問題


次の文章を読んで、後の問い(問2〜6)に答えよ。
※問1(漢字の問題)は省略しています。


【1】私達は昼と夜を全く別の空間として体験する。特に夜の闇の中にいると、空間の中に闇が溶けているのではなく、逆に闇そのものが空間を形成しているのではないかと思えてくる。闇と空間は一体となって私達に働きかける。(注1)ミンコフスキーは、夜の闇を昼の「明るい空間」に対立させた上で、その積極的な価値に注目する。

【2】・・・・夜は死せる何ものかでもない。ただそれはそれそれに固有の生命をもっている。夜に於(おい)ても、私は梟(ふくろう)の鳴き声や仲間の呼び声を聞いたり、遥か遠くに微(かす)かな光が尾をひくのを認めたりすることがある。しかし、これら全ての印象は、明るい空間が形成するのとは全然異なった基盤の上に、繰り広げられるであろう。この基盤は、生ける自我と一種特別な関係にあり、明るい空間の場合とは全く異なった仕方で、自我に与えられるであろう。

【3】明るい空間の中では、私達は視覚によってものを捉えることができる。私達とものの間、私達と空間の間を距離が隔てている。距離は物差(ものさし)で測定できる量的なもので、この距離を媒介にして、私達は空間と間接的な関係を結ぶ。私達と空間の間を「距離」が隔てているため、空間が私達に直接触れることはない。

【4】一方、A闇は「明るい空間」とは全く別の方法で私達に働きかける。明るい空間の中では視覚が優先し、その結果、他の身体感覚が抑制される。ところが闇の中では、視覚にかわって、明るい空間の中で抑制されていた身体感覚がよびさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する。私達の身体は空間に直接触れ合い、空間が私達の身体に浸透するように感じられる。空間と私達はひとつに溶けあう。それは「物質的」で、「手触り」のあるものだ。明るい空間はよそよそしいが、暗い空間はなれなれしい。恋人達の愛の囁きは、明るい空間よりも暗い空間の中でこそふさわしい。

【5】闇の中では、私達と空間はある共通の雰囲気に参与している。私達を支配するのは、ミンコフスキーが指摘するように、あらゆる方向から私達を包みこむ「深さ」の次元である。それは気配に満ち、神秘性を帯びている。

【6】「深さ」は私達の前にあるのではない。私達の周りにあって、私達を包みこむ、しかも私達の五感全体を貫き、身体全体に浸透する共感覚的な体験である。

【7】近代の空間が失ってきたのは、実は深さの次元である。近代建築がめざしてきたのは明るい空間の実現であった。(注2)ピロティ、連続窓、ガラスの壁、陸屋根は、近代建築が明るい空間を実現するために開発した装置である。人工照明の発達がそれに拍車をかける。明るい空間が実現するにつれ、B視覚を中心にした身体感覚の制度化が進んだ。視覚はものと空間を対象化する。空間は測定可能な量に還元され、空間を支配するのは距離であり、広がりであると考えられるようになった。それと同時に、互いに異なる意味や価値を帯びた「場所性」が空間から排除され、空間のあらゆる場所は人工的に均質化されることになった。こうして、場所における違いを持たない(注3)ユークリッド的な均質空間ができあがる。

【8】深さは、空間的には水平方向における深さを表している。幅に対する奥行(おくゆき)である。しかし、均質化された近代の空間にはこの奥行が存在しない。なぜなら、均質空間はどの場所も無性格で取り換え可能だから、奥行は横から見られた幅であり、奥行と幅は相対化距離に還元されてしまうからだ。均質空間では、幅も奥行も「距離」という次元に置き換えられる。従って、そこにあるのは空間の広がりだけであり、深さがない。

(空白行)

【9】ミンコフスキーが深さについて語っているのは、専ら空間的な意味においてである。一般に西洋では、深さは水平方向における深さであり、純粋に空間的な意味しかもっていないようである。それに対して、わが国では深さは水平方向における深さであると同時に、時間的な長さをも意味する。深さは空間的であるとともに時間的な意味をもつ。それを端的に表した言葉が「奥」である。奥は日常的にもよく使われる言葉だ。

【10】たとえば、来客を家の中に案内する際、よく「奥へどうぞ」などという。具体的に座敷とか応接間といわずに「奥」という。この場合の「奥」とは一体何を指しているのだろうか。それが具体的な部屋を指しているのでないことは明らかである。「座敷へどうぞ」「応接間へどうぞ」といわれれば、部屋のイメージを頭に思い描くこともできる。だが奥といわれると、少しおおげさにいえば、一体どこへつれて行かれるのだろうという一抹の不安が心をよぎる。奥は漠然として、つかみどころがない。奥は具体的な対象物を指す言葉ではなく、漠然とある何ものかを暗示する言葉である。このあたりに、日本語に固有な奥という言葉の深い意味が隠されているように思われる。試みに(注4)辞書を引いてみると、奥には次のような意味がある。

【11】「外(と)」「端(はし)」「口(くち)」の対。オキ(沖)と同根。空間的には、入口から深く入った所で、人に見せず大事にする所をいうのが原義。そこに届くには多くの時間が経過するので、時間の意に転ずると、晩(おそ)いこと。また、最後・行く先・将来の意。入口から深く入った所。最も深くて人のゆかない、神秘的な所。末尾。〈「道の奥」の意で〉奥州。みちのく。奥まった部屋。心の底。芸の秘奥。貴人の妻の居室。貴人の妻。奥方。夫人。晩(おそ)いこと。また、最後。将来。行く先。

【12】要するに、奥は空間的にも時間的にも到達しがたい最終的な場所、時間を指している。それだけではない。奥義、奥伝という言葉があるように、奥には空間的、時間的な意味の他に、深遠ではかり難いという心理的な意味もある。C奥は空間的、時間的、心理的な様々な意味を含みながら広く日本の文化を支えている

【13】奥を具体的に体験できる場所に日本の古い神社がある。神社の境内は鎮守の森とよばれる深い森に包まれ、その森を分け入るように長い参道が続いている。参道は社殿に向かってまっすぐにのびているのではない。右に左に折れ曲がり、つま先あがりの坂道になったり険しい石段になったり、実に変化に富んでいる。参道の両脇には鳥居や献燈(けんとう)がいくつも並び、うっそうとした木立や苔(こけ)むした庭石などとともに巧みに配されている。そして(注5)手水舎(てみずや)、回廊、拝殿、玉垣、正殿へと続くが、神社の中心である正殿には仏教寺院のように偶像が安置されているわけではない。せいぜい神の(注6)依代(よりしろ)としての鏡があるくらいだ。仏教寺院の中心は仏像とそれが安置してある本堂だが、神社にはそれに相当するものがない。(注7)上田篤(あつし)氏が指摘するように、神社の中心はむしろ参道である。見通しのきかない曲がりくねった参道を一歩一歩踏みしめながら歩いて行くと、私達の精神は次第に高揚し、聖なるものに近づいて行くような感じを抱く。その時、私達は奥を感じる。奥は最終的な建物ではなく、そこへ至るまでのプロセスを造形化したものだといえる。

【14】奥について最初のまとまった論稿を発表したのは(注8)槇(まき)文彦氏である。槇氏は奥の特性を次のように説明する。

【15】奥性は最後に到達した極点として、そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへ辿りつくプロセスにドラマと儀式性を求める。つまり高さではなく水平的な深さの演出だからである。多くの寺社に至る道が曲折し、僅(わず)かな高低差とか、樹木の存在が、見え隠れの論理に従って利用される。それは時間という(注9)次数を含めた空間体験の構築である。

【16】奥は時間的な要素を含む概念である。その点、「間」との類似性が考えられて興味深い。奥は純粋に空間的な意味での奥行ではなく、目的へ向かうプロセスの演出によって私達の心の中に生じる心理的な距離感覚であり、時間感覚である。人間の身体感覚に深く関わる概念だといえる。また槇氏は、奥は「見る人、作る人の心の中での原点」であり、「見えざる中心」だという。先程の「奥へどうぞ」という言葉には、案内する側とされる側の両者の心の中の原点にむかって行くというニュアンスがある。D案内された瞬間から、既に奥の空間体験が始まっているのである。奥は最終的に到達すべき建物や部屋が目的ではなく、そこへ至るプロセスに儀式と演出を求めるからだ。

(狩野敏次「住居空間の心身論──『奥』の日本文化」による。ただし、本文の一部を改変した)

(注1)ミンコフスキー──フランスで活躍した精神科医・哲学者(1885~1972)。引用は『生きられる時間』による。
(注2)ピロティ、連続窓、ガラスの壁、陸屋根──ピロティは、二階以上を部屋とし、一階を柱だけにした建物の一階部分。連続窓・ガラスの壁は、広範な視野を可能にした近代建築技法。陸屋根は、勾配(こうばい)が少なく、ほとんど水平な屋根。
(注3)ユークリッド──紀元前300年頃のギリシアの数学者。それまでの幾何学を集大成した。
(注4)辞書──ここでは『岩波古語辞典』を指す。
(注5)手水舎、回廊、拝殿、玉垣、正殿──手水舎は、神社で参拝者が手を洗い、口をすすぐための水盤を置く建物。ちょうずや、とも読む。回廊、拝殿、玉垣、正殿は、いずれも神社を構成する施設。
(注6)依代──神を祭る際、神霊の代わりとして据えたもの。
(注7)上田篤──建築家・建築学者。指摘は『鎮守の森』による。
(注8)槇文彦──建築家・建築学者。引用は『見えがくれする都市』による。
(注9)次数──文字因数の数(Χ2乗なら2、Χ3乗なら3)を指す数学用語。ここでは複雑さの度合いを示す。


(設問)

問2 傍線部A「闇は『明るい空間』とはまったく別の方法で私たちにはたらきかける」とあるが、そのはたらきかけは私たちにどのような状況をもたらすか。その説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。

① 視覚的な距離によってへだてられていた私たちの身体と空間が親密な関係になり、ある共通の雰囲気にともに参与される。
② 物差で測定できる量的な距離で空間を視覚化する能力が奪われ、私たちの身体全体に浸透する共感覚的な体験も抑制させられる。
③ 距離を媒介として結ばれていた私たちの身体と空間との関係が変容し、もっぱら視覚的な効果によって私たちを包み込む深さを認識させられる。
④ 視覚ではなく身体感覚で距離がとらえられ、その結果として、空間と間接的な関係を結ぶ私たちの感覚が活性化させられる。
⑤ 視覚の持つ距離の感覚がいっそう鋭敏になり、私たちの身体と空間とが直接触れ合い、ひとつに溶け合うように感じさせられる。

問3 傍線部B「視覚を中心にした身体感覚の制度化がすすんだ」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 身体とは一線を画していた視覚が、身体感覚の中に吸収されるようになってきた、ということ。
② 身体感覚相互の優劣関係が、視覚を軸にするかたちで統御されてきた、ということ。
③ 視覚以外の身体感覚が、人為的な力によって退化を余儀なくされてきた、ということ。
④ 五感をつらぬく共感覚を、視覚だけが独占するようになってきた、ということ。
⑤ 視覚の特権性や優位性を人びとが自発的に享受するようになってきた、ということ。

問4 傍線部C「奥は空間的、時間的、心理的なさまざまな意味を含みながらひろく日本の文化を支えている」とあるが、その「奥」の例として、筆者は神社の参道を挙げている。神社の参道における体験のどのような点に筆者は注目しているか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

① 神社の参道では、人は神の依代である鏡を安置してある正殿にたどりつき、そこにいたるまでの神社独特の距離の長さを実感できる点。
② 神社の参道では、人は信仰の対象である鎮守の森に分け入っていき、信仰を求める心が優しく包み込まれていることに気づかされる点。
③ 神社の参道では、人は見通しのきかない曲がりくねった道を正殿に向かって時間をかけて進み、聖なるものに近づく高揚感を味わうことができる点。
④ 神社の参道では、人は献燈や庭石を配した木立の中に続く石段をのぼり、自然と人間の精神とが調和した環境に身を置く充実感をいだくことができる点。
⑤ 神社の参道では、人は最終的な建物である正殿をめざしてひたすら歩き、正殿の中の鏡に向き合うことでそれまでのプロセスを再認識することができる点。

問5 傍線部D「案内された瞬間から、すでに奥の空間体験がはじまっている」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。

① 「奥へどうぞ」と言われたときから、空間的にも時間的にも到達しがたい「奥」を、到達点そのものではなく、そこに至る過程において心理的な距離や時間として感じること。
② 「奥へどうぞ」と言われたときから、空間的な意味をもつ「奥」を、そこにいたる測定可能な距離としてだけでなく、明確に限定された時間としても感じること。
③ 「奥へどうぞ」と言われたときから、深遠ではかりがたい「奥」を、数量に還元できる対象とすることで、無性格で取替え可能な距離や時間として感じること。
④ 「奥へどうぞ」と言われたときから、不安にさせられる「奥」を、案内する側とされる側が同じ対象物をめざして一体感をもつことで、親密な距離や時間として感じること。
⑤ 「奥へどうぞ」と言われたときから、闇に包まれて気配にみちている「奥」を、神秘的な儀式が行なわれている空間とすることで、人知を超えた心理的な距離や時間として感じること。


問6 この文章では論を進めるうえで、具体的な事例を挙げたり、他の文献を取り上げたりしている。筆者がそのような論の進め方をする意図の説明として最も適当なものを、次のA群・B群の中から一つ選べ。

A群

① ピロティ、連続窓等の例は、空間を量的に把握することによって奥行きという存在を消してきた近代建築の価値観の妥当性を確認するために用いられている。
② ピロティ、連続窓等の例は、人工照明の発達によってひろがりのある空間の実現を目指すようになってきた近代建築の技術的進歩を評価するために用いられている。
③ ピロティ、連続窓等の例は、近代建築が闇の追放によってもたらした空間の均質化が内包する問題点を引き出すために用いられている。
④ ピロティ、連続窓等の例は、近代建築が明るい空間をめざすことによって深さという次元を失ってしまった誤りの重大さを証明するために用いられた。

B群

① ミンコフスキーの文章を取り上げたのは、近代における西洋と伝統的な日本とのあいだの、空間のとらえ方の違いを明確にするためである。
② 奥の意味についての辞書の説明を取り上げたのは、日本語に固有な奥の意味が、辞書などでは表しきれないことを証明するためである。
③ 上田篤の指摘を取り上げたのは、神社の参道に関する考えには、共感しつつ、奥については対立する見解をもつことを強調するためである。
④ 槇文彦の文章を取り上げたのは、奥についての先駆的な論として紹介し解説を加えることによって、自説の説得力を増すためである。

解答

問2 ①
問3 ②
問4 ③
問5 ①
問6 A③ B④

解説

評論文というよりは非常に説明的な文章が出ましたね。近代批判のような要素も含む文章ですが、さすがセンター試験。背景知識なるものは一切不要で、本文の情報をきちんと整理できれば迷わずに答えが選べる、そんな問題のオンパレードでした。具体例や引用文も多く、細部にとらわれず、貫通する論理を素直に押さえてしまえば、人によっては10分以内の解答もできたのではないでしょうか。(林修はこの大問を4分で解いたと、2014年の公開授業で言っていました。)

さて、まず第1段落です。「昼と夜」と、冒頭から早速対比が明確になりました。そして、段落末尾で、「闇」を「明るい空間」に「対立」させて、と明確な対比構造が出てきました。あくまで主軸は「闇」で、対比の材料として「明るい空間」が出てきているという構造です。「その積極的な価値に注目する」というのは話題提示と言ってもよくて、「闇の積極的な価値とは何だろうか。」という問題提起に置き換えても問題ないでしょう。ここから筆者が闇についてどんな点を評価していくのか、と考えながら読んでいくことが大切です。
第2段落の引用文を経て、第3段落、ここで大切な内容が出てきます。「明るい空間」では「視覚」を使うんだと。そして、空間と「間接的」な関係を結ぶと言っています。段落末尾に「空間が私達に直接触れることはない(否定文)」とありますから、この段階で、闇の場合は「直接」触れるんだろうなあと予想ができます。
そして第4段落に突入。「一方」「闇は」と来ました。この段階でもう答えは出たようなものですよね。一応、段落全体を読むと、「闇の中では」「視覚にかわって」と来ますから、視覚以外の感覚がよびさまされるんだと分かりますし、「直接ふれあい」、とやはり予想通りの内容が来ました。
内容的には実感しにくいかもしれませんが、真っ暗で何も見えないことによってなんだか対象と直接触れ合う感じがするよねー、と言っているに過ぎません。「浸透」「溶けあう」「手触り」「なれなれしい」「恋人」など、いろんな言葉が出てきますが、どれも「直接」という言葉の上位互換です。
この段階で選択肢を見ると、パッと見、⑤が目につく人がいそうですが、冒頭に「視覚」とあります。いや、視覚以外のはずです。とすれば、「親密」とある①が正解なんだろうなと感じ取れます。「ある共通の雰囲気にともに参与」という内容は第5段落冒頭にありますが、そこを確認できなくとも、必要条件で解くのであればそこを無視しても答えは①で、検討の余地は個人的にはゼロです。「親密」の延長に「ともに参与」という情景が浮かびますからね。

そして、第5段落で「深さ」という表現がカギカッコつきで出てきます。ミンコフスキーの言葉から引っ張ってきたものらしいですが、どうやらこれが闇の世界を支配するようです。第6段落では「五感全体を」と来て、問2で確認した内容の繰り返しです。
そして第7段落冒頭に「近代の空間が失ってきたのは」「深さの次元」だとあり、やや批判的な文脈が展開します。とすると、闇の話ではなく「明るい空間」の話をするのかな、とこの時点で想像できます。案の定、「明るい空間」の話が展開し、傍線部Bに突入。今度は「明るい空間」のことを問う設問がここで出てきました。対比を押さえている我々からしたら、めちゃくちゃ簡単ですね。「視覚を中心」であることは説明不要でしょう。「身体感覚の制度化」については、問2で押さえたことを振り返ればいいのではないでしょうか。第4段落に「明るい空間の中で抑制されていた身体感覚が…」という表現がありました。ですから、「制度化」をもし本文中の言葉で言い換えるなら「抑制」です。そんなことしなくても、問3は、視覚が優位になったことを述べている選択肢は、と見ていけば②「視覚を軸に」に注目できるはずです。⑤は「視覚の特権性や優位性」まではよかったですが、後半の「自発的に享受」という箇所が「制度化」の言い換えとは思えません。それよりは「統御」=「抑制」と考えるべきで、どう考えても②しか選びようがありません。

本文に戻ります。傍線部以降では、「空間を支配するのは距離であり、広がりである」と、深さが失われたことを言い換えています。「それと同時に」と来て、段落末尾で「均質」という言葉が2度繰り返され、結局、①深さがなくなって距離が空間を支配したこと、それに伴って②場所が均質化したこと、という2つのポイントを述べています。次の第8段落も、結局は「深さがない」ことを繰り返し述べているだけです。
これと絡むのが問6のA群で、全選択肢に共通する「ピロティ、連続窓等の例」がなんのために用いられたかを聞いているわけですが、批判的な文脈であったことだけを押さえれば③④、「深さがない」というポイントからは④になりますが、「均質化」というポイントからは③でも問題ありません。そこで消去法を使うことになりますが、④の「誤りの重大さを証明」が気になります。「ピロティ、連続窓」の例示が果たして「証明」になるか。「深さがない」ことをわかりやすく伝えたいだけで、それが「誤り」であることを「証明」するほどの強いパワーを本文中から感じ取れるかと言われたら、そう感じる根拠となる表現は一つもありません。ですから明確に③が答えです。

そして第9段落で今度は「深さ」の延長で「奥」という概念が出てきます。こうした新しい概念が出てきた際には定義を押さえることが肝要で、ここでは「空間的」であるだけでなく「時間的な意味」ももつんだ、という内容をしっかり押さえておきましょう。
そして第10・11段落はありがたいことに具体例で、ここはほぼ読まずに通過してしまっても問題ない内容です。第12段落「要するに」からが大切です。この段階で、本文末尾まであと5段落しかなく、パッと見、第13段落は具体例、第15段落も「槇文彦」の引用文であることが視野に入ります。一体残りの5段落分で筆者は何を伝えるんでしょうか?
そういえば、明るい空間と闇の対比はどこにいったのでしょうか。「闇の価値に注目する」と言っていたじゃないか、と。これに関してはどうやら第8段落の「(明るい空間では)深さがない」というところで一旦話が終わっているみたいです。「だから闇って、深さもあって、価値があるよねー。でね、その深さっていうことについては、奥っていう概念がめちゃくちゃわかりやすくてね…」と話が展開していることに気付きます。
さて、第12段落では「それだけではない」と、新たに「心理的」という言葉も出てきました。これを引き出すために辞書の引用があったんでしょうね。そして、次の第13段落もそのことを伝えていることは、「その時、私達は奥を
」という表現から明確です。
そのまま次に進むと、「槇文彦」の「論稿」が出てきて、第16段落でまとめます。「奥」は「時間的」「空間的」な意味での「奥行き」「ではなく」、「心理的な」な「距離感覚」「時間感覚」だと言います。
何が言いたいかわかりましたか。「奥行き」と言ってしまうと物理的な匂いを感じますが、あくまで「感覚」なんです。結局のところ、第11段落で「奥」の定義を辞書から引っ張ってから最終段落に至るまで、「奥」が「心理的」な概念であることをずっと繰り返しています。

ここまで踏まえたうえで、出題者の意図を汲みながら傍線部C・Dを見ていきましょう。言いたいことは「奥=心理的」の1メッセージのはずなのに、なぜ設問が2つ設置されているのか? 細かく見れば他にもポイントがあるはずなんです。
そこで、「槇文彦」の登場前後を改めて振り返ると、第13段落末尾に「プロセスを造形化」と出てきて、これが第15段落「プロセスにドラマと儀式性を求める」、第16段落「プロセスの演出」「プロセスに儀式と演出を求める」という形で反復されます。
そう、サブポイントとして「プロセス」というのが浮かび上がってくることに気付けば、それが傍線部Dのキーポイントになり、「心理的」に関してはどちらかというと傍線部Cでのキーポイントになる。こうやって設問が棲み分けられていることに気付けるのではないでしょうか。

ここまでのことを踏まえて、あえて問6のB群から解説します。③の「上田篤」と④の「槇文彦」はまさに今踏まえた範囲に出てきた人物です。③の「対立する見解」は明らかに誤りですが、④の「自説の説得力を増す」は合っていますね。引用文を用いる意図は基本的に「批判」か「援用」のどちらかであって、今回は明らかに後者。B群の答えが④だと分かりました。

そして戻るように問4を見ますが、設問の要求は「神社の参道」の「どのような点に」「注目しているか」です。筆者の主張を直接選ぶ形式ではないのでやや難易度は上がりますが、それでも「空間的」というキーポイントを押さえれば、
  • ①「距離の長さ」→これだと「空間的」なだけ
この選択肢だけは切れます。あとの選択肢はすべて「心理的」と言えるような内容がちらほら登場していますから、残念ながら今回は具体例部分から改めてポイントを拾いにいく必要があります。
ですが見つけるのはそう苦でもないはずです。第13段落の最後のほうで「神社の中心はむしろ参道」と出てきて、その直後の文がまさに「体験」と言えるものではないでしょうか。
見通しのきかない曲がりくねった参道を一歩一歩踏みしめながら歩いて行くと、私達の精神は次第に高揚し、聖なるものに近づいて行くような感じを抱く
これでやっとポイントが定まりました。「精神」の「高揚」だったり、「聖なるもの」に近づく「感じ」、というのはまさに「心理的」と言える内容です。これを踏まえて選択肢を見れば、驚くほどに③しか目に入ってきません。もちろん素直に③「聖なるものに近づく高揚感」が解答です。本文の言葉を組み合わせて端的にまとめていて、引っかけ要素も一切なく、まるで記述問題の解答例にも使えそうなくらいベストな表現ですね。

最後に問5。ポイントは「プロセス」でした。選択肢もすべてが
「奥へどうぞ」と言われたときから、( A )「奥」を、( B )時間として感じること。
となっていますから、( B )のところに「プロセス」が入ってくれてそれが正解選択肢になってくれれば、出題者の意図と見事に共鳴します。
面白いことに「プロセス」が入っているのは、その訳語「過程」という言葉が入っている①だけです。
もちろん消去法で解いても構わないのですが、「プロセス」というポイントを押さえているのいないのでは解答スピードの差はあまりに歴然としています。もう少し迷わせてほしかったのですが、あっさり答えが決まってしまいました。

解説としては以上です。全問正解した人もいたと思いますが、その人は是非、「どうすればもっと時間短縮できたか?」という視点でご自身の解答プロセスを見直してみてください。具体例や引用文の読みに力を入れすぎた、注を細かく見てしまった、消去法で解いてしまった等、何かしら反省すべき点が出てくるのではないでしょうか。僕は具体例・引用文はほぼ読んでいないですし(目を通しただけという感覚)、注も一度も見てないですし、消去法は問6(i)でしか使っていません。

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最終更新:2023年12月04日 19:27