日本の狩魔邸の庭は、見事な四季咲きの薔薇園となっている。ある日、珍しい人物が庭を散歩していた。
彼女の名は狩魔冥、屋敷の主人の娘だが、普段はアメリカに住んでいて検事になる為勉学に励んでいる。その甲斐あって13歳という若さでアメリカで検事になるのも時間の問題だろうという。
そんな彼女の久々の帰省を喜ぶかのように薔薇は咲き乱れていた。
「メイ、どうした。こんな朝早くに」
冥に声をかけたのは御剣怜侍、冥の父狩魔豪の弟子で、冥より一足早く日本で検事となった。
爽やかな朝に薔薇の咲き乱れる庭で、むすっとした顔つきで冥は振り返る。
「別に、何でもないわ。ちょっと散歩してるだげ」
「ム…そうか」
冥の不機嫌の理由は御剣にははっきりとはわからないが、候補になりそうな事はいくつもある。
御剣が先に検事になった事、先日の事件でみすみすヤタガラスを取り逃がした事、豪が仕事で忙しく娘と語らう時間がない事…
あまり余計な事を言って冥がもっと不機嫌になると、ムチが飛んでくるかも知れない。黙って御剣は生け垣からピンクの薔薇を摘んで冥に差し出した。
「何?」
「これはダマスクローズという。香りが気分をよくする効果があるそうだ」
「…フン、一体どこの女の入れ知恵なんだか」
目を丸くして受け取った冥だが、その説明は気にくわなかったようだ。
「何の話だ。これは…」
御剣が語ろうとしたその時、地面が激しく揺れた。
地震!
アメリカ育ちで地震に慣れない冥は、その場にしゃがんで頭を守った。
揺れていたのは僅かな時間で、冥はすぐに立ち上がった。
「…レイジ?」
そうだ、あの生意気な弟弟子は地震が苦手だったのだ。
しかし御剣の姿はどこにも見えなかった。一体どこに行ったのだろう。走ってどこかに逃げたのだろうか。
「レイジ?どこ?」
薔薇の生垣を曲がると、果たしてそこに御剣怜侍はいた。
いたにはいたが…
「あ、あ……」
薔薇の茂みに埋もれるようにしゃがみこみ、恐怖で涙を流していたのは……ほんの十歳の御剣怜侍だった。
「レイジ!?」
「あ、う…」
名を呼ばれ振り向く御剣少年。しかし、怯えの色は消えない。
一体これはどういう事なのか。何かの冗談なのか。
冥にはさっぱり理解ができなかったが、とにかく膝小僧を抱えて怯えるコドモを放っておくわけにはいかなかった。
「レイジ、大丈夫よ。地震はもう収まったから」
抱き締めて背中と頭を撫でてやると、御剣は強張っていた体の力を抜いて、それからシクシクと泣き出した。
「この花を嗅いでなさい。気分が落ち着くから」
冥は先程御剣(大人の!)から貰った薔薇を小さな御剣の手に持たせてやり、御剣は泣きながらも薔薇を受け取った。冥はその素直な姿に何故か心の充足を覚えた。
泣き声がしゃっくりになり、ようやく少年が落ち着くと、冥は御剣を離してやった。
「落ち着いた?レイジ」
「は、はい……あの…あなたは…」
困惑した表情で冥を見上げる御剣。
一体どうなっているのだろう。御剣が急に小さくなって冥を忘れてしまったのだろうか。
それとも映画や小説などでよく見るタイムスリップ?バカバカしい。それこそ空想の世界だ。
しかし目の前の御剣は10歳程のほんのコドモであり、冥を見知らぬ大人として見上げているのは事実だった。
「あの…先生の、お嬢さんですか」
「え、ええ…」
父の事はわかっているらしい。
「やっぱり。だから僕の事を知ってたんですね。初めまして。変なところを見せてしまってすみません。僕、地震が苦手で…少し前に、地震で凄くイヤな事があって…」
「………」
やはりこれはタイムスリップなのだろうか。だとしたら、今自分が何か下手な事を言ってしまうと、何か未来におかしな影響が出てしまわないだろうか。
冥は素早く頭を巡らせた。
確かこの頃自分自身はアメリカにいて、姉は国内で全寮制の学校に通っていた筈だ。父はいつも仕事で忙しく、母も家には寄り付かない。
使用人にさえ見つからなければ、御剣には姉と思い込まれても支障はないだろう。
「この花…ありがとうございます」
「ああ、気にしないで。その辺に咲いてるものだから」
庭の景色にはあまり変わりがない。ダマスクローズの生け垣も、アーチも、噴水も邸宅も。
「立派なお庭ですね。アメリカの家もこんなに広いんですか?」
「……アメリカの家はもっと大きいわよ」
「下のお嬢さんが一人で住んでるんですよね。僕、もうすぐそこに行くんです。その方が検事になる近道だって先生が…」
「…そう」
冥は知っている。御剣はそこで三歳の冥と出会い、共に切磋琢磨していく事を。そして、御剣の方が一足早く検事になる事も。
「言っておくけど、妹の冥は天才なんだからね!あんたなんか足元にも及ばないわよ!せいぜい死に物狂いで勉強する事ね!」
「え?は、はい…」
急な剣幕に御剣は圧倒されたらしい。目をぱちくりさせて冥を見ている。
しかし…これからどうすればいいのだろう。いつまでも庭に隠れてはいられない。しかし元の時代に帰る手段なんて…
冥が頭を抱えていると、御剣が質問してきた。
「あの、お姉さん、この花も薔薇なんですか」
「…ダマスクローズっていうのよ」
‘お姉さん’呼びは悪い気はしないが、正直それどころじゃない。
ダマスクローズですかキレイですねいい香りだし…と話しかける御剣をよそに、どうすれば使用人に見つからずに屋敷に入れるか、目を閉じて庭と屋敷の移動ルートを考えていると…
また、地面が揺れ出した。
次に目を開けた時には小さな御剣は隣にいなかった。
まさかと思い、生け垣の向こうを探すと、そこにいたのはガクガクと震える20歳の御剣怜侍だった。
「レイジ!戻ってこれたのね!」
「う…ム、メイ…君は大丈夫…か」
青い顔をしながらも平静を取り繕おうとする御剣が何故か憎たらしくて、無抵抗なのをいいことに頬をうんとつねってやり、それから抱き締めて頭と背中を撫でてやった。10年も前になる先程、小さな御剣にそうしてやったように。
顔色が戻り呼吸も安定した御剣に、冥はダマスクローズを手折ってやった。
「香りが気分をよくするんでしょう」
「ああ…やはり姉妹だな。効能を教えてくれたのは君の姉上でな」
「知ってるわよ。レイジがここで地震にあって、泣きじゃくってた時に教えてくれたんでしょう?」
「グッ…そ、そうだ。よく知っているな。先頃姉上に再会した時には姉上自身は覚えていなかったのだが…」
「そうでしょうね」
冥は笑いを堪える為に御剣に背中を向けた。
「しかし、血の繋がりとは凄いな。君と姉上はあまり似ていないように思うが、今の君はその頃の姉上にそっくりだ」
今度こそ冥は吹き出した。
何が冥の笑いのツボに入ったのか御剣にはわからなかったが、その笑い声は地震でダメージを受けた御剣の気分をすっかり回復させた。
初恋の君が教えてくれた薔薇の芳香よりもよく効くな。そう思いながら御剣は手に持つ花の香りを嗅いだ。
最終更新:2012年10月22日 14:18