はじめに

現代文という科目は他の科目と比べて非常に特殊な科目です。
というのも、現代文では初見で書かれた日本語の文章が出てきます。評論が出る、小説が出るなど、大問ごとのジャンルは決まっているにしても、具体的な学習範囲が明確に存在せず、ゴールも曖昧になりがちです。ゴールが曖昧だと、受験生が困るのはもちろんのこと、教える側も困ってしまいます。そこで、

「現代文って何のための科目なの?」
「現代文で問われている能力って何?」

このあたりの疑問を今回は解決していきます。

現代文で試されている能力

東京大学が公表している「高等学校段階までの学習で身につけていほしいこと」を手がかりに考察してみましょう。
①本学の教育・研究のすべてにわたって国語の能力が基盤となっていることは言をまちません
②問題文は論旨明快でありつつ、滋味深い、品格ある文章を厳選しています。学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤にしつつ、それに留まらず、自己の体験総体を媒介に考えることを求めているからです。
③本学に入学しようとする皆さんは、総合的な国語力を養うよう心掛けてください。
総合的な国語力の中心となるのは
1) 文章を筋道立てて読みとる読解力
2) それを正しく明確な日本語によって表す表現力
の二つであり、出題に当たっては、基本的な知識の習得は要求するものの、それは高等学校までの教育課程の範囲を出るものではなく、むしろ、それ以上に、自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力を重視します。
ここに書かれていることは、非常に重要なことを示唆しています。
まず①から、国語が大学に入ってからの学びの基礎になると言っていることが伝わってきます。大学での学習に必要な読み書きの基本作法がわかっているか、すなわち「アカデミック・リテラシー」が求められているのです。それを具体的に言っているのが③の1)と2)です。(記述問題がない場合、2)の「表現力」は問えませんが。)
次に、②の後半と③の後半で「体験」というキーワードが繰り返されていることに注目してください。実はこれは、現代文の試験実施における「おことわり」「釈明」です。現代文は日本語の文章をその場で読み解く試験なので、「頭の使い方」そのものが問われており、それはどうしてもこれまで皆さんが積み上げたきた「言語体験」に左右されざるを得ません。極端な見方をすれば、不公平な試験ということになります。「高校までの範囲で対応できるように問題はつくるけれども、実際には、日本語を読み解く試験であり頭の使い方が問われているわけで、そこはどうしても個々人の言語体験によって左右されてしまうので、そこだけはご勘弁を」と言いたいのでしょう。
ここまでの内容を踏まえれば、入試現代文において求められている力がなんなのかが少しずつ浮き彫りになってくるのではないでしょうか。
皆さんは知らないかもしれませんが、大昔の現代文の入試問題は、本を読んでどれだけ多くの知識を蓄えられたかが問われました。しかし、さまざまな事情で教育や入試は大きく変わってきたんです。
結局のところ、現代文という科目では、皆さんが思っている以上に"高尚"な能力は別に求められていないのです。誠実な読解、背景知識の補充、読書…などといったものはそこまで重視しなくてもいいのではないでしょうか。むしろそういう、大学で習うことを先取りするような学習はオーバーワークになるような気がします。上記の文言を読んでも、「高等学校までの・・」という表現が繰り返し出てきていますよね。
もちろん、頻出語彙の意味などは基礎知識として持っておくべきですが、そこから先は、日本語をいかに運用できるかというスキルの問題になってきます。
このあたりについてもう少し詳しく次の項で述べていきます。

内在的に読むということ

背景知識については、身につけるに越したことはないでしょうが、そういう勉強は大学に入ってからでも遅くはありません。もっといえば、背景知識抜きで文章を読むという、ある意味で特殊な読み方が求められており、これは訓練によってしか身に付きません。
こういう読み方を「内在的読み」と言ったりします。簡単に言うと、与えられた文章そのものを読むという読み方です。逆に、その反対である「外在的読み」とは、筆者や作者の個人的境遇であったり、その文章が書かれた頃の時代の価値観だったり、小説であればそのときに流行っていた文学的手法だったりを踏まえた上で文章に接近していく読み方です。
外在的前提を挟まずに客観的かつ内在的に読むという読み方が特殊であることがわかりましたか。
より精確に言うならば、本文とある程度の距離感を保ちながら、「自分の持っている知識や経験や前提を統制(抑制)して読むスキル」が求められているのです。
わかりやすく言うなら、「自分の主観」と「相手=筆者の価値観」をごちゃまぜにしないということですね。
そのためには、メタな視点に立って、「自分の前提はどういうもので、それは筆者の前提とどう異なるのか」と考えることによって、自分と相手の知識状態のギャップを認識し、それを埋めながら相手の論理を再構成する意識が必要になってきます。
これは大学以降の学びにおいて非常に重要なスキルであり、どこかで身につけておく必要があります。
その機会として現代文教育を位置づけるべきなのです。
「背景知識ありき」で読み進めていくのでは、訓練にならないということです。

「答えはたくさん」論に終止符を打つ

  • 「文章にはいろんな解釈があるはず」(特に文学作品や哲学書)。なのになぜ答えが一つに決まるのか??
  • 「筆者が本当に考えていることなどわからない」!
おそらく誰しもが一度は抱いたことある疑問でしょう。この疑問を抱いている人は、そもそも入試現代文という科目の本質がわかっていません。科目観の問題です。
ここではその疑問に対してお答えします。
まず大事なのは、以下の内容を頭に入れることです。
入試現代文の本質は、「筆者―出題者―受験生」の三角関係にすべて集約される。筆者(小説文の場合「作者」)がなんらかのメッセージを伝えようとして文章を書く。それを素材にして出題者が「君はわかっているかい?」と受験生に問いかける。受験生はそれに対して「わかっていますよ」と答える。
「出題者の意図を考えよ」とよく言われますが、まさに入試現代文を解く作業は、筆者との対話だけでなく出題者との対話でもあるんです。

では、この三者はそれぞれ具体的にどういう立場なのでしょうか。

①筆者
  • 筆者には筆者なりのものの伝え方がある。それは、1つのことをぐちゃぐちゃ長くして書くという方法。
 例えば、Amazonで腕時計を購入し、届いたものを開けてみたら、ダンボール箱の中の緩衝材に包み込まれた状態で入っていたとする。このとき、相手は決して緩衝材を届けたかったのではなく、「腕時計」を送りたかっただけで、緩衝材は相手にとっては重要ではないはず。これが、モノの送り方。同じことが、伝え方にも当てはまるというわけだ。
  • こうした(入試現代文に出題される)筆者特有のものの「伝え方」を理解する(「伝え方」に合わせる)ことが受験生には求められる。
②出題者
  • 筆者の書いた文章をまず出題者(大学教授)が読む。
  • 出題者は、筆者の言っていることが(どんなにぐちゃぐちゃに書かれていても)パッと分かる。
 →筆者と出題者は、理解・伝達の作法を共有している。
  • 出題者と同じわかり方ができるかどうかを、入試現代文で試してくる。
  • 出題者は、受験生の合否を決めることができる。不合格にしてしまえば関係ないが、合格通知を与えてしまった場合、彼らを授業で生徒として受け持つ可能性がある。そのときに理解に乏しい生徒がいると、非常に授業がしづらい。
③受験生
  • ①筆者の文章に正面から向き合い、彼らの伝え方に慣れること、②出題者の「わかり方」に合わせることの2つ(2段階)が求められている。

いかがでしょうか?
現代文は「伝え方」と「わかり方」を試す、コミュニケーションの科目なのです。

これを、筆者に全振りして「文章の内容を理解することが現代文という科目だ」と思ってしまうからいけないのです。それがすべてではありません。
実際の入試問題を見てみると、「本文を読解してその内容に接近する」という要素はあまりありません。(読書が好きでも、入試問題を実際に解くと点数がとれない人は結構いますよね。)
むしろ入試現代文は、「設問・本文・選択肢という条件設定によって『答え』を出せるようにしてあるゲーム」ですし、そういうふうに考えて議論したほうが生産的なのです。(試験問題であるという視点を欠いて「読解力」や「国語力」について論じることに意味はないと思っています。)
ですから、入試現代文の勉強は(大学側を信用したうえで)原則的に過去問対策に絞る、というコンセプトでいいわけです。
そして、読解力を測る基準も、「解けているかどうか」でいいわけです。
解ける程度に読めていればいい」というスタンスをとってください。
読解力を上げるというよりは、得点力を上げるという感覚が重要です。
これが、先ほど、入試現代文はそんなに高尚な能力は求められていない、とお伝えしたことの意味です。
もちろん、問題の質がいいことが前提ですよ。
多くの良質な入試問題は、選抜試験として機能しているはずなので、それを解いて得点できれば、大学側の要求する能力を満たしていると言えます。
だからこそ、大学側の要求する能力(=アカデミック・リテラシー)を身につけられるように、過去問演習を徹底して行い、頭の動かし方を鍛えていってくださいね。

現代文を学ぶメリット

最後に、現代文を学ぶとどんないいことがあるかについてお話しします。
一つは、これまで散々述べてきました。「アカデミック・リテラシー」が身につくということです。これによって、大学での勉強が充実したものになるでしょう。本が読めたり、講義が理解しやすかったりするわけですから。
ただ、それだけではないと思っています。どんな文章でも内在的に読める力を身につけることで、どんなに遠い他者であっても、彼ら彼女らの価値観を理解することができるのです。
大袈裟かもしれませんが、これは世界平和に繋がります。

価値観が多様化している現代社会において、異なる価値観をもつ人たちとの向き合い方ってめちゃくちゃ重要です。
皆さんの中には、人と関わるのが嫌いで、「自分は一人で生きるんだ」「誰とも関わらないで生きる」というタイプの人もいるかもしれません。
しかし、社会に属している以上、我々はどうしても他者と向き合っていかなければなりません。
となったときに、皆さん自身が幸福度を高めて生きていくうえでも、周囲の人間=他者との関係を円滑に築くことが必要です。

現代を生きる人間の悩みの種のほとんどは人間関係だと言います。
(たしかに、人間関係という要素は、我々の幸福度を決める1つの基準です。)
価値観が合わないことに我慢ができず、喧嘩したり、関係が破綻したりしてしまいます。
現代の人たちって、対話ができないんです。

たとえどんなに価値観が合わなくても、他者と上手にコミュニケーションがとれることによって相手との関係がうまくいくことが非常に大切です。
相手の言ったことを理解し、それに対して的確に返答する。
非常にシンプルではありますが、これさえできれば、そう簡単に「喧嘩」にはならないし、お互い幸せに終わります。

対話においては、相手をリスペクトし、相手の発言を最大限好意的に解釈し、それに対して譲歩し、そのうえで自分の意見を説得力ある形で返していく、ということが必要です。
こうした訓練をする場はそんなにありません。だからこそ、現代文の学習をするなかで、徹底的に鍛えていくことが求められます。

もちろん、実際に現代文という科目が扱うのは、主に評論文などといった学術的な題材ですから、その内容は日常的なコミュニケーションとは完全には一致しないでしょう。しかし、文章を読んで出題者の要求に応えていくという一連の作業における「頭の働き」「頭の動かし方」は、日常生活でのコミュニケーションと基本的に一致します。
この科目を学ぶことで、他者と誠実に向き合い、的確な返答を行うという「コミュニケーション」の能力は確実に身に付くはずです。
その能力を養成するために、この科目を学ぶのです。

まとめ

入試現代文において問われている能力は、「高等学校での学習、そして日常での言語体験を総合的に駆使しながら、目の前の文章を読み、出題者の設問要求に合わせて整理し表現する能力」です。このことをよく理解したうえで、ぜひとも方向性を間違えないようにして現代文の学習を進めていってください。
StudyPlaceは、運営責任者の三木が現代文を専門としていることもあり、現代文分野の執筆には力が入っています。当然ながら、上記のような科目観をもって入試問題にアプローチしていますから、是非コンテンツをうまく活用し、現代文の力を伸ばしていってください。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2023年11月29日 08:09