年に1回するかしないかの「部屋の片付け」をしていた。僕の場合、物欲があるわけではないので物は増えていかないのだが、小・中・高・大、そして講師をやってきた中で積み上がってきた教材の山がごちゃごちゃしていて、「どこに何があるのか」が分からない状態になっていた。そこで、自分なりにルールを決めて、「ここにはこの教材たち」「あそこにはあの教材たち」と分かるように分けていた。
そんな仕分けをやっていていつも思うのだが、塾に通っていたときの教材が山ほどある。自分は高校時代、早○田アカデミーSU○CE○S18という塾に通い、集団授業を受けていた。中3が終わったときの春期講習から通い出したため、3年分の教材がある。これが多い。授業も沢山とっていたので、当時の自分は復習や消化が追いつかず苦労していた覚えがある。これらの山を整理して自分は以下のように思った。
「果たして、大学受験で学ぶべきことって、本当にこの山の量だけあるのか?」
自分が何が言いたいか分かるだろうか。
もうひとつ例をあげさせてほしい。高2のときから世界史の授業をとり始めた。(なんとあの、鈴木悠介先生に教わっていた。)一年間で古代から近代の手前までインプットができた。そして年度末、高3の授業選びをどうするかということで教室長と面談することになった。
近代以降を扱う「高3世界史α」と古代~近代の手前を扱う「高3世界史β」があって、自分は前者だけとれば十分だと思っていた。しかし、教室長はこう言った。
「知識の抜けもあると思うし、復習の意味でβもとっといたほうがいいよ。」
これが、予備校ビジネスというやつである。
そしてよりによって、自校舎の世界史の講師が人手不足なのか、高3の間にころころ変わり、受験学年だというのに、(今覚えているだけでも)少なくとも4人の講師に教わってきた(笑)。
高2の頃にせっかく教わってきた「軸」の知識があったのに、いろんな先生にかき乱されてしまった。
社会科は得意科目だったので、入試の得点には響かなかったものの、予備校ビジネスに振り回されたこの一年間はなんだったんだろう、と思ってしまったわけである。
塾や予備校は所詮、ビジネスである。まあ、もちろんそれでいいのだが(自分自身、塾経営をこれまで3年以上やってきたからこそ理解はできる)、ビジネスだけで押し切ると生徒に非効率な勉強をさせてしまうことが往々にしてあるんだと自分は言いたい。
誤解をしてほしくないのだが、僕は決して生徒にラクをさせたいわけではない。だが、効率よく勉強してもらいたいとは思う。
1教わって1できるようになるのではなく、1教わって10、いや100できるようにさせたいのだ。
「1教わって1できる」スタイルというのは、以下の2つのうちのどれかのことだ。
①どんなパターンにも対応できるようにと、手取り足取り全部教えようとする。教える内容がだんだんマニアックになっていく。
②同じことを何度も反復する。1学期にやった授業と同じことを夏期講習でまたやったりする。復習回や演習回を取り入れたりして授業数を増やし、あたかも付加価値を与えているかのように見せる
特に②は、経営的には大事な観点だろう。しかし、僕に言わせてみれば、一発で記憶させる技術や教育力を身につけたほうが絶対にいいし、生徒も講師も成長できると思う。
また、①については、いわゆる知識ベースの教え方になるので、おそらくその教え方をされた生徒に応用力は身に付かない。覚えたパターンの問題しか解けない、という現象を頻発させる。(数学で青チャートを完璧にしろと指導する先生がまさにそんな感じだ。)
ロジカルシンキングのひとつに「MECE(ミーシー)」というのがある。全体を漏れなく・ダブりなく網羅するように整理していく手法のことだ。そもそも全体を意識して教えられる先生がこの業界には少ないのではなかろうか。なので、僕は全体を俯瞰してもらうことを常に意識して僕は教えるようにした。全体が一度に俯瞰できるようにするには、教える知識の数をぎゅっと減らしてコンパクトにする必要がある。その上で、漏れがないのはもちろんだが何より「ダブりなく」というのを重視することで効率的な学習ができるようにすることにこだわった。
大手予備校の先生からしたら、社会も知らないただの若造が、趣味でやっているかのごとく、自分が習ってきたことを吐き出すかのように垂れ流して教えているようにしか見えないだろう。
たしかに、僕が過去にやってきたYouTube授業の大半は、「動画編集なし」「長時間授業(長いものだと1本7時間とか。デフォルトでも1時間半は当たり前だった)」「画質も微妙」・・・という感じで、素人感満載だ。
しかし、僕の授業一本に頼って真剣に取り組んでくれた受験生は、僕の授業の中身をしっかり評価してくれているし、それでしっかり志望校に合格し、僕に感謝のメッセージを送ってくれている。
ではどんなコンセプトで僕は授業したのかと言えば、先ほど述べた①・②とは逆のことをやっただけである。
・センター試験の現代文における語彙問題を、知識ではなく文脈だけで導く解法を指導
・五文型の概念を用いずに英文法を指導
・別解を削り、極限まで覚えるべき解法を少なくして数学を指導
・演繹法ではなく帰納法(=経験から導き出す)を重視して現代文を指導
・助動詞の活用を表の暗記ではなく「○○型」で教えて古文を指導
・英文法において、句と節を別個に教えるのではなく、節は句に書き換えられるとして「関係代名詞の文=分詞/不定詞の文」「接続詞の文=分詞構文」というふうに書き換えベースでぎゅっと概念を減らして指導したこともある。
他にも数えられないくらい、こういう「ぎゅっとまとめる」ことで知識を応用しやすい形へと凝縮させるということを沢山やってきた。だから生徒としても飽きないし、面白いと感じられるのだろう。教え方に関して不評もあまり聞いたことがなく、「画期的ですね」と意見をもらったことも多かった。
教育の本質は何かと言えば、生徒が一人で考えられるようになること。そのためには、知識そのものを沢山詰め込むことよりも、少ない知識をどう組み合わせて活用していくのか、その思考法を教えることのほうが重要。自分はそう目覚めた。
このように思考力、IQを上げて頭をよくすることが大切である。
これをビジネスとしてやるならまだ分かるが、多くの塾・予備校は、「これでもまだ足りない」「これもやったほうがいい、あれもやったほうがいい」という足し算の姿勢で講座を沢山取らせる。結果、インプット過多になり復習が追いつかず、結果の出ない生徒が続出する。
そういう意味では、近年増えてきた「学習管理型」の塾に関して、その理念に自分は非常に共感する。
少ない知識を組み合わせる力は社会に出てからさまざまな場面で生きるはずだ。情報化社会であり、多くの情報が乱立する社会・・・となったときに、知識過多で教わってきた人間は、ひとつひとつの情報に固執する傾向があり、振り回されて判断を誤ることが多いように感じる。一方で、それだけ情報が乱立していても、要領よく思考する能力を身につけてきた人間は、本質を見極めて、迅速に正しい判断を下すことができるはずだ。明確な根拠を持って語っているわけではないが、僕の肌感覚としてはそうだ。
いずれにしても、僕の方針は今後も変わらない。
だが、少し野望を語らせてもらうと、いずれは科目の垣根を超えた授業を前面に出していきたいと思っている(ひそかにメモ帳を片手にいろんなアイディアを日々メモしている)。
一番分かりやすいのは、現代文の読解法を英語に活かす、というものだが、とはいっても、業界の現状だと、英語の先生が授業中に「現代文をあなどらないように」と警鐘を鳴らしているところしか僕は想像できない。
そこをもっと大胆に、「読解」という科目をつくってその中で言語関係なくさまざまな素材を扱って読解問題の解説をしてみるのも面白い。
グローバル化社会であり、さまざまな情報に触れられるとは居え、日本人と英国人・米国人では情報の受け取り量が何倍も違うのだという。日本語だけの世界に居ることが不利だったり、われわれの判断能力に影響を及ぼしているとしたら、悲しいし悔しい。科目の垣根を越えていきたいと切に思う。
つまり僕の理想はこうだ。
(従来の)一科目を教える分量と同じくらいの分量で、英数国理社の全科目分を教えてしまいたい
のである。いや、そんな無茶な・・・という声が聞こえてきそうだが、そうだろうか?例えば、「消費者」というテーマは政治経済―家庭科―情報で扱われるものだし、「温暖化」というテーマは生物―化学―地理・・いや、他にもさまざまな科目で何らかの形で扱われているはずだ。
従来の「英語」「数学」・・といった科目編成にとらわれないまた違った科目編成をつくって、知識をぎゅっと凝縮して、1学ぶだけでもその理解が10や100の現象に適用できる。そんな効率的で思考力の身に付く授業を今後つくっていきたいと思っている。
余談だが、幣塾「ChAiN」の由来も、異なるものをいかに繋ぎ合わせて物事を思考できるか、というところか来ている。
2023年11月25日 三木康祐