■江戸幕府の成立
年表
1600 関ケ原の戦い
1603 家康、征夷大将軍となる。
1604 家康、江戸幕府を開く。
1615 大阪夏の陣で、豊臣家が滅亡した。
↓
ポイント:関ケ原の戦いで、家康が勝利した後に、家康中心の時代になった。
→①征夷大将軍の意味が変わること(家系図を使った説明が妥当)。
②各身分の人々をどのように支配していったのか。
豊臣政権、農民、武士、商人、宗教勢力、朝廷など。
①関ケ原の戦い
1598年に秀吉が死んだあと、徳川家康と石田三成(ともに部下)が戦いを起こした戦いのこと。
→戦争の結果、徳川家康が勝利した。
②征夷大将軍
「蝦夷(東北にいる、朝廷に従わない連中)を征伐するリーダー」
「武士をまとめるリーダー的存在(鎌倉以降)」
1)源氏の血を引き継いでいること
2)天皇が将軍を任命すること
→天皇に認められなければ、将軍になれないということ。
そのため、朝廷と良好になる必要があった。
ちなみに、武士が将軍の言うことを聞いているのは、天皇が任命した(将軍だと認めた)からである。
幕末に起きた公武合体が起きた理由は、朝廷との関係を改善するためである。
→これには、2通りの解釈が存在する。
1)将軍を任命した天皇が主君(水戸藩、『大日本史』)
天皇―将軍―武士
2)天皇が偉いのは認めるが、政治を行うことを将軍に任せた(統治委任論)
天皇→将軍―武士 (「→」は「政治を任せる」
→幕府は2)で解釈し、支配の正当性を強めた。
いっそう強めた思想が朱子学!
徳川家康は、息子の秀忠に将軍職を継承した。この歴史的意義は、将軍とは、徳川家にしかなれないことを意味している(徳川家ではないものを将軍に任命すると、徳川家中心の時代が終わる、ということをアピール)。反対の言い方をすれば、徳川家ではないものが将軍にはなれないことを表している。その危険性が起こる理由は、基本的に、徳川家に子供がいないことである。
→ここまで説明しておくと、明治以降、天皇中心の時代が訪れることも理解できる。理由説明にもつながる。皇帝=天皇とみなして明治時代は天皇中心の国家体制が確立した(近代国家という概念は皇帝(王様、統治者)がいないと、成立しないから)。
③大阪夏の陣
- 大阪夏の陣によって、豊臣家が滅亡した。
- これ以降、江戸時代は平和の時代が誕生したということである。(パクス・トクガワーナ)
- その後戦わなくなった武士はどうなったのか?
→学問を勉強したり、肉体の強さを活かして土木工事をしたりした。
収入は百姓から取った年貢で生活していました。
江戸幕府の支配体制
幕府が、①武士 ②農民(えた・ひにん含む) ③町人 ④仏教勢力をどのように支配していったのかを確認しよう。
①武士の支配
→(A)石高制と(B)法支配!(基本的には豊臣家の政策を引き継ぐ)
(A)石高制
- 支配者、権力者の立場に立てば理解しやすい!
- 流れ:全国統一(全国の土地が一旦幕府のものに)
→それを各地域の有力な武士=大名に分配 & その大名がもつ土地を「藩」とする
※藩の例:薩摩藩、長州藩、肥前藩、土佐藩、水戸藩など ※大名は「藩主」「領主」とも言う
→では、誰にどのぐらい分配しようかなあ…
→そのときの基準となったのが「石高制」
→1万石以上の石高があれば大名になれる
※石高=面積×収穫高。
※「大名」という言い方の起源は
平安時代の「大名田堵(たと)」にさかのぼる
→大名田堵=名(10世紀~太閤検地までの土地の単位)を多く持った有力農民。
→つまり「大名」とはもともと「土地を多く持った」という意味
→徳川家と徳川家に信頼されている藩は石高の数が大きく、そうでない藩は石高の量が少なかった
→信頼度順に、親藩、譜代、外様大名に分かれた
種類 意味 主な配置先
親藩 徳川家一門の大名 紀伊・水戸・尾張
譜代 関ケ原以前から徳川家の家臣 近い~普通
外様 〃 以後 〃 遠い
→定期テストでは、①親藩の具体例、②主な配置先の特徴が記述問題で頻出
- 石高制は、都合のいい人を優遇し、都合の悪い人を排除するものである。
1)言うことを聞かない大名に関しては、土地を没収してクビにした。(家康~家光まで) (※)
(没収すれば、面積=0になるので、石高も0になる)
→しかし、土地を没収された後の武士は「浪人」となり、浪人が団結して反乱を起こすこともあった
→そのため、幕府は、土地の没収ではなく、儒教(=偉い人には逆らうな!)を浸透させて支配していこうとした
→これが綱吉の文治政治につながる
(※)例:広島藩の藩主・福島正則は、幕府の許可なく無断で広島城を立て直した。
→武家諸法度に違反していたので、処罰され、土地を没収された
2)収穫高の少ない地域には、交易で賄わせる 例:松前藩(面積は広いが、もともと米がそんなに取れなかった)
3)能力のない大名の石高は減らし、能力のある大名に分配する(足高の制by徳川吉宗)
- 大名とは、①領地を支配し、②年貢をもらうことができる
→もらった年貢は、配下の武士たちに「俸禄」(給料)として分配
→大名も、幕府の役人に「俸禄」を支給される(米や領地)
→もらった俸禄(米など)は、札差(金融業)に換金してもらう
→もらえるお金は、米の供給量によって変化する
→飢饉などに米があまりとれないと、米が少ないので価値・価格は高くなる。(米が少ないので結局儲からない)
一方、豊作で米が多く取れるときは、米の価値・価格は低くなる。(当然、儲からない)
→武士は基本的に貧乏である
→だからこそ、その後さまざまな改革が行われる
(B)法支配
→武家諸法度を制定した(将軍ごとに更新される。3代目のときに参勤交代が追加される)
→目的は、
①武士のあり方を意識してもらう
②武士の勢力削減(武士が儲けすぎると、軍事力を強めて、幕府に反発する可能性があり、それを防ぐ)
※鎖国の目的も②と一緒。
→第一目的はキリスト教の禁止だが、大名の勢力削減という目的もあった。
(貿易を幕府が主導で行うことで、大名が貿易によって儲けることを阻止することが可能)
②農民支配
- 基本的には、年貢を払わせることで支配した
- 前提:農民の家族構成は、基本的に主&妻&子ども
→なぜ子どもを産むのか
→主が死んだ後、子ども(長男)に後を継がせるため
※後継ぎがいないと、その土地は農民の共有地(幕領)となり、土地をめぐった争いが起こってしまう
※長男が早死にするリスクを防ぐため、子どもは2人以上産むんでいた
※女子が産まれた場合→武士の家庭に嫁がせることが多い
1石高の公式は、面積×収穫高である。
つまり、税額は、面積or収穫高が少ないならば、その分税額も少なくなるということを意味している。
2主が死ぬと、何人かの子供に遺産相続させる(土地の細分化)。その結果、主が持っていた面積よりも子供の面積の方が少なくなるのである(ケーキを何人かに分けると、ケーキの分量が少なくなる感じ)。
→時代を経れば、経るほど、農民一人当たりの面積が少なくなる。
⇨幕府の収入も農民の収穫高も少なくなる(収穫高の多寡は面積の大きさに左右する)。
ここでの問題点は、幕府の税収入が減ってしまうことと、農民の生活苦に陥ることである。
さらに、収穫高に依存しているため、悪天候に見舞われると、収穫高が激減するケースもあるため、リスクは大きい。
③問題点の解決策
1商品作物を作成する(農民)(17C)
米の栽培が少なくなる場合、米以外の作物を都市に売ることで、お金を稼いでいた。そのような作物を商品作物という。主な具体例として、干鰯、金肥、たばこ、みかんなどが具体例である。しかし、幕府としては農民には、米作りに専念してもらいたい。そのため、商品作物の栽培を法律で禁止していた(※)。
2面積を増やす(土地の細分化をなくす)(17C後半~18C)
そもそも面積が少なくないから、年貢量が少なくなるわけである。ならば、何らかの手段で面積を増やせば問題はない。増やした方法は以下のとおりである。
新田開発にも、お金がかかるわけです。そこで、幕府はそのお金をお金持ちである町人や武士に出資させたのである。ちなみに、一部の地域では、農民自らが新田開発をすることもあった。
そもそも土地の細分化をしてしまうことが問題である。そこで幕府は、ある土地の面積以下になったら、土地の細分化を禁止する法律を制定した(※)。
3少ない土地でも効率よくたくさん栽培できる工夫をした。
農具の改良や商品作物を用いた肥料を使った(『コンプリート』参照)。
4土地を地主に売る(農民側のアクション)+都市の出稼ぎにでる(18世紀)。
1や2を行っても、土地が少ないため、農民の生活が困窮するケースがあった。農民は生活費を稼ぐために、土地をお金持ちの農民に売った(※)。
土地を売った農民の人は職を失う。その結果、豪農の下で働くようになった。その働いている様子は、一方的にコキ使って安い給料で働かしていたのである(明治時代の寄生地主制と同じである)。その豪農の名称は、明治時代になると、寄生地主という名前である。
それで農民は、都市に出稼ぎに行っていたのである。
その結果、年貢を払わない人が続出した(武士の収入が減った)。土地を売ったら、耕す人が減ってしまうためである。それに対して幕府は、農村に帰れ!と命じた。
明治時代になると、地租改正によって、より多くの小作人を生み出して、寄生地主が大金持ちとなって、間接的に軍国主義を助長させたのは、地租改正を参照してください、。
■改革期
1 勉強熱心で学問奨励
2 貿易を通じて国内の金・銀が少なくなったこと、元禄文化発展による経済活動の活発化により貨幣の需要が高まったことなどにより、
貨幣を増やそうとしたが、金の量に限りがあるので、貨幣の質を落として金を増やした
→下げた分の金は幕府の収入とし、保管する。そうすると幕府の権力=国力(国の信用度)を高めることができる。
→民衆の手持ちの貨幣が増える分、物価は高騰。
→学者。理想主義。
→貨幣価値をもとに戻した。(金の比率を高くした。残った部分には何を入れたか?→食塩、硝酸カリウムなど)
年貢だけに頼りたくない
→株仲間
蝦夷地調査(ビジネスチャンス!海産物とれる!)
↓
・海産物を輸出するため、
長崎貿易奨励→(国内に不足していた)金銀をもらって補う!
・金銀が少なくなったので、銅を輸出
※もちろん、年貢に頼ることもする。印旛沼の開拓など
※印旛沼の開拓理由は、水野の場合と違う。
水野は、アヘン戦争による列強(イギリスなど)の脅威に対抗するために、印旛沼からすぐに太平洋に出れるようにという意味で開拓した。
①米
②思想統制
理由:国内で幕府への反発があり、改めて支配のために思想を統制する必要が生じたから
(当時も中国とは貿易をしていたので、そのなかで陽明学など他の思想が流入してきた。そのため、儒学への反発が高まりそうになったのを防ごうとしたから)
外国からの脅威(ロシア船がやってくるなど)→民衆の混乱→秩序のしきり直しが必要だった
田沼で政治が乱れたから
■米商人 → 集めた年貢をそのまま売っている
年貢は大阪の蔵屋敷などに集まる
■貨幣経済の広まり
それが江戸時代のこの時期になって一気に発展
(朝廷がつくった和同開珎が貴族たちに広まったが、だんだんみんな朝廷に従わなくなり、使わなくなった。そして室町ぐらいからまた徐々に貨幣が発展、江戸時代でもっと発展した。)
最終更新:2023年11月22日 22:28