実際に自分が授業をしていると、授業後の休み時間中とかに、生徒がこういう愚痴を言っていたりします。
「登場人物の気持ちとか分かるわけねーよww」

正直私は、国語の問題を解いていてそう思ったことは一度もないのですが、
上記のようなことを言う生徒が一定数いるのは事実です。
要するに、主人公の気持ちを解釈しようとすれば捉え方など無数にあり、それなのになぜ入試問題がそこに成立するのか、ということです。

そもそも、なぜこういう疑問が生じるのか。そこから考えてみましょうか。
「解釈が無数にある」、これは事実です。
多くの方は、学校の授業でそのことを教わったのではないでしょうか?

学校の授業では、作品に登場する人物の心情について話し合うような場面、結構あるんじゃないでしょうか。
私の場合、高2の3学期に「こころ」の鑑賞をグループに分かれて行いました(懐かしい)。

また、中1のときの国語のテストでは、毎回、最後に8点分の記述問題が必ず出ていました。
その問題の内容については毎回事前に告知されていました。
「今回のテストの8点問題では、こういう問題を出します!」と。
しかし、先生はその問題の答えは言いませんでした。(そりゃ、言ったらみんな覚えてしまいますからね。)
基本的に「自分で考えて答えを作り上げて、それを実際の試験で書いてほしい」というのが先生のスタンスでした。
もちろん、考えるためのヒントは授業内に散りばめられていたわけですが。

確か、中1の学年末テストのその8点問題の内容が、ある詩についての「鑑賞文」を書く問題でした。
――そう、中学校の国語というのは、「鑑賞」が中心なんです。

もちろん、「ここはこう書かれています」「この言葉はこういう意味です」といった内容解説もされますが、
内容理解でとどまることはなく、そこからさらに発展して、少し難しそうな問い(しかも多様な答えが出そうなもの)を考えてみたり、感想や意見を書いたり発表したりします。
それもそのはず、学習指導要領でも「話す」「聞く」「読む」「書く」の4つの力をバランスよく高めていくように指導せよ、という趣旨のことが書かれています。

となれば、教師はある程度アクティブな活動を増やそうとします。
そうすると、答えが1つに決まらないような問いを考える機会が増えていきます。
これはとても大事なことです。一つの問いについて何十人もの子たちが話し合って考える、という経験は学校でしかできないでしょうからね。

しかし、入試問題というのは少し様相が違います。
設問の要求は「どういうことか」「なぜか」「○○の気持ちを答えよ」といった形になっていて、決して
「どういうことだと思いますか?」「なぜだと思いますか?」「○○の気持ちは何だと思いますか?」という要求にはなっていません。

つまり、「答えは1つに決まる」という前提のもと問題が出されています。
ということは、そんなに深いことは聞かない。もっと言えば、本文を普通に読んで分析していけば把握できる程度の内容しか聞いてこない。
そういうことなんですよ。

当たり前のことだと思うんですがねえ。

それなのに、たまに、入試問題(特にセンター試験の現代文)に対して「この問題の答えはおかしい!」とクレームを言う人がいますよね。
確かにたまに悪問はなくもないですが、選択形式の問題で、しかも「最も」適切なものを選ばせる問題であるという性質上、
「こっちのほうがよくない?」といった事態は普通起こらないはずです。センター試験の場合、1年以上かけて問題を作っているという事実からもそのことは自明です。

ですから、問題に対して、もっと言えば問題の答えに対して「これはおかしい」とクレームを言う人は、
私からすれば「いやいや、それはあなたの読解力不足では」という感じなんですよね。

そもそも、大学入試というのは、大学に入る学生を選抜する機能を持たなければなりませんから、大学としては
「この程度のものが理解できないようでは、あなたはうちの大学には入れません!」という感覚で試験を作ると思うんですよ。

それに対して「この問題の答えはおかしい!」と文句をつける権利が、受験生側にはあるのでしょうか。
もっと謙虚になってもいいのでは、と私なら思いますね。


というわけで、整理してみましょう。

文章に対する「解釈」(=読み手側の捉え方)は、確かに無数にあるでしょう。
しかし、現代文ではそんなことを問うてはいません。(それを問うているのは「小論文」の科目です!と、多くの先生が口をそろえて言うところですね笑)

解釈以前の(解釈の前段階にある)「理解」がしっかり出来ているかを問うているだけなのです。

とすれば、答えは一つに決まるはずです。

答えが決まるように問題はきちんと作られています。具体的には、以下のように作られています。

①設問文:設問要求を明確化。また、冒頭に「次の文章を読んで」という文言を入れる。(→本文の内容をもとに答えを出すのが原則である、ということを明示している)
②選択肢:最も適切なものを1つだけ設定。他の選択肢は確実に「誤答」だと言えるように作成。

ですから、センター試験のようなマーク式の試験で答えが決まらないことは、普通、ないわけです。


ここで、新たな疑問として、「では、記述問題ではどうなのか?」というQuestionが生まれることでしょう。
さすがに記述問題の形式だと、受験生によっていろんな答案が出てきます。
となれば、それぞれの受験生の読解力や表現力が如実に答案に表れることになります。
すると、「こう書いてもマルだし、ああ書いてもマルだし」ということになります。

そりゃ、そうでしょうね。表現の仕方は人によって違います。また、どの内容を答案に盛り込むか、といったチョイスも人によって変わってしまうでしょう。
しかし、「こういう方向性の解答でないといけない」という制限はあるはずです。

また、「大まかな」方向性が正しくても、「こういう表現を使ってほしい」「この内容は入れてほしい」「ここまで踏み込んでほしい」という思いは大学教授側にあるはずです。
となれば、その大学教授側の期待に応えたものには高く点数がつき、そうでないものに関しては、方向性が正しくても少し低い点数がついてしまいます。
「そんなことあっていいんですか?!」と思われる方がもしいれば、私は「全然いいと思いますが」と即答します。
理由は、既に述べた通りです。
改めて言葉を変えて述べると、「大学教授の頭の動きに合わせられるか」を問うのが入試現代文なわけですから、
「どのくらい合わせられたか」で点数に差が出ていいのは当然、ということです。

ですから、結局のところ、

①文章に書かれている内容をもとに答えを出す

②大学教授や学者が文章を読み書きする際の暗黙の了解(作法)をきちんと守って読解し、答えを出す。

③高校の授業できちんと勉強してきたことが伝わるような答え方をする。
 例えば、擬古文や古文であれば便覧などで学んだ背景(文学)知識も絡めて解答に出すこと。

という3つのことが出来てしまえば、解答は必然的に一つに決まるわけです。
皆さんは、この3点、特に①と②に関して納得出来ていますか?
もし納得出来ているのであれば、「答えは一つに決まる」ことに関しても納得していただけるのではないでしょうか。

いや、「答えが一つに決まる」というよりも、「大学教授側の答えこそが模範解答である」という感じでしょうか。

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最終更新:2018年04月13日 07:26