平安時代は約400年間続く長い時代。
それゆえ、4つに分けて理解するとよい。
①「桓武天皇」による「政治の立て直し」
〈中央〉794 平安京に遷都
理由:寺院勢力が強く、政治と結びついていた→貴族と争うことも多かった
→政治を立て直す必要があった
〈地方〉801 蝦夷の拠点を攻める by坂上田村麻呂=征夷大将軍
※蝦夷=律令国家の支配が及ばない、東北地方の人々
②「藤原氏」による「摂関政治」(土地制度の変化と合わせて)
〈中央〉貴族が実権を握る
→藤原氏が力をもつ
→摂関政治:娘を天皇の后→生まれた子どもを天皇に→摂政・関白として補佐
〈地方〉貴族・寺社の所有する荘園の増加(有力農民などに寄進してもらう)
→土地を守るための「武士」が登場
→平将門の乱、藤原純友の乱、前九年の役、後三年の役
※この頃、国風文化が栄える
理由:894 遣唐使廃止 by菅原道真
理由:唐のおとろえ→派遣は危険(また、そこまでして中国に行って学びたい制度・文化ももうない)
※中国:唐→宋
朝鮮:新羅→高麗
③「白河上皇」による「院政」
→そのまま後三条天皇が天皇につく(約170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇)
→藤原氏の排斥を狙って、荘園整理令を実施(新しく増えてきた荘園に対して審査を実施)
→病気により、次の白河天皇に譲位
→10数年務めたのち、次の堀川天皇(とても幼い)に譲位
→上皇となり、院にて政治を行う=院政
→院政を始めた理由は「天皇でいることによる縛り(私有地が持てない)から逃れるため」
→その後、寺院をつくり、荘園を私有していく
- また、多くの人々から寄進を受ける
- 1156年 保元の乱
→大前提として「白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇」
→崇徳天皇のあと、鳥羽上皇は近衛天皇や後白河天皇など、崇徳とは母の異なる弟を天皇にする
→崇徳天皇としては、①院政ができない(院政は、自分の息子や孫が天皇でないと無理)、②自分の血筋が残らないので不満
→崇徳天皇vs後白河天皇
→武士が政界に台頭しつつあったことから、各勢力にさまざまな武士がついた
→後白河天皇側の勝利
※以下のように面白おかしく説明することも可能。
白河おじさん、女好き。
鳥羽天皇の奥さん(日本一の美女)を勝手に奪ってヤっちゃう。
その間に生まれたのが崇徳。(家系図上は鳥羽の息子)
白河は崇徳を天皇に。
鳥羽としては「そうはさせねえ」という感じで、白河の死後、崇徳に天皇をやめさせ、近衛→後白河に継がせる。
近衛も後白河も、崇徳の息子ではなく弟。
つまり、崇徳に院政をさせないようにした。
崇徳は怒り、鳥羽の死後に保元の乱。
現役天皇の後鳥羽に「なんでお前が天皇なんだよ」とぶちぎれ、自分の位を奪還しようとする。
→保元の乱のとき、後白河天皇側についた平清盛・源義朝がさらに争う
④「平氏政権」
→関東で勢力の強かった源義朝は、都に兵をそこまで投入できず、
たくさん兵をつけていた平清盛に負ける
→平清盛の勝利=平氏政権の成立
→平清盛は太政大臣に
→大輪田泊を拠点に、日宋貿易開始
★都の変遷に関する注意点
- 奈良時代=平城京、平安時代=平安京、という捉え方は不正確
- 桓武天皇(在位781~806)を含む、奈良時代の天皇たちは都を作っては転々とし、794年に平安京に遷都した
★平安京遷都の理由について
- 律令制度に従わない人たちが増えていったから(律令で社会問題に対応できなくなったから)
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- 僧侶が補佐役や政治の中心になると、僧侶が有利になるように政治が展開し、本来の政治秩序(天皇や貴族が中心の世界観)が崩壊しかねません。そしてそのような状況に実際になったため、桓武天皇はその状況に危惧をして、遷都を試みた。
【具体化】天皇とある僧侶が仲良くなって関係が深まったことで天皇が僧侶を太政大臣や政治の補佐(アドバイザー的な感じかな)に任命しました。その結果、僧侶が政治に参加するケースもありました。僧侶が政治に参加すると、僧侶が有利になるように政治が行われます。本来は天皇や貴族、律令が中心のはずなのにです。
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★遣唐使廃止について
国内で遣唐使が派遣されない理由を
この部分は東大にも出題されるし、国立でも出題されます。
①国民が税金を払ってくれない→財政難に陥る
→リスクが高い上に、お金がかかる遣唐使を派遣するのに消極的
②唐から先進的な文化を吸収しつくしたから。
ちなみに、③唐が滅亡の危機に瀕していたからという答案は微妙です。
なぜなら、8世紀中ごろも滅亡の危機に瀕していました。にもかかわらず、その後遣唐使を派遣したのはなぜでしょうか?そして、「財政難だったから」は国内状況を踏まえてと設問に書かれてあればいいのですが、すでに国家が財政難だった8世紀末(桓武天皇)のころにも派遣があったため、因果性が不十分です。
だから、「先進的な唐の文化を吸収し尽くして、これ以上学ぶことがない」が妥当だと思います。ただし、国内事情を説明するならば
①も説明として加えておくのが妥当だと思います。
★寄進について
◎寄進:有力な貴族や寺社に表向きの所有者=荘園領主になってもらう
→税が免除されるという特権を得る
国司の立ち入りをことわる権利を得る(→国司は荘園以外の土地=公領を支配)
開発領主が権門勢家に土地をあげて、自分が管理する土地を権門勢家の荘園にすることを【寄進(きしん)】といいます。それで「寄進地系荘園」というわけです。国司は、自分より身分が高い貴族が持つ土地に文句も言えないので、争いは自然と回避されます
メリットは、
◎有力農民=朝廷からの徴税を免れる。(税を国司に払わずに済む)
◎上級貴族=権力的に(農民を)守ってあげるかわりに、(農民から)お金を徴収することで、国司からの収入に頼らなくても生活ができる。
※貴族・寺社にとっての収入源は、①国司からの収入、②寄進による荘園での収入である。
これが寄進地系荘園の原理ですね。
年表的なことを述べると、
10C 国司(朝廷の部下)が過剰に税金を徴収する
11C 寄進地系荘園のスタート(教科書的には)
ただし、貴族の権力が衰退するとその貴族に国司は文句を言うため、有力農民は文句が言えないくらいの権力者に寄進を求めます。その具体例が、院政期です。院政では、藤原氏は娘を産まなくなり、天皇との結びつきが弱まったため、藤原氏の権力が弱体化します。その結果、藤原氏への寄進から院政に向けて寄進が行われます。
→藤原氏の経済基盤が弱体化します。経済基盤が弱体化した藤原氏がとる行動が 藤原氏は国司になります。例えば、奥州藤原氏が有名です。
→しかし、院は自分が裕福でありたいため、藤原氏の収益を奪って藤原氏にわずかしかもらえませんでした。
ちなみに、院政期の結果は①貴族文化と地方文化の融合(院政期の文化)が生まれました。例えば、豊作を祈るための儀式である田楽などもそうです。ほかにも各地方に中尊寺金色堂などの阿弥陀建築が建立されるようになりました。
★荘園について(みちかさんより)
荘園に関しては、歴史学でも研究が数多くされています。その背景もあり、小中高と荘園を扱いますが、正直、難しいとしか言えません。実際に、(大学の先生に言わせれば)荘園の授業だけで大学の講義15回分組もうと思えば組めるとのこと。財政改革に関しては、大まかでも経済がわからないと難しいですね
荘園支配の関係については、どういう支配をしていたか、簡単に言えば、上級貴族に守られる(*)ことで、どのようなメリットがお互いにあったのか、というところが、まず理解できればいいかなと思います。土地支配、特に中世は法律という法律がしっかりとされていないので、割と大雑把で裁判とかあったので。
(*)「上級貴族に守られる」について。
貴族の中でも位の高い藤原氏などが上級貴族にあたります。
寄進する段階で貴族や寺院が対象になります。その貴族や寺院はさらに位が高い貴族に寄進します。そうすることで、上級貴族に寄進した貴族たちは代償として上級貴族から保護を受ける形になります。平安時代に荘園が増えるのは税から逃れるためのみではなく、上級の貴族に寄進することで、成功や重任されることを狙っていました。下級の貴族の場合は、自分の地位を守ることを狙っていました。特に、平安時代に大規模な荘園をもっているは天皇家(八条院や長講堂など)です。天皇家がバックについていれば税の取り立てもそう簡単にはできませんからね。もっとも、生徒のレベルによって教える内容は変わってきます。具体的な寄進先(八条院や長講堂)は高校の日本史レベルになるので中学ではほぼ扱いません。
★末法思想の前後
1051 前九年の役(末法の前兆だといわれていた)
1052 末法思想到来(訪れなくてよかったね)
1053 平等院鳳凰堂建立(二度と末法が来ないように建立した)
①平等院鳳凰堂を立てたのが頼道
②太閤(元、摂政or関白)で、入試に出る太閤といわれた人は秀吉と道長のみです。
※平等院鳳凰堂に関して
- 10円玉のデザインに使われている
- 1万円札の裏側に、屋根の上の「鳳凰」が印刷されている
→鳳凰=中国の神話から伝えられた想像上の鳥
最終更新:2023年11月22日 22:25