はじめに
ここでは「評論文」というジャンルに限定してその読解法についてお伝えしていきます。
前半は主に筆者がどんな視点で文章を書いているかというお話、後半は主に我々が実際に文章を読むときにどんなことを意識して読むかというお話になります。
そもそも「評論文」とは、「論」という字が入っていることからも分かるように、筆者が自分の意見を伝えたものです(「論説文」とほぼ同じです。)
筆者が一つのメッセージを伝えようとして文章を書くのですが、伝えるためにさまざまな工夫をした結果、文章が肥大化します。
センター試験の過去問なんかを見ていると、ベースは説明文になっていて「筆者の意見、どれ??」というものもあります。(2008年第1問(『居住空間の心身論――「奥」の日本文化」』など。)それでも、社会の教科書のように「すべてが言いたいこと」となっているような説明文ではなく、一つのメッセージを伝えようとあの手この手を加え結果的に文章が肥大化しているような文章になっています。
今回ここで説明する内容は、そういう類の文章全般にあてはまるようなお話です。
どんなからくりで文章が長くなったり難しくなったりしているのか。そしてそれをどう読み解いていけばいいのかについて話していきます。
ではまずは、筆者の目線から文章とはなにかについて明らかにしていきましょう。
なぜ文章を書くのか
文章を書く動機には色々あるでしょう。
皆さんの中には、Twitterやブログなどを通して日々文章を書いている人もいることでしょう。
もちろん「自分のメモ帳として」「思いついたことを記録するため」「自分の思考を整理するため」などの理由で文章を書く人もいると思います。
ですが、本を出版してまでなにかを伝えるとなると、それ以上になんらかの熱い気持ちがあるはずです。
世の中には既にあれだけ本があふれているんですよ。それなのに、筆者はなぜ世に本を出すのでしょうか。
それは、「ほかの考えはみんな間違っていて(不十分で)、自分の考えだけが正しいんだ」とアピールしたいからです。
言ってみれば、タチの悪い人間です・・・。
人間誰しも、自己顕示欲や承認欲求はありますから、自分のこれまでの人生経験、人生で得てきたさまざまな知見、学んだこと、考えたことをアウトプットして誰かに影響を与えたり後世に残したくなるのは当然のことです。
これが文章を書く理由です。
上記のことから、一つ言えることがあります。
「否定」が活用される
つまり、「多くの人はこう考えているが、それは間違いだ」という構文が多用されることになります。そうやって一般的な認識を改めたいと思うからこそ物書きはわざわざ本を出版してまで文章を書くんです。
すると、必然的に「〜ではない」といった否定文が多くなってきます。(逆にこれがないと、筆者の言いたいことの輪郭は明確にならないことが多いです。)
読む側としては、そういう箇所に注目できればしめたものです。そこには筆者の主張が強く表れていますからね。
ですから、文章を読むときは「ここはただの説明だからそんな重要ではないな」「ここはめっちゃ否定してるから筆者の伝えたいメッセージが表れそうだ」などといったことを考えながら読むようにしましょう。
2つの思考法と論理の貫通
「水平思考」と「垂直思考」という2つの思考法があり、筆者はこのいずれかを用いて思考を進め、一つのメッセージを伝えていきます。
- 垂直思考:一つのことを考えるために別のもの(似たものor反対のもの)を引っ張ってきて比較(類比or対比)して議論する。
- 水平思考:一つのことについて、問題提起したり抽象と具体を往復したり論拠をあげたりしながら議論を深めていく。
林修が、筆者の思考は「類比・対比・因果」の3つを軸に展開すると言っていて、この分類はやや分かりにくいなと個人的には思いますが、類比・対比はまさに「水平思考」で、因果(=論拠をあげたうえで自分の主張を導く)というのは「垂直思考」の過程で用いられるのです。
この思考の痕跡が文章という形になって表れます。
しかし、それは文章の全貌ではありません。
実際に読者を想定してメッセージを伝えようとすると、思考の痕跡を残しただけでは、メッセージとしては簡潔かもしれませんが抽象的で逆に伝わりません。
受け取る側からすれば、少なくとも「なぜ?」と突っ込んでしまうでしょうし、人によっては「ん?どういうこと?」とその意味から理解できないかもしれません。
そのため、
- 具体例を用いる(=例示)
- 比喩を用いる
- 体験やエピソードを用いる
こういった作業を通して、読者になんとかして自分の意見が届くように工夫していきます。その結果、文章は長くなっていきます。
たとえるなら、Amazonで腕時計を購入したときに、段ボール箱の中に入っている緩衝材、まさにこれが文章を伝えるための「材料」のようなものです。しかし、あくまで本体は腕時計ですよね。
エビフライの本体はエビであって、衣(ころも)ではありません。
文章が分かる人というのは、こういう長ったらしい文章を読んでも「これがメッセージだ」と、本質を抽出することができます。
すなわち、例示や比喩などといった枝葉の部分を取り除いて、思考の痕跡となる部分をむき出しにすることができます。これが文章を読むということでもあります。
出題者(=大学教授)ももちろんそのうちの一人です。
本を読んで、そこに書かれていることの本質がぱっと理解できます。
そのうえで、入試現代文の一題に収まるような長さの箇所がないかと探し、適切なところをすわりよく引っ張ってきます。
すると、「はじめから終わりまで一つの論理が貫いている」ということが起こります。
論理の貫通には2パターンあります。
①A=A'(同じ主張を二度繰り返すいわば「双括型」)
②問題提起→答(冒頭に問いを立ててそれに対して答えていく「問答型」)
これは学習参考書の1ページ目に載せるべきと言ってもいいくらい、重要なことです。
論理の貫通は文章全体で実現していることもあれば、部分において実現しているケースもあります。
いずれにしても、論理の貫通を見抜けるようになることで、本文全体のアウトラインが理解できるようになります。これが、解くときに役立ってくるわけですね。
すべての文には意味がある
先ほど「アウトライン」という話をしました。しかし、細部をおろそかにして全体を捉えろ、と言っているわけでは決してありません。
エビフライの本体はエビですが、衣もおいしいですよね。
筆者としては、一文一文すべて読んでほしいと願って書いていますから、そこに合わせて我々も一文一文読むべきです。
しかし、あくまで入試問題です。時間の制約がつきものです。そこで、
強弱をつけて読む
ことが重要になってきます。
「伝えたいところ」「伝えるための材料となっているところ」を分けて読むのです。
一文一文に対して、「この文は、このことを伝えるために存在している」と、役割が言えることが大切です。
筆者からしたら、外していい文なんてないのです。その気持ちに寄り添って文章に向き合ってください。
そういった情報整理を繰り返していくことによって、筆者の伝えたいことがどんどん浮き彫りになっていくのです。
「具体例」の扱いについて
文章を長くしてしまう一番の要因、それは「具体例」です。
まずこれに関して、
具体例は主張を分かりやすく伝えるための一種の修辞であって、主張の根拠にはならない
この原則を頭に入れてください。
我々が押さえなければならない「筆者の主張」そのものは、通常、抽象的な形で書かれます。
しかし、それだけでは読者には伝わらない――だからこそ、伝えるために具体例を述べ、そのことによって「分かって」もらおうとするわけですが、ここには注意点があります。
具体例は、所詮「具体」であす。一つの個別的な事例に過ぎません。
したがって、「こうした具体例がある。だから、私はこう主張するのだ」ということにはなりません。
え?何を言っているか分からないって?
具体例は、主張に対する根拠・論拠にはなりえない、ということです。
(もちろん、あくまで原則ですから、例外はあります。後述。)
僕の知人が以前、Twitterでこう言っていました。
「たとえ話で自分の主張を強く押されても、別に信じません。それはそれやん?ってなる。言い換えでわかりやすく伝えてくれるのは嬉しい。」
と言っていました。まさにそういうことです。
現代では、具体例だけ並べて主張を押し通し、人に何かを伝えようとする人たちが増えてきました。
そのことを如実に示す例を2つ紹介したいと思います。
具体例を押し通す例①「宗教勧誘」
僕の知り合いの講師に、とある宗教団体に属している人がいます。
彼は「毎日、15分間経本を読むだけで、功徳(くどく)が来ますよ」と、僕に言ってきますが、僕は残念ながら信じていません。
彼は僕に対して以下のように説いてきます。
「毎日繰り返すことで、自分の身の回りに功徳が生じるんです。例えば、ある人は、交通事故で死にそうになったときに、声に出して経本を読んだら、3日で治ったんです。今度、体験発表があるので一緒に会館に行きましょうよ!」
と、こんな具合です。
別に僕は、宗教に対して「怪しい」という固定観念を持っているわけではありません。(極端な話、なんらかの信念を広めようとしていればそれはすべて宗教ですから、会社やコミュニティが展開しているものも宗教と言っていいでしょう。)
シンプルに僕は、その子の話に納得ができていないんです。
なぜか。
具体例しかないからです。(気付きましたか?)
彼は、「この教えに従うと、功徳が出る」という主張があって、その具体例を出しただけなのです。
そして、「主張=抽象」と「具体例」の関係は原則「イコール」である。(賛否はあるでしょうが、一旦受け入れてもらえると嬉しいです。)
結局同じことしか言っていないのです。それでは納得はいきませんよね。
だから僕は、彼からいろんな体験を聞かされるたびに、
「はいはい。結局仏法っていうのはいいんだよって言いたいだけだよね。で、理由は?」と思うわけです。
もう一つ見てみましょう。
具体例を押し通す例②「セールストーク」
とある塾が、春先に、合格実績を宣伝しています。
「我々は合格者数をこんなに出しています!ここに受かった生徒もいれば、ここに受かった生徒もいれば・・・」
このように豪語しているだけで、その塾に入ろうと思うものでしょうか。
「じゃあ、そういうふうに受かるための仕組み(からくり)って何?」と僕なら問いたいです。
そこの因果関係が分かれば、納得できます。
もちろん、その塾が、受かりやすい塾であることは「理解」できましたが、「納得」はできないのです。
つまり、やはりどう考えても、
主張を支えるのは「論拠(理由)」であり、「具体例」ではない
ということです。
これが、予備校界でよく言われる「具体例は解答の根拠にはならない」などといった方法論を支える最大の根拠なのです。
言い換えれば、
具体例は、「理解」(「あ~、そういう意味ね!」)は生んでも、「納得」(「あ~、だからか…」)は生まない、と言ってもいいかもしれない
と言ってもいいでしょう。
ちなみに、実際の評論文では、残念ながら(?)、具体例を論拠としてしまうような文章も出てきます。
こういう文章の場合、具体例の箇所をカッコで括って情報整理すると本文理解に支障をきたします。
こればかりは例外なので仕方ありません。
そういう文章に出くわしたら、
「この筆者は、論理関係に対する扱いが雑な人間だな…」
「具体例だけで人を説得するペテン師の手法キタ――(゚∀゚)――!!」
などと思っておけばよいのです。笑
論理関係3種
文章を読んでいくなかで、「この文とこの文の関係はなんだろう」「この段落とこの段落の関係はなんだろう」と考える場面は多かれ少なかれ出てきます。
その際、接続語があれば分かりやすいのですが、ないようなケースもあります。
シンプルに新しいことが箇条書きのように並列・追加されている場合もあるのですが、そうでない場合もあります。
そこで、論理関係にどんなものがあるかについて全体像を把握しておくことで、より読解の精度は高まるものと考え、紹介したいと思います。
①イコール関係(=同等関係)→具体化(敷衍または例示)、抽象化(要約)の2パターン
②対立関係
③因果関係
この3つの論理関係です。(敷衍とは、前で述べたことを詳しく説明することで、具体例をあげない形の具体化だと思ってください。)
言い方は色々ありますが、AとBという2要素間の関係はおおむねこの3つです。
※「包摂関係」(抽象―具体の関係)を上に入れたがる先生方もいらっしゃいますが、これはイコール関係に入れて考えてしまったほうがいいです。もし包摂関係を別個に扱うと、イコール関係の文は同値関係(完全に同じ情報量、抽象度で言い換えたケース)しか含まなくなるのですが、そんな文めったに出てこないんですよ。ですから、抽象度の差が気になって包摂関係をイコール関係に入れたくない気持ちも分かるのですが、現代文読解においては、抽象・具体の区別はするものの、読解上はイコールで考えてしまったほうが道具としては使い勝手がいいのです。なお、包摂関係におけるAとBが因果関係になるようなケースもありますが、これについては前の項の話が頭に入っていれば理解できますよね。
※「並列関係」を入れたがる人もいるのですが、並列関係とは一つの情報が複数に分裂しているだけなので、まとめて一要素として押さえて全体の中での位置づけを捉えたほうが生産性は高いと言えます。
細かい説明も多くなってしまいましたが、複数のものを繋げて考える力こそが論理的思考力の基本ですから、しっかりここは覚えてください。
練習材料
実際の文章を用いて、構造化したり情報整理したりする練習をしてみよう。
【練習①】
優秀な講師は時間をかけて実力を培い、じわじわ人気が出る場合が多い。したがって予備校は長い時間をかけて講師を育てなければならない。若い頃にドドーンと人気が出る講師は客寄せパンダとしての利用価値はあるかもしれないが、学力を上げて合格させる本当の教える力は???の場合が多い。(妹尾先生)
▶整理◀
①優秀な講師は、じわじわと人気が出る
←(裏)→ ③ドドーンと人気が出る講師は、教える力がない場合が多い
↓
②予備校は時間をかけて講師を育成せよ
【練習②】
ここ20年くらいで日本ではマスクをする人が極端に増えた。風邪の予防ならわかるがそれだけではない。対人恐怖を抑えるために利用しているのだ。中には前髪を下ろしてメガネをかけて完全な“変装スタイル”をして、どう見ても“ヤバイ人”になってしまっている人もいる。この国の社会的病理が露呈している。(妹尾先生)
▶整理◀
①日本で最近マスクをする人が増えた(主題、事実)
⑤それは社会的病理の露呈と言える(主張、結論)
↑
②風邪の予防のためにマスク
+
③対人恐怖を抑えるためにマスク
(④変装スタイルの人もいる)
【練習③】
女性専用車両なくさんといてな。だってこの国ほんま痴漢いるやん。痴漢に厳罰を科して痴漢がいかに極悪非道な犯罪であるかをこの人権後進国の国民がしっかり理解するまでは女性専用車両は絶対必要。(妹尾先生)
▶整理◀
①女性専用車両は不可欠
↑
②実際に痴漢がいる
③痴漢がいかに悪い罪かを国民に理解させる必要がある
【練習④】
君が何かすぐれたことをすると必ず嫉妬する人間が現れる。君がただ前向きな態度で明るく生きているだけで君に嫉妬し嫌がらせをしてくる人間はいる。でも気にするな。攻撃されている時点で君はすでに勝っているのだから。いや、君はすでに勝ち負けのような低劣な基準では測れない高みに上っているのだ。(妹尾先生)
▶整理◀
①=② 優れたことをすると、必ず嫉妬される。
(→人はそれを気にしてしまう。)
←→③ 気にしてはいけない。
↑
④ △攻撃されている時点で勝っている
=⑤ ◎攻撃されている時点で高みに上っている
【練習⑤】
①近代においてヒトやモノや資本、情報や思想や様式の移動が越境的に拡大する過程で、さまざまな境界が画され、揺れ動いてきました。②グローバリゼーション研究では、こうした境界によって作り出された統合化と差異化の過程を研究するのです。③そして、それはまた、ナショナルにとらわれない思考様式をどのように構築することができるのか、ということにもつながります。
①は前提説明。②は、こうした境界(=①)→「統合化と差異化」の過程を研究(グローバリゼーションの説明)(※1)。よって、②は重要。③は、「そして」、「また」という接続詞から、②と並立関係となっていることが読み取れる。よって、③も重要。
(※1)第一段落でも話題などからもわかる。
よって、①~③は重要であると言える。
①→②+③
【練習⑥】
①グローバリゼーションを課題とすることは、このようにきわめて多面的な問題を扱うことになります。②しかしながら、グローバルな問題というものがあらかじめ与えられているわけではありません。
③環境や紛争あるいは移民を論じたからといって、グローバルな課題を扱ったことにはなりません。④グローバルな課題に対して、ローカルな課題があるわけではありません。⑤ローカルな課題は不可避的にグローバルな課題に連接するのであり、グローバルな課題は、具体的な実践の場としてローカルに展開されます。
①に関しては、「このように」と書かれてあることから、第4段落の②と③を一言でまとめた内容となる(ただし、答案として書くとしたら、曖昧な箇所のため、要約問題としては不適切)。②は①との逆接である(~ではないと書かれてある箇所は曖昧のため、割愛する)。③は②の具体例なので、割愛。④は②と並立関係となる。そのため、④も重要ではない。⑤は主張のため、重要である。しかし、重要ではない。
以上をまとめると、第4段落の内容≒①↔(②≒③(具体例)+④+⑤)
よって、①~⑤はさほど重要ではないことが分かる(②と⑤はやや重要ではあるが、②~⑤はあくまで、誤解している読者に対するコメントのため、文章全体を鑑みると、さほど重要ではない。グローバリゼーション研究に関する説明とは無関係)。ちなみに、②の「しかしながら」も文章全体を鑑みた結果、正しく理解している人とそうでない人の対比であることがわかる。
最終更新:2023年12月27日 13:33