アットウィキロゴ

御剣記憶退行(続き)6



御剣検事!と何度も僕を呼ぶ声が、受話器から漏れている。
けれど、その呼び掛けに答えることも出来ず、僕は冥さんを見つめ続けた。
そんな僕を横目に、冥さんは受話器をゆっくりと置いた。
「何をしてるの?見送りしてくれるんでしょ?」
そして僕から離れ、リビングを出ようとする。
「冥さん!」
呼び止めると、彼女は表情も無く振り返った。思わずギクリとした。
「あ……の……」
喉が貼りついて、声が掠れる。
「今……イトなんとか、て人から……電話で……冥さんと、話をしたいって……冥さんが、その……検事局、をっ……」
うまく言葉を紡げない。事実を確かめたくなくて。
だって、冥さんが検事局を辞めたなんて、外国に行くのは、出張のためではないなんて、信じられない。
だから、冥さんが「それは出鱈目だ」と否定してくれるなら、いくらでも、冥さんが『出張』から帰ってくるのを待とうと思ったんだ。
けれど……
「……」
冥さんは、クッ、と喉を鳴らしたかと思うと、
「……なんだ。あのヒゲ刑事、予定より早く帰ってきたのね」
僕に口を歪めて、笑ってみせた。
「……」
僕が何も言えないでいると、冥さんはこちらに向き直り、腰に手を当てて話し出した。
「聞いたと思うけど……そういう事よ。私は検事局を辞めて、日本を出る……ここには、もう戻らない」
「じゃあ……僕は……」
「悪いけど、これでお別れってワケ。何も知らせずに出て行くつもりだったのに、ヒゲのせいでパーだわ」
そう言って肩をすくめてみせるが、ちっとも残念そうに見えない。
「どうして……」
握りしめた拳が、小さく震える。そんな僕の様子を知ってか知らずか、なおも冥さんは続ける。
「だって、ここは元々貴方の部屋だし。私はそこに転がり込んだだけ。でも……一緒にいる理由が無くなった今、私がここにいる必要はない」
「理……由……」
それは何か、と問い掛けようとするが、言葉が詰まる。
僕に向ける冥さんの冷たい視線が、語っていたのだ。

『だって貴方、思い出してくれないじゃない』と。

「貴方の記憶から私の存在、思い出、気持ちが消えて……こんな状態で恋人と言える?昨夜だって……貴方は私が隣に眠っているというのに、触れようともしなかった」
女としてすらも、見てもらえなくなったみたいね。
そう言って、冥さんは自嘲気味に笑うが……遠まわしに僕が嘲られているような気がした。
そんなこと言われても。昨日は、確かに妙な気分にもなったけど、中途半端な行動で冥さんを傷つけたくなくて。
それに、側にいるだけで、胸がいっぱいになって。
「別に責めてる訳じゃないから誤解しないで。記憶を無くした不自由な状態でも、この状況についてきてる貴方を見て思ったの。貴方なら、たとえもし記憶が戻らなくても、この世の中に順応できると……ただ、その世界に私は要らないってだけで」
「違う……」
僕は首を横に振った。
「最低限の生活能力も身に付いたし、成歩堂達もついているから、心配しなくていいでしょう」
「嫌だ!」
つい叫んでしまい、冥さんの言葉を遮った。
「僕には冥さんが必要なんです、だから……ここにいてください!絶対記憶を取り戻すから!冥さんのことを思い出すから!」
「じゃあ、それっていつの話よ!?」
烈しく冥さんに言われ、僕はまた何も言えなくなってしまった。
「私はそんなに悠長に待てない……それに、貴方の記憶が戻ろうが戻るまいが、そんな事は大した問題じゃないの。私と貴方は元々……共にいるべきではないのよ」
冥さんのその言葉の意味がわからなかった。記憶を無くす前の僕達は、うまくいっていなかったのか?
でも、たとえ本当に僕のことを嫌いになって出て行くにしても……検事を辞めるまでの理由にはならない。
一体、どうして。
どうして、仕事を辞めて、ここを出ていかなければいけないんだ?
「……飛行機の時間があるから、もう行くわ。じゃ」
さっ、と冥さんがリビングを出ようときびすを返す。
「……待って!」
僕は思わず、冥さんを引き留めようとした。彼女の左手に手を伸ばし、その手を強く握る。しかし。
「離して!」
それは強い力で振り払われ、僕の手の中には、冥さんの黒い皮手袋しか残らなかった。
その時だった。
『それ』が、僕の目に飛び込んできたのは。

手袋に覆われていた冥さんの左手の薬指。
そこに、小さく輝く石のついた、シルバーのリングが見えたのだ。

「……っ!」
僕の視線の先に気がついた冥さんが、慌てて右手でそれを隠す。
ピアス以外のアクセサリーを滅多に身につけない冥さんが、指輪をしている。
その事に僕は、違和感を覚えた。
……薬指の、リング。
「冥……さん……?」
掠れた声で名前を呼ぶ。すると、左手を隠して俯いたままだった冥さんの肩が、微かに震え始めた。
「ん……ふふ……」
そしてやがて声高らかに、笑い始めた。
「あははっ、見つかっちゃったわね……ええそうよ。貰ったの」
素敵でしょう、と彼女は今度は得意げに指輪を見せつけた。
貰った?……それって……
僕が目で問いかけると、冥さんが笑顔で頷いてみせる。
「……そういうこと。私にはちゃんといるの。こうして……指輪を送ってくれる人が」
ごめんなさいね。そう悪びれず微笑む冥さんを見て、心臓を鷲掴みにされるような痛みが走る。
見たいのは……そんな蔑むような笑顔じゃない。
「私は……この指輪をくれた人を幸せにしたいの。彼のくれた気持ちがあれば、どこでだって生きていける。だから……貴方の側にはもう居られない……悪く思わないでね」
近くにいるのに、冥さんの声が遠い。受け入れたくないからだ、きっと。
冥さんに、他に想い人がいたなんて、信じたくないからだ。
「……さよなら」
最後にそう言い放って、冥さんは僕から離れ、リビングを出た。
僕の足は、動かなかった。
玄関の扉が閉まる重い音の後、僕はリビングの床にくずおれる。
しん……と、家の中を静寂が包んだ。
何も、聞こえない。
体の中が空っぽになったような、空虚感。
自分が息をしているのかさえ、わからなかった。
何を考えるわけでもなく、泣くわけでもなく。
ただ、さっきまで冥さんがいた場所を、黙って見つめていた。



どのくらい、時間が経った頃だろう。
うなだれた僕の顔を上げさせたのは、電話の着信音だった。
頭の上で、固定電話が鳴っている。
僕は惰性で腕を伸ばし、受話器を引きずりおろした。
『もしもし!狩魔検事!それとも御剣か!?』
受話器に耳を当てると、聞き慣れた声がした。
「……成歩堂……」
相手の名前を呟くと、奴はさらにボリュームを上げる。
『御剣!本当なのか?……狩魔検事が、検事局を辞めたって……!』
成歩堂は、さっきイトノコ刑事から連絡が来たとか、狩魔検事の携帯にかけても電源が切られていて繋がらないとか、次々にまくし立てている。僕はそれに返事をする訳でもなく、黙って聞いていた。
『話が見えないよ。しかも彼女、外国に行くとかどうとか……!』
成歩堂の話を聞いているうちに、だんだん思考が追いついてきた。自分が今置かれている状況が、だんだんわかってきた。
「……そうみたいだね」
自分でも驚くくらい、冷静な返事ができた。
「冥さんは、さっき出て行ったよ……僕とは一緒に居られないって。僕らは一緒にいるべきじゃないって……」
冥さんにぶつけられた言葉を一つ一つ反芻していく。
そのたびに、彼女はもういないんだと、現実を思い知らされる。
『「一緒にいるべきじゃない」……?じゃあ、お前、聞いたのか……?あの事……』
あの事、と何故か言葉を濁す成歩堂。別に気を使わなくていいのに。ちゃんと知っているのだから。
「ああ……指輪の相手だろう?」
いっそ笑われたほうがマシだ、と、つい投げやりに返事をしてしまった。
しかし。
『……指輪?』
成歩堂の反応は、想像していたようなものではなかった。
『なんだよそれ?』
「冥さん、他に好きな人がいるみたいだよ……そいつから指輪貰ったって、さっき見せられた」
こんな惨めなこと言わせないでほしい。
内心イライラしつつもそれをこらえて、僕は説明した。
『…………』
何なんだろう。それから成歩堂はしばらく『……もしかして……だとすると……』とか一人でブツブツ言っていた。
「……切っていいか?」
『あ、いや、その……ゴメン』
はっきり言って、今は誰とも話をしたくなかった。何を考え込んでるのか知らないが、自分の世界に入ってしまった成歩堂に付き合えるほど、心に余裕はない。
『悪い……御剣が辛い時に。でも……そうだな。もう少し、時間をくれないか』
正直、断りたい所だったが、もう何もかもどうでも良くなって、僕は了承する。
『……話しておきたいことがあるんだ。僕が話せるのは、捜査で知った内容と、おまえから聞いた言葉の端々だけだけど……』
やたら勿体ぶるような話し方をされるが、我慢して先を待つ。歯切れが悪いながらも、やがて成歩堂はポツリポツリと話し始めた。
『こんな事になるなら……もっと前に知らせておくべきだったのかもしれない……お前、この前僕に聞いたよな?御剣の親父さんは、どうして亡くなったのかって』
「!」
受話器を握る僕の手に、力がこもった。
ずっと、知りたかったけれど、聞けなかったこと。
僕の無くしたもう一つの記憶。
でも、なぜ今この話が出てくるんだ……?
成歩堂は一呼吸置いた後、ゆっくり話し出した。

DL6号事件。
僕の父さんが……殺された事件のことを。



空港へ向かうため、予め呼びつけておいたタクシーの中で、冥は窓の外をぼんやり見つめていた。
今朝まで御剣と暮らしていたマンションが、だんだん遠ざかってゆく。
これで良かったのだ、と小さく呟いた。
左手の薬指で、指輪が鈍く光っていた。

御剣が記憶を無くしてから、いや、それ以前から冥はずっと考えていた。
このまま、御剣の側にいていいものなのかを。
父・狩魔豪が逮捕された後も、御剣はそれまでと変わらない様子で冥に接した。
日本の検事局に異動した冥に、一緒に住まないか、と持ちかけてくれた。

自分の父親を殺した犯人の娘だというのに。

確かに御剣は、ちゃんと冥を愛していた。
その事はわかっていた。疑ったことはなかった。
成歩堂や糸鋸たち、知人も好意的に受け止めて、自分達のことを応援してくれていた。
仕事仲間も、仕事をしっかりとこなす優秀な二人を、ちゃんと認めてくれていた。
しかしごく一部では、御剣と冥を好奇の目で見ている人物もいたのだ。
冥に対しては『殺人犯の娘』、御剣に対しては『父親を殺した犯人の娘を恋人にする、神経がおかしい男』。
バカと天才は紙一重だ、とまで、陰で噂する人間もいたらしい。
御剣は「気にするな」と、むしろ冥を気遣う側だった。冥もそれに応えるべく、なおも仕事に打ち込んでいた。

だが、そんな中今回の事件が起こる。
御剣の記憶が、少年時代まで退行させるに至った、エレベーター事故。

そのショックで冥や父親の死についても忘れてしまった御剣。
一見不幸な事故に見えたが、冥にはそれが偶然だとは思えなかったのだ。
これは、起こるべくして起こったことなのではないか。
不自然な自分達二人が、あるべき姿に戻っただけなのではないか。

忌むべき過去は、消せはしない。
けれど、彼の中に自分の存在を刻み込む前に、姿を消すのは可能ではないか。
ずっとそう考えていた。
そして、この指輪を見つけた時に、ようやく決心がついたのだった。

「……ごめんなさい、レイジ」
エンジン音にかき消されるほどの小さな声で呟いて、冥は皮手袋をつけた右手で、左手を大事そうに包む。

あんな別れ方、きっと傷ついただろう。
だから、恨んでくれていい。
元々それで当たり前な存在だ。
そして、もしも記憶が戻ったときも、ひどい女だと憎んでほしい。
相手の心には傷を残し、自分だけ綺麗な思い出だけ持ち去る女だと。

だから……自分は泣いてはいけない。それなのに。
「……」
遠くなってゆくマンションを、冥は滲んだ視界のまま見つめ続けた。
最終更新:2010年03月17日 15:55