はじめに
 巷には大量の現代文の参考書があふれています。正直、今ある参考書で十分だろう、と言いたくもなります。しかし、それでも私がこのたびこの参考書を世に出そうと思ったのはなぜかと言えば、巷にあふれる現代文参考書に異議があるからです。もちろん、中には非常に優れたもの、つまり皆さんの成績アップに直結するようなものもありますが、その一方で「うん?」とうなるようなものも見受けられます。それはどういう類のものかというと、
 ・現代文には読み方・解き方の「ルール」がある、と謳うもの
 ・「その解き方、自力じゃできないでしょ?」と思うような解法が紹介されているもの(非現実的、再現性なし))
 ・「このやり方でやれば絶対に解ける」と強調しているもの(原理主義的。過度にパターン化しているものなど)
 ・手順通りにやれば解けるが、短い試験時間内で実践するのは厳しいと思うような解法が紹介されているもの(非現実的)
  • 「論理」に頼り過ぎていて(非意味的・数学的な処理に頼り過ぎていて)、汎用性の面で気になるもの
 ・本音で語られていない(「感覚」で解いているはずなのにそのことを言わないなど)
などなどです。
 もちろん、今から十数年前と比べれば状況はよくなりました。そもそも昔は現代文の参考書の数は今より断然少なかったですし、しかも、中身を見てみると「この解説、解答の説明をしているだけで、なぜそれを選ぶのかがしっかり書かれていない…」というものも少なくありませんでした。それに比べれば、最近は「分かりやすい」ものや、「刺激を受ける」ものが増えてきており、現代文の学習に取り組みやすい状況になってきていることは事実です。しかし、私に言わせてみれば、「本当にそのやり方で成績が上がるのか?」と思ってしまうものが大半です。
 こういうことを言うと、「具体的にどの参考書がどうダメなのか?」と気になる方もいるかと思います。ですので、現代文の参考書・問題集を具体的に提示し、コメントしていきたいと思います。ある意味、これは、私から見た「現代文の系譜学」でもあります。「系譜学」とは、「どう継承されたか」を明らかにする学問のことです。まあ、正直言って、現代文は他の科目(英語や数学)に比べると、「過去の先人が書いた参考書を後の人が受け継ぐ」という様子があまり見られないので、まとめにくいのですが…。
 ですから、この本では、従来の参考書の欠点を改善するために、以下のようなことを意識していきます。
  • バランス(比率)を常に意識する。(これがすべてです!)
そもそも僕はバランス主義の人間です。「バランスを考えること」―これが私の一つの信念です。これにまさるものはないですよ。
「このテクニックを使え!」というスタンスも出したいし、「テクニックばかりに頼りすぎるな!」というスタンスも出したい。
勉強には段階がある。初めのうちは、ルールやテクニックに従って画一的に問題を処理したほうがいい(ルールに従って解かない=ひたすら量だけこなす)。そして、レベルが上がるうちに、何度の高い問題や特殊な問題に対しても臨機応変に対応していく、ということが重要。段階を意識した構成になっているので、自分に合ったレベルから始められます。
  • 正しいことから演繹する。
 方法論などを提示するときも、「なぜそういう方法論でやるといいのか」という根拠を必ず示すようにします。その根拠は、「こう解いたほうがこういう理由で効率がいいから」と、理論的に説明することもありますし、「僕が今まで解いてきた経験だと、こっちでやったほうがいいから」と経験論的に説明することもあります。そして、経験から説明するときは必ず押し付けることはしません。個人の経験を万人に当てはめることはできませんからね(絶対に当てはまらない人がいるので)。
 とにかく、ウソは極力つかないよう、徹底しています。例えば、断定(~だ)と推量(~かもしれない)は明確に区別して書きます。100%そうだと言えない限り、断定の表現は使わないようにします。できるだけ多くの人にこの参考書を信頼して利用してもらうためです。
 また、「ごまさかない」こともここに含みます。論理の段差を小さくし、分かりやすい文を書くようにしいていきます。例えば、よく「論理的に読め!」と謳う参考書がありますが、いきなりそんなことを言われても「論理的に読むってどういうこと?!」というのが受験生の本音だと思います。聞こえのよい言葉を使って、その実態についてまったく言及しないという、無責任な参考書というのは意外とこの世には多いです。

  • この参考書で目指すこと
②分かりやすさ(わかりやすい文を書くのはもちろん。例えば「論理的に読む」といのは分かりにくい。)
④再現性と汎用性 邪道的な解法が推奨されない理由はこれです。

 また、参考書を書くにあたって「誰を対象とするか」については厳密に考えておく必要がありますので、そのことについても述べておきます。参考書を世に出すからには「売れたい」と思うのがふつうです(もちろん私も)。ですから、世の参考書では「ゼロから分かる!」と謳うものが多いような気がします。しかし、実際の受験生を見てみると、ピンからキリまでいますから、「ゼロから分かるのか!よし、じゃあ買うか」と買ってみたら「実際には難しかった」なんてことはよくありますし、そういう生徒を実際に見てきました。
 本音としては「100%誰でもわかる!」としたいところです。しかし、ウソはつきたくなりません。特に「ゼッタイ」とか「100%」とかいった大胆な表現を使うのが私は好きではありません。そこで、ターゲットをまず以下のように設定します。
① 最低限の(小学生レベルの)読み書きができる人
 そして、もう一つ、次のようなターゲットも追加させてください。
② 「この本一冊だけで完璧」などとは思わず、この本を起点としてさらなる学習の発展が可能な人
 よく「これ一冊だけやれば十分です!」と謳う参考書があります。これもまた大げさな言い方。十人中八人は「この一冊で十分」かもしれませんが、成果が出ずに終わるかもしれない「残りの二人」を私は見逃したくありません。いいですか。人それぞれ現時点でのレベルは違います。何が出来て、何が出来ないのかには個人差があります。また、参考書を読むにしても、読むのが上手で私の意図通りに吸収できる人もいれば、私の意図通りに読めず、結局力がつかない人もいるかもしれません。
 そういえば、予備校講師の方で「現代文の参考書で良書と言えるものをみんなが読めば、日本人の読解力はもっと良くなるのに。でも、参考書を読む能力がなかったらどうしたらいいのか。」と言っている人がいました。そう、根本的に「読む」ことにアレルギーを抱えている人は、たとえ良書を読んだとしても力が伸びない可能性があるわけです。
 ですから私は、決して「この本を一冊やれば完璧!だからみんな読もう!」とは言いません。もしここまで読んできて、「この本を一冊読みきるのはつらいかも…」という人、あるいは途中まで読んでみて「やばい、全然ついていけてない」という結果になった人は、「読む」のではなく「聞く」形式の学習、すなわち動画学習を推奨します。私は、YouTubeにて現代文の授業も行っていますので、そちらで「聞いて」学ぶことで、本を読むよりも軽い負担で、学習ができると思います。そう、必ずしも参考書での学習がベスト、というわけではないのです。

(cf1)読解力の崩壊って世界的なことなのか、それとも日本等一部に限られたことなのか。まともな現代文の学参を読んでいると、これみんなでやればいいじゃんと思うのだが(多くは絶版だけど)、そもそも学参を読む力すらなかったらどうしたらいいのか。詰み?
https://twitter.com/TNK_KNCH/status/963934911571795969
(cf2)学参コーナーにて。
これだけ「良い」とされる学参がたくさん出ているのに、子供達の全体学力が上がらないのはなぜなのか。
そもそも、学参を読めない(理解できない)レベルなのではないか?
https://twitter.com/yamashu01/status/981353003897602048



●二項対立 … 読み方に関して、多様か画一か
設問の行為遂行性について:戦後大学入試現代文の言語行為論的分析 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009670207
●解答の際、深掘りするか否か
読むことの「客観」幻想 : 入試現代文のマークシート化をめぐって https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD100000&bibid=8499
継承性がない
再現性・汎用性







第一章 入試現代文の本質
 現代文の得点を上げるうえで一番大事なのが、実は「現代文とはどんな科目なのか」を理解することです。これを捉え間違えると、今後文章を読んでいくとき、解いていくときのスタンスにズレが出ます。あるいは勉強方法を間違えたりします。現代文の本当の基礎はここですから、しっかり考えていきましょう。ここから述べる内容は、私の考える本質というよりも、大学が求めるものを考えていくと必然的に導き出せる「本質」です。正しいことから芋づる式に導いていきますので、皆さんも「ああ、なるほど」と納得しながら読んでください。
「現代文の本質」「現代文で問おうとしている能力」について、多くの塾講師・予備校講師の方は持論で書いていることが多いです。しかし、持論を述べる前に、まずは出題者である大学教授側の考えを見ることが必要です。そこで、東京大学のホームページの中にある「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」というページから、「国語」で身につけてほしいことについて述べられた文章を引用します。

問題文は論旨明快でありつつ,滋味深い,品格ある文章を厳選しています。学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤にしつつ,それに留まらず,自己の体験総体を媒介に考えることを求めているからです。本学に入学しようとする皆さんは,総合的な国語力を養うよう心掛けてください。
 総合的な国語力の中心となるのは
1 文章を筋道立てて読みとる読解力
  2 それを正しく明確な日本語によって表す表現力
の二つであり,出題に当たっては,基本的な知識の習得は要求するものの,それは高等学校までの教育課程の範囲を出るものではなく,むしろ,それ以上に,自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力を重視します。
そのため,設問への解答は原則としてすべて記述式となっています。さらに,ある程度の長文によってまとめる能力を問う問題を必ず設けているのも,選択式の設問では測りがたい,国語による豊かな表現力を備えていることを期待するためです。

 いかがでしょうか?まあ、「記述式」など、解答形式の部分は大学ごとによって違いますからおいておくことにして、「総合的な国語力の中心」の一つとしてあげられていた「文章を筋道立てて読みとる読解力」、この箇所に注目しましょう。ちなみに、細かいですが、ここでいう「文章」とは基本的には評論文のことです。(冒頭に「論旨」という言葉が使われていますから、小説文などは含めていないと分かります。)
 そう、読解力を試しているんですよ。「読解」とは、字のごとく「読み解く」こととか、「読んで理解すること」とかいう意味です。一応、広辞苑から引用すると、「文章を読んでその意味を理解し解釈すること」と書いてあります。明鏡では「文章を読んでその意味を理解すること」と書いてあります。いずれにしても、ただ「読む」だけではなく、それを「理解」するところまで含めて「読解」と言っているのです。
 しかし、「読んで理解する」という行為は、日常生活で普通にやっていることですよね。例えばツイッターを見ていたら誰かが「家が火事になった!」と言ったとします。そしたら我々は、その人の家が火事になっている様子を頭に思い浮かべます。これが「読んで理解する」ということになりますよね。つまり、活字情報を頭の中できちんとした「イメージ(絵や図)」の形に変換する、ということです。うーん、そんなこと普段からやってますしねえ。
 だから東大は、「筋道立てて」という言葉をしっかり入れているではありませんか。(「筋道立てて」とは「論理(=理屈)を成り立たせて」ということです。)しかも、理解するのは「文」ではなくて「文章」ですよ。中学校一年生のときに、「言葉の単位」という単元で「文章>段落>文>文節>単語」という大小関係を習ったと思います。文章というのは、文が結合してできた段落がさらに積み重なったものなのです。皆さんがツイッターなどで読んでいるツイート、あんなのは文章と言いませんよ。
 そう、「読解力」とは、まとめてしまえば、
 文章を読み、その意味を筋道立てて理解する能力
ということなのです。「そんな深い意味があったのかー、なるほど!」と思ってくれると嬉しいです。
 ただ、もう一つ考えたいことがあります。よく見てみると、「筋道立てて理解する」とあるではありませんか。これは、どういうことでしょうか?筋道立てて「書く」とかならまだ分かりますよね。でも、筋道立てるのは書き手ではなく「読み手」の我々なんですよ。あれれれ?
 要するにこれは「再構築しなさい」ということなんです。筆者は、自分の考えを理屈っぽく伝えますよね(理由や根拠抜きにいきなり自分の意見を押し付けても、相手には納得してもらえません)。「AだからBなんだよ」という書き方をして、相手を納得させるわけです。そういうふうにして「筋道立てて」書かれた文章を、読み手である我々は「筋道立てて」理解する、ということなんです。これは、もっと分かりやすく言えば、
 文章を読みながら、書き手(=筆者)の思考の筋道をなぞっていき、
 それを整理することによって内容を理解する
ということです。(よく、読解とは本文の「再構築」「再構成」のことだ、と言っている人がいますが、今述べてきたような流れがあってそういうことが言えるんです。いきなり「再構築能力が大事だ!」なんて言っても、伝わりませんよねえ…。)
 さあ、いかがでしょう。東大のメッセージをここまで深く読み取った人はそうそういないと思います。大げさかもしれませんが、この段階で既に皆さんは現代文学習において一歩リードしたと言っていいと思います。
 ということで、話をもう少し進めましょう。
 では「筆者の思考の筋道」を理解するためにはどんなことをすればいいでしょうか?それは「筋道」という言葉の意味をよく考えれば分かると思います。「筋道」って、「道」なんですよね。何に向かう道なのか、と考えてみましょう。当然、「自分の意見」に向かう道、ということです。ですから、筆者の思考の筋道を理解するには、
 筆者が自分の意見を伝えるために、どのような工夫をしているのか
を確認する必要があります。そして、ここでいう「工夫」にはいくつかパターンがあります。これは私がこれまでさまざまな文章を読んできた結果得られたものですが、主に以下の六つになります。とりあえず今は「ふーん、こんなのがあるんだ」という感じで眺めてみてください。
 ⓪ 前提をきちんと示す。
① 理由(根拠)をきちんと示す。
 ② 大事なことを何回も繰り返す。
 ③ 二つ(三つ以上の場合もあり)のものを比べながら話を進める。
 ④ 具体例・引用文を示す。(①とかぶるケースが多いです)
 ⑤ 特徴的な表現(比喩など)を用いる。
 文章には、これらがとにかくたくさん出てきます。これらがたくさん出てくる文章のことを「筋道立てて書かれた文章」と言うんだ、と考えてください。そのおかげで我々は「理解」できるんです。逆に、「分かりにくい」文章(文章に限らず、耳で聞く「話」でもいいかもしれません)とは、⓪~⑤のうちのどれかが欠けたものなのです。例えば皆さんが、「○○先生の授業、分かりにくい、つまんない!」と友達に愚痴を言ったとします。なぜ「分かりにくい」かと言えば、一つには、言葉が難しくてインパクトに残らない(⑤の不足)からだと思うんですよね。あと、そうそう、友達との会話を考えてほしいのですが、学校の休み時間中に友達から次の言葉をかけられたとします。
 友達「ねえねえ、さっき先生に国語の問題を聞いたら、『分からない』って言われた!」
 こう言われました、と。どうですか? もし私がここで「どう返事をするか、考えてください。」と言ったら、皆さんは「えっ、ちょっと待って」と思いませんか。(そんなことないですか?「そうなんだーへえー」と返すって?そんな冷たい返事、ダメダメ!笑)一つ気になることがあるはずなのですが。ほら、この友達のセリフだけでは情報が足りなくないですか?
 そう、ここに出てきている「先生」がどの科目の先生なのかが不明なんですよ。その情報がないと、返事を考えて、と言われても無理でしょう。ここでいう先生が「国語」の先生なのか「国語以外の先生」なのかによって、答え方が変わると思いませんか?もし国語の先生なら、皆さんは「え!国語の先生なのに分からなかったの?やば!!」と返すでしょう。一方、国語以外の先生ならば、「ハハハ笑 さすがにあの先生に国語は無理かー」とかって答えませんか。
 つまり、「先生」が誰のことを指しているのかという「前提」(⓪)がないと、友達の会話は理解できなかったわけです。
 とまあ、今十行ぐらい使って「前提がないと理解できないよね」ということを私は伝えたのですが、まさにこれ、具体例(④)があったおかげで理解できましたよね。具体例なしだと話はやはり伝わりにくくなります。そして、右の例の中に出てくる「先生」について、私は「国語の先生」である場合と「国語以外の先生」である場合に分けて、それぞれの場合の返答の仕方を比較(③)しました。両方示したからこそ、「ああ、なるほどね」と皆さんはうなずけたと思うんですよ。片方だけだと分からない、ということも日常会話では結構あります。
 そして、①については…例えば、「最近の日本は、政治がうまくできていない」ということをツイッターで呟きたいとします。そのとき、こうツイートされたとしたら、どうでしょう。
「最近の国会は本当に答弁の時間が無駄。それと比べると小泉さんのときは本当にうまくいってた。」
 僕はこういうのを見ると「なんかワンクッション足りないな」「三文目がほしいな」って思いますね。だって、これだと「今」の政治と「小泉さんのとき」の政治のどちらに力点が置かれているのか分からない。もし「今」に力点を置きたいなら、三文目として「とりあえず安倍さん、やめてほしい」とか言っておけばよかったんです笑(あんまりこういう政治的なことを言うのはよくありませんね、スミマセン)。一方、「小泉さんのとき」に力点を置きたいなら、三文目として「小泉さんは本当に聡明な方で、無駄がなかった」と言えばよかったのです。もしそう言われたとすれば、私なら、「このツイートをした人は小泉内閣のときのこと結構知ってるんだな」と予想して、その人に「どういうところが無駄がなかったんですか?」と聞いてみますね。しかしながら、最初に出した二文だけのツイートを見せられてしまった場合は、力点がどちらなのか分からないので、リプをするのをためらいますね。
 要するに、自分の伝えたいことや言いたいことは、二度三度と(言葉は変えていいので)繰り返してほしいんです。でないと、力点が不明瞭なので「分からない」ということになるわけです。学校の歴史の授業が眠いのは、歴史の大きな(マクロな)一本の流れが一切示されることなく、ひたすらさまざまな「異なる」ように見える出来事が羅列されるだけだから、ではないでしょうか?例えば、第二次世界大戦での日本の敗戦を扱うときに、次のように解説されたら、めっちゃ分かりやすくないですか?
「ミッドウェー海戦で日本は負けちゃったのね。その次のガダルカナル島の戦いでも負けちゃったのね。この二つの戦いで戦局が悪化しちゃったのね。それでも日本は諦めずに、学徒出陣・学徒動員・学童疎開を行った。しかし四十五年の三月に東京大空襲が起きて日本の首都東京がやられちゃったのね。四月には沖縄戦でたくさんの人が死んじゃった。七月には連合国がポツダム宣言を出して、日本に負けを認めさせた。それでも日本はそれを拒否した。そしたら八月に原爆を二回打たれて何万人の人が死んだ。こうして八月十四日に、日本はポツダム宣言を結んで負けを認めた。翌十五日には玉音放送によってそのことが全国に伝えられた」
 ここから言いたいことはただ一つ、「日本が負けに向かっていった(=戦局が悪化していった)」ということです。なぜそれが伝わるかと言えば、マイナスな言葉がたくさん並んでおり、インパクトに残るからです。もし下線で引いた部分がなく、「一九四二年、ミッドウェー海戦。一九四三年、ガダルカナル島の戦い。そして一九四五年に東京大空襲・沖縄戦、さらには広島・長崎への原爆。…」と言われてしまっては(まさかそんな授業をする先生はいないとは思いますが…)、ただの「いろんな」用語の羅列にしか見えませんし、何が言いたいのかさっぱり伝わってきません。核となる「戦局の悪化」という内容を、しっかり繰り返してほしいものです。(また、仮にそれを繰り返したとしても、「なぜ」負けたのか(①)、ということまで、有識な先生であればしっかり入れてほしいですよね。)
 ここまで話せば、⓪~⑤についての理解は、皆さんの中で十分に深まってくれたことと思います。
 入試に出る文章は、⓪~⑤のような「伝えるための工夫」を凝らしたものになっていますから、安心してください。……こういうことを言うと、「いやいや、実際には難しくて全然読めないんだけど!」という声が聞こえてきそうですね。確かに。では、なぜ「全然読めない」のか、答えていきましょう。(以降、「読む」という動詞は「読解する(=読んで理解する)」という意味で使っていきますからね!)
 もう一度復習。⓪~⑤のような「伝えるための工夫」が張り巡らされている、つまり「筋道立てて」書かれている文章であれば、「分かりやすい」「理解できる」のだということを私はずっと伝えてきました。そして、入試に出る文章は「筋道立てて」書かれているはずです。だから、「理解」が可能なはずです。だから安心してください、と言いました。それなのに実際には、受験生の多くが「現代文、全く読めません!」と言う。なぜか。根本的な理由を考えてみてください。
 いかがでしょうか。おそらく、ほとんどの方が、以下のような答えを出したことでしょう。
 A「難しい言葉がたくさん出てくるから?」
 B「『伝えるための工夫』が使われていることに気付く力がないから?」
 C「時間内に読み終わらないから?」
 他にもいろんな答えが出てきそうですが、代表的なものはこの三つだと思います。うーん、どれも私としては「当たらずとも遠からず」という感じですね笑。
まずCと答えた人。確かにね。入試は時間制限が一番怖いかもしれません。でも、今後、難しい言葉を覚えたり、「伝えるための工夫」を見抜く方法を学んだりしていけば、読むスピードは上がるはずだよね。つまり、読むスピードが遅い根本的原因はAやBなんですよ。だからCと答えた人は、もうちょっと考えてほしかったですね!間違ってはいないけど、根本的理由とは言えません。数行前に戻ってごらんなさい。私は「根本的」という言葉をちゃんとつけましたよ笑。(ちなみに、現代文を勉強すると、設問を注意深く読む癖がつくので、こういう言葉は絶対に見逃さなくなります!そうすると答えの精度も上がります。楽しいですよ!)
さて、これでCよりもA・Bが根本的理由だと分かりましたね。AやBと答えた人、ご名答!しかし、できることなら、次のように答えてくれたほうが、私としては嬉しかった!
「⓪~⑤のうち、⓪の『前提』が示されていないから」
え?という人。説明します。入試に出る文章というのは、まず言葉が難しいんです(=Aの内容)。もし、その難しい言葉すべてに対して「注」がついていて、辞書的な意味が書いてあったとしたら、皆さんは「読めた」はずなんですよ。しかし、難しい言葉に注などがあまりつかない。「普遍」「抽象」「客観」「演繹」……こういう言葉が当たり前のようにふつうに使われているんです。そう、筆者からしてみればこういう言葉は「知っていて当たり前」。そして問題を出す出題者側にとっても「常識」なんですよ。
しかし、受験生は?「分からない!」「知らない!」わけです。つまり、筆者や出題者が持っている「前提」を、受験生は共有していない。だから文章が読めないんです。
分かりましたね。筆者は物書きのプロです。人に何かを伝えたいと思ってものを書きます。「伝えたくない」と思う筆者なんてそりゃあいませんよ笑。きっと何かを「伝えたい」。だから、「伝えるための工夫」を張り巡らす、はず。でもね。さすがに言葉の一つ一つに対して「この言葉はこういう意味で、この言葉は…」って一つ一つ説明してくれるほど親切ではない。というか、そういう説明をしなければならない相手をそもそも読み手として想定していないのさ。
入試に出る文章は、基本的に学者(≒大学教授)が書いています。学者さんの仕事は論文を書くことです。いい論文を書けば、優秀だと評価されるんですよ。とすれば、小学生や中学生に分かるような幼稚な言葉で文章を書きますか?そんなことしたら、「かっこ悪い」ですよね。だから難しい言葉、学者たちにしか分からないような言葉を使うんです。(まあ、この説明はやや不適切なのですが、とりあえず理解しておいてください。難しい言葉を使う本当の理由は、「客観性の保持」のためなのですがね。まあ、また分かるときが来ます。)
要するに、入試に出る文章は、読む側の層(=ターゲット)がかなり限られているのです。
 とすれば、読める人と読めない人が出てくるので、入学試験としての機能(=選抜機能)を果たすことが出来ます。読める人は合格し、読めない人は「また来年」「うちの大学にはまだ来ちゃダメ!」と落とされてしまうわけですな。
 これは至極当然のことですよね。大学は、元来的には、学問の場です。たくさんの文献を読んで研究をしていく場です。実際の講義でも、文献を読ませて感想や意見を書かせることなどしょっちゅうあります。だから「読める」学生を選び出さねばならないのは当然のことです。
まあ、大学側がそういうメッセージを公式的に発表しているのは見たことがありませんが、ツイッター等で大学教授のツイートを見ていると、「最近は学生の読解力が下がっていて困っている」という趣旨のツイートは結構見ます。ですから、そういう思いを抱いている大学教授がいるんだ、ということは信じてもらっていいと思います。確かに、何百人ものレポートを採点した際に「こいつ全然理解できてないな」というものがたくさんあれば、教授側もげんなりしてしまいますね。
まとめましょう。入試現代文の本質、それは、「筆者―出題者―受験生」の三角関係にあります。筆者の書いた文章の中から都合のいいものを出題者が選び、その内容が本当に理解できているか受験生に問います。そして受験生は「私は、あなたたちと同じレベルで分かっていますよ!だからこの大学に入れてください!」とその大学にアピールします。これが現代文という科目の中で行われていることの実態です。ご理解していただけましたでしょうか。
 ここまで読んできて、「前置きが長すぎる!早く読解のやり方を教えてくれ!」という人もいるかもしれませんが、違うんですよ。現代文というのは、ここまで述べてきた「本質」を踏まえないと読解に支障をきたす科目なんです。この「本質」を押さえずに勉強をした人が、こぞってこういうことを言ってくるんですよ。おかしくありませんか?(【 】内が私からの反論です。)
 「現代文って日本語で書かれた文章だし、勉強しないでもいいよねー」 → 【日本語といっても、「学者レベルの」日本語だよ!】
 「現代文は唯一知識が要らない科目。ひたすら練習して勘を養えばOK」 → 【むしろ前提知識がたくさん必要!】
 「現代文の問題って、答え決まるわけないよね。文章に対する解釈の仕方は人それぞれだし」
→ 【解釈ではなくて『理解』力を問うているんですが…】
  【理解の仕方が複数あり、そこを設問にしてするならば、答えは当然二通り。ただ、そういうことはあまり起きない】
 「実際に入試に出題された文章の筆者がその問題を解いたら、解けなかったっていう話を聞いたことがある。やっぱりおかしいよ現代文!」
  → 【いや、それは筆者が出題者の要求に応えられなかったんだよ。正解するためには問題と選択肢を読むというハードルがあるからね】
 とまあ、こんな感じでしょうか。現代文の本質を理解せずに実際の勉強に入ると、こんなにもねじ曲がってしまうんですよ。だから、ここまで字数を割いてひたすら本質を説明してきました。おそらく、「その科目がどういう科目か」を理解することが必要条件となっている科目は、現代文くらいしかないと思います。(英語で「英語とは」、数学で「数学とは」という話はあまりされませんよね。)

 さて、ここまで述べてきたことを踏まえれば、入試現代文の点数を上げるための方法はもう見えてきたのではないかと思います。まずは、
① 難しい語句、いわゆる抽象語彙の理解・記憶に努める。
ということが必要です。学問の世界では当たり前のように使われる言葉を覚えねばなりません。単に辞書的な意味を覚えるだけではなく、例文を見るなどして実際の使われ方を頭に入れておくことが大切です。
 そして次に必要なのが、
② 「伝えるための工夫」を見つけ出し、ポイント・要点を暴き出すような訓練をしていく。
(ここでいう「ポイント・要点」とは、小説文であれば「主人公の心情」、評論文であれば「筆者の主張」、ということになります。)
ということです。これはわりとどの参考書でもやっているので、従来の内容をより分かりやすく焼き直して提示することになります。その際、「再現性・汎用性」にはこだわっていきます。当たり前ですが。
 ②については、具体的には、以下のような形で実行していく必要があります。
  • 長い本文をコンパクトな形で整理・要約する。
  • 筆者がどのような話の進め方をしているのか、どういう意図でそういう表現を用いたのかなど、書き手側の気持ちや意図を肌で実感する。
Ex.なぜここでカタカナ表記が使われているか、なぜここだけ過去形になっているのか等)
これが読解中に皆さんがやるべき「作業」です。まあ、読める人は無意識にこれをやっているのですが、まだ読めないであろう皆さんは、これらを「作業」だと思って意識的にやることが必要です。

  • 【意識してみよう】
読み方を鍛えることは、「どうすれば人にものは伝わるのか?」を考えることでもあります。そうすると自然と書き方もよくなってきます。

  ・【考えてみよう】
   なぜさまざまな学問が存在するのか?「こんなこと考えないでしょ…」というようなことを考える人がなぜいるのか?そういうことを考えていくうちに、書き手側の立場がだんだんと分かってきて、読解のしやすさも増していきます。

  • 類比、対比、因果+比喩、例示。

  ・【読むと解くの関係】
まずは設問にとらわれないことが大切です。文章そのものをしっかりと「読んで」「理解する」ことが大切なのです。そのうえで自分が「理解」したことを設問にかぶせていく。これが「解く」という作業です。




第二章 本文を、僕はこう読む!①
 ・絶対的な読み方がはじめから存在するわけではありません。
  あくまで、僕が「こう読んでいる」というものを伝えるだけです。
 ・読んでから解くか、読みながら解くか。
  →全文を読んでから、その理解を当てはめていくのが本質的?
   それとも、部分理解を積み重ねていき全体理解に達するのが本質的?
  →なかなか難しいところ。どっちともとれる。
   仮に、どちらかが正解だとしても、それに合わせる必要はない。
   点数を取れないと意味がないのだから、点数が取れる方に合わせてしまえばいい。
   なんでもかんでも「本質」にこだわる、という姿勢も危険。
 ・自分の解法を磨いていこう。
 ・演繹と帰納を繰り返しながら読む。
  演繹=抽象から具体へ。抽象的なものをつかんだら、そこから具体例を考えてみる。
  帰納=具体から抽象へ。具体例を把握したら、それを一言でまとめてみる。
 ・予測と修正 → 速読につながる!
第三章 設問を、僕はこう解く!①(選択問題中心)
 ・一定の解く流れはないことはないが、基本的には各設問に応じて個別的に対応している。
  ガチガチの解き方に固定されて解くのは変だし、ストレス。なので自分の解き方をそのまま言う。
 ・基本的に、文章中に存在する「関係性」から答えを出していく。もちろん、必要があれば「語句知識」「背景知識」も用いる。
第四章 本文を、僕はこう読む!②
第五章 本文を、僕はこう解く!②(記述問題中心)
  • 現代文=コミュニケーションの科目。人は社会に生きる以上、人とコミュニケーションをとる。その能力を問うている。
 ・そもそも「説明せよ」という問題で問おうとしている能力は何か?
  →論理の段差を限りなく小さくして、物事を的確に説明する能力。
   (この参考書の一つの目標はまさにこれ。飛躍したことは絶対に言わない。「なぜそう解くのか」が分かる伝え方をする。)
第六章 最後に
 ・現代文という科目をきっかけとして、皆さんには「考える」ことの楽しさを分かってもらいたいです。
 ・今後は、志望校の過去問演習をしっかりと皆さん自身で検討していってほしいです。





【執筆の際、参照したいもの】
  • ばじるさんが書いた、「今後の勉強について」のPDF。特に最後のほうの。



真なるものの追求
→こうやれば確実に成績が上がる、というものを提示したい
→しかし、あまりに負担が大きい方法を提示してしまえば、現実的には実行できないということに
→負担を減らす、すなわち最短距離で結果を出すような方法を提示することも重要。



現代文参考書の書き出し:皆さんの現代文における目標はなんですか?点数を取ること。もちろんそうですよね。では、点数をとるためにはどういう勉強をすればいいのでしょうか。その「プロセス」に目を向けてほしいのです。世の中にはさまざまな解法があふれています。中には、本文なんか読まなくても解ける等、「読む」ことを度外視したような解法もあって驚きます。仮にそういう方法で目標の点数が取れたとして、嬉しいですか?――これで「嬉しい」と思う人が一定数いるから、ダメな現代文講師が消えないんですけどね笑。目標点を取るにしても、ダメな方法ではなく良い方法で取ってほしんです。そうすると、大学での学びや社会に出てからの頭の使い方につながってきます。また、他の受験科目にも好影響を与えるかもしれません。実結果へのこだわりは確かに重要ですが、それ以上に勉強のやり方、方法論への意識を高めることで、結果的に点数に限らずさまざまな成果を得ることが出来るのです。そのためには、(i)目標を広く持っておく(目先の点数だけでなく、その先にも目標をもつ) (ii)学習のプロセスを大切にする、の2点を意識しましょう。


自己顕示欲と承認欲求
→文章を書く一つの動機。「自分はこういう考えを持っている人間なんだ」「自分はこういうふうに表現をする人間なんだ」「他のやつらはみんな勉強不足で、言っていることがおかしい。自分の考えていることだけが正しいんだ」とアピールしたい。そしてそれを他者に認めてもらいたい。


大学ごとの傾向への対応には興味ない。問われていることの本質は同じ。求められている「能力」に差があるだけである。(例えば、国公立二次試験では、読解力のみならず表現力も問うている。)


東大・京大などの記述問題へのアプローチ
  • 多様な解答が出るが、どんな解答であれ正しい解答には一定の「方向性」がある。それを踏み外した答案はまず加点されないだろう。でないと、受験者間で点数に差がつかない。方向性があっていて初めて細かく部分点を与えることになるはずである。
  • 主述関係が不正確であったり、本文の論理関係が保存されていなかったりなどといったものは明らかなミスであり、確実に減点される。そういったタブーを犯さないように答案を書いていく、という意識を持つことで、受験者間で差をつけ、高得点を得ることが可能である。
  • 当然、日本語として自然でないと、高得点にはならないだろう。たとえ文法的に正しくても、日本語としてぎこちなかったり、読みにくかったりするものは、評価が下がるだろう。そうした「表現力」の面も考慮しなければならない。


  • 記述問題での大事な視点
 →「説明する」とはどういうことか?
  =一般人にも伝わるように、「過不足なく」ポイントを伝えること。(正しい日本語で)
 →したがって、説明の際に、どんなポイントを取捨選択して書くのかということが、記述問題において最も重要な視点である。
  どういうものをポイントとして「取」り、どういうものを「捨」てるかということを、演習を通じて身に付けなければならない。
 →例えば、「どういうことか」の問題であれば、傍線部の換言が基本になってくるわけであるが、
  取(答案に入れるべき要素)=指示語の指示内容、比喩の内容、造語の説明など
  捨(答案に入れなくていい要素)=自明な言葉(たとえ「 」がついていても)など
  ということになる。
  • 記述問題における一つの注意点
 →相同表現の答案への使用に関しては相当に気をつかう(注意を払う)こと。
 →単に「表現が似ているから」という理由だけで使用を決めてはいけない。「構造的にこうだから」という裏付けのもと、使用を決めること。
  • 記述問題における一つの注意点
 →「どういうことか」の問題で、傍線部中に言い換えが必要な表現があったときに、本文の表現を使うのか使わないのかということに関しては相当に気をつかわなければならない。

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最終更新:2023年12月06日 09:15