御剣記憶退行(続き)3
冥さんと一緒に住み始めて、半月ほど経った。
冥さんが笑顔を見せてくれたあの日を境に、僕たちはより沢山話をしてきた。
それまでは、記憶を取り戻すために僕のことばかり訪ねていたが、冥さんについての話もいっぱい知ることができた。
例えば、冥さんは映画よりも舞台派とか、甘いものは好きで、辛いものは苦手だとか。
あと動物では猫が好きで、ずっと飼いたいと言ってたけど、大人の僕が全然許してくれなかったらしい。
それは僕もなんとなくわかる。冥さんが喜ぶなら……とは思うが、もし本当にうちに猫がいて、冥さんは猫の世話ばっかりで、僕のことなんか構ってもらえなかったら……
だからきっと大人の僕も、猫を飼うのを反対してたんじゃないかと思った。
冥さんも、僕との時間を沢山作ってくれた。
毎日仕事で忙しいだろうに、夜の八時までには必ず帰ってきて、僕はリビングから、冥さんはご飯を作りながらキッチンから言葉を交わす。
そんな感じで、楽しく……少なくとも僕は暮らせていた。
相変わらずベッドは使ってくれないのが残念だけど。
「ただいま」
冥さんが仕事から帰って来た。僕は立ち上がって、玄関へ出迎えに行く。
「お、お帰りなさ、い」
ぎこちないながらも、なんとかお帰りは言えるようになった。彼女が抱えたスーパーの紙袋を預かって、キッチンに向かう。
「遅くなってごめんなさいね。今日は簡単になってしまうけど、おうどんでいい?」
「そんな。僕うどん好きですよ」
簡単な手伝いだけでもと、袋の中身を冷蔵庫に入れながら、僕は答えた。
冥さんは『簡単なもの』と言うが、僕としては料理ができる時点で尊敬に値する。
どうやったらピーラーで指を切らないで野菜の皮をむけたり、コンロを点けてもガス会社が駆けつけなかったり、カルピスを上手に作れるんだろうか。
学校の成績はいい僕だが、こればっかりはわからない。
とりあえず僕は邪魔にならないよう、用事を終えるとリビングに戻った。
うどんかあ。そういえば、うどんは父さんとよく食べに行く。おいしいうどん屋があって、父さんの仕事が終わった帰りに、よく連れてってもらってた。
母さんは洋食好きだから、あまり作ってくれなくて、お店で食べるうどんは素朴な味が新鮮に感じて、僕の好物だった。
……あ、そういえば、聞いてなかったな。父さんのこと。
冥さんは知っているんだろうか。
「あの、冥さん」
「なあに?」
リビングから声をかけると、冥さんは返事をして、話をしてくれる。これが最近の僕らのスタイルだった。冥さんはシンクにお鍋を置いて、水を入れようとコックを捻った。
「僕の父さんは、どうして亡くなったんでしょうか?」
ザー。
蛇口から水が出てくる音。
冥さんは、顔を上げてこちらを向いた。
「……」
じっと僕の顔を見ている。
な、なんだろう。何か悪いこと聞いてしまっただろうか。
僕は心配になって、冥さんの返事を待った。
やがて冥さんは口を開いた。
「……レイジ」
小首を傾げたまま、水を止める。
「ごめんなさい、よく聞こえなかったわ。今なんて?」
そしていつもみたいに、僕に小さく笑いかけた。
「あ……えと」
しまった。声が遠かったか。
でも、変なことを聞いてしまったかもしれない。冥さんは仕事で疲れているんだし、第一、冥さんにも、お父さんはいないみたいなのに、こういうこと聞くものじゃないな。
「あ……えっと、なんでもないです」
僕は首を振って冥さんに笑い返した。冥さんは「そう?」と言って、また料理を再開する。
気になるけど、今度成歩堂あたりに聞いてみればいいか、と思い、僕は、冥さんが作る夕食を心待ちにした。
「最近忙しいみたいッスね、狩魔検事」
後日。検事局・上流検事執務室階層廊下。
前を歩く須々木マコに声をかけられ、冥は顔を上げた。
「……そう見えるかしら?」
「見えるッスねー、顔色もあまり良くないみたいし、お疲れなんじゃないッスか?」
同じ口調の見知った刑事が同じ事を言ったのであれば「余計な詮索をするな!」とムチで叩くところだが、相手が同性の新人警備員ということもあり、冥はグッと堪える。
彼女の言うとおり、冥は疲れていた。
休職中の御剣から案件を引き継ぎ、加えて自分の仕事。同じチームの人間に振り分けているとはいえ、仕事は倍近くに膨れ上がっていた。
それでもなんとか無理を言い、定時で帰らせて貰っていた。家でできる仕事は持ち帰り、周りの人間に支障が出ないよう努めた。
「ムリしちゃダメッスよー?まだ若いんスからね……ああ、ここッスね」
マコがある扉の前で立ち止まる。同じく冥も足を止めた。
扉のプレートには『1202』と書いてあった。
「……よいしょっと。お待たせッス。スズキはここで待ってるんで、用が終わったら声をかけてほしいッス」
「……立ち会わないの?」
「大丈夫ッス。狩魔検事は怖いけど信頼できる人だと、イトノコセンパイから聞いてるッスから」
……あのヒゲ。また給料下げられたいのかしら。
奥歯をギリリと噛み締めながら、冥はマコに鍵を開けてもらった部屋の中に入った。
扉を閉め、部屋を見渡す。
御剣怜侍の執務室。
冥はここへ、引き継いだ案件に必要な資料を取りに来たのだった。
部屋の主がいない時にここを訪れたのは初めてのことである。誰も座っていない机を見て、無意識に長い溜め息が漏れた。
窓辺に目を向けると、彼愛用のティーセットと、トノサマンのフィギュアがある。
特にフィギュアなど持って帰ってやれば、彼は喜ぶかもしれない。
でも、それはしたくなかった。
ここから彼の物を持ち出すと、二度と彼はこの部屋に戻らない。
そんな気がしてならなかったのだ。
そんな自分の考えに、今度は自嘲気味な笑みが浮かぶ。
先日の、御剣からの問い。
『僕の父さんは、どうして亡くなったんでしょうか?』
その言葉を聞いた瞬間、息が止まった。周りの音が聞こえなくなった。
聞こえるのは、やたら強く早い自分の心音と、頭の中で反芻される、彼の台詞だけ。
永遠とも感じるくらい長い一瞬ののち、冥はようやく呼吸と共に声を絞り出した。
『よく聞こえなかった』
と。
あまりにも自然に答えられた。笑顔さえ浮かべられた。
御剣は、それ以上聞いてこなかった。
―私が、聞けなくした。
「……一体、何がしたいの。私は」
一人、思わず口を突いて出た。
御剣の記憶が戻ってほしい反面、それを妨害するような真似をしている。
また以前のように抱きしめられ愛されたいと思いながらも、たとえ一生このまま御剣に触れられず、こわごわでも一緒に居られるだけでいいと思っていた。
いつか、冥とは違う人を愛するようになっても、その覚悟している。
でも、それでも、一緒にいたい。
矛盾だらけの自分の考えに、冥は「疲れているから弱気になるんだわ」とかぶりを振って書類を探し始めた。
今回は自覚しているが、元々自分の疲れには疎い冥だった。小さな頃からがむしゃらに勉強し、今もいつも沢山の仕事で予定を詰め込んでいた。
いつもそうやって駆け抜けてきた。だからこそ、今の自分がある。
けれど今は、走るための足場がない。
足を踏み出そうにも、崩れ落ちそうで、怖くて動けない。
こういったことは、以前にも一度あった。
父・狩魔豪の逮捕を知ったときだった。
「……見つからないわね」
資料棚を探しながら、冥は一人ごちた。
いずれ御剣も使うはずだった資料だろうから、あまり奥にはしまい込んでいないと思われる。一通り棚を探し終えた冥は、別の場所に目を向けた。
あとは机と金庫くらいか。金庫に仕舞われていればどうしようもない。机を探して見つからなければ、諦めて自分でなんとかしよう。
そう思い、冥は机へ歩み寄った。
引き出しのうち、一つを開ける。彼の性格上、机の中も整理整頓されているが、私物も入っている。気は引けたが冥は一つ一つ中を見ていった。
三つ目の引き出しを開けると、中に茶封筒があった。表面には、冥が求めていた資料だとわかる付箋が貼ってある。
「……これみたいね」
ほっとして、冥は封筒に手を伸ばした。
その時だった。
「……?」
コツ、と、指先に固い感触。封筒の下に何かあるようだ。
冥は何気なく封筒を退けて、中を見た。
「!」
ドクン。
その途端、冥の心臓が大きく高鳴る。
封筒で隠すように引き出しの中に仕舞われた、小さな箱。
彼女の心はざわめいた。
それを手に取ってみると、冥の手のひらでも充分収まる大きさだった。
まさか……まさか。
そう思いながら、震える手でゆっくりと箱の蓋を開ける。
やがて蝶番が開ききり、中身を明かした。
その瞬間、今まで我慢していた冥の瞳から、雫がひとつ零れ落ちた。
ブリリアントカットを施された小さな石のついた指輪。
そっと見てみると『REIJI TO MEI』と裏に彫られている。
滲んだ瞳でその文字を辿り切ると、もう駄目だった。
決壊したように、冥の瞳から次々と涙が溢れ出した。
御剣が、冥に宛てて用意した指輪だった。
不器用で、検事の癖にプライベートでは口下手な彼は、照れくさがって、めったに愛を囁かなかった。
それでも、彼の腕は暖かかったし、たまに口にする「愛してる」の言葉には、いつも内心舞い上がるくらい喜んでいた。
そして。
今見つけた指輪は、「あなたは御剣にとってたった一人のひと」だと冥に告げている。
彼は確かに、自分を、愛して、選んでくれていた。
冥は、指輪の入った箱を、御剣の代わりに胸に抱きしめた。
この上なく嬉しかった。
そして。
彼を幸せにしたい。
そう、思った。
外でマコが待っていることも忘れ、冥は執務室で一人、声もなく泣き続けた。
最終更新:2010年02月02日 02:52