、冥は眉根を寄せながら、身体を捩った。
 そのたびに身体のひときわ柔らかな部分がなまめかしく揺れ、情欲をかき乱す。  

 自分が冥のことをどう思っているか。それにはかなり前から結論が出ていた。
 それなのにこんなことになるまで行動に移せなかったのは、ひとえに自分が怠惰だったからだ。
 何の根拠もなく、冥はいつまでも隣にいて、一緒に歩いてくれるという奢りに似た感情があった。
 勝手な妄想に甘えながら、部下に叱咤されるまで何もしようとしなかった。
 でも今この瞬間、すべてを抱きしめながら思う。……このまま手放したくない。

「んっ……はぁっ」
 冥の脚を開いて身体を滑り込ませ、もっと深いところに中指を差し入れると、その唇から甘い声が漏れた。
 少しずつ指を進めると次第に吐息も乱れ始める。
 指を引き出すたびにそこは急速に潤みを帯びていった。
「やっ…んっ」
 冥の片手が、畳を強く引っ掻く。
 御剣は冥の腕を取り、自分の背中に回した。
「こうしていたまえ」
 言いながら、瞳に浮かぶ涙を拭う。
「辛いか?」
 冥は首を横に振る。
「……怜侍」
「何だ」
「爪、立ててしまうかも、しれなくて。背中に。だから……」
 呼吸を乱しながら、何を言うかと思えば。
 御剣の身体から腕を離そうとする冥を、強く抱き寄せる。
「構わない。このままでいろ」

 限界だった。
 腰を引き寄せて挿し込み、ゆっくりと最深部へ向かう。
 感触を確かめながら少しずつ体勢を変え、その位置を探った。

 御剣の動きに合わせて冥は身体をしならせ、背中に回された手に力がこもる。
 その小さな爪が食い込む度に湧き上がるのは、優越感に似た甘美な気持ちだった。
「あぁっ……!」 
 やがて一番敏感な一点を見つけ、御剣はそこを執拗に突いた。
 結合した部分はこの上なく淫靡な水音を立てる。
 切ない声が行為を加速させ、漏れる吐息が心を揺さぶった。
 締め上げられる快感に「くっ」と息を漏らさずにいられない。

 ギリギリまで耐えてから、御剣はすべての理性を手放した。   
 それは熱く滾るものとなり、冥の身体の一番深いところに注がれた。


   ******


 総檜の浴室は、余韻を味わうのに最適すぎるほどの場所だった。
 木の香りを感じながら、浴槽の中で冥を後ろから抱き寄せる。
「ねえ怜侍。私から提案が二つあるの」
 御剣に半分体重を預けながら、冥は言った
「何だろうか」
「一つ目。もし、また、今回みたいに縁談を持ち込まれそうになったら……」
「うム」
 冥がくるりとこちらに顔を向ける。
「怜侍の名前を出してもいいかしら」
「私の名前?」
「ええ。大事な人がいるから、って……」
「……!」

 冥の口から出た『大事な人』という言葉が、自分を指していることに気付いた瞬間、口角が跳ね上がってしまった。
 その響きは思った以上に甘く、御剣の顔を締まりのない表情へと変えてゆく。
 それを必死に抑えつつ、御剣は冥を抱く腕に力を込めた。
「当たり前だろう。私の名前を出して断れるのならば、何百回でも出したまえ」
「じゃあ明日からそうさせていただくわ。次は、二つ目の提案」
「何だ」
 抱きしめたまま促す。
 今日ならば、冥の頼みをいくらでも聞ける自信があった。
「ええ、あのね。二つ目の提案は、もう一人の功労者へ……」




 ――数日後。
 ホテルの支配人と小競り合いになった件で始末書を書かされていた糸鋸刑事のもとに、一通の知らせが届いた。
 その知らせを受け取った彼は、天井に届くほど飛び上がって喜んだそうだ。

「ひゃっほぉー! 来月から、ジブンの給料が、ちょっぴり上がるッスよおおお~!!」


                    (終) 


最終更新:2013年09月03日 10:29