本文

 すべての道徳は、ひとが徳のある人間になるべきことを要求している。徳のある人間とは、徳のある行為をする者のことである。徳は何よりも働きに属している。有徳の人も、働かない場合、ただ可能的に徳があるといわれるのであって、現実的に徳があるとはいわれないのである。アリストテレスが述べたように、徳は活動である。ひとが徳のある人間となるのも、徳のある行為をすることによってである。それでは、如何なる活動、如何なる行為が徳のあるものと考えられるであろうか。この問題は抽象的に答えられ得るものでなく、人間的行為の性質を分析することによって明らかにさるべきものである。
 人間はつねに環境のうちに生活している。かくて(ア)人間のすべての行為は技術的である。言い換えると、我々の行為は単に我々自身から出るものでなく、同時に環境から出るものである。単に能動的なものでなく、同時に受動的なものである。単に主観的なものでなく、同時に客観的なものである。そして主体と環境とを媒介するものが技術である。人間の行為がかようなものであるとすれば、徳は有能であること、技術的に卓越していることでなければならぬ。徳のある大工というのは有能な大工、立派に家を建てることのできる大工であり、これに反してあるべきように家を建てることのできる大工は大工の徳に欠けているのである。


(一) 傍線部(ア)「人間のすべての行為は技術的である」とあるが、それはなぜか、説明せよ。

解答例

(一)

人間のあらゆる行為それ自体は主体的なものであるが、環境の制約のもとで行われるという点では受動的ともいえ、主体と環境を媒介する役割を果たしているから。(74字)
人間の行為は、人間と環境を媒介する中で主観的であると同時に客観的であり、技術の本質である主観と客観の媒介的統一の実現をもたらすから。(66字)―やや背景知識(三木清の技術論)を交えたパターン
常に環境のうちに生活する人間の行為は、たえず環境との相関性をもつものであり、その環境と人間主体とを媒介するものが技術にほかならないから。(68字)―東進の解答例1
人間の行為は自身が主体となりながら、自らが身を置く環境に適応させることが必要であるが、その両者を媒介するのが技術であるから。(62字)―東進の解答例2
人間の行為は能動的に起こるものでありながらも、特定の環境の制約を受けるという意味で受動的でもあり、両性質は技術が媒介することによって同時に成立するものだから。(79字)
人間の行為は能動的に起こるものでありながらも、特定の環境の制約を受けるという意味で受動的でもあり、技術こそがこの両性質の媒介的統一を可能にするから。(74字)

解説

(一)

  • 傍線部は明らかに筆者の「主張」である。したがって、そう言える「根拠」を本文から探していく必要がある。
  • 傍線部が「PはQである」の構文になっていることに注目。P=人間のすべての行為、Q=技術的。
  • 具体的には、①「技術的」がどういう状態を意味しているのかを確認したうえで、②「人間のすべての行為」がそういう状態であることを示せばよい。要するにPを説明してQに近づけてやればよい。
  • 「技術的」の説明を探すと、傍線部の数行後に「技術」の説明が見つかる。→「主体と環境とを媒介するものが技術である」
  • 傍線部直前で「人間はつねに環境のうちに生活している」、傍線部直後で「我々の行為は単に我々自身から出るものでなく、同時に環境から出るものである。単に能動的なものでなく、受動的なものである。単に主観的なものでなく、客観的なものである」と説明されている。
  • 以上を踏まえると、大まかな説明の仕方が以下のように整理できるだろう。
 【人間のすべての行為】(=主体的)=環境の制約のなかで行われるため、受動的・客観的である→主体と環境を媒介する=【技術的】

※本問のように、筆者の主張(「人間の行為は技術的だ」)の根拠が、筆者の主張(「これを技術的と言う」)によって与えられている場合(「技術的」はいわゆる「個人言語」である)、その内容を明らかにすることが解答になるから、「なぜか」は「どういうことか」に接近する。

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最終更新:2023年12月05日 01:43