はじめに

塾や予備校で現代文を教えている先生に送るメッセージです。

まず最初に伝えておきたいのは、
現代文は、生徒の人間力を高めることができる科目である
という点です。

現代文を、単に「現代日本語の読解力を伸ばす科目」とだけ捉えるのは非常にもったいないことだと思っています。本当にそれだけなら、大学に入って抽象度の高い論文を読むときぐらいしか現代文は役に立ちません。

しかし、ほとんどの人は、大学にいる時間よりも社会で過ごす時間のほうが長いはずです。そして、社会で仕事をする際に間違いなく必要になってくるのは「コミュニケーション能力」です。現代文の力が役に立つのはむしろここではないでしょうか。

近年、便利なSNSがさまざまな形で発達しており、コミュニケーションそれ自体は非常に容易にできるようになってきています。しかし、それと比例するかのように、非常に低レベルな論争や口論が起こっていたり、あるいは人間関係が悪化したりといった現象がいろんなところで見られるようになってきました。(まあ、時代性が理由なのかどうか、明確にはよくわかりませんが。)

いずれにしても、コミュニケーションが下手だと、周囲の人間との関係を悪くします。仮に悪くしなかったとしても、相手にストレスを感じさせてしまう、ということは十分にあり得ます。

自分が何か思いを伝えようとして意見を発信しても、相手には伝わらない。これって非常にもどかしくないですか?

私自身はそういう人をたくさん見てきました。

  • この人、省略が多くてわかりにくいなあ。相手の視点に立って話せないものか。想像力をちょっと働かせればいいだけなのになあ。
  • この人、日本語の使い方が変だなあ。主述は対応していないし、助詞の使い方には違和感があるし…
  • この人は一体何が言いたいんだろう?趣旨がよくわからない。いろんなことを言っていて話は一貫していないし…ごちゃごちゃしていてよくわからん。
  • この人、なんで今更こんなことを言うんだろう?そんなことはもうみんな知っているし、今更…。誰に対して言っているんだろう?現状把握ちゃんとできているのかな?

などなど、あげればキリがありません。特にTwitterを見ていると多いですね。

こういう人がたくさんいると、その人が属している集団の雰囲気を悪くしたり、その集団における調和が乱れたりと、マイナスの連発です。

逆にこのような事態を少しでも減らしていけば、皆さんの人生は豊かになると思うんですよね。つまり、コミュニケーションが円滑であるがゆえに幸せを感じる機会が増える、ということです。

そして、現代文という科目がそういう機会を作り出せるのではないか。私はそう思います。

したがって、現代文の指導においては、
  • 一人の人間が自分の思いを伝えるときに、どのような技術を用いるのか(どのような書き方をすることによって、思いが伝わるのか)というメカニズム
  • 一人の人間が書いた文章を読むときに、どのように読解していけばミスなく正確に読めるか。
  • 逆に自分から文章を発信するときには、どんな点に注意してやれば相手にストレスを与えない文章が書けるか

こういったことを意識して指導することが大切だと考えます。


そして、こうした指導をするために大事なことをいくつかあげておきます。

  • テクニックの排除。
→「すべて」というワードが含まれている選択肢は誤りだ、とか、その手のテクニックは排除すべきだと思います。読解問題を解くにあたって最も重要なのは、筆者の思考に向き合おうとすることです。「すべて、とまでは言ってないよなあ。だって筆者はこう言っているから」と判断してほしいですよね。そういう読み方、解き方ができるようになってほしいです。
  • 構造的読解。文章を整理するという視点を与える。
→これは外せないですね。例えば、「ここからここまでは、量としては10行もあるが、言っていることはこれだけだ。この一つのことを言うためだけに、具体例や比喩を用いて内容を読者に分かってもらおうとしている」という具合に。ぐちゃぐちゃしている文章をスッキリ明晰に理解させる、という点は徹底したいですね。
  • 文章を「味わう」という観点も忘れない。
→構造的読解ばかりやっていると、設問を解答する能力は飛躍的に向上しますが、文章を「味わう」という観点が抜けてしまいがちです。文章の要点が整理できるという第一の段階がクリアできたら、その先にある「文章をじっくり味わう」という段階を目指してみてもいいのではないでしょうか。解く際は、具体例や比喩はそぎ落として考えればいいんですが、それを完全に「スルー」するという態度もどうかなと。それらは、せっかく筆者が思いを読者に伝えようとして用意したものなのですから、「いいこと言うな」「いい表現を使うな」と思ってみたり、あるいは「この表現はちょっと…」とときには批判してみたり、そういう読みもときには必要なのかなと思います。それが結局はその人の心を豊かにすることにもつながります。

とまあ、つらつら書いてきましたが、いずれにせよ、現代文という科目を通して、
①誰かが言っていることを的確に理解し、
②それを踏まえたうえで自分のメッセージを分かりやすい日本語で発信していく
ということができるようになれば、最高ですよね。生徒がそうなっていくように私は指導していますし、皆さんにもそういうことを意識して指導していただきたいなと思っております。

現代文研究用コンテンツ



現代文解法探求

現代文読解法探究セミナー
~現代文解法における汎用性と再現性~
二〇一九年(令和元年)七月二〇日(土) @初台センタービル

本日のMENU
① 私のこれまでの葛藤
② 我々の目指すもの ~汎用性と再現性~
③ 具体的方法論 ~心情・換言・理由~








① 私のこれまでの葛藤
 今回のセミナーでは、「現代文解法」、もっといえば現代文の入試問題をどのように解いていくのか、ということについてお伝えします。私自身、これまでオンラインでの配信授業、家庭教師、塾講師など、さまざまな形で現代文という科目を教えてきました。そのなかで、やはり現代文の解法については「教えにくいなあ」という印象を持っています。それはなぜだろう、と考えてみると、行きつく先は「再現性」と「汎用性」です。「こういう手順で解くと正解にたどりつけるよ」という方法論が確立しにくいのです。一定の手順で解けない。
 それはそれで大切なことだとは思うんですね。一定の方法で解けないというのは数学の問題と似ています。頭を使います。
 しかし、それゆえ困ってしまうのは生徒です。生徒は、問題を解いた経験が我々よりも少ないので、パターンをそんなに持っていません。また、文章への理解度も薄いのがふつうです。となれば、「どうやって解くの?」「どうやって読むの?(読めないんだけど!)」となるのは当然のことです。そういう生徒を見ていると、こちらとしてもやはり何かしらの「法則」「パターン」「テクニック」を伝えたくなります。しかしそれでは本当の意味での読解力は上がらない…。しかも、パターンやテクニックにはふつう限界があります。つまり、それまでにない傾向の問題が出たときに対応できなくなります。
こうした葛藤に私はかれこれ5年以上悩まされてきました。
そして、いろいろ考えて出した結果、以下のようなスタンスで解法を確立することにしました。
①手順は細かいところまでは定式化できないので、「ざっくり」まとめる  (参考:富田一彦『試験勉強という名の知的冒険』)
②具体的な対応方法(「こういうときはこうする」という「パターン」)をオプションとしてたくさんまとめておく
 要するに、「ざっくりとした手順をもとに進めて、詰まった場合は、たくさんあるパターンの中からその場に合ったものを選択していく」という感じです。手順もパターンも用意しているので国語が苦手な人もついてこられます。また、手順をざっくりさせておくことで、汎用性が一気に高まります。つまり対応力もUPします。この考え方は、アルゴリズム(完全なる手順に基づく解決)ではなくヒューリスティック(閃きによる解決)に解く、という立場でもあります。
 そういうわけで、本日は、私が考えてきた現代文の解法を、「ざっくりした手順」と「具体的な対応方法」に分けて提示していきたいと思っています。
 具体的には、①心情、②換言(「どういうことか」)、③理由(「なぜか」)、という3つの問いへの対処法を伝えていきます。(私の最近の研究テーマは③なので、そこに時間を割くと思っておいてください。)



② 我々の目指すもの ~汎用性と再現性~
 私がどのような葛藤を抱えていて、それをどう乗り越えたかに関しては右で述べたとおりです。そして、結論として「手順をざっくりまとめる」「オプションをたくさん用意する」ということを述べました。このような結論を出したのには、わけがあります。それは、「汎用性と再現性」という観点を常に私が意識しているからです。
 私が普段勤めている会社の研修でも、このことはよく言われます。両者を定義するならば、次の通りです。
 汎用性=どの問題でも通用する解法である。
 再現性=誰がやっても使える解法である。
 両者をきちんと区別し、両方大切にする、という姿勢が大事だと考えます。片方だけではダメです。例えば、「汎用性」はあるが「再現性」のない解法はまずいです。「手順が細かく具体化されており、覚えられない」という状態などは、まさにそうです。また、「再現性」はあるが「汎用性」のない解法はまずいです。「パターン数が少ない」状態がこれにあてはまります。例えば、「指示語が出てきたら前を見る」しか武器を与えていないと、指示語のない問題には当然ながら対応できません。武器自体は使えるものであっても、使えない問題(=例外)が出てきては意味がありません。となれば、パターンを増やすだったり、より広い枠組みを用意するだったりといったことが必要です。
 これに関しては本当に苦労しました。私は現在、小中学生を対象とした集団授業を勤務先で担当しているのですが、昨年度(二〇一八年度)の中三に「どういうことか」と「なぜか」の解法を以下のように指導しました。これは本当に失敗だったな、と反省しているものです。

どういうことか
 まず傍線部中に言い換えるべき表現(ターゲット)を探す→「指示語・入れ物表現・筆者独自の表現・主語の省略・イコール表現・対比」
なぜか
「間を埋める」問題。傍線部中にスタートとゴールを定め、スタートの説明を傍線部外から探していく。

 この二つ、それぞれ何が欠陥か分かりますか? 前者は「再現性」の観点から問題があります。後者は「汎用性」も「再現性」もない、使えない解法です。
 どうダメなのかは、これから示していく、新たに開発した解法と比較すれば分かるかと思います。



③ 具体的方法論 ~心情・換言・理由~

3大アプローチ
そもそも論として、現代文の問題へのアプローチ法には大きく分けて以下の3つがあります。教える側がこれを自覚・意識することはかなり大切だと考えます。
①文章構成(論理展開)からアプローチ → 文学的文章なら心情の変化、説明的文章なら筆者の主張をむき出しにする(当然、そこが解答根拠になりやすい)
②設問要求(出題者の条件設定)からアプローチ → 「この問題が出たらこういう手順で解く!」といったものを意識する
③選択肢からアプローチ → ①②が出来ていることが前提。拾った根拠と選択肢を同定する。選択肢判断のときならではのテクニックもある

心情
→小説に出てくる「心情」「様子」「理由」の問題はすべて以下の手順で処理可能。

◎手順(ZAC!)
①設問:ターゲットとなる人物の確定(「誰の」?)
②傍線&周辺:「状況→心情→外面描写」を確認
  ※気持ちのねじれ → 2つの要素が必要

◎「状況」のパターン
①他人の外面描写(特に、直前のセリフ・行動)
②自分の状況の変化
③自分の回想・想像

④自分の性格・経験 (特に、①~③の原因が心情に直結しない場合、特殊な事情があると考えて④を拾う)

◎心情のパターン
 ①喜怒哀楽表現(慣用句含む)
 ②心内文(心の中のセリフ)
 ③具体的な心情・意図 → 傍線部が「意図的な行動」の場合、これ!

◎外面描写のパターン
 ①表情
 ②セリフ・口調
 ③行動・態度
 ④情景

(例題①)傍線部のときののび太の心情は?
ジャイアンに殴られて、のび太は①泣いた。そして②ドラえもんのところへ行った。道具を出してもらった。
(例題②)傍線部の理由は?
僕は居間でテレビを見ていた。そしたらお母さんが、宿題をなかなかやり始めない弟を叱っていた。僕はあわてて自室にもどり勉強をはじめた。







傍線部分析 ~4点チェック~
論説文における傍線問題では、傍線部を見たときに以下の4点を確認することが必要。
「傍線部から離れると正解から離れる。正解から離れると合格から離れる」
(1)主語・述語を押さえる  ※構文変換する場合あり
(2)省略を補う       ※主語「~は(が)」や条件「~においては」など
(3)注目すべき表現を確認  ※指示語、接続語、その他もろもろ
(4)対比の有無を確認

換言 「どういうことか」
◎手順
① 傍線部を分析し、方針を立てる
 (1)4点チェックの徹底
(2)注目した表現について、その言い換えを探すことを意識!
(3)直行型か経由型かを意識!

直行型 = 傍線部→選択肢

経由型 = 傍線部→前後→選択肢  ※「中身を明らかにすべき言葉」があるときはこれ!

  (4)聞かれている部分が、傍線部の全体か部分か、も意識!
② 根拠を拾う








理由 「なぜか」
◎「なぜか」の本質
 →傍線部単独では、理由の説明が必要になる(=非自明性がある)場合に問われる。
 →したがって、「どういう前提を足せばそれが帰結するか」「何を補足すればスムーズにつながるか」といった方向で考えるのが基本。
 →ギャップを埋める(2つの要素を結びつける)のが基本解答方針、と言ってもよい

◎手順
① 傍線部を分析し、方針を立てる
(1)4点チェックの徹底 → 必要に応じて言い換える/対比がある場合、それに応じた対応を!
(2)結果(論証責任が生じている言葉)を強く押さえる ※基本は主語+述語
(3)結果につながる条件(理由の一部を構成するもの)があれば押さえる→そこから説明をスタート
② 根拠を拾う
 (1)因果関係を表す表現は必ず押さえる … 接続語タイプ:「だから〈傍〉」「〈傍〉~から」  熟語タイプ:「原因」「背景」「影響」「関係」
 (2)因果関係の成立を確認 … 拾った根拠に「だから」をつけて傍線部につなげられるか?

◎ 根拠の拾い方
(1)文章構成からアプローチ
(2)対比は整理(ないしは対比相手の説明をカット)  →選択肢の切り分けが容易になる
(3)具体例はカット(ないしは抽象化)
(4)シンプルに「探す」「追いかける」 ※理由の場合 → Aの説明・結果、Bにつながる説明を探す → 因果関係の成立を確認

◎文章構成からのアプローチ
 →傍線部がその意味段落内で前置なのか後置なのか。
 *前置=これから詳しく説明することを先にまとめている=オープン(これから開く)
 *後置=これまで説明したことをまとめている=クローズ(そこで閉じる)
 *よくある型として、以下の論展開を押さえておく。
  一般論→逆接→(問題提起)→主張A→具体例・理由→主張A
  ※「具体例・理由」の部分で、一般論と主張のギャップを埋めている。
◎構文変換
①強調構文「~のは(のが)Aだ」→Aは~する。(例)残ったのは悔しさだけだった。→悔しさだけが残った。
②無生物主語構文「AはBにCさせる」→AによってBはC

◎注目すべき表現とそれへの対応
言い換えるうえで重要な表現
(1)中身を明らかにすべき言葉
指示語→指示内容を明らかに   ※「指示語」が決め手になる問題とならない問題(指示内容が薄いときなど)があるので、 訓練しながら慣れること!
入れ物表現 「○○って何?」(Aの性質、本質、特徴、意味)→Aの中身を探す
形容詞・形容動詞的な表現 「どう○○?」(価値判断)「Aだ」→何がどうAなのか
レトリック(主に比喩)→一般化
類比表現(似ている、同じ)→共通点を考える 「AもBも~」
(2)それ自体の意味を明らかにすべき言葉
慣用句→一般化
筆者独自の表現、専門用語→言い換えや定義を探す
対比のバリエーション
 露骨な対比表現(対立、違う・異なる)→相違点 「Aは~だが、Bは…」
 一般論と筆者の主張(AではなくB、AしかしB)→Aを打ち消すような説明、Bにつながる説明を探す
否定表現(Aは誤り、間違い、Aでは不十分、Aではない)→デメリットと本来のあり方(肯定)→「BはダメでAがヨイ」(〇✕の図式)
逆説表現(不思議、Aと同時にB)→「本来AなのにB」「AだがB」(対応する対比を別の箇所に探す)
変化(変化、変更、〇〇化、ようになる)→AからBへ(矢印の図式) 理由問題なら変化のきっかけ・タイミングを探す

◎「条件(理由の一部)」のパターン
①AはBだ、AとはBだ→Aの説明かつBにつながる説明を探す
②AするとBだ、AならばB、AしてもB→Aの結果かつBの原因を探す(途中を埋める)
③Aにとって、Aにおいて→Aの立場・状況についての説明を探す
④Aが[こそ]必要・大切・不可欠、Aすべきだ、Aしなければならない→Aのメリット・目的を探す
                                 orAしないデメリット

例題1

 あなたは、いまどこにいるのだろうか。
 あなたがいまいるのは、本屋さんだろうか。図書館だろうか。カフェだろうか。それとも自分の部屋だろうか。どこが一番落ち着いて本が読めるのだろう。
 シーンという耳鳴りみたいな音が聞こえてきそうな静かな図書館でないと落ち着いて本が読めない人もいるし、逆にカフェのバックグラウンド・ミュージックがかかっていないと落ち着いて本が読めない人もいる。ぼくの町のコーヒー店には、毎日のように夕方になると本を読みに来るおじいさんがいる。家に本を読む場所がないのではなくて、たぶんそのコーヒー店がいいのだろう。
 電車の中でも本が読める人は多い。ぼくもそうだ。通勤電車の中では、幅を取らない新書を、しかも自分の専門外の新書を読むことにしている。電車の中は、会話もろくにできないくらいうるさい。うるさいのに落ち着いて本が読めるのはどこかヘンな気もしている。「落ち着いて本が読める」とはどういうことだろう。それは、周りが気にならないということだ。では、その「周り」とはなんだろう。周りの人のことだろうか。ちょっとした雑音のことだろうか。たぶん、そうではない。①本を読むぼくたちにとって一番「うるさい」のは自分の体だ。だから、ふつう自分の体を気にしなくてもいいような姿勢を整えてから、ぼくたちは本を読む。本に没頭しているときには自分の体を感じていない。体がかゆくなったりくすぐったくなったりしたら、読書に集中できない。読書に体はじゃまなのだ。
 もっとじゃまなものがある。それは、自分の意識だ。そもそも自分の体がじゃまだと感じるのは、意識が体に向かっているからである。しかし、本の世界に入り込んでいるときには、ぼくたちは自分の体どころか、自分が自分であることさえ忘れてしまっている。つまり、自分を感じていない。自分の意識が全部本の中に入ってしまって、自分を感じるゆとりもないはずだ。そういう状態を作るためにわざわざ音楽をかける人もいる。別に音楽を聴いているわけではないだろう。意識が自分に向かわないようにすればそれでいいのだ。それが「読書に没頭する」ことだ。
(平成23年 八王子東高校〔四〕 石原千秋「未来形の読書術」)

問1 傍線部①「本を読むぼくたちにとって一番「うるさい」のは自分の体だ。」とあるが、その理由として最も適切なものを、次のうちから選びなさい。
ア 落ち着いた場所で本を読もうとしても、それにふさわしい場所は、そのときの自分の体の調子に影響されてかわるから。
イ 自分では本を読もうと思っていても、自分の体は他のことをしたがっていて、本に意識を集中することが難しくなるから。
ウ 落ち着いて本を読もうとしても、周囲の雑音が絶えず自分の耳に入ってきて、どうしても自分の体を意識してしまうから。
エ 本を読むことに集中しようと思っても、まず自分の体に意識が向かってしまうと、なかなか本の世界に没頭できないから。





例題2
次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。
 詩歌などの創作は個性の表現であると、一般には考えられている。二十世紀になってそれに対して、異論を提出したのが、T・S・エリオットである。
 エリオットは「伝統と個人の才能」で言う。詩人はつねに、自己をより価値のあるものに服従させなくてはならない。芸術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅である。芸術とはこの脱個性化の過程にほかならない。
 そういうことをのべたあとで、エリオットは有名なアナロジーをもち出す。
「詩の創造に際して起るのは、酸素と二酸化炭素(亜硫酸ガス)とのあるところへ、プラチナのフィラメントを入れたときに起る化学反応に似ている」、というのである。後年、この化学的知識は正確でないと言われたけれども、それはともかく、これは触媒反応といわれるものである。
 (中略)
 詩人は自分の感情を詩にするのだ、個性を表現するのである、という常識に対して、自分を出してはいけない、とした。個性を脱却しなくてはならないというのである。それでは、個性の役割はどうなるのか。そこで、触媒の考えが援用される。
 酸素と亜硫酸ガスをいっしょにしただけでは化合はおこらない。そこへプラチナを入れると、化学反応がおこる。ところが、その結果の化合物の中にはプラチナは入っていない。プラチナは完全に中立的に、化合に立ち会い、化合をおこしただけである。
 詩人の個性もこのプラチナのごとくあるべきで、それ自体を表現するのではない。その個性が立ち会わなければ決して化合しないようなものを、化合させるところで、"個性的"でありうる。
 これは、それまでの芸術的創造の考えに一石を投ずることになり、エリオットの"インパーソナル・セオリー"(没個性説)と呼ばれて有名になった。
 欧米では、この考え方は斬新であったけれども、われわれの国の文芸では、さして珍しいものではない。
 もともと、わが国の詩歌は、主観の生の表出を嫌い、象徴的に、あるいは、比喩的に心理を表出する方法を洗練させてきた。その端的な例が俳句である。
 俳句では、主観は、花鳥風月に仮託されて、間接にしかあらわれない。自然事象の結合は、俳人の主観の介在によってのみ行なわれるけれども、主観がぎらぎら表面に出ているような作品は格が低くなる。主観が積極的に作用しているのは、小さく個性的な作品を生み出す。
 真にすぐれた句を生むのは、俳人の主観がいわば、受動的に働いて、あらわれるさまざまな素材が、自然に結び合うのを許す場を提供するときである。一見して、没個性的に見えるであろうこういう作品においてこそ、大きな個性が生かされる、と考える。
(2012年 立川高校〔四〕 外山滋比古「思考の整理学」)
問 傍線部について、その理由として最も適切なものを次のうちから選びなさい。
ア 欧米では一つの事象を個性的に表現することを重視したが、日本では主観を積極的に作用させる技法がもてはやされたから。
イ 欧米では主観が個性を表現するものと考えられてきたが、日本では客観的な表現の中だけに個性が表れると考えられたから。
ウ 欧米では主観を排して間接的に表現する技法が未発達だったが、日本では象徴的に心理を表す方法を洗練してきたから。
エ 欧米では主観を象徴的に表現するという伝統があったが、日本では個性は必要とされずむしろ邪魔だとされてきたから。
例題3
人間とは、「人間とは何なのか、私とは何なのか」と絶えず問う存在である。頭の中で問わないまでも、こころの中で問うている。とすれば常に出会い、常に傍らにあるモノや人や場所があってはじめて、われわれは自己の役割を知り、自分が何ものかの役に立つことを知り、自分が世界の一部であることを知るだろう。こうしてようやくそれなりの自己確証をえることができるだろう。

ヘーゲルが述べたように、人間が社会的な存在であるのは、人は他者から承認されることで初めて自分自身になるからである。「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」という*シューマッハーの言葉は、決して通俗的なヒューマニズムの表明ではなく、人間存在の基本的な条件を述べたものであった。だから、われわれは、一方では、市場経済の無限拡張であるグローバリズムや情報網の世界的な拡張を受け止めると同時に、他方では、小規模な地域、組織、場、集団、仕事を保持してゆかなければならない。「そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えることを学ばなければならない」というわけである。

ひとつの地域は、ただそこに住民票をおいたものが漫然と生活しているのではなく、その土地への愛着や愛郷心によってつながっているはずである。相互に相手がどのような人間であるかを理解でき、地域ぐるみで子供に対して一定の価値観や道徳基準を教育するものである。「共感」があり、その「共感」のうちに自然と道徳心が生じるのが、地域共同体というものである。
組織や集団においてもまた、ただ仕事の分担によってのみ人々はつながっているのではない。仕事によってつながるためにも、ある程度は他人の性格や人柄を知らなければならないだろう。さらにいえばそれだけではなく、ある他人の別の他人に対する関係も知っておかなければならない。一人一人のお互いに対する関わり方もわかっている必要がある。そうして初めて組織や集団はうまくゆく。これは、巨大組織では無理であって、それが可能なある適正な規模というものがあるのだ。こうした相互に信頼できる仲間があって初めて、人は「組織人」「集団人」として何とかやってゆけるであろう。
逆にいえば、この種の、相互に信頼でき、相互に相手の性格や事情を了解できる組織や集団を作れない社会では、人々は、日常の中で神経をすり減らし、人間関係はとげとげしく、創造性に欠け、仕事への責任感を持ちえないであろう。組織と仕事は、人々の道徳性の母体にもなるのである。多くのものが、道徳性や規律を身に付けるのは、個人主義によってではなく、適切な組織においてである。

問 「小規模な地域、組織、場、集団、仕事を保持してゆかなければならない。」とあるが、筆者がこのように述べたのはなぜか。その理由として最も適切なものを、次のうちから選べ。
ア 人間は地域社会の中で一定の価値観や道徳基準を与えられるため、個人主義的な規律で作動しているような会社組織を知るだけでは上手に人間関係を作っていけないから。
イ 人間は経済や情報の拡張や世界の普遍性について理解を深めるとともに、適正な規模の地域社会や組織の中で価値観や道徳性を身に付けて社会的な存在となっていくから。
ウ 人間は相互に相手を理解できる地域との一体感によってつながっており、居住している土地への愛着心が生まれることによって一定の価値観や道徳心が育まれていくから。
エ 人間は相互に信頼したり事情を了解できる適正な規模の組織や集団があって円滑に暮らしていけるので、とげとげしく創造性に欠ける社会の中では生活していけないから。



例題4
 いわゆる自然派というヨーロッパ近代文学思想の移入(あやまれる)以来、日本文学はわが人生をふりかえって、過去の生活をいつわりなく紙上に再現することを文学と信じ、未来のために、人生を、理想を、つくりだすために意欲する文学の正しい宿命を忘れた。
 単にわが人生を複写するのは綴方(つづりかた)の領域にすぎぬ。そして大の男が綴方に没頭し、面白くもない綴方を、面白くない故に 純粋だの、深遠だの、神聖だなどと途方もないことを言っていた。 小説というものは、我が理想を紙上にもとめる業くれで、理想とは、現実にみたされざるもの、即ち、未来に、人間をあらゆるその可能性の中に探し求め、つかみだしたいという意欲の果であり、個性的な思想に貫かれ、その思想は、常に書き、書きつづけることによって、上昇しつつあるものなのである。
 けれども小説は思想そのものではない。思想家が、その思想の解説の方便に小説の形式を用いるという便宜的なものではな い。即ち、芸術というものは、たしかに絶対なもので、小説の形式によってしかわが思想を語り得ないという先天的な資質を必要とする。
 小説は、思想を語るものではあっても、思想そのものではなく、読物だ。即ち、小説というものは、思想する人と、小説の戯作者と二人の合作になるもので、戯作の広さ深さ、戯作性の振幅によって、思想自体が発育伸展する性質のものである。 明治末期の自然派の文学以来、戯作性というものが通俗なるもの、純粋ならざるものとして、純文学の埒外(らちがい)へ捨て去られた。それは、実際に於ては、むしろ文学精神の退化であることを、彼らは気付かなかった。
 即ち彼らは、戯作性を否定し、小説の面白さを否定することが、実は彼らの思想性の貧困に由来することを知らなかった。
 彼らには思想がなかった。理想がなかった。人生を未来に託して、常により高く生き抜こうとする必死な意欲を知らなかった。 「思想性が稀薄であるから、戯作性、面白さと、だき合うことができなくて、戯作性というものによって文学の純粋性が汚されるような被害妄想をいだいたわけだが、本当のところは、戯作性との合作に堪えうるだけの逞しい思想性がなかったからに 外ならぬ。
(坂口安吾「理想の女」より)
問 傍線部のように言うのはどうしてか、わかりやすく説明せよ。










(解答例1 三木作成)
明治末期にヨーロッパ近代文学思想たる自然派が日本に誤解されたまま移入されて以来、自身の過去をありのままに再現することを目指す文学観が肯定されると、小説の面白さたる戯作性が純粋性なき通俗なるものとして否定されるようになったが、この事態は、実のところ、理想を求めて意欲するという文学本来の宿命が看過され、作家自身の持つ思想性が、戯作性と併存不可能なほどに乏しくなっていく状況を露呈したものだと言えるから。
(解答例2 河合塾)
戯作性と思想性とが相即しながら、より高い人間精神の表現へと発展してゆくのが文学精神の本質であるのに、過去の人生を表現するにとどまり戯作性を通俗的で不純なものとして排除する自然派以降の文学傾向は、未来に向けて思想を発展させる契機を自ら捨て去っているものであるから。

付録 ~「読む」「解く」とはそもそもどんな作業か~
【読む】
 ・設問にたどりつくまでの読解に関しては、「大まかな内容把握」ができればよい。「大まか」に基準を設けるならば、「どこに何が書いてあったかがわかる(本文を必要に応じて参照できる)」ことができたかどうか、です。
 ・そして、大まかな内容把握をするためには、ただ読むだけではダメです。最低限、以下のような意識付けは必要ではないでしょうか。
  小説文(物語文) 〈主人公の心情の変化を描いた文章〉
 → 「どんな状況(場面)で、誰がどんな心情を抱き、それがどのような描写として描かれているか」といったことを追いかける。
     小学生に指導するなら、低~中学年には「状況」の把握をまずは徹底させ、高学年には「心情」や「描写」の把握も加えてやらせられればよいでしょう。
  説明文・論説文・評論文 〈何かを主張、ないしは説明するために書かれた文章〉
   → 小説と異なり、主流(=筆者の主張)と傍流(=具体例・比喩・引用文)にある程度分けられます。
     そうした「強弱」を意識しながら、筆者の主張を押さえていくような読みが必要でしょう。
  随筆文 〈筆者が自分の体験をもとに意見を述べた文章〉
   → 前二者の中間、と捉えればよいでしょう。体験ベースで書かれますから、まずはそこでの筆者の心情を小説文読解と同じスタンスで追いかけます。
     そして、体験を踏まえて筆者の意見がその後述べられるはずですから、そこでの主張を、説明文や論説文と同じスタンスでくみ取ります。

【解く】
 ・設問要求への意識をまずは高めるべきです。
  特に「どういうことか」「なぜか」といった問題が何を問うているのか、きちんと区別しましょう。
 ・設問に付加された条件設定への意識を高めることもまた重要です。
  特に抜き出し問題に関しては、問題文の中の条件をきちんとインプットすることで解答の探しやすさがアップします。
 ・次いで、傍線部や空欄といった、設問設置箇所とその周辺をじっくり分析することが大切です。
  そりゃそうですよね。傍線問題は、傍線に関連して問いが作られます。空欄問題は、空欄の前後の情報から空欄に入る言葉が推測できるからこそ設置されます。
  (傍線問題の中には、傍線部を分析したところであまり発展性がないというような問題もたまにありますが。)
 ・傍線部や空欄あたりを分析したときに、どの言葉に注目するのかはかなり重要になってきます。
  「注目すべき言葉」をある程度体系的に示してあげることは重要です。そこを起点としてアプローチしていくわけですから。

























「読む」とはどんな作業か
 「読む」=「読解」=読みながら意味を考え、理解する。時には立ち止まり、俯瞰的に展開を整理する。
           (評論文においては、筆者の伝えたいメッセージを理解すること)
          →そのためには… ①文章と対話するつもりで読もう。
                   ②「抽象と具体の往復」を意識しよう。
                    →特に、抽象的な内容に対して具体例を考えたり、
                     自身の体験を想起したりすることが重要。
  ↓
 字面をただ追うという受動的な作業は、決して読解とは言えない!
  ↓
 主体的かつ能動的な姿勢で本文を追いかけることによって、内容が理解できる。そして、解答の根拠の発見が非常に容易になる。(この逆、「ウォーリーを探せ」的な解き方が非常に危険)

読み飛ばすはNG、読み流すはOK



100%の理解を目指す必要は全くない。
基本線を捉えるような感覚で読もう。
まずテーマ(何について話しているか)がざっくり捉えられること。
次に、論理関係を意識して読むこと。
 特に「抽象―具体」「対比」への気付きは非常に重要。
 →それだけで誤答選択肢が切れることも多い
解きながら理解を深めていく、という観点も忘れない
 (もちろん、100%読める力のある人はそのスタンスで問題も全問正解してほしい)





設問ありき
筆者と出題者がおり、出題者の設定した問いに答えていくゲーム

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最終更新:2023年12月09日 00:48