【台湾出兵と琉球処分】
①明治初期まで、琉球王国は日本と清の属国だった。日本・清が親分、琉球が子分。(※日本に関しては、薩摩藩が琉球王国を支配していた)
②明治時代が始まり、日本は不平等条約改正のために欧米と対等になることを目指そうとする。そのためには国境が画定している必要がある。そこで、琉球を自分の領土にしたい。→実際に、1872年(廃藩置県の1年後)に琉球藩を設置した。(琉球をゲットするための足掛かり)
③そんな中、琉球民が台湾で殺害されるという事件があった。
④これを機に、台湾を支配している清に交渉していけば、もしかしたら琉球が日本のものにできるかも!
⑤日本は、とりあえず清に賠償金請求。
⑥しかし、清は「台湾は野蛮人で、我々の支配に従わない」と言って拒否。
⑦台湾出兵を強行。背景としては、清に拒否されたのが不満であったことに加えて、(a)岩倉たちにより征韓論が否定され、武士たちの不満が高まったこと(そしてそれを外にそらす必要が出てきたこと)、(b)清の発言力を下げておきたかった、というのも大きい。
⑧台湾出兵後、そのまま清に乗り込んで琉球支配について交渉。大量の徴兵軍と士族軍を連れていったら、清はびびってしまい、日本の言うことを聞いてくれた。
⑨その結果、1879年、琉球処分が完了する。

※⑦について
  • 日清修好条規で、日本と清の立場は対等になりました。そこから、台湾出兵で清の発言力を弱体化することで、実質上、日本のほうが清より発言力が強化するのです。それが台湾出兵の目的です。
ちなみに、他国(特にヨーロッパ)から見れば、清と日本は対等です。むしろ、伝統的に考えて、清のほうが日本より勝っていたとヨーロッパは思い込んでいたみたいです。実際にヨーロッパが東南アジアを植民地にしたものの、清の領土を植民地にしなかったのです。その背景は清がそこそこ強かったとヨーロッパが認知していたからです。
日清戦争で清が敗北して、清が日本よりも弱いことが明らかになったため、ヨーロッパは中国の領土を租借するようになりました。
  • 明治新政府の中に「征韓論と同じなのに、なぜ征韓論を否定したのか意味がわからない」と唱える人がいました。その人物が木戸孝允です。このあと木戸は明治新政府を辞職した。

※⑧⑨について
清は反対しました(今まで頑なに清は否定していたのに、ここで否定しなくなるのはおかしいと思いませんか?)。
 そこで、アメリカがその問題に口出しするようになりました。その結果、沖縄本島の分割に成功しましたが、それでも清は不満でした。というわけで、アメリカによって、日本領となった沖縄の一部だけ琉球処分にすることに成功しました。
 残りの箇所は、日清戦争後に調印された下関条約によって、清と周辺諸国の関係を否定されて初めて沖縄県は日本領になったのです(教科書では、その具体例である朝鮮の独立がクローズアップされています)。

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最終更新:2023年11月22日 22:30