記述問題のポイント

「設問の要求に答える」という点では、選択問題であれ記述問題であれ作業自体は変わりません。すなわち、
  • 設問の要求を理解し、解答の方向性をイメージしたうえで、
  • 設問設置箇所(傍線部)に戻り、
  • 周辺を精査しポイントを拾う
ということになります。ですが、「記述」しなければならない、となるとどうしても「表現力」が問われ、以下のようなポイントも求められます。
  • 過不足のないポイント集め
  • 取捨選択(優先順位を意識し、核となるポイントを絶対に残す)
  • 表現の吟味(特に、具体例や比喩は一般化する)
  • さらなる補充(書かれていないものを自分の言葉で補う)
以上を念頭に置いた上で、
実際に問題に触れ、自力で答案を作成し、第三者に添削してもらう
ことが大切で、これに勝る学習法はありません。こうした実践的訓練を繰り返すなかであなたの中に「記述問題の解き方」なるものが確立すればいいのであって、はじめから「どう解けばいいですか?」と人に聞くものではありません。
それでは、以下のスライドにて、早速例題を用いてチャレンジしてみましょう。

いかがでしょうか?
解説を読んで理解できたなら問題ありませんが、定期的に第三者に見てもらい、自分の悪い癖に気付くことも大切です。
特に二次試験では、文章が平易な場合、解答要素を集めるという点に関してはほぼ全員がクリアできるため、表現力の部分で差がつきます。
例えば、述部をどう表現するかによって、設問の要求にダイレクトに答えているものと少し外れているもので分かれます。こういう、ある種些細な部分が点差に反映していくことになりますから、あなた自身が「書けた!」と思っても第三者から見れば「微妙」ということは多々あります。

動画で学びたい人向けに


僕も今まで沢山の記述問題の解説授業をしてきました。その中でも特におすすめなものをピックアップしていきます。
⭐️国公立大現代文(全5講)
▶︎東大、京大の問題のみに厳選。
河合塾東大即応オープン解説
https://www.youtube.com/watch?v=0y8_59eCCzE
▶︎パワーポイントも使いながら解答プロセスを「これでもか」というくらい分かりやすく解説しています。
全統マーク模試解説
https://www.youtube.com/watch?v=OV3toMAzrhI
▶︎やってることはセンター試験の解説ですが、最後の1時間ぐらいで、「記述問題として解くならこうやってやるよ」という話をしています。
私大国語解説
https://www.youtube.com/watch?v=dWdkODpp6Ns
▶︎私大向けの授業ですが、十分国立でも通用する話をしています。1:13:36から記述の話をしています。

添削希望者用課題

ここからは、20題近くの練習問題を用意しました。添削希望者は、このページの一番下にあるコメント欄に、必ず「第○回」と記入したうえで解答を送信してください。添削させて頂きます。

第1回 記述の基礎1「心情説明」

問1 傍線部のときののび太の心情を説明しなさい。
ジャイアンに殴られて、のび太は①泣いた。そして②ドラえもんのところへ行った。道具を出してもらった。
問2 傍線部の理由を説明しなさい。
僕は居間でテレビを見ていた。そしたらお母さんが、宿題をなかなかやり始めない弟を叱っていた。僕はあわてて自室にもどり勉強をはじめた
問3 傍線部のときのA君の心情を説明しなさい。
A君は、不登校になりかけの状況である。今日も、朝になると親に「学校行きなさい!」と強く言われた。そして、トイレに駆け込み鍵を閉めた

第2回 記述の基礎2「内容説明」

問1 傍線部の指示内容を、二〇字で述べなさい。
 バンドウイルカのシェイラは、水族館で一番の人気者です。それは、最近はじまったことではありません。
問2 傍線部の指示内容を、十六字で述べなさい。
 人間の子どもの成長は、その自然的、社会的な環境に応じて決められる部分が多い。その中でも、特に目立つのが言葉の習得である。子どもは、自分が育っていく社会の言葉をまず覚える。そして、それによって、人間社会の文化や習慣を学んでいくのです。
問3 傍線部とは、どういうことか。説明しなさい。
 近年、成人式で暴れる猿がいることが話題となっている。若者は、久々に出会った同級生や幼馴染らとともに、酒を好き放題に飲み、暴れる。場はとめどなく荒れてゆく。もはやそこに秩序はない。成人式が果たしてこのようなものであっていいのだろうか。

第3回 記述の基礎3「理由説明」

 このように、いろいろな角度から検討してみると、日本人がこれまで、「森」や「林」ということばがそれぞれ何をさすかという点で微妙な違いを意識してきたことがわかる。と同時に、両者に対してかなり異なったイメージを描いてきたこともわかる。明るく、田園的で牧歌的な「林」に対し、暗く、奥深い自然の「森」に、全貌をとらえきっていない未知なるものへの恐れを抱き、それを神秘的な、あるいは夢幻的なものとして、深く心に刻んできたように思う。「林の精」ではなく、どうしても「森の精」でなければならないのは、そういうイメージの集約があってのことなのだろう。
(中村明「センスある日本語表現のために 語感とは何か」より)

設問 傍線部「『林の精』ではなく、どうしても『森の精』でなければならない」のは、「森」にどのようなイメージがあるからですか。本文中のことばを使って三十五字以内で答えなさい。

解答・解説


  • 設問文より、答え方は「〜(なものであるという)イメージ。」となる。
  • 傍線部直後に「そういうイメージの集約があってのこと」とあるので、指示語の内容を押さえてまとめればよい。
  • すると、「森」のもつ「イメージ」について述べた箇所が3箇所見つかる。
 A:暗くて奥深い自然
 B:全貌をとらえきっていない未知なるものへの恐れを抱き
 C:神秘的な、あるいは夢幻的なもの
  • 35字以内という字数制限で上記のポイントを最大限に詰め込むことを考え、凝縮していくと、
 A:暗く、奥深い(自然) ←「暗い」と「奥深い」のどちらか片方を外すことは困難
 B:未知なるものへの恐れを抱かせるもの ←「全貌を〜」は修飾語なのでカットできる
 C:神秘的で夢幻的なもの ←「神秘的」と「夢幻的」のどちらか片方を外すことは困難
  • この中で優先度の一番低いものを1つ選んで削ることを考えると、「神秘的」が「未知なるもの」と内容的にかぶることが分かるだろう。そして「未知なるもの」という言い方のほうが具体的で分かりやすい。したがって、カットするならC。
  • 解答例①:未知なるものへの恐れを抱かせる、暗くて奥深いものというイメージ。(32字)
  • Aを削った場合の解答例も一応提示しておく。
  • 解答例②:未知なるものへの恐れを抱かせる、神秘的で夢幻的なものというイメージ。(34字)
  • また、A〜Cの全ポイントを詰め込むと以下のようになる。
  • 解答例③:暗くて奥深く、神秘的で夢幻的で恐れを抱かせる未知なものというイメージ。(35字)
  • 注意点としては、
 ・「森」という言葉は入れてはらないこと。
 ・「未知なるものへの恐れというイメージ」だと日本語的におかしい。(まだ「未知で恐ろしいというイメージ」のほうが日本語としてはいい)

第4回 中学入試1「省略の補充」

① 『小さい牛追い』(マリー・ハムズン作/石井桃子訳、岩波書店)という本がある。これは美しい本で、ノルウェイの農場に暮らす四人の子供たち――一人が一頭ずつ牛を所有している――の生活が、北欧特有の透明な空気を背景にして、成長物語としてなどでは全然なく、ただ瞬間のつらなりとして、気持ちのいい文章でテンポよく描かれている。
② 四人の子供たちのうちの一人、オーラ、は、本を読むことが好きだ。けれど彼は、つまらない児童書によくでてくるような、“本ばかり読んんでいる内向的な少年”ではない。“孤独癖”があるわけでもないし、“空想ばかりしている”わけでもなく、“人づきあいが苦手”なわけでも全然ない。山で遊び川で遊び、農場の仕事もたくさん手伝う。他の子供たちと一緒に木の葉の家をつくったり、インディアンごっこをしたりする。知らない大人にも驚せず話しかけるし、自分の持ち物を取引して、おまけをせしめる商売っけさえあるのだ。
③ 彼が本を読む場面が私は好きだ。こう書かれている。
④ オーラは、とても本がすきでした。じぶんの手にはいるものなら、なんでもござれ、聖書から、おかあさんのお料理の本まで読みました。オーラは、アメリカ・インディアンの本ニ冊と、ロビンソン・クルーソー一冊という、すばらしい蔵書の持ち主で、このたいせつな宝物が、ぼろぼろになるまで読みました。
⑤ 何かあたらしい本が手にはいると、いつもこっそりどこかにかくれて、じぶんが、どこにいるのかも忘れて、読みふけります。ほかの子どもたちが、そういう状態にいるオーラを呼ぼうとすれば、それはまるでべつの、遠い世界から、かれをつれもどすようなあんばいでした。不幸なことに、おとなたちもまた、オーラを呼ぶという、ふゆかいなくせをもっていました。オーラ、少し薪をわっておくれ、オーラ、早く、水を一ばいくんできておくれ、などというのです。オーラ、それ、オーラ、あれ、というぐあいで、一日つづきます。
ああ、かわいそうに! あれだのそれだの言われて、どっぷりと本のなかに身を沈められないなんて。と、思うことは思うのだけれど、現地と地続きの場所で読むからこそ、世界が立体的になるのだ、とも言える。
⑥ 本を読んでいてすっかり没頭し、そこが部屋だろうが駅のベンチだろうが電車のなかだろうが、物音も他人の存在もないもののようになり、というより本を読んでいる自分自身が、そこにいていないものになる、という経験は、おそらく誰にでもあるはずだし、たしかに幸福で、えも言われない。

設問 傍線部「不幸なことに」とありますが、なぜ不幸だというのですか。「没頭」という言葉を使って四十字以内で答えなさい。

解答・解説

解答例:おとなたちが、本の世界に没頭しているオーラを現実世界に引き戻そうとするから。(38字)
  • 「不幸なことに」はその先にかかっているので、「おとなたち」の行動に対して言っている。「ほかの子どもたち」の話はいれない
  • だが、「おとなたちもまた」という表現があることから、おとなたちの「オーラを呼ぶ」という行動は「ほかのこどもたち」の行動と同様の行動。そこで、傍線部より前で述べられていた「ほかの子どもたち」の説明を上手く解答に活かす。
  • どこに引き戻すのかを明記することを意識する

第5回 中学入試2「指示語①」

① 世の中にはさまざまな数値が溢(あふ)れている。物価の統計、大銀行の不良債権(さいけん)、世論調査、失業率、年金の予想負担額、降水確率や地震の確率、売上高、等々である。その中で、ウソではないがホントでもない、ということがさまざまな場面で見受けられる。ある面をとってみればウソではない。しかし、別の面をみればホントでもない。そこで、ある者はウソではないことを強調し、また別の者はホントでないことで反論する。それに対してどのような態度をとるべきか、いくつかの例をあげて考えてみよう。
② ある公共事業を新規に起こそうとするとき、それによってどれだけの人が恩恵(おんけい)に預かるかの予測が行なわれる。高速道路なら走る予定のクルマの数であり、ダムなら利用するであろう水の量である。公共事業を推進しようとする官僚は、この数値に巧妙(こうみょう)な策略を講じる。余りに過大に見積もるとすぐにウソだと見抜かれてしまうし、少なすぎると事業を起こす意味がないと言われるだろう。そこで、公共事業として投資するだけの価値があるとする数値をでっちあげることになる。通常は、過去数年の周辺を通っているクルマの数に適当な増加率を掛けたり、過去数年の農業用水や工業用水や家庭用水の利用量に予想成長率を勘案して、十分な利用があると見せかけるのだ。過去数年の実績に基づいているということを根拠に、数値をホントらしく(ウソではないと)思わせるテクニックである。ところが、社会情勢が変わって低成長になったり、少子化や過疎化の進展で過去の実績に意味がなくなると、その数値はホントではなくなっている。しかし、未来予測は変えようとしない。そのため、過去の実績を基礎にしているという意味ではウソではないが、実際の社会動静(どうせい)から見ればホントでもない、そんな数値がいつまでも通用するのだ。徳山ダムや川辺川ダムの水利用、諫早(いさはや)湾の土地利用、本四(ほんし)架橋(かきょう)のクルマの利用など、どのような未来予測をしてきたか、一覧表を作って点検してみる必要がありそうである。

設問 傍線部「そんな数値」とありますが、これはどのような数値ですか。「ウソ」「ホント」という言葉を使わないで四十字以内で答えなさい。

第6回 中学入試3「指示語②」

① ここで本当に問題にすべきなのは仮定されている増加率や成長率の教値で、過去数年の実績だけでなく、社会の動向を厳しく吟味(ぎんみ)して未来予測をしなければならない。高度成長時代の実績をそのまま延長していては意味がないし、少子化や過疎(かそ)化の進展を考慮しなければ信用できる数値にはならないからだ。公共事業が完成するのは、高速道路なら五年も先であろうし、ダムなら一〇年以上も時間を要する。ならばいっそう、厳密な未来予測が必要とされるのである。そして、それがウソの数値であるとわかったとき(ホントの数値ではないと判明したとき)には、きっぱりと撤退する勇気を持たねばならない。それまでに投下した資本を惜しむあまり、ウソでもないがホントでもない数値を後生大事に守り続けることは、未来により大きなツケを回すことに他ならないからだ。宍道(しんじ)湖(こ)の干拓事業を中止した英断を、私は高く買っている。
② 別の例として、ある川の水質調査をするとしてみよう。問題がないと証明したいときには、水が澄んでいてきれいな時期のデータを選んで発表するだろう。ふだんは淀んで汚いことが多く、夜間に汚水(おすい)の不法投棄などで水質が悪いケースがあっても、それは見過ごされてしまうのだ。実際に水質調査をしたという意味ではウソではないが、いつどの場所での調査結果であるかを明示せず、それが川の状態を代表していると言えばホントではない。どのような条件下でのデータであるかが示されないと信用してはいけないという好例である。
③ 川の水質調査だけでなく、同様な問題がいろいろなコマーシャルに溢れている。クルマの燃費とか、洗剤の洗浄力とか、薬の効能とかで、従来の製品と比べて良くなったと宣伝されているが、どの時点との比較なのか、どのような条件でテストしたのか、客観性はどのように保証されているのか、などが示されないと直ちに信じ込むのは危険である。といって、短いコマーシャルでは、それらを全部書いたりしゃべったりできないから、全部カットされてしまう。おそらくはウソではないのだろう。しかし、ホントであることは何も保証されていない。私たちには確かめようがないのである。では、どのように対応すべきなのだろうか。
④ やはり、ウソではないだろうがホントでもないとして、信じ込まないことが大事である。そして自分の眼を鍛えていくことだ。どのような製品でも、しっかりと説明書を読んだり成分表を吟味して、何が信用でき何が信用できないかを見分ける眼力を養うことが大事なのである。互いの信用の上に社会が成り立っているはずだから、なんだか寂しい限りだが、自分の身を守るためには仕方がない。といっても、消費期限の張り替えを行ったり、偽造表示がまかり通っていて、それすら信じることができない状態なのだが、とりあえずは表示を信用してコトに当たるしかない。そして、世の中に溢れている数値を一つ一つ、ウソではないがホントでもないかどうかを確かめる癖を身につけることだ。私たちが曖昧で不確定な社会に生きていることを実感することも必要なのだから。
(池内了「科学の落し穴―ウソではないがホントでもない」〈晶文社〉より)

設問 傍線部「同様な問題」とは、どのような問題ですか。文章中の言葉を使って五十字以内で答えなさい。

第7回 高校入試1「詰め込み」

① 数年前、森林関係の研究所に勤務している研究員のところに、ある村の村長が訪ねてきた。その村の森には、それほど多くはないけれど、いまでは希少価値になった天然のヒノキが大きく育っているのだという。そのヒノキを一番高く売るには、どうするのがよいのかが村長の問いだった。研究員はいろいろ調べたうえで、後日その方法を教えた。それは玄関の表札にして売るのが有利だというものだった。
② ところがそう話したら、村長はきわめて不愉快そうな顔をした。樹齢二百年を超えた大木が、柱になった後も堂々と建物を支えつづけ、生きつづける姿を思い描いていた村長には、それが細切れにされることなど、容認できることではなかったのである。商品価値を高めることが、木を侮辱することであってはならないと思った。
「それがあのころ一番高く売る方法だったのに」
 研究員は私にその話をしてから、「しかし村長の気持ちもわかるし」と言って楽しそうに笑った。自分の提案が拒否されたことは、彼にとっても愉快な出来事だったのである。
③ 木が本来もっている価値を生かすことと、商品として木を高く売ることは、必ずしも一致しない。いまでは天然のスギの銘木(めいぼく)は、紙のような薄い板にされ合板に張りつけられて、天井板などになることが多い。それが天然スギを一番高く売る方法でもあるし、そのことによって天然スギのもっている木目を比較的安い価格で、だれもが楽しめるようになったと評価する意見もある。しかし、それでもなお私は、山奥の路上で合板にされるために乾かされている天然スギを見かけると私は村長と同じような気持ちをいだくのである。
④ 今日では山の木が建築物に変わるまでの間には、次元の異なる二つの過程が重なりあっているのであろう。それは使用価値と商品価値の違いによって生ずるズレ、といってもよいのだけれど、木自体がもっている価値を生かすか、商品としての木の価値を優先するかをめぐって、木にたずさわる者たちもまた動揺してきた。そしてそのことは、ときに力強く木の育った美しい森と経営効率を優先させた森の違いとなってあらわれ、製材や建築の過程で職人的な仕事と商品をつくるだけの労働の違いとなってくる。
⑤ たとえば製材工場を訪ねても、スギやヒノキなどの国産材をひく工場と輸入材をひく工場とでは、雰囲気がずいぶん違う。国産材は、どこにノコギリの刃をあてるかで木目の出方も変わり、木の価値も商品価値も変わってくるから、木目の出具合を読む職人の経験やカン、コツが工場を支えている。ところが輸入材は木目も一定のものが多く、しかも(注)大壁工法などの柱のない家の部材になることが多いから、部品をつくる自動化工場のようである。最近では労働力不足に対応して、コンピュータ製材が関心を高めているけれど、それも職人の腕を必要としなくなった輸入材専門工場での話にすぎない。国産材の工場はいまも職人の世界である。
⑥ 山の木を単なる商品にしてしまわないためには、職人的な腕が生きていなければいけない。確かに山の木は、林業家から製材業者へ、工務店から消費者へと、商品として流れていく。ところがこの流れのなかに、美しく、大きく森を育てていこうとする村人の腕や、製材職人の腕、木の特性を生かしていこうとする大工の腕などが健在である間は、木と人間は一体化して、木の文化をもつくりつづけることができる。
⑦ 木の文化は、天然のヒノキが細切れの板にされるのをかわいそうだと感じる、あの村長の気持ちに支えられてきた。そしてその気持ちを仕事のなかで実現させる職人たちの腕とともにあったのである。
(内山節「森にかよう道」より)
(注)大壁工法=断熱材等でできている壁板を、柱をおおうように張っていく建築

設問 傍線部「かわいそうだと感じる」とあるが、それはなぜか。(六十字以内)

第8回 高校入試2

都立入試過去問自校作成問題(小説文)を使用

第9回 高校入試3

都立入試過去問自校作成問題(論説文)を使用

第10回 センター試験

 次の文章中のある一文に傍線部を設置し、「なぜか」の設問を作りたい。傍線部を設置する場所としてベストと言えるのは、どの文か考え、そこに線を引け。また、その設問に対する解答を40字以内で作成せよ。
 変形によって芸術のすべてが説明できる、とは言えなくても、芸術創造が先行するものの変形を重要な要素として含むことは疑いがない。このことから、いくつかのことが帰結する。
 芸術の創造が先行するものから出発してそれを変形するのであれば、芸術のスタイルが変化するのは必然的である。この点で芸術は科学と異なっている。
 科学の場合でも変化というものはあるし、その変化は、客観的真理への接近といったものではなく、クーンのいうパラダイム・チェンジといった性格をもつものかもしれない。しかし、科学の場合は変化する必然性はないように思われる。もし科学がその目標に到達して、すべてをきれいに説明できるような日がくれば、そこからさらに変化していかなければならないという理由はない。科学の場合、変化は、まだ目標に達していないことのしるしである。しかし芸術の場合、変化は未完成のしるしではないし、いつの日にか変化しないような状態に到達するわけでもない。
 もしバッハが偉大で(たしかに偉大である)、完璧な曲を作った(実際、完璧と思わずにはいられない。訂正の余地がないように思えるのだから)のだとすれば、人類はそれ以降の作曲家を必要とせず、バッハも完璧な曲を作った後は作曲をやめたとしてもよさそうなものである。しかし実際には、どの芸術家も作品を作れるかぎり作り続けるのであり、芸術家はつぎからつぎに登場するのである。
これは芸術全般にみられる基本的事実である。どんなに「完璧な作品」を作っても、それで終わりということにはならないのである。
(センター試験2000年(追試験)/土屋賢二『猫とロボットとモーツァルト』)

第11回 私立大1

 人間の脳のアーキテクチャーとコンピュータのアーキテクチャーはそもそも成り立ちが違う。コンピュータが、プログラムで指定された処理を正確、高速に繰り返し行うために設計されているのに対して、私たちの脳は、同じ計算を正確、高速に繰り返すのは苦手である。
 私たちの脳は、新しいものを生み出す、創造性という素晴らしい能力を持っている。そして、ITが高度に進化しつつある今、人間は単純な知的労働から解放されて、創造性の発揮に専念することができる条件が整いつつある。人間の創造性にとってのルネッサンスの時代が訪れようとしているのである。
 一握りの天才だけが創造性を発揮すればよいのではない。どんなに平凡に見える人の中にもある新しいものを生み出す力、その潜在的な力を活かすべき時代が来たのである。
 創造性を活かすことは、時代の要請であるばかりでなく、私たち一人ひとりが人間らしく生きるために必要な条件でもある。人は、創造的に生きることで、よりよく生きることができる。よりよく生きることで、より創造的になることができるのである。
(明治大学2006年(商)/茂木健一郎『脳と創造性』による)

設問 傍線部「人間の創造性にとってのルネッサンス」とはどのような意味か。「ルネッサンス」の意味が明確になるように、本文中の 語句を用いて三十五字以内(句読点を含む)で説明せよ。

解答

  • 単純労働から解放され、新しいものを創る力が見直されるようになったこと。(35字)
  • 単純労働から解放され、新しいものを創ることに改めて価値が置かれたこと。(35字)

解説

「時代が訪れ」とあり、変化の文脈になっていることを押さえてください。変化前については明確な記述はないですが、変化後として、「創造性」=「新しいものを生み出す」ことに専念できるようになった、ということは明確に書かれています。もしそれの理由まで答案に入れるのであれば、「ITの進化」による「単純な知的労働」からの「解放」です。
ですが、ここまでの作業は誰でもできるはずで、これだけで答案を作ってしまうともしかしたら0点かもしれません。設問条件として、「ルネッサンス」の意味を明確に、とあります。もちろん、世界史なんかで「ルネッサンス」という言葉は出てきますから、「再生」「復活」といった意味であることは分かるでしょう。(世界史的には、14世紀頃、ギリシア・ローマの文化を復興しようとした運動を指します。)とすれば、「どんなに平凡に見える人」の中にもあり、「私たちの脳」が「潜在的」にもつ「力」である「新しいものを生み出す力」を「発揮」することに改めて「専念」できるようになったとか、そういう力の価値や重要性が見直されるようになった、という形で「復活」のニュアンスを出さなければいけません。
しかも、字数指定があり、その中に「単純労働からの解放」というポイントも詰め込むとなれば、表現の凝縮が求められます。
このように、点差を分けるポイントが複数あることを意識したうえで、正しい日本語で、句点まで含めて「〜こと。」という文末表現で締めくくることを考えると、結構頭を使います。だからこそ問題として成立するわけですね。

第12回 私立大2

 門出れば我も往く人秋の暮れ  蕪村
 与謝蕪村は、先人松尾芭蕉の旅に憧れ、ひきかえてしがらみに流される我が身のつたなさを嘆いてこの一句を詠んだ。角の煙草屋まで出掛けるほどのこともなく、自家の門からたった一歩だけ往来に足を踏み出すことで、蕪村は旅を経験したのである。死の床の夢にまで枯野をさまよった芭蕉の、徹底した旅のプロフェッショナリズムに対して、どうしようもない自分を抱えてオロオロと自室を旅するしかない蕪村は、全きアマチュアリズムである。ただそれだけに、蕪村は一貫したインナートリッパー(心の旅人)ではなかっただろうか。蕪村の山野を、陋屋で過激にトレースした蕪村は、芭蕉とはちがう意味で、またしたたかな旅の達人だったという気がしているのだ。
 僕は蕪村が好きである。また、どちらかといえば蕪村型人間ではないかと思っている。僕は旅が好きで、カメラマンというじっさいもあって、芭蕉ほどではないにしても、これまで数えきれない旅に出ている。ただ僕は、いかなる旅先においても常に心に余裕を持てない性質なので、山野に心を遊ばせるすべを知らない。真に野に遊ぶことが、どれほど苛酷にして充足するものなのか、旅の空の下にいて、追われるように次の旅を思い、後に残してきたさまざまな煩悩の糸を断ち切れずいつも気に病んでばかりで、その一期一会に見るべき掌中の珠(たま)を見逃して過ごす僕の旅は、芭蕉の足許(あしもと)にもおよばないだけではなく、  蕪村のあのすさまじい鬱屈ともほど遠い。
 いつどこへ旅しても、僕につきまとういい知れぬ不安。といえば体裁よく思われてしまいそうであるが、本人はほんとうにつらい。むろん現実からぷっつり切れ、自意識を捨て切ることなど生きている以上いかなる事態においてもありえないから、それを旅に望むことは不可能である。むしろ旅とは、そうして丸抱えにしてしまっている自分のぬきさしならなさを、未知の時空に投げ入れることによって、さまざまな擦過の過程のなかから自分のなかにさらに新しい自意識の覚醒をはかることであろう。僕の内にひそむ、
過去の経験による多くの記憶と、未知への予感から生れる記憶との交感によって、かならずしも、自覚的ばかりではない自分を発見し予見する行為のひとつのかたちが、たとえば旅である。旅は、リサイクル(自己再生)でもあり、また未知に向けてのフィードバックでもあると規定するならば、人間は旅人であり、人生は旅なのだというたとえもあるていどは納得できる。
 それにしても、与謝蕪村の芭蕉に対するコンプレックス(複合意識)にはすさまじいものがある。破れ畳を草枕に見たて、生活のためには売り絵すら描いたという弱さは、むしろ僕にはしぶとさとして映る。「荒海や佐渡に横たふ天の川」と詠む芭蕉のスペクタクルはないが、「牡丹(ぼたん)切(きり)て気のおとろひし夕(ゆうべ)かな」という蕪村の句境には、芭蕉とそのコントラストにおいて、等質のという以上にむしろ凌駕するリアリティを覚える。
 深更の自室で、地図と時刻表をかたわらに、テーブルの上に描く地平線に向けてひとり想像の旅に出ることがある。旅に出たくてもままならず、あれこれしがらむことなどもあってする空想の旅は、たしかに心情のおもむくままにどこへでも行けるのだが、もっとも肝心な出会いがない。ひとりナルシスティックにする旅は、立ち戻ったあとに空しさだけがつのる。心で辿るまぼろしの旅路はちょうど宛名のないラブレターに似ている。
〔立教大学2003年(社会[現代文化]/経済[経営])/森山大道『犬の記憶』による〕
設問 傍線部について。「出会い」のある旅とはどのようなものか。本文中にあるごくを用いて、句読点とも三十字以上四十字以内でしるせ。

第13回 資料活用型1

共通テスト記述式問題 モデル問題例1を使用

第14回 資料活用型2

平成30年度実施 第2回共通テスト試行調査 第一問を使用

第15回 科目横断型

青山学院大学 総合政策学部 サンプル問題を使用
 イスラームでは、セム的宗教の大原則に従って政教一元(タウヒード)の政治思想を堅持しており、両者を区別しようとする政教分離思想とは相容れない。このようなイスラーム的政治制度を国教として導入している国は、現在約40カ国ほどあり、国連加盟国中の20パーセントにもなる。
 これらの国では、政治と宗教の分離という思想を持たず国家運営を行っているし、かつてのイスラーム文明の繁栄も、その原則の上に花開いていた。特に、イスラームは8世紀から16世紀頃まで、世界の大部分で政治的・文化的ヘゲモニーを握っていたのであり、その存在は無視し得ないものである。
 つまり、 【   】。
(保坂俊司『国家と宗教』(2006年、光文社)より)

設問 本文中の空欄【   】には、政教分離についての筆者の考えが入る。次の3つの語句をすべて使い、空欄に入る文を、60字以内で書け。
イスラーム的なタウヒード思想 近代的な政教分離主義 神道的な祭政一致

解答・解説

60字のうち、指定語句だけで32字を占めますから、記述問題とは言え、書けることはかなり限られてきます。つまり答えはしっかりと一つに決まるわけです。そして、この問題の面白いところは、一つ判断を間違えてしまうととんでもない答えが出来上がってしまうということです。ある意味、選抜機能を果たしているという意味で良問です。
まずはこの問題の罠からお話ししましょう。「イスラームでは」という本文の書き出しから、この文章は「イスラーム」の話をしていると思ったそこのあなた。そんなあなたは、おそらく、指定語句の「イスラーム的なタウヒード思想」という語句を主語・主題として用い、以下のような解答を作ったのではないでしょうか?
▶「イスラーム的なタウヒード思想は、近代的な政教分離主義とはほど遠く、神道的な祭政一致に近いものであった。(49字)」×××
残念ながら、この答案だと一点も点数が入りません。
どこかの塾の先生が、模範解答として以下のような内容を提示していました。
▶「イスラーム的なタウヒード思想においては、近代的な政教分離主義よりも、神道的な祭政一致に近い考え方が取られているのである。」×××
このように、イスラームを主語・主題とし、本文の冒頭文のように「イスラームの政教一元的な考え方は、政教分離とは相容れない」という方向で書いた答案には残念ながら1点も点数を入れることができません。
なぜでしょうか?理由は2つあります。
まずそもそも、設問文に「政教分離についての筆者の考え」と書いてあります。つまり、イスラームを主語・主題にしてはいけないということです。
そしてもう1つは、「つまり」という接続語です。これがある以上、直前部の言い換え・要約を持ってこなければいけません。直前で、「イスラームの存在は無視し得ない」、あるいは「政教一致の国家運営をしている国が今も沢山存在する」ということを言っています。そういう文脈が展開している中で、タウヒード思想の説明をしてしまうと前後のイコール関係が残念ながら成立しません。そもそも、タウヒード思想の説明は本文冒頭で説明されており、そのことを前提として筆者は「そういう政教一致の国って意外にも多いんだよ」と話を次に展開しているんです。
とすれば、空欄に入る内容はどんな内容になるでしょうか。設問要求も踏まえるならば、
▶「政教分離については、必ずしもそうであるべきとは思わない。政教一致の国がこれだけ世界を支配していることを考えるならば。」
という方向の内容を述べるしかないのです。あとは指定語句を見て考えます。3つあるうち、はじめの2つは既に本文中に登場してきたものです。しかし、3つ目の「神道」の話は、この本文には出てきていません。つまり、具体例の一つと考えるしかありません。もちろん、「一致」とあるのですから、政教一致の考えと近いと言えば近いのでしょうが、イスラームと神道は別物なのですから、結局、指定語句は3つとも「別々の思想」と見てやるべきです。とすれば、この3つを並列させて、
▶【解答例①】イスラーム的なタウヒード思想近代的な政教分離主義神道的な祭政一致はいずれも一つの形態に過ぎず、どれかが絶対ではない。(60字)
▶【解答例②】イスラーム的なタウヒード思想近代的な政教分離主義神道的な祭政一致いずれの形態にも価値を置くことが可能である。(57字)
▶【解答例③】イスラーム的なタウヒード思想近代的な政教分離主義神道的な祭政一致いずれかが間違い、ということではないのである。(58字)
このような方向で解答を書くしかありません。ですから、採点基準としては、
  • ①指定語句の3つを並列していること
  • ②政教分離を全面的に肯定しているわけではないという内容になっていること
が絶対です。これらの条件さえ満たしていれば、解答に用いる表現はなんでもいいのであって、「この表現を用いなければダメ」というのがあるわけでもありません。

実際の本文を参照

さて、実際に出典である『国家と宗教』(保坂俊司)の中ではどう書いてあるでしょうか。10ページに該当箇所はありました。引用すると、
イスラーム的なタウヒード思想も、近代的な政教分離主義もあるいは、神道的な祭政一致の形態も人類文明の一形態であり、決してどれか一つが普遍的で、絶対的であるということではない、ということである。(本書では、これらを比較し、その歴史背景や長短を明らかにし、日本における政治と宗教を考える上での参考になればと願っている。)
このような内容になっていました。そう、実際の本文は60字に収まらないくらいの長さになっているのです。ですが、明確な設問要求と指定語句により、指定字数内で本文とほぼ同内容を再現することは十分に可能なわけで、選抜機能も果たせる非常に良い問題だと思います。

第16回 国公立大1

北海道大学2004年の問題を使用

第17回 国公立大2

 余りに単純で身も蓋もない話ですが、過去は知覚的に見ることも、聞くことも、触ることもできず、ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが、歴史的過去においては「物語り行為」であるのが僕の主張にほかなりません。つまり、過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探究」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです。
 そこで、過去と同様に知覚できないにも拘(かかわ)らず、われわれがその「実在」を信じて疑わないものを取り上げましょう。それはミクロ物理学の対象、すなわち素粒子です。電子や陽子や中性子を見たり、触ったりすることは、どんな優秀な物理学者にもできません。素粒子には質量やエネルギーやスピンはありますが、色も形も味も匂いもないからです。われわれが見ることができるのは、霧箱や泡箱によって捉えられた素粒子の飛跡にすぎません。それらは荷電粒子が通過してできた水滴や泡、すなわちミクロな粒子の運動のマクロな「痕跡」です。その痕跡が素粒子の「実在」を示す証拠であることを保証しているのは、量子力学を基盤とする現代の物理学理論にほかなりません。その意味では、素粒子の「実在」の意味は直接的な観察によってではなく、間接的証拠を支えている物理学理論によって与えられていると言うことができます。逆に、物理学理論の支えと実験的証拠の裏づけなしに物理学者が「雷子」なる新粒子の存在を主張したとしても、それが実在するとは誰も考えませんし、だいいち根拠が明示されなければ検証や反証のしようがありません。ですから、素粒子が「実在」することは背景となる物理学理論のネットワークと不即不離なのであり、それらから独立に存在主張を行うことは意味をなしません。
(2018年 東京大学第1問 野家啓一『歴史を哲学する―七日間の集中講義』)

設問 「その痕跡が素粒子の『実在』を示す証拠であることを保証しているのは、量
子力学を基盤とする現代の物理学理論にほかなりません」(傍線部)とは、どういうことか、説明せよ。

第18回 長文記述1

 文化は英語のculture、ないし独語のKulturの訳語である。独語のKulturには物質文明に対する精神文化という意味合いがある。一方、英語のカルチャーは人々の生活様式(way of life)と定義される。ひらたく言えば暮らしのたて方である。日本語で文化というときには両方の意味が混在しているが、英語圏の文化の定義は文化人類学(民族学)で広範に使用され、国際的な普及度が高い。
 近代文明と経済発展とは一体のものとみなされているが、文化と経済とは対立的に考えられがちだ。しかし、その考えは浅薄である。
 メセナ活動への理解がすすみ、両者を両立させる動きはあるが、メセナ活動は企業による芸術活動への援助なので、経済は富を生み、文化は富を使うという理解をもっている人がいる。「文化は金食い虫」と言ってはばからない向きもある。また、数式は文化論には適用しにくいが、経済学には活用できるから、文化は非合理的だが、経済は合理的だという人もいる。
 ことはそう単純ではない。経済は生産と消費、供給と需要、販売と購入からなる。しかし、いかに生産の合理化を追求し、供給ルートを押さえ、販売に力を入れても、人々が消費せず、需要がなく、購入しなければ、経済活動にならない。消費とは経済活動であり、同時に生きる行為である。消費なくして暮らしはない。
 暮らしにはスタイルがある。ライフスタイルである。ライフスタイルは個性であり、人間のアイデンティティにかかわる。どのような物をどのように消費・需要・購入するかは一律ではない。性別、年齢、社会的地位、用途、人格、好みなどさまざまな要因に左右される。これらは量に還元できない。人生の質にかかわる。
 海外で物を売るには、その地域の暮らし(文化)に合った物を売らねばならない。それゆえ〔 a 〕が不可欠になる。古い例では、海外向けの輸出者は、イギリス向けは日本と同じハンドル、アメリカ向けは左ハンドルにしたり、地域で仕様を分けた。市場調査とは消費性向、需要動向、購入意欲を調べるものであり、〔 b 〕といってもよい。
 生産は消費のためにあり、供給は需要を産むためにあり、販売は購入に支えられる。その点からすれば、生産・供給・販売は消費・需要・購入に従属するとすらいえる。言いかえれば、経済は文化に従属する。あるいは経済は文化にしもべであり、文化の発展に奉仕する活動といってもよいだろう。
 文化は衣食住のように目に見えるものと、価値観・制度などのように目に見えないものとからなる。アメリカ文化とはアメリカン・ウェイ・オブ・ライフのことだ。ウェイ・オブ・ライフは前述のように「生活様式」と訳すのが慣例だが、個人レベルに即してもっと単純に訳せば「生き方」である。ライフスタイルと同義である。日本人一人ひとりの生き方(ライフスタイル)の集合が日本文化(ジャパニーズ・ウェイ・オブ・ライフ)である。
 日本では、人々の暮らしや一人ひとりの生き方に( ア )芸術・芸能・学問のみを文化あつかいしている。それは誤りではないが、いかにも狭義の文化理解であり、いわば文化の花の部分だけを見ているのである。花を支えている土壌・根・茎・葉にも目配りがいる。
生活文化を視野にいれなければならない。日本人の生活様式ないし暮らしのたて方が日本文化なのだから。
 既述のように、文化は生活様式という定義があるが、文明には文明論者の数だけ定義がある。そこで、まずB私なりの文化と文明の区別に触れ、ついで文化・文明の観点から経済文明としての近代社会の成立を略述しておこう。
 文化は地球上のどの地域に住む人々ももっている。しかし、文明はそうではない。地球上の一部の地域にしか存在しなかったし、現にそうである。たとえば、エーゲ海にギリシャ文明が栄えたころのローマは文明ではない。やがて一九世紀に世界の七つの海を支配する大英帝国になったとき、英国は近代資本主義の覇者として( イ )文明になった。
 英国人が「文明」という言葉を使い始めるのも一九世紀であり、それ以前にはない。日本最初の文明論というべき福沢諭吉の『文明論之概略』で参照された英国人バックルの『英国文明史』が書かれたのは一八五七~六一年、一九世紀中葉に大英帝国が世界に君臨したときだ。英国の衰退とともに、人々は文明としての大英帝国よりも英国文化を語るようになる。文化は遍在するが、文明は偏在する。
 このように、ある地域の文化が文明になる。文化は人々の暮らしがあるところに遍在するだけでなく、永続する。一方、文明は興亡する。古い文明は衰亡し、新しい文明が隆盛する。それに応じて文明地域は移動する。文明は長続きするが、永続しない。文明の存在する地域にはかならず、その地域の文化がある。文化が文明の基礎である。それゆえ文明を論じるさいにも、文化を見据えておかねばならない。
 それでは、いかなる地域の文化が文明になるのか。文明にはかならず求心力と遠心力がある。何が求心力・遠心力を獲得するのか。
文明の基礎としての文化である。アメリカン・ウェイ・オブ・ライフすなわちアメリカ文化に、戦後の日本人を含め、世界の多くの人々が憧れた。人々がこぞってアメリカに行きたがり、またアメリカ文化を自国に導入しようとする。このことによってアメリカ文化は広まる。広まることによって、二〇世紀後半のアメリカ文化は自他ともに認める文明となったのである。
 同じように、古代のローマ文化は他地域から憧れられて、取り入れられ普及してローマ文明になった。古代の中国文化は周辺の他地域から憧れられて受容され、普及して中国文明になった。文化が他地域に普及する遠心力をもったとき、その文化は文明になる。
 文化の求心力とは他地域から憧れられること、文化の遠心力とは他地域に影響を与えることである。求心力が働けば中心性を、遠心力が働けば普遍性を獲得する。ある文化が中心性と普遍性を備えると、人々はその文化を「文明」とよぶようになる。それゆえ、「文明とは、他地域から憧れられて、広まっていく文化である」と定義することができるであろう。再言すれば、文明の基礎には文化がある。
 近代文明は資本主義として勃興した。つまり経済を軸にした文明である。それゆえ資本主義の勃興については経済的説明がなされることが多い。しかし、C西洋資本主義の出生の秘密をたどれば、アジア地域の文化への憧れがもとになっていることが知られる。すなわち、文明はアジアにあった。
 その点に触れる前に、西洋資本主義の勃興が西洋域内の非経済的・非合理的要因の宗教を核とする文化と分かちがたく結びついていたことを、手短かに説明しておこう。
 宗教革命で起こったプロテスタンティズムは資本主義と密接な関係がある。魂の救済を求めるプロテスタントたちの宗教心は禁欲的な生活態度を生みだした。その結果、かれらの貯蓄が増えた。貯蓄の増加は、プロテスタントの心情レベルでは神に奉仕する禁欲的生活の証しだが、その証しを強めるために貯蓄はさらに増えた。それは浪費されない。浪費されずに貯蓄を増やすために活用され、貯蓄がさらに増えた。
 貯蓄の増加は神への奉仕という目的にとっては手段である。だが、あるとき手段が目的に転じればどうなるか。事実、転じたのだ。それは富の蓄積を目的にする投資行動になった。蓄積のための蓄積、それは資本主義の本質である。マックス・ウェーバーは資本主義の成立に先だつプロテスタントの宗教心の役割を強調した。
 一方、人々が貯蓄と投資に励んでも、作った物は売れるとはかぎらない。美しい陶磁器に甘い砂糖をたっぷりいれた異国の飲み物にいれあげ、豪華に飾ったサロンで異性と恋愛を楽しむ贅沢の流行が資本主義の勃興した地域で観察される。ヴェルナー・ゾムバルトはその点を強調し、恋愛と贅沢が資本主義の起源だという大胆な主張をした。
 西洋の資本主義の起源について、宗教的禁欲に求めるか、世俗的贅沢に求めるかについては激しい論争があるが、ともに非経済的・文化的要因を強調している点では共通しているのである。 そもそも、大航海時代は、地球が球形だと確信したコロンブスが西回りで「黄金の国」日本に向かったところ、アメリカに到達したことで幕をあけた。中南米に大量の金銀財宝があったことが航海熱をかきたてた。黄金を求めてヨーロッパ人はアメリカ植民に乗り出したが、金銀財宝は物を買う交換手段であって、目的ではないはずである。
 アメリカの金銀財宝はヨーロッパ経由、太平洋経由でアジアの海に運ばれた。金銀で買おうとしたもの、それが目的だ。一五〇〇年頃から一八世紀前半にいたる最初の二世紀半における最大の購入品は、胡椒・香辛料であった。その胡椒・香辛料――一八世紀から薬味になるが、それ以前は疫病に効く薬と信じられていた――の獲得が目的であった。
 一四世紀半ばから一五〇〇年まで間歇的に襲った黒死病でヨーロッパ総人口の三分の一が失われるという危機があった。胡椒・香辛料は疫病に効能があると信じられ、生命がけで求められ、人々はいかに高価でも買わざるをえなかったのである。ボッカチョは『デカメロン』の冒頭部分に黒死病の恐怖を記し、シェイクスピアは『ヴェニスの商人』で東方の胡椒・香辛料貿易を題材にした。生命の危機感が大航海時代を生み出したのである。決して経済的利益だけで説明しきれないのである。
 さて、大航海時代にヨーロッパ人のやってきた東方の中心地域は東南アジアであった。東南アジアには北からは中国人・日本人、西からはインド人・ペルシャ人・ユダヤ人・アラビア人など、さまざまな人々が集まっていた。一六~一七世紀の東南アジアには異なる民族が生活物資を持ち寄り交換していたから、まさに多文化交流の坩堝(るつぼ)であった。文明の交流圏であったといってもよいだろう。
 それをアントニー・リードという学者は「商業の時代」とよぶが、経済に偏した野暮な見方だ。確かに商業活動はあったが、中身は文化交流である。アジアの海で、胡椒・香辛料はもとより、木綿・絹・宝石・茶・陶磁器・砂糖など大量の物産が交換された。東方の物産に魅惑されないヨーロッパ人はいなかった。獣皮・毛織物を衣料としていたヨーロッパ人が、色彩豊かに染め上げられ洗濯しても色の落ちない木綿を見たときの感激は、想像して余りある。憧れられたアジアは文明であった。 ヨーロッパ諸国では、人々が木綿欲しさに、輸入量を激増させ、国庫の枯渇を招いた。インド木綿の使用禁止令や輸入禁止令が出たほどである。この危機を乗り切るには、インド木綿を買わないで、みずから作る以外に方法がなかった。後に産業革命の主軸産業になったのが木綿産業であったその背景には東方の木綿に憧れるファッション革命があった。まさに文化革命が主導して産業革命があとを追いかけたのである。
 こうした事例は上げればキリがない。要するに、ヨーロッパの生活危機、宗教意識、またアジアの文明への憧れが、ヨーロッパに人類最初の経済文明が出現した背景にあるということである。憧れられたアジアの中東・インド・中国は、古代以来、中世末まで文明であった。憧れられなくなるや、それらの地域は文明でなくなり、やがて第三世界に転落していった。
(同志社大学2004年(法/神)/川勝平太『文明の基礎とは何か』)

設問 筆者は、「経済」と「文化」と「文明」の関係をどのように考えているか、「文化」を主語にして説明せよ(句読点とも四十字以内)。

第19回 長文記述2

① いわゆる自然派というヨーロッパ近代文学思想の移入(あやまれる)以来、日本文学はわが人生をふりかえって、過去の生活をいつわりなく紙上に再現することを文学と信じ、未来のために、人生を、理想を、つくりだすために意欲する文学の正しい宿命を忘れた。
② 単にわが人生を複写するのは綴方(つづりかた)の領域にすぎぬ。そして大の男が綴方に没頭し、面白くもない綴方を、面白くない故に純粋だの、深遠だの、神聖だなどと途方もないことを言っていた。 小説というものは、我が理想を紙上にもとめる業くれで、理想とは、現実にみたされざるもの、即ち、未来に、人間をあらゆるその可能性の中に探し求め、つかみだしたいという意欲の果であり、個性的な思想に貫かれ、その思想は、常に書き、書きつづけることによって、上昇しつつあるものなのである。
 けれども小説は思想そのものではない。思想家が、その思想の解説の方便に小説の形式を用いるという便宜的なものではない。即ち、芸術というものは、たしかに絶対なもので、小説の形式によってしかわが思想を語り得ないという先天的な資質を必要とする。
③ 小説は、思想を語るものではあっても、思想そのものではなく、読物だ。即ち、小説というものは、思想する人と、小説の戯作者と二人の合作になるもので、戯作の広さ深さ、戯作性の振幅によって、思想自体が発育伸展する性質のものである。明治末期の自然派の文学以来、戯作性というものが通俗なるもの、純粋ならざるものとして、純文学の埒外(らちがい)へ捨て去られた。それは、実際に於ては、むしろ文学精神の退化であることを、彼らは気付かなかった。
④ 即ち彼らは、戯作性を否定し、小説の面白さを否定することが、実は彼らの思想性の貧困に由来することを知らなかった。
⑤ 彼らには思想がなかった。理想がなかった。人生を未来に託して、常により高く生き抜こうとする必死な意欲を知らなかった。「思想性が稀薄であるから、戯作性、面白さと、だき合うことができなくて、戯作性というものによって文学の純粋性が汚されるような被害妄想をいだいたわけだが、本当のところは、戯作性との合作に堪えうるだけの逞しい思想性がなかったからに 外ならぬ。
(坂口安吾「理想の女」より)

設問 傍線部のように言うのはどうしてか、わかりやすく説明せよ。

第20回 要約問題

次の文章の内容を、①八〇字以内、②四〇字以内の二通りに要約せよ。

 ①日本語の定型詩が対句を用いるのはきわめて稀である。②詩論、すなわち平安時代以後、殊にその末期に俊成・定家父子を中心として行われた「歌論」が対句に触れることもない。③その理由は比較的簡単で、要するに日本では『古今集』以来極端に短い詩型(いわゆる「和歌」)が圧倒的に普及したからである。④音節数では和歌(三一)は五言絶句(二〇)よりも多いが、語数では和歌の方が少なく、対句を容れることはほとんど物理的に不可能である。⑤しかも後には連歌から「俳句」が独立して和歌(または短歌)に加わる。⑥俳句はおそらく世界中でも最短の詩型の一つであろう。⑦俳句はそれ自身が一句だから、対句は問題にならない。⑧『万葉集』の時代には「長歌」もあったし、『梁塵秘抄』の時代には「今様」もあった。⑨しかしそのどちらにも二行を一組として扱う対句の多用はみられない。⑩『万葉集』の長歌の技法には、相称的な形容句を重ねて用いる修辞法が含まれるが、その場合にも相称的表現が作品全体の構造に決定的な役割を果たしたわけではない。⑪今様は四行の歌詞である。⑫その二行が中国風の対句を作る例は、現存する本文に関するかぎり、ほとんどない。⑬要するに極端な短詩型の支配は、左右相称の言語的表現を排除したと思われる。
最終更新:2024年06月13日 22:40