話題性を厳密に捕らえること(日常会話と同じ感覚で文章は読まないこと)。

よく文章が読めない人の特徴として、「話題に共通性があれば、意味が同じだよね」ととらえてしまうことである。例えば、レモンがすっぱいと一文目に書いたとする。今度レモンがすっぱいと言った人物の特徴を説明するように、話が脱線するような感じである。この時、「レモンでつなげたらそれでいいだろ」と言われたら、それはおかしいのではと突っ込みたくなるのと同じ。

解答に使う語句を助詞や助動詞、接続詞で文章をつなげること。

本文中にある一部(1文かもしれないし、1フレーズかもしれないし、ある1段落かもしれない)を抜き出して使う発想は悪くないどころかむしろよい。それに関する、車さんのセンスは非常に優れている。しかし、採点者が見るのは、以下の通りである。
①本文の論理展開(説明の仕方)を意識しながら②接続詞や助詞を適切に用いて③解答に関係する、「本文中から抜き出した」(※1)箇所を④解答の最適な位置に置いて答案を作成する。
(※1)詳細は、《車世栄さん~2019年11月14日の課題添削》にあるA文章全体の構成や設問解答に関する成長ポイントを下書きの効用を参照。
それらが的確にできて初めて、点数がもらえる。車さんの場合は、②③④の意識が気薄である。こればかりは、車さんを責めるというより、それを指摘しなかった「大人」たちの責任である。②や③のコツは小論文講座で培った考え方を小論文でも活用するしかない。④のコツに関して述べると、以下の通りかもしれない。

1、解答で1番大切な内容は、文末に書くこと。
2、語句説明や限定条件を含む前提説明は最初に記載すること(数学でも、限定条件や前提
      は答案の最初に記載すること多いのと同じ)。
3、説明すべき語句と並立すべき語句を区別して解答を記載すること。
4、1と2の間にある論理の飛躍に気を付けること。
5、対比の語句があるときは(今回は存在しなかったが)、対立項目を分類して書くこと。

基本的に定義から演繹的に説明すること

数学の答案では、前提をまずは書いて、それから結論へと導く書き方を行う。これを「論理的」な答案作成と一般的には言われる。しかし、「論理的」とはなんぞやということになりかねないため、論理的の定義をきちんと説明する。
論理的の意味は文脈に(話題に)よって異なる。現代文や小論文では、以下の条件を全て満たしたものが論理的と言える(他の分野では幾分異なる)。反対にこれを満たしていないものは、どんなに素晴らしいい内容であっても、解答として認めない。

 ①本文中に書かれてあることをもとに説明すること。
 ②ルールに基づいて説明すること。
 ③自分の解答に「必然性」が伴っていること。
 ④読み手(聞き手)がわざわざ言葉を補わなくても、理解が出来ること(自然の理解)
 ③の意味を補足すると、自分の言いたいことが正しい理由だけでなく、他の意見が正しくない理由も明記することを必然性が伴っているという(言い換えると、自分が述べた答えが唯一正しいことを説明することが出来れば必然と言える)。④に関しては、④の条件を踏み外すこと(言葉を補って理解せざるをえない説明)を論理の飛躍と呼ぶ方もいる(むしろ、高校大学では、科目や学術分野を問わず主流である)。




 抽象的なので、具体例を挙げる。
 例1、SNSに出てくる相互ブロックという現象が引き起こされない理由。

 誤答案:一方がブロックしたから。
(もう一方もブロックする可能性があるため、その説明に必然性がない)。
 答案:特定の相手が干渉できなくするブロックをされたユーザーはブロックしたユーザーにブロックも含めて何もできないSNSの仕組み上、ブロックはブロックした側をブロックすることができないため。


時系列(起こった出来事順)に沿って説明すること。

 歴史の教科書や理科の教科書の多くは、基本的に古い順(理科だと、根本的な原因)から読み手が自然と理解ができるように書かれている。時系列がバラバラなだけで、整理する手間がかかるのだ。そのような答案は採点者に印象を悪くする上、文章構成能力、ひいては文章をきちんと理解していないとみなされるため、是非とも気を付けたほうが良い。

本文
 京都や奈良を訪れる愉しみの一つは庭である。名刹名園の多い土地ではあるが、いつ誰が訪ねても拝観できるところばかりではない。立ち入りの難しい名園を人様にあやかって拝観し、それこそ、寿命が延びそうに思ったこともあるけれど、通りがかりにふと立ち寄った小さな古寺などで、いい風情の庭にめぐり合うことも少くない。
 いい風情といっても、こういう場合庭木は大てい数えるほどで、前栽も石組も簡素ながら、建物や背景、空との調和にいい雰囲気があって、偶然立ち入った者を去り難くさせる何かがそなわっている。
 名園には名園で訪ねる度の新しい感銘がある。自分の性格や体質もあると思うが、好きだと眺めた名園には幾度でも足を運びたい。その一方で、名もない寺や開かれた旧い屋敷などで、さりげなく整えられた庭を発見したい気持も強くある。
 京都は民家の坪庭もいい。こう書くと、あれもいい、これもいいで節操がないようだが、本当にいいと思う。御所の清涼殿の萩壺や飛香舎の藤壺の記憶が重なってしまう。やはり古都の民家だけのことはある。
 庭園というにはやや特殊かもしれないが、御所の紫宸殿の南庭は、日本の庭、という時、私がいつも無条件で呼び寄せている庭である。檜皮茸の紫宸殿前の、一望の白砂のひろがりを、丹塗の円柱と白壁の回廊がゆったりと囲んでいる。庭木と呼べるものは、紫宸殿中央階段の下にある左近の桜と右近の橘だけ。
 一切の無駄を削って、青空の下に無限の厳しさと無限の華やかさを保っているこの南庭を拝観していると、ここが儀式の場であったことも忘れて、真に贅沢な庭とはこういう庭をさすのではないかと思うようになる。不自然に人間の造作の入った庭を、美しくないと思うようになる。
 竜安寺の庭と対い合っていると、落ち着いた自分の心が、吸い込まれるようにより沈潜していくのが分かる。白砂と石に、人間が思惟することの自然を教えられる。求心力のたくわえを促される。
 これが修学院離宮になると、比叡山をも景の一部とする桁外れの規模のせいもあってか、気持が次第に大きくなり、寛ぎながら徐ろに解き放たれてゆく。そして、山も、松並木も、大刈込も亭も池も自分も、ともに平等な世界の部分に過ぎないのだと思うようになる。気が軽くなる。
 竜安寺と修学院離宮の庭を較べるのは非常識かもしれない。けれども私は、この世から庭がなくなったら困ると思い、庭というものに快さを感じる自分の中には、大きく分けて、この二つの庭に典型的な、異った力が作用しているような気がしてならない。求心と解放、これは一見正反対に見え易いが、究極において矛盾するものではなく、どちらも人間本来の欲求にひそむ二方向ではないかと考えている。
 名園とよばれるものは、恐らくこの二方向の力を共有していて、どちらかにより多くの特色を見せているのではないだろうか。求心は解放と、解放は求心と共存することでより求心的、より解放的になるというふうに。
 自然に人間の手の加わらないものを庭とはよばない。その手の加え方が時代によって随分違う。王朝の寝殿造りの庭の名残を求めればたとえば大覚寺。近世の回遊式庭園は仙洞御所、桂離宮、修学院離宮など、作庭法の変遷は時代の情理の移り変りでもある。しかしどのように手が加えられても、作庭の要が、自然の大運行の法則に逆らっていては名園にはならないだろう。
 物語の中の話になるが、紫式部は、光源氏に六条院という私邸を与えている。これは四季の町から成る拾い邸で、町ごとに御殿とお庭があり、それぞれの季にふさわしい源氏の女君たちが住まわされ、源氏は紫の上と春の御殿に住むようになる。興味深いのは、花木を集めた春の庭の前栽には、秋の前栽をほんの少し混ぜ合わせ、木蔭が主になっている夏の御殿の前栽には、夏草のほかに、春の秋の草を適宜植え混ぜるといった作り方である。
 これは当時の宮廷貴族の美意識を反映した作り方と思われるが、このような作品の中の庭にしても現存の京都の名園にしても、日本の気候と地勢の外ではまず考えようのないものである。王朝文学は京都の自然から生まれるべくして生まれたと私は思っているが、日本の庭園美も、日本という風土に養育された日本人の【a】の一表現であろう。
 書くにしても読むにしても、私には庭の出ない小説は息苦しい。立派な庭である必要はない。それこそ猫の顔ほどの庭でもいい。土や、庭木、草花があって、そこを吹き抜けてゆく風のあるほうが人間を描きやすい。人間が動き易いのである。
(竹西寛子『丘の上の煙』)

要約解答
京都や奈良を訪れる楽しみは、庭の持ついい風情を感じることである。(どんな庭であれ、風情があると思う。)竜安寺の庭に作用している「求心」と、修学院離宮に作用している「解放」の2つを持ち合わせたものが名園と言えるだろう。また、名園は、人工的でありながらも、自然の法則に従っている。結局、日本の庭園美は、自然から生まれたのであり、自然こそが人間を描いているのだ。



例題:鷲田清和『聴くことの力』

〈ふつう〉
①ふたりのあいだでことばが途切れる
 =会話の不在

②その不在を埋めることばが出てこない 間がもたない
 =気まずい沈黙           居心地のわるさ

③「空虚」
 それまでの二人の関係が色褪せてくる
 他者の親密な感触が崩れる
 +自分の存在もかすかになる

④耐えきれず=間がもたない、間がとれないというぎこちなさ

⑤それを押し殺そうとして
 どうにかしてことばを紡ぎだそうとする(しゃべる)

⑥しかしうまくいかない=意が伝わらず、もどかしい

⑦ことばの不在が顕著に

⑧その場を逃れたい気持ちに


単純化すると…
①会話が切れる【行動】
②埋められず気まずい沈黙【気まずい】
③空虚な気持ちに【空しい】
④耐えきれず【辛い】
⑤どうにかして喋る【行動】
⑥意が伝わらない【不満】
⑦再び沈黙 気まずい【気まずい】
⑧その場を逃れたい気持ちに【辛い】


①会話がない 言葉がない
②深い沈黙 厚い沈黙 → ことばを裏打ち
 →間をもたせようという意識が生じない
 →気まずく(居心地悪く)ならない
③他者の親密な感触に触れる
 →空虚な気持ちにならない=ことばは空語でないという確信
 →濃密な交感にひたる 
 →充足感 

お茶を供するという行為において、ことばは不在であるが、そこでの深い沈黙や厚い沈黙はかえってことばをしっかりと裏打ちすることになる。そこでは、決して「間がとれない、どうしよう」「間をもたせよう」といった意識は生じず、居心地が悪く感じることはない。こうした状況のなかで、お茶を受け取った側は、お茶を供した側の親密な感触に触れることができる。こうしてお互いが濃密な交感にひたることになるため、互いの関係や自分の存在が薄れたような空虚な気持ちになることはない。それが「ことばは空語でない」という確信につながるため、沈黙であっても深いコミュニケーションがとれた感覚になり、お互いの間に深い充足感がもたらされる。(300字)


(別の解説)

問1:必然的な理由+筆者がそう判断した理由

☆設問条件
①「この文章全体の論旨を踏まえて」
②深い充足感の説明
③300字以内

☆解説~どう解けばスマートに解答できるのか
A傍線部の周辺を分析する
①明示された因果関係を見つける
  →10段落目の1文目にある「ただお茶を供するだけの行為」が明示された因果関係(※)

(※)無生物主語は理由に必ずなる(生物主語でも理由と関係が深い)

②どのような理由説明を行うべきなのかを分析する
  →10段落目の1文目にある「ことばもなく」という修飾語に着目
              ↓
   1非言語だと、深い充足感が生まれる理由
   2言語を介すると、深い充足感が生まれない理由

    以上、2点をきちんと書いておくことが今回は(※)大切。

    (※)文章や設問条件によっては、理由の書き方が変わる。

B、Aでの分析結果を意識しながら、本文を読む
☆第1段落:問題提起
 →問題提起に理由が書いていないため、設問には書かない
☆第2段落:原因の訴求
 解答要素1:ひとは言葉の不在を懼れる…①
  =ことばが途切れたとき、そしてどちらからもとっさにその不在を埋めることばが出てこない…①‘
   →他者の親密な感触というものが、あっけなく崩れる…②

 ※二人で同じ空間にいるとき

☆第3段落~ひとの特徴+第1~2段落
 ひとはこういう空虚(①‘)に耐え切れず、どうにかしてことばを紡ぎ出そうとする…③

☆第4段落:原因の訴求+主張
 わたしたちがいま失いかけているものは、「話し合い」ではなく、「黙り合い」…④

 (※)このまま答案に使うのはまずい

☆第5段落:第3段落のまとめと問題提起②
 しゃべればしゃべるほど空しい気分になる経験…⑤

 →ことばが空語となって、②がなくなるどころか増していく…⑥

 (※)問題提起②

☆第6段落:第5段落のまとめ+原因の遡及
 深い沈黙の中で、ひとは語りつくすこと(※)に劣らぬ濃密な交感にひたる…⑦

 (※)この場合は本文中の饒舌やよい意味での語りつくす

☆第7段落:


☆解説~どう解けばスマートに解答できるのか

誰かと同じ空間にいるときにことばの不在を埋めることばが出てこなくなる場面に、ひとが遭遇する場合、他者の親密な感触があっけなく崩れる。そのときに、ひとはこうした空虚に耐え切れなくなって、必死にことばを紡ぎ出そうと打開するが、かえってしゃべればしゃべるほど空しさが増していく。一方で、沈黙はことばをしっかり裏打ちする働きがあるため、深い沈黙の中では、ひとは饒舌に劣らぬ濃密な交感に浸るようになる。よって、言葉を介しないで、誰かにお茶を供するだけの行為が、かえって深い充足感をもたらす。(240字)

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最終更新:2023年12月06日 13:42