問題

 わたしたちが、テープレコーダーのような音声記録装置に自らの声(姿)をはじめて記録し再生したときに、それを自身の声(姿)として容易に受け入れることができないことは、よく知られている。このことは、写真装置が出現した当初、人々が自らの肖像写真にとまどいを持ったことと同様である。
 わたしたちの声は、咽頭から耳骨の回路をとおって自身の耳に伝わる。その声を、自身の声として認識してきたわたしたちにとって、耳骨の回路を介さないテープレコーダーの声は、音色が異なって聞こえる。
 鏡像、あるいは自己の頭蓋に共鳴する声は、わたしたちにイマジネール(注1)な自己像を与えてきた。そして日常的には、このイマジネールな自己によってわたしたちは外界を対象化してきたのである。しかし、声のレコーダー(記録装置)そして写真装置は、イマジネールな自己像を抹殺してしまう。写真装置というメディアが「嘘をついているからでなく、その痕跡保存(証拠保全)の機能が鏡像段階を骨抜きにしてしまうからである」。「別の言葉でいえば、骨抜きにされたのは魂(心)それじたい」(キットラー)(注2)なのだ。
 絵画も文学もイマジネールな肖像を描く。写真装置は、身体を欠落させた心や魂を映し出しはしない。しかし、写真装置は、それを見ることなく眼を閉じた自己の姿をも与えてくれるのである。文字テクストに世界を還元する近代的主体は、写真装置によって解体を準備されていたといえるかもしれない。【 a 】、写真装置によって対象世界を捉えようとする撮影者のまなざし(主体)は、特権的な場を与えられつづけてきた。兵器システムによって対象を撃つように、写真装置を対象にむけている主体として特権化されている。
 ところで、対象物を記憶するということでは、写真装置(フォトグラフィック・カメラ)からデジタル写真装置(デジカメ)へはほとんどつなぎ目のないまま連統しており、写真装置の持っていたさまざまな意味は、そのままデジタル写真装置へと引き継がれているように思える。しかし、さほど単純なことではない。
 両者のちがいのひとつは、ひとことでいえば、写真装置(フォトグラフィック・カメラ)が光学的な記録(記憶)装置であり、その画像は、印画紙に光りをあてることで得られるということである。
 他方、デジタル写真装置は、印画紙という物質を必要としない。これはデータによる記憶装置子そのものである。それは写真装置(フォトグラフィック・カメラ)に内在していた記憶装置という特性をより特化したものとなっている。繰り返すが、デジタル写真装置の記憶は、写真装置(フォトグラフィック・カメラ)とは異なって、物質ではなくデジタルなデータである。通常、デジタル写真装置によって得られた画像はコンピュータを介してプリントされ、紙として物質化される。
 デジタル写真装置は、いわば【  1  】であり、そうした意味では、すでに見てきた写真装置と同様に、イマジネールな自己像を消し去るものである。さらには、現像処理などの時間も必要とせず、瞬時に画像が出現するとともに、物質性すら持たないがゆえに、いちだんと主体や自我のゆらぎを促進するものとなる。
 シュート(撮影)する主体はどうだろうか。デジタル写真装置の記憶は、信号化され、多くの著合、コンピュータ自体に、あるいはコンピュータを介してCDなどきまざまなメディアに保存される。通常、それらの画像は、モニタの上で見られるだけで、多くの画像はプリントアウトされずにデータ保存されるのみである。コンピュータが日常化するにつれ、わたしたちはさまざまな記憶をコンピュータにあずけるようになった。その結果、コンピュータはわたしたちの外化した脳だというメタファーがたびたび語られた。【 b 】、テジタル写真装置で撮影された膨大な画像(イメージ)は、外化された脳であるコンビュータに記憶され、時折、その記憶をまさぐるように、検索・確認されることになる。このことによって、撮影者もまた自ら撮影した図像の記憶を自身の中にとどめることをホウキし、そのことをコンピュータにあずけてしまう。記憶を「他の客体に転写」してしまうのである。その結果、シュートしたという身体的記憶すらも暖味なものになってしまうのではないか。
 写真装置(フォトグラフィック・カメラ)によって得られた画像 =写真(photograph)には、かすかにであれ、「書く=graph」ことの意識が残されていた。ファインダーをのぞく行為もそのひとつである。
 photo とは「光」のことであり、光によるグラフ(書)がフォトグラフということになる。暗室で印画紙を現像液に浸すと、銀の粒子がしだいに酸化し黒い画像が現れる。銀の粒子の実跡には、遠い記憶としての「書く」ことを想起させるものがある。
 graph (グラフ、書く)と似た言業に、glyph (グリフ・絵文字)がある。古代におけるglyph の語は、石に刻みつけるという強度の身体的な行為の記憶とともにある。イタリア語経由の英語、フランス語のグラフィティ (grafiti)には、落書きの意味もあるが、「識刻画」という意味もあり、やはり刻み込むという行為に結びついている。graffio(グラフィオ)は、「ひっかくこと」。いずれも、かつては書くことがかなり強度のある行為にかかわっていたということだ。
 しかし、信号化されたデジタル画像に「書く」という身体性はいささかも残されていない。言葉としても「デジタル・フォトグラフ」といういい方はあまり一般的ではなく、「デジタル・フォト」といっている。
 デジタル写真装置のもっとも日常的なものは、すでにふれたように、携帯(電話)やスマートフォン (スマホ)に装備されたものである。3携帯に装備されたデジタル写真装置での撮影は、これまでの写真装置による撮影とはまったく異質な身体的経験となっている。このことは、「ファインダー」をのぞかずに対象を撮影することとかかわっている。対象物にむけて片手でスマホをかざして撮影している人々の光景がそのことを示している。
 【 c 】、携帯にかぎらず、デジタル写真装置で対象を撮影する場合、ファインダーをとおして対象物をみることはBカイムではないが、通常ほとんどない。一眼レフタイプのものには、ファインダーが用意されている(それはかつての写真装置のまなざしを残そうとしている)が、多くのものにはファインダーそのものが存在しない。この場合液晶モニタをとおして対象を見ることになる。ファインダーで対象を捉える場合、それは撮影者の眼(眼球)と接しているために、撮影者の視線(まなざし)となる。したがって、撮影はまさにシュートするという表現が使われることになる。しかし、デジタル写真装置(デジカメ)のモニタを見ながらの撮影は、デジカメと眼(眼球)との関に距離がある。つまり、撮影者の眼は、デジカメのまなざしをコントロールしているといったほうがいいだろう。こうした行為は、すでにシュート(狙い撃つ =撮影する)ということからいささか乖離している。【 d 】、「コピー」する行為にちかいかもしれない。
 実際、デジカメはコピー機のように使われることが少なくない。書店で雑誌情報を携帯電話のデジカメでコピーする人が出てきたために、書店はこれを「デジタル万引」と呼び、禁止するようになった。このことからもわかるように、デジカメはコピー、あるいはスキャニングといった行為と見分けがたくなっているのだ。資料をメモすることなく、デジカメでコピーすることが、すでに不自然な行為ではなくなっている。
 その結果、かつての写真装置(フォトグラフィック・カメラ)によるシューティングという撮影者の主体の特権性は希薄化していくことになる。古くから残されてきたグラフという身体的行為は、コピーという身体性を失ったものにむかう。また、デジカメによる画像はコピーとして無限に転送することが可能になる。
 ファインダーで対象を見ることと、モニタで対象を見ることには、また決定的なちがいがある。ファインダーの場合、撮影者は対象をガラスあるいはレンズをとおして直接見る。しかしモニタを見るということは、【  2  】として見ることである。デジカメのモニタはいわば外在化された、あるいは客体化された網膜であり、その調膜に結ばれた画像を撮影者は追認しているのである。また、わたしたちは、対象を物体として見ているのではなく、モニタの「光の束」として確認しているだけなのである。
 一眼レフのデジタル写真菱置を使う、いわゆる職業的なカメラマンでも、その装置をパソコンに接装し、カメラではなく、大きなパソコンのモニタで画像を確認し、パソコンのキーボードでシャッターを切るという作業をしている場合も少なくない。こうした作業は、被写体(対象物)に背をむけてバソコンのモニタを見ているといったことも日常的になっている。
 したがって、わたしたちの画像の記憶は、わたしたちから離れ、「光の束」の信号として保存されているにすぎない。してみれば、デジタル写真装置は、一方でかつての写真装置と同様、わたしたちのイマジネールな自己像 (近代的主体や自我とかかわる)を崩壊させるとともに、他方その撮影主体のまなざしをも消失させ、さらには対象世界を物質ではなく「光の束」へと還元してしまったとえるだろう。
(柏木博『視覚の生命力』による)
(注1)イマジネール……imaginaire (フランス語)。想像の、架空の、の意。
(注2)フリードリヒキットラー(一九四三~二〇一一)……ドイツの評論家。

問十三 傍線部A・Bにあてはまる漢字二字を、それぞれ記述解答用紙の問十三の欄に楷書で記入せよ。

問十四 空欄 a ~ d に入る語をそれぞれ次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。ただし、同一の語が重複することはなく、選択肢には本文に入らない語も含まれている。
  イ たしかに  ロ ところが  ハ とはいえ  ニ むしろ  ホ もちろん

問十五 傍線部1「写真装置は、それを見ることなく眼を閉じた自己の姿をも与えてくれる」とあるが、その説明として最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。

イ 目をつぶれば鏡に映る自らの姿を見ることは不可能となるが、記憶装置はそれを可能にし、それまでの自己認識にゆらぎを与えるということ。
ロ 写真装置はテープレコーダーと同様に自己認識を破壊するが、同時に普段は気付きにくい本当の自分の姿を、自己の心の中に想像させるということ。
ハ 記憶装置としての写真装置は身体を欠落させた心を見ることなく、解体された自己像を基準に対象を捉えることで、自己の理想像を示すということ。
ニ 写真装置の登場は自己自身を身体と心に分けて認識していた近代的主体に対して、心身を一元的に把握する、新しい自己認識を切りひらいたということ。
ホ 鏡像によって成立するイマジネールな自己像は、近代的主体として文字テクストに世界を還元するが、身体としての自己を自己自身の眼では見られないということ。

問十六 傍線部2「さほど単純なことではない」とあるが、それはなぜか。その理由として最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。

イ 印画紙という物質によらずに、光学的な記録装置として記憶を純化するデジタル写真は、イマジネールな自己像を擁護しないから。
口 両者は同じ写真装置であっても、デジタルの場合は物質性を持たないため、イマジネールな自己像の解体をより一層加速させてしまうから。
ハ 印画紙を不要とする構造のため、同じ写真装置でも対象のゆらぎをもたらすデジタル写真は、コンピュータに身体を委ねるのに等しいから。
ニ 両者の機能は連続しているように見えるが、物質性を必要としないデジタルの場合、必要以上に記憶装置としての性質を際立たせてしまうから。
ホ デジタル写真のデータは信号化されてコンピュータに保存されるため、主体の身体を媒介することなく、純粋な記憶として保存されてしまうから。

問十七 空欄【  1  】に入る語句として最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。
イ 完極の写真装置
ロ 信号化された記憶
ハ 主体の転写装置
ニ 物質化された記憶
ホ 純粋な記憶装置

問十八 傍線部3「携帯に装備されたデジタル写真装置での撮影は、これまでの写真装置による撮影とはまったく異質な身体的経験となっている」とあるが、それはなぜか。その理由として最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。

イ デジタル写真の撮影は身体性を欠落させて撮影するため、自己の判断や思考が希薄なまま対象を選択し記憶する行為になるから。
口 片手でスマホをかざすという行為が、従来の写真撮影の持つ強度の身体性とは別次元で対象に接近し画像を切り取る行為だから。
ハ 撮影者は液晶モニタをとおして対象を見るため、ファインダーをのぞきながら撮影するときの身体性から主体が乖離してしまうから。
ニ ファインダーをのぞかずに液晶画面をとおして対象を提えることは、撮影主体のまなざしを欠落させたまま複製を生み出すような行為だから。
ホ 対象をファインダーからのぞくのとモニタで確認するのとでは眼球と対象との距離が異なり、撮影することの意味が変わってくるから。

問十九 空欄【  2  】に入る最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。
イ 対象をあらかじめデジタル画像に変換されたもの
口 対象を投影した画像から主体を消去したもの
ハ 対象を客体化しデジタル画像と交換されたもの
ニ 対象を撮影者の網膜を通さずに転写したもの
ホ 対象をデジタル画像に置き換えて追認したもの

問ニ十 傍線部4「わたしたちの画像の記憶は、わたしたちから離れ、「光の束」の信号として保存されているにすぎない」とあるが、その説明として最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。
イ 被写体に背を向けてモニタを確認することは対象を直接肉眼で捉えることにはならず、撮影者の記憶から経験としての撮影の意味が欠落し、デジタル画像として保存されるコンピュータに人間が従属してしまうということ。
口 デジタル写真装置による撮影は、撮影者の身体性のみならず対象の物質性をも喪失させる行為であり、モニタ上の画像は単なる光学的な現象となって、対象への認識や過去の記憶をわたしたちから奪ってしまうということ。
ハ イマジネールな自己像に支えられた人間の記憶が自我を構成しながら世界を成り立たせていたが、デジタル写真による撮影は被写体を光学的な情報に還元するだけで、ともすれば撮影者の個性や自分らしさも奪いかねないということ。
ニ 客体化された網膜であるモニタを見ることは、ファインダー越しに対象と対話しながらシャッターを切る一回的な経験とは異なり、対象を見るともなく画像の信号を蓄えていくだけで、撮影者に虚無感を与えることになるということ。
ホ 外化した脳であるコンピュータに記憶をあずけることは人間の本能に反する行為であり、デジタル信号に変換された情報だけが蓄積されてしまうと、結果として大切な思い出や記憶が単なる出来事の記憶のように書き換えられてしまうということ。

解説

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最終更新:2023年12月06日 07:38