分かりやすさで生徒の笑顔を浴びる授業
~「正しさ」vs「分かりやすさ」論争にケリをつけます。~
■はじめに
この本は、塾講師、予備校講師、学校教員など、教育に携わっている方々に向けて書いたものです。よりターゲットを絞るなら、集団授業や個別指導の形でいわゆる「授業」というものを普段から行っている方々、ということになります。
僕は予備校講師です。週に何回か教壇に立って高校生を相手に授業しています。ついこの前までは塾講師として小中学生を相手に授業していました。その前は家庭教師をしたり、ユーチューブで授業したりと、かれこれ僕の「授業」歴は十年近くになると思います。そのなかで、「よい授業とは何か」を常に追求し続けてきました。
「よい授業」の条件とは何でしょうか。正しく教えられること、分かりやすいこと、楽しいこと、先生に熱意があること、……いろいろあると思いますし、答えはなにも一つではないでしょう。僕はこの中で「分かりやすい」ということを重視してやってきました。
過去に、ツイッターで「正しさ」と「分かりやすさ」のどちらを重視するか、という論争(?)が起きたことがあります。とある塾が提供している数学の動画に、数学者から見れば明らかに「間違い」と思えるようなものがあって、物議を醸しました。その動画では「無理数とは、√とπ」「有理数とは、√とπ以外」と教えていたのです。一応具体例として示しはしましたが、これについて深入りするつもりはありません。
こういう論争は、しばしば数学という科目で起こります。もちろん、英語や国語の世界でも起こります。僕は興味深くその光景を傍観します。
こうした論争、皆さんはどう考えますか?
これを考えるには、「正しさ」とは何なのかを定義する必要がありますが、話が分かりにくくなるので一旦置いておきます。先に結論を述べます。僕は、「正しさ」は常に百パーセントである必要はないと考えています。学者や専門家の方々からすれば、当然、完璧な正しさが満たされているに越したことはないのですが、完璧に厳密で正しい知識を初学者が飲み込むのは困難です。
「完璧に正しいことを教えてもらった。けど、よくわからなかった……」
これでは意味がないですよね。
そもそも僕らの仕事は何ですか? 「教える」ことです。ですから、僕ら先生は、周囲の人間(主に生徒)から見て「教えるのがうまい」と認識されるべきです。そうでないのに「教える」仕事をし続けるのは、アイデンティティーの崩壊と言ってもいい事態なのではないでしょうか。
とすれは、「教えるのがうまい」ってどういうことですか。生徒が「教えるのがうまい」先生と評価してくれるときの基準って何ですか。それはやはり「分かりやすさ」なのではないでしょうか。
どんなに百パーセント正しいことを伝えても、相手に伝わらなかったら意味がありません。そして、もし、教えることを生業としている我々が、相手に「伝える」ことに失敗してしまったら、「我々は何のためにこの仕事をやっているのか」、という話になってきます。
ですから、この本では、「分かりやすい授業」をするための方法論について語ることを主軸としています。もちろん、そのうえで「分かりやすさ」とは何なのか、といったことは定義しなければいけませんから、それについても本論のなかで述べていけたらと考えています。(この「はじめに」のなかでは一旦保留させてください。)
さて、皆さんは、「分かりやすい」指導ができる自信がありますか? 常に相手から「なるほど!」「分かった!」と言ってもらえる、そんな教え方が出来ていますか。
私はこと「分かりやすさ」という領域においては絶大なる自信を持っています。以前の勤務先の塾で月に一回実施しているアンケートで、以前こんな項目がありました。
①「わかりやすい」先生といえば誰?
②「相談しやすい」先生といえば誰?
③「おもしろい」先生といえば誰?
私の勤務先の校舎には、講師は三~四人ぐらいしかいません。そのこともあるからか、ほとんどの生徒が、①~③のなかで同じ先生の名前を二回以上書くことなく、回答していました。
そのアンケートの結果を見てみると、とても嬉しい傾向が見てとれました。ほとんどの生徒が、①の項目の回答に私の名前を書いてくれているのです。
まあ、裏を返せば、②と③に自分の名前が載っているケースはあまりないということでもあります。しかし、「分かりやすいといったら三木先生!」といったイメージが彼ら、彼女らの中にあると思うと、少し嬉しい気持ちになります。また、アンケートの自由記述欄に自分宛てで「教え方上手」と書かれたこともあります。
そんなこともあって、少なからず生徒から「分かりやすい」「教え方がうまい」先生だと思われている、という認識を自分は持っています。そしてこれはまぐれではない。「分かりやすい」授業をするからくりが私の中にあるはずだ、そう思いましたし、このアンケート以降、「分かりやすさ」に関してはよりいっそうこだわって授業するようになりました。
そんなわけで、この本では、「分かりやすい授業」を行うための方法論を徹底的にまとめていきます。私自身、普段意識していることを整理しておきたいとずっと思っていましたし、また、これを皆さんに知ってもらうことで「教える」ことがいかに魅力的か伝えていきたいとも思っています。
この本の対象は、基本的には、塾講師や予備校講師や学校の先生など、人に「教える」仕事をしている方々です。皆さんが分かりやすく教えようと意識することで、世間の授業がいっそうよくなっていきます。参考書の質が上がります。そうなれば、より多くの受験生を苦から救うことができます。
必ずしも「教える」ことが目的でなくても構いません。例えば「発表する(プレゼンする)」だとか「文章で説明する」だとか。とにかく、人に「伝える」スキルをあげたい、聴衆に話を理解・納得してもらいたい、という思いのある人は、ぜひこの本の内容を吸収してほしい、そう考えています。
■私の「教える」歴
自己紹介代わりに、私の「教える」歴についてまとめてみたいと思います。
「教える」ことは昔から好きでした。小学五年生の頃、社会の大テストの前に友達の家に行き、勉強を教えたことがありました。また、ネット上で「お絵描きチャット」を用いた授業を行ったこともありました。中学一年生の頃は、小学校低学年だった弟に授業をしていました。ダンボールを黒板替わりにして壁に固定して…(笑)。まあ、この頃はまだ「勉強ごっこ」程度にやっていたというのが正直なところです。
高校一年生の頃から、ユーチューブで地理や英語の授業を投稿するようになりました。自分が参考書や塾の授業でインプットしたことをほぼ吐き出すような感じで授業しました。ネットに出しているわけですから、不特定多数の方々から反応が来ます。「分かりやすい!」というコメントも、たくさんいただきました。
こんな感じで、私は昔から「教える」ことが好きでした。自分がインプットしたことはすぐにアウトプットしたい。そういうタイプの人間だったからだと思います。
以上は単なる私の自己紹介なのですが、もしここから教訓を二つだけ引き出すとすれば、
①「教える」という経験を若いうちから積んでいたことで、説明能力はごく自然と身についた。
②「教える」ことへの熱意・意欲が高かったおかげで、説明能力を飛躍的に高めることができた。(気に入った先生の喋り方や板書などはすぐに真似していました。)
ということです。少し傲慢かもしれませんが、大切なことを言ったつもりです。「教えたがり屋」であること(②)、そして教えながらたくさん失敗し、教え上手になっていくこと(①)。この二つは、もし読者の中に中高生の方がいて将来塾講師などを目指していらっしゃるなら、今のうちから意識してやっていただきたいですね。
■家庭教師時代の苦悩① ~「分かる」≠「出来る」~
ここまでは少し傲慢な話が多かったかもしれません。が、ここからは「自分も実はこんなに苦労した」という話をしていきます。
高校一年生の九月から、家庭教師のアルバイトを始めました。いわゆる「個人契約」というやつです。掲示板みたいなところに、親御さんたち、あるいは家庭教師側の人たちが投稿していくんですね。私もそこに投稿をし、「ユーチューブで動画も投稿しています」「数学の模試で全国六十位をとりました」みたいなアピールポイントを載せてみたら、すぐに応募が来たんです。
この頃は、まだ教えるノウハウみたいなものが自分の中に確立していない頃でした。本当にただの「教えたがり屋」というだけ。意欲はありました。
「だから」、生徒の成績を自分の指導の結果上げることは出来ませんでした(「そんなに出来なかった」という部分否定にしようと思いましたが、いや、上げられた記憶がないです)。
ここで私は、「分かる」と「出来る」の違いを実体験として学びました。私自身、実は「分かる」=「出来る」という立場でした。中学生になってから(私立の中学校だったのですが)「分かる」=「理解する」ことの重要性を身にしみるように感じてきました。理解さえ出来ればしっかり思い出せる、そして点数になる。特に地理や歴史といった社会科科目はそのように取り組んできました。
しかし、その経験は目の前の生徒には当てはまりませんでした。相手が分かってくれても、一週間経つと「忘れる」みたいです。定着しないみたいです。これに対する解決策としては、二つあると思います。
①「分かる」を「出来る」に昇華させるために、しっかり演習させる。
→問題をたくさん準備し、その場で解かせる。宿題もきちんと出す。
②教え方を工夫し、「分かる」の質をもっと高める。
→「丸暗記」を減らす工夫を施せばいいのです。語呂合わせもアリ。
この本では、一つの仮説として、「『分かりやすさ』を徹底的に追究していくことで、『分かる』=『出来る』という状態を作り出すことができるのではないか」という論を主張しています。つまり、①よりも②寄りのテクニックを多く紹介していくつもりです。(①も必要ではあるんですけどね。)
■家庭教師時代の苦悩② ~「ほう」と言わせたら負け~
今思えば、家庭教師時代の自分の指導は本当にダメでした。自信はあったんですが、結果は出ていませんでしたね。その理由の一つは、先ほど述べた「『分かる』を『出来る』に昇華させられなかった」ことです。が、もう一つ、単純に「分かりやすい教え方が出来ていなかった」という点も否めないと思っています。
そもそも「分かりやすい」とはどういうことか? 明確な定義は後でしっかりやりますが、ここでざっくり言ってしまうならば、「相手が笑顔でリアクションしてくれるぐらいの説明が出来ている」ということだと思います。
相手がどんな性格の子でも、ふつう、「分かった!」と思えばしっかりそれを表情なり言葉なりで示してくれます。笑顔になるもそうですし、「あぁ~」と口から声が漏れ出るのもそうですね。そういうことが連発すると、場の雰囲気もよくなっていき、お互い(教える側も教わる側も)楽しくなっていくんです。
ではそんな指導が私には出来ていたか。NOだと思います。教えても「どうもしっくりこない」感じで終わることが多かったですね。例えば、相手は相槌を打ってくれているが、いざ確認の質問をしてみると答えられない…。そういうことがよくありました。
あとはリアクションの鈍さですね。こちらが「分かった?」と確認して初めて相手から返答が来る。これはあまりよろしくないですね。相手からどんどんリアクションが来るぐらいでないと。
リアクションの中で一番もらってはいけないと思うのが「ほう。」というリアクションです。これは高校二年生ぐらいのときに気付いたと思います。
特に、説明しているこちら側も腑に落ちていないときは、相手側は絶対に理解してくれていません。こっちも「あー、今の説明じゃ分かってくれないだろうな…」と分かるんです(ある意味確信犯的)。となったとき、相手のリアクションが「ほう」となります。いかにも腑に落ちていない感じのリアクションであることが分かるでしょう。
これは生徒の性格もあるでしょう。きっぱりと「分からない」と言える子、きっぱり言うのは恥ずかしいので「うーん…」と不安そうな表情・言葉で示す子、「ほう」とぼかす子、「あ~なるほど~」とうそのリアクションをする子……。
当時の私は、「嘘はダメ。分からないことはきっぱり分からないって言って!分からないことはどんどん質問!」ということを生徒たちに主張していました。分からないことをしっかり「分からない」と言える、これこそ信頼関係だと思っていましたから。
そう、家庭教師指導において大事なことって、この「信頼関係」というやつなんですよ。一対一なわけですから、お互いの関係がないと指導が成立しません。
しかし、今思えば、そもそも「分からない」と言わせるような指導自体がダメだ、と強く思います。そういう考えに転じたのにもきっかけがあります。テレビにもよく出ている有名な予備校講師、林修先生です。
■林修との出会い
「いつやるか?今でしょ!」というフレーズで一躍人気となった予備校講師、林修。二〇一三年頃からテレビにたくさん出るようになって、私も追いかけるようになり、知らないうちにファンになっていました。
その頃私は高校三年生。受験生でした。あるとき母が、林先生の著書『受験必要論』を買ってくれました。私はそれを読んで、林先生の考え方に触れるようになりました。
その中で、衝撃を受けたものがあります。それが、「質問が来るような授業はダメ」という内容です。これは当時の私にとってはかなり衝撃でしたね。授業が終わるとその先生のところの質問の列が並ぶ。これって、いい現象のように見えます。生徒たちも意欲的だということですし。
しかし、仮に授業内容について生徒たちが「ここが分からないんですけど…」と質問しているとしたら…。それは、授業がダメだった、ということなんです。これに関してはなるほどなあ、という感じです。もちろん、生徒にもいろんなレベルがありますから、特に集団授業において、全生徒に一〇〇%の理解をさせるのは難しいと思うんです。しかし、それでも「分かった」と生徒に思ってもらえるような授業をするんです。もっと言えば、それが実現できるように徹底的に「準備」にはこだわるんです。
林先生のこの考え方に触れて、私はかなり燃えましたね。もっともっと「分かりやすく」授業して、生徒に満足してもらおう。いや、それが出来て当たり前なんだ。そんなふうに思うようになりました。
■「分かりやすい」の定義
これまでは私自身の経験について具体的に語ってきました。それも、これから語っていく「分かりやすさとは何か」という本論をすんなり皆さんに理解してもらうためです。(「分かりやすさ」について語る本が、分かりやすさに欠けていたら皆さん困りますよね笑。)
→「分かる」と「出来る」は違う、と言うが…。「出来る」(再現性)を包含するような指導もできるはず。
人に説明できるくらい理解できる(再現性)
「できる」という確信がもてる(多少の反復やインプットは必要だが)
↓
「納得」では不十分!
■「分かりやすい」条件
→ツイッターであげられていたもの。
前提の明確化
スピードの調整
飛躍を埋める→例:「~は遠いので、…に行くことにした」。これは少し飛躍のある言い方。飛躍を埋めるように書くと「~は遠いので、行くのが大変。なので、距離的にも近い…に行くことにした」。数学でいえば、途中式をしっかり書くような感覚。
全体の構成を整える(コンパクトにする)
知識を増やす 理解を深める
一貫性 ゴールが明確 「だから何?」と言われない
今何の説明をしているのか、位置づけを明確化する=自分のやろうとしている授業展開をメタ発言的に伝える(その先の授業展開が推測できるようにする)
独りよがりでないこと=みんなが受け入れやすいこと
比喩、具体例→身近なことと紐づけられるように
学習の意義がわかる→なぜそれが重要なのかがわかる
単純化する
必要に応じて厳密に説明する=正確さの担保 ただし言葉は崩す
ビジュアルを意識→板書の美しさを意識
その人の色を出す→出典の明確化、自分の体験を話す、自分なりの見方を話す(歴史なら自身の歴史像を)
対比を明確化→混乱しそうなものをしっかり区別し、はっきりさせる
全体像を示す
構造化して示す 整理されたものを示す
頭に入りやすい順序で話す→話の展開が相手から推測できるような話し方で話す。そうすると相手がワクワクできる!
因果関係の明確化→どっちが先かの明確化。例:与党と野党の定義。内閣総理大臣が選ばれればその党が与党
罪刑法定主義→どう説明する?「罪に対する刑罰は、法律で予め定めておかねばならない」。これだけで伝わる?→NO。「当たり前じゃん、なんでそんな考え方がわざわざ出てきたのか」という疑問には答えられていない。
用語の統一
対比と具体例の使用
話し方や話す内容をしっかり準備する→言葉に自信が出てくる→受ける側としては非常に聞きやすい
→だからこそ、用語の統一などは非常に重要。
→また、準備していない状態で話すとたいてい間違える。厳密な説明ではなくざっくりとした説明になってしまう
(例)「接続詞に囲まれた中にある動詞は重要度が一個下がる」
→「従属接続詞」という限定が必要。
正確性に欠けた説明は矛盾を生むことになり、結局「分からない」
そもそも「分からない」とはどういう状態か
?そもそも聞き取りにくい、字が読めない 〈物理的伝達の問題〉
①淡々としていたり、説明がたどたどしかったり、説明が長すぎたりして、本質や要点、どこに力点が置かれているのかがいまいち伝わってこない 〈内容整理の問題〉
②本質は分かったが、日本語がぐちゃぐちゃで説明もたどたどしいため、気持ちよくはない 〈話し方の問題〉
③その説明自体は理解できるが、他に必要な説明がなく、疑問が残る 「じゃあこのときは?」「でその後どうなった?」 〈説明量の問題〉
(例)「I will ask him the way to his home if he comes back.」
→文構造の説明だけでは不十分。なぜ「comes」(現在形)なのかも説明すべき
④具体例や、他との対比や、間を埋める論理(因果関係)が省略されているため、疑問が残る 「どういうこと?」「なぜ?」 〈説明量の問題〉
⑤その場では分かったが、これまで聞いてきた知識と矛盾・齟齬が生じたり、反例が生じたりするため、納得がいかない 〈内容の正確性の問題〉
→たいてい、説明を単純化していることによって生じる
→のちのち生徒が細かく調べ直すことによって矛盾が発覚することも
↓
したがって、まずは⑤をなくすために講師自身が隙のない教材研究を行うこと、そして③④をなくすために必要十分な説明を準備すること、さらに①をなくすために説明の手順などを整理し、最後に②をなくすために話し方を洗練させることが授業準備として求められる。
体系的な学び 関係性の明確化 そのルールをいつ適用するか
→自分は物理が苦手だった。とりあえず内海君に教わったが、結局できるようにはならなかった。なぜだろう。結局は理解不足、もっと言えば、体系的な学びの不足、ということになろう。もちろん問題演習量の不足ということもあろうが、体系的な学びが出来ていれば、少ない演習量でできるようになっていたかもしれない。
立ち位置の把握 自分は今どの単元をやっているか その先どんな学習内容が待っているか
ひとりよがりではないこと 相手がわかるレベルの抽象度のピントで話す
継承性。何がもとになって生まれた考えなのかを明確化する
意図を言う なぜその話をしたのか?
分かりやすい説明能力がある
=読んでも分かる説明が書ける
=良質な教材が作れる
基本動作
- 声をコントロールする(抑揚)
- スピードをコントロールする(テンポと間)
- 生徒の動きをコントロールする
僕の理想とするYouTube授業
- スケジュール通りに投稿し予定の範囲までしっかり網羅する
- 毎回の授業を一定の時間に収める(でないと生徒自身、勉強時間を計算できず計画が立てられない)
- 前半で一通りの最低限の解説を超速で行い、後半で補足的な説明や雑談を入れる。
最終更新:2023年12月14日 14:57