解きに徹する現代文
第0章 はじめに
この本は、筆者がこれまでの現代文の指導経験をもとに現代文の読解法をまとめたものです。一種の「参考書・問題集」のように考えてもらって構いません。しかし、この本は「コミケ」用です。出版社を通して本格的に書店で販売されて全国に回るような、そういう類のものではありません。その性質上、できるだけ「エッセイ風」に、つまり、筆にまかせるように自分の理論を伝えていくつもりでいます。まあ、正直なことを言うと、この原稿を書き始めたのが十二月十三日。コミケに出展するのが十二月三〇日。二週間ちょっとしか時間がないので、「きちんとした形式で」「細部の表現にも気を払いながら」書いている余裕はないのです。ですから、ツイッターにつぶやくような感覚で書き進めていけたらと思います。その分、僕の真の思いがストレートに伝わりやすいのではないかと思います。ちなみに、僕は敬体と常体を混ぜて文章を書くのが好きな人間です。僕のスタイルといいますか。というわけで、本書でも混在した書き方をしていきますが、その点はあしからず。
さて、今回なぜ僕がこの本を書こうと思ったのか。コミケに出展してまで本を出そうと思ったのはなぜか。皆さんの気になるところだと思います。そもそも世の中には既に、プロ講師の書いた大量の現代文の参考書が出回っており、それを使いこなしていけば現代文の点数は普通に上がるはずです(断言はできませんが…)。それでもこの本を僕が世に出そうと思った理由はというと……
① 単純に、これまでの指導経験の集大成を皆さんに見せたいと思ったから。(言わば「自己顕示欲」充足のため、と言ってもいいと思います)
② 世の一般的な現代文指導に不十分なところが多く、そこを補填したいと考えたから。
主にこの二点です。①に関しては説明不要でしょう。②の「不十分なところ」が何を指しているのか気になる人も多いと思います。それは、一言で言うならば「汎用性・再現性」です。これが足りていない。
「汎用性」「再現性」をそれそれ定義するならば、以下の通りです。
★ 汎用性=どの問題でも通用する解法である。
★ 再現性=誰がやっても使える解法である。
現代文の授業を塾や予備校で既に受けたことがあるという方(受験生でも社会人でも)、この点についてはどうでしたか? いい授業というのは、一度その授業で習ったことが他の文章読解の際にも応用できる授業。逆に悪い授業というのは、授業内での説明が「その場限りの説明(その文章に限ったお話)」メインになっている授業。ざっくり定義するとこうかなと。そして、後者の授業が多いのでそこに僕は楔を打ちたい。そういうことなんです。というか、前者の授業が実現できれば、合格した生徒はのちに「この先生は教え方が分かりやすくて、点数にもなるいい授業だった」って言ってくれますよね。絶対にそのほうがいいじゃないですか。僕はこれが原点(言動力)となって現代文の指導に熱意をもって取り組むことができています(笑)。
ただ、読者の中に現代文指導に携わっている方がいらっしゃれば気をつけていただきたいのですが、後者の授業を僕は完全否定していません。例えば、授業で小説を扱ったら、その小説の解釈にどっぷりつかる。場合によっては作者の文学観なども伝えて、その作品に対する理解を深めていく。そういう「内容」指導メインの授業は、それはそれで悪くないです。結果的に現代文の力はつきますし。しかし、僕からすれば、そういう指導だと、
① オーバーワーク!:そこまでやる必要があるのか、という問題。受験生は現代文以外の科目も勉強しなければならないので、できるだけ最低限の詰め込みで点数が取れるようにしたい。確かに、内容指導によって教養が身についたり、他科目の点数UPにつながったりすることもあろうが、その「UP」分って、そんな大した伸びではないと思うんですね。それよりも演習量を増やして読解法の定着を図ったほうが点数UPには貢献するのではないか、僕はそう思います。つまりは、「点数UPへのこだわり」という観点が大切なのではないかと。しかもその指導を受けた生徒「全員」の点数UP、これが重要だと思います。文学について語ったところで、興味のない生徒はついてこれず、結局点数が伸びない。こういう恐れもあるわけですね。それなら、もっと方法論に特化した授業でいいのではないかと思うわけです。
② 生徒は「方法」を知りたい!:生徒のニーズは間違いなくこれです。特に最近は、受験生全体を見ていると、昔以上に「効率」重視で勉強する向きが表れているように思います。短時間での成績UPを実現させるような媒体(参考書しかり、ユーチューブしかり)が増えているのが背景かなと僕は思っています。したがって、枝葉の雑談や、その文章に特化した内容説明はさておいて、他の文章でも使える読み方・解き方の伝達、これが求められているのではないかと思います。
というわけで、僕が「汎用性・再現性」を重視する理由がこれでおおむねご理解いただけたのではないでしょうか。
補足になりますが、「汎用性」と「再現性」は両方大切であり、片方だけではダメです。例えば、「汎用性」はあるが「再現性」のない解法はまずいです。「手順が細かく具体化されており、覚えられない」という状態などは、まさにそうです。また、「再現性」はあるが「汎用性」のない解法はまずいです。「パターン数が少ない」状態がこれにあてはまります。例えば、「指示語が出てきたら前を見る」しか武器を与えていないと、指示語のない問題には当然ながら対応できません。武器自体は使えるものであっても、使えない問題(=例外)が出てきては意味がありません。となれば、パターンを増やすだったり、より広い枠組みを用意するだったりといったことが必要です。
ここまで語れば、汎用性と再現性、この二つが両方成立していることが非常に重要である、皆さんにもそう思ってもらえるかと思います。大丈夫でしょうか。(対面で伝えているわけではないので、皆さんからのフィードバックをダイレクトに受けられないのがもどかしい…。)
さて。ではその「汎用性・再現性」の高い指導をどうすればいいのか、というのが次の話になりなす。これがなかなか難しいんですよ。僕自身苦戦しています。というか、僕に限らず多くの現代文講師の本音がこれだと思うんですね。僕自身、塾講師として現在小中学生に国語の集団授業をやっていますが、同僚講師から「国語って教え方難しいよね」という話をよく聞きます。我々講師からしても、一貫性のある指導がなかなかしにくいんです。そしてこれは、現代文という科目の性質上、当然のことだと僕は思います。「こういう手順で解くと正解にたどりつけるよ」という方法論が確立しにくいのです。一定の手順で解けない。
それはそれで大切なことだとは思うんですね。数学の問題と似ています。数学の問題って、閃きが必要ですよね。それと似た要素が、国語の問題においてもあると思うんですね。要するに、「解答の根拠を拾う」のに皆さん苦戦するわけじゃないですか。でも「出来る」人はパッと拾ってしまう。こういう「閃き」に近い要素が現代文にもありそうなのです。そうすると結局フィーリングで解くことになる……。これはこれで、現代文という科目の一性質と考えて間違いないと思います。
しかし! 「そういうもんだから、フィーリングで解こう」と言ってしまえば、我々は楽ですが、困ってしまうのは生徒です。生徒は、問題を解いた経験が我々よりも少ないので、パターンをそんなに持っていません。また、文章への理解度も薄いのがふつうです。となれば、大人たちの持つ感覚が彼らには備わっていない。ですから、「どうやったらそう解けるの?」「どうやったらそう読めるの?(読めないんだけど!)」となるのは当然のことです。そういう生徒を見ていると、こちらとしてもやはり何かしらの「法則」「パターン」「テクニック」を伝えたくなります。
しかし! それでは本当の意味での読解力は上がらない…。しかも、パターンやテクニックにはふつう限界があります。つまり、それまでにない傾向の問題が出たときに対応できなくなります。
さっきから「しかし」を多用していますね、僕。要するに、こうした葛藤に僕はずーっと悩まされてきたんです。そして、いろいろ考えて出した結果、以下のようなスタンスで解法を確立することにしました。
①手順は細かいところまでは定式化できないので、「ざっくり」まとめる (参考:富田一彦『試験勉強という名の知的冒険』)
②具体的な対応方法(「こういうときはこうする」という「パターン」)をオプションとしてたくさんまとめておく
要するに、「ざっくりとした手順をもとに進めて、詰まった場合は、たくさんあるパターンの中からその場に合ったものを選択していく」という感じです。手順もパターンも用意しているので国語が苦手な人もついてこられます。また、手順をざっくりさせておくことで、汎用性が一気に高まります。つまり対応力もUPします。この考え方は、アルゴリズム(完全なる手順に基づく解決)ではなくヒューリスティック(閃きによる解決)に解く、という立場でもあります。
そういうわけで、本書では①(手順)と②(細かい諸々のテクニック)を両方示していきます。そして、実際に問題の解説までしていきます。ぜひ、夢中になって読む込んでください!受験生の方には「あー、そうやって解くのか!」と感動してもらいたいですし、現代文講師の方には「あー、そうやって教えればいいのか!」という感じで刺激を受けてもらいたいです。というか、そうなるような内容に仕立て上げていきたいと思います。
第1章 具体的方法論
◎設問パターン
さあ、ここからが本書の本論です!僕がどんな思いを背景に、どんな方法論を練り上げたのか。そのことを漏れなくお伝えできればと思います。もちろん読者の皆さんとしては、方法論「そのもの」が一番気になると思うんですが、それがどういう過程で引き出されたのかという「途中経過」にも注目してくださいね。そのほうが方法論「そのもの」への理解も深まりますので。
さて、ではまず考えねばならないことが一つあります。そもそも現代文の問題にはどんな問題があるのでしょうか。その全体像を認識せずにいきなり中身に入るのはよくないでしょう。皆さんには、まず「どんな問題があるのか」を知り、実際に入試問題を解いたときに「あ、あの問題か!ってことはこうやって解けばいいんだ」とパターン認識していく必要がありなす。
現代文で出題される問題は、大きく以下のように分かれます。(中学国語においても状況は一緒です。)
①特定箇所・特定範囲の理解を要求する問題
②原文の復元を要求する問題
③その他
簡単に説明します。①は、主に傍線問題のことです。特定箇所の理解を問うていますよべ。他にも、「第三段落の役割は?」「第一段落の要旨は?」といったものも①に当てはまります。これは、特定箇所とうよりも特定「範囲」という感じですね。
②は、主に空欄問題のことです。空欄の中にもともと入っていた語句を復元できるかが問われています。脱文補充、並び替え、誤文訂正なども②に含まれます。
③は、①にも②にも当てはまらない問題すべてです。漢字の問題、言葉の意味を問う問題、
内容一致問題、タイトルを選ぶ問題、段落分け・場面分けの問題などでしょうか。
こう見てみると、国語の問題のメインは「傍線問題」と「空欄問題」であることが分かります。ここからは、この二つに話を限定していくことになります。
傍線問題に関しては、
①心情の理解を問う問題
②傍線部自体の意味理解を問う問題 (例)「どういうことか」
③傍線部の理由を問う問題 (例)「なぜか」
④その他(傍線部に関連した、①~③以外のことを問う問題)
の四つに分かれます。
◎心情問題
小説文が出題されると、しばしば問題として出題されるのが心情問題です。苦手な人が多いのではないでしょうか。苦手な理由として、しばしば「登場人物の心情なんて書いていないから、答えが出せるわけがない」「書いてないから、想像するしかない。想像の仕方は人それぞれだ」など、さまざまなことが言われます。僕は、そういった論はちょっとどうなのかな、と思います。こういうことを言う人たちは、「登場人物の心情なんて分かりようがない。だから入試問題で小説文が出題されるのはおかしい」と言いたいんでしょうかね。だとすればかなり極論だと思いませんか。現に入試問題で小説文は出題され、そこでの点数が合否判定の材料として使われてきたのですから。
ここで一つ大事な視点は、「設問ありき」という考え方だと思います。確かに、登場人物の心情が明示されていないとき、その捉え方に幅が生じてしまうことはあるでしょう。それでも、例えば、
- 登場人物の心情を選ばせる、選択問題として出題
- 正答以外の選択肢すべてに明確な誤りがある
このような形で設問を作ってしまえば、一応問題としては成立しますよね。また、仮に心情を述べる記述問題の形で出題したとしても、採点基準を明確化して、明らかな矛盾やズレのあるものだけ減点していき、想像で補う部分に関しては幅をきかせて採点してやれば、きちんと入試問題として機能してくれるはずです。
さて、では具体的に心情問題について考えることにしましょう。まずはじめに押さえておきたいのは「心情の描かれ方」です。それは一言で言えば、「状況→心情→外面描写」の三段階になります。
そもそも心情が生じるためには、その原因となる状況や場面が前提として必要です。例えば「嬉しい」と思うためには、「テストで満点を取った」などといった状況が必要です。「悲しい」と思うためには、「友達に殴られた」などといった状況が必要です。これはちょっと例が分かりやすすぎますね。実際には、この「状況」が複雑化するケースが多々あります。例えば、友達に殴られて「嬉しい」と思った、みたいな話とかね。この場合、そもそも大前提として、その人が「ドМ」である、という性格であることが必要です。こんなふうに性格なども加味して一つの状況を捉えていかねばならない場合もあります。あるいは、「お前ってS?М?」→「実はМ」→「じゃあ殴るぞ」みたいな会話が事前にあった可能性があります。この場合、状況は「A→B→C→D」というように、複数の出来事を連鎖的に並べて整理する必要があります。
「状況」についてはこれで大丈夫でしょうか。心情が成立するためには「状況」が必要だということです。裏を返せば、問題を解く我々は、「そもそもここでは今どんな状況なんだろう?」とまず前提を振り返ったうえで心情を考えていく必要があるということです。
さて、話を「外面描写」に移します。何らかの状況があって、心情が生じます。しかしながら、その心情は省略されることが多いです。なぜか。心情を明示したら小説として面白くないからです。どこかの参考書で、「小説文=心情を間接的に表現した文章」と定義しているものがありましたが、本当にその通りです。間接的に別のものを使って心情を表現する。そうすると読者は必然的に、想像力を駆使しながらパズルを解読するかのように心情を読み取っていくことになります。そういう文章って「読み応え」があって面白くないですか。だから読み手もそういう文章を書くんです。(そして、これが小説において「表現技法」(比喩など)が駆使される理由にもなります。当然、それが問題として聞かれることも多いわけです。)
そんなわけで、心情は省略されやすい。ただその代わり、それが読み取れるような「外面描写」を描くのが鉄則です。さすがにそれを描かなかったら、出来事がただ並べられただけの文章であり、小説文の条件をそもそも満たしませんからね。「外面描写」とは、心情が反映されたもの、ぐらいに考えてください。例えば、表情や行動ですね。嬉しいと思ったら笑ったり、その日スキップして帰宅したりします。実際に皆さんがスキップするかはおいておいて、少なくともそういう描き方がされれば読み手は「ああ、嬉しいんだな」って分かりますよね。だから問題が解けるわけですよ。
確かに、ここでは多少の「常識」がいります。スキップした主人公の姿を見て「悲しそう…」と判断してしまう人は、当然、点数は取れませんからね。まあ、今回の例は分かりやすすぎますが、例えば、
第二次世界大戦中における家族の状況、などをテーマとした小説が出てきたらどうですかね。おそらくある程度の「時代背景」をイメージして問題を解くことが求められるでしょう。ですから、ある程度の常識は必要です。これは他のジャンルの文章でもそうですよ。ただ、特に小説文がそうです。ですから、皆さんは今後、問題を解きながら、解き方を定着させていくことはもちろんですが、解くうえで必要な前提知識がそろっているのかにもある程度は目を向けてくださいね。「あ、俺、この言葉の意味分かってないな」とか。そういうのが自覚できるかどうかって、現代文の学習においてはめちゃくちゃ重要ですよ。
さて、外面描写に関しては大丈夫でしょうか。主人公の心情が、表情や行動など、さまざまな形になって表れる、ということです。ここでひとつ、厄介なパターンとして覚えておいてほしいのが、外面描写として「意図的行動」が描かれているときです。意図的行動とは、登場人物が何らかの結果を意図(希望)してとる行動のことです。(その先を見据えている、というのがポイントでしょうか。)例えば、不登校になりかけのA君がいたとします。朝になると親に「学校行きなさい!」と強く言われる。そしてA君はトイレに駆け込み鍵を閉めた(これが「意図的行動」)。さあ、このときのA君の心情、分かりますか? 当然、不登校のA君が思うこととしては「学校に行きたくない」ですね。より具体化して言えば「学校に行かねばならないという現実から逃げたい」ということです。今までと何が違うか分かりますか?今までは、「テスト満点→嬉しい→スキップ」のように、そもそも行動がかなり「反射的」です。この場合のスキップって、何も「スキップしたらこんないいことがあるから…」「スキップすることでこうなりたいから…」ということを意図(希望)しているわけではないですよね。むしろ、嬉しくて勝手に体が動き出している感じです。つまり、行動には反射的行動と意図的行動がある。そして、前者の場合、心情はシンプルな「喜怒哀楽」で表現されやすいのに対し、後者の場合、心情は「~しようと思っている」「~したい」というような意図や希望の形で表現されることになります。なお、反射的行動と意図的行動が混ざって出てくるパターンもあるので、必ずしもどちらか片方のみに分類できるとは思わないでください。このあたり、柔軟さが必要です。
心情に関して、最後に一つ特殊なパターンを紹介させてください。例えば、「お前は浮気についてどう思う?」→「よくないと思う。浮気された側の人がかわいそう」みたいな会話があったとします。このときの、答えている側の人物って、「浮気はよくない」という心情を抱いていますよね。こういう、心情というよりは「考え方」「価値観」に値するような内容が出題されることもよくあります。こういうケースも理解しておいてください。
どうですか? はじめはシンプルに「状況→心情→外面描写」という話で始まりましたが、実際には「こんなパターンもある、あんなパターンもある」と、すごく複雑でしたよね。国語、特に現代文っていうのはそういう科目なのです。だってそうでしょう。文章なんていくらでも書き方があります。小説文においてもさまざまな心情の描き方があります。ここで大事なのは、やはり、「ざっくりとした解き方の手順」と「詳細なオプション」を持っておくことです。前者を常に意識して問題を解き、後者を道具として活用しながら目の前の問題に対応していく、という感じです。
ではひとまずここで、心情問題(「傍線部とあるが、このときのA君の心情は?」のような問題)について方法論を一通りまとめてみようと思います。(ただ、やはり「すべて」を網羅しようとすると、どうしても、ここまで説明できなかったことなども出てきてしまいます。そこに関しては、ひとまず目をつぶっておいてください。)
◎手順
①設問:ターゲットとなる人物の確定(「誰の」?)
※特に、描かれている人物が複数いる場合は意識せよ
②傍線&周辺:「状況→心情→外面描写」を確認
※傍線部が外面描写になっていることが多い
※心情のねじれ → 2つの要素が必要
◎「状況」のパターン
※状況=心情の発生の原因・前提となる状況・場面
※基本は傍線部より前をたどれば状況は確認できる
①他人の外面描写(特に、直前のセリフ・行動)
②自分の状況の変化
③自分の回想・想像
+
④自分の性格・経験 (特に、①~③が心情に直結しない場合、特殊な事情があると考えて④を押さえる)
◎心情のパターン
①喜怒哀楽表現(慣用句含む)
②心内文(心の中のセリフ):考え方・価値観
③意図・希望
→傍線部が「意図的行動」の場合、これ!
(状況から分かることもあれば、その先の結果から逆算して分かることもある)
◎外面描写のパターン
①表情
②セリフ・口調
③行動・態度
※行動には反射的行動、意図的行動がある
④情景
とりあえずこんな感じです。必要な説明を補います。「心情のねじれ」というのは、相反する心情(アンビバレントな心情)を同時に抱いている状態です。例えば、試合前日に「期待感」と「緊張感」という相反する心情を抱いたとすれば、これがまさに「心情のねじれ」です。これが出てくると、たいてい選択肢には2つの要素が書かれます。「~ながらも、…」「~と思う一方で、…」「~だが、…」というように。
状況のパターンの中にあがっている②と③に関しても、具体例があったほうがいいでしょう。例えば、「自転車に乗れるようになった」→「嬉しい」。これはまさに「自分」の変化ですよね。他にも、「一人暮らしをすることになった」、これも「自分」の変化です。「家族全員で引っ越すことになった」、これも、厳密には自分とその周りのメンバー一体となっての変化ですが、自分の変化とカウントして考えましょう。そして、③の具体例としては、例えば、受験勉強中なかなかやる気が出ないときに、「勉強した結果いい点数がとれて先生にほめられた」という過去の体験を思い出したとします(こういうのを「回想」と言います)。この場合、回想し終わった後、おそらくその人は「よし、頑張るぞ!」と気合を入れることができるでしょう。回想前はやる気がなかったのに、回想後一気にやる気があふれ出しましたよね。こんなふうに、回想というのは心情の変化に影響を与えます。つまり「状況」のパターンとして扱えます。
そして、外面描写のパターンに関して押さえておくべきこととして、まず「セリフ」なのですが、これは心情とかぶる場合が往々にしてあります。このあたり、厄介ですね。例えば、「嬉しい!」と言った場合、そのセリフ自体がその人の心情を表しています。そして「口調」に心情がにじみ出ていることもあります。例えば「あー、やっちゃった…」→後悔、「えっ?!」→驚き、といった具合に。そして「態度」。これは「黙った」が典型例。こういう静的な外面描写が「態度」です。たいてい黙っている人は不満を抱えていたりしますね。最後に「情景」。これは心情が投影・反映された景色のことです。例えば、テストで0点を取ったときの帰り道は、「暗い夜道」だったりします。暗い心情なので暗い情景を描くんです、書き手側が。他にも、曇らせたり、雨を降らせたり。あとは、「騒がしかった周りの音が何一つ聞こえなくなった」みたいなのも情景に入れていいでしょうね。ショックを受けたときによくある描写です。要するに、個々の人間の描写ではなく、周囲の雰囲気や環境の描写であれば「情景」にカウントしてしまえばいいでしょう。
とまあ、方法論の説明はここまでになります。よくよく振り返ってみれば、「基本の説明→方法論のまとめ→補足(つけたし)」みたいな構成になっていて、悪く言えばまとまりのない書き方なのでしょうが、最初にすべてを詰め込んでからまとめていくよりもこの書き方のほうが皆さんの側からしても頭に入りやすいのではないか、と今書いてみて思いました。とりあえず心情問題はここまで!
◎説明的文章における傍線問題
さて、いよいよここからは説明的文章です。そもそも現代文に出てくる文章のジャンル分けはどうなっているのかというと、ざっくり分ければ「文学的文章」と「説明的文章」。前者に小説文、後者に論説文・評論文が分類されます。そして「随筆文(=筆者が自分の体験をもとに考えを述べた文章)」というのがあってこれは文学的な要素を感じることもあるので分類が難しいですが、基本的には後者ですかね。他にもさまざまなジャンルのものがありますが、ざっくりジャンル分けはこのぐらいを押さえておけば十分です。
ここから自分が伝えていくのは、「傍線部とあるが、どういうことか」「傍線部の説明(意味)として適切なものを選べ」「傍線部とあるが、なぜか」といった問題の方法論です。僕の感覚では、こっちのほうが苦手な受験生が多いという印象です。まあ、どうなんですかね。普段見ているのは高校受験を目指す中学生ですが、大学受験の場合だとまた話は変わるかもしれません。評論文は型が決まっていて解きやすいが、小説文はちょっと……という人もいるかもしれませんね。まあそれはさておき、ここから話していく方法論は、言ってみれば心情問題以外のほぼすべての傍線問題に通用する方法論になるので、習得できれはかなりの得点源になるはずです。(こっちのほうが出題率は高い印象です。センター試験の小説文を見てみても、心情問題とは言いにくい、「傍線部の意味理解を問う」ような問題は普通に出ますから。小説文の一部の問題も、説明的文章の解法で解けることがあるのです。)
それでは、傍線問題の解き方について話を始めます。傍線問題を攻略するにあたって、まず皆さんに念頭に置いてほしいのは「傍線部分析」の重要性です。文章を読んでいて傍線部にぶつかったら、まずはこの作業をしてください。傍線部を徹底的に解剖してあげるイメージ。慣れれば数秒で出来るようになります!(タイミングが重要です。文章全部を読み終えてからやるのではなくて、文章を前から読んでいき、傍線部にぶつかったらその瞬間にこれをやるのです。前後の文脈が頭に記憶・イメージされている状態でこの分析を行うため、かなり精度の高い分析ができるはずです。)
この分析を行うメリットはただ一つ。「正解に近づくことができる」です。出題者は、傍線部をきっかけ(口実)に何かを問おうとしています。その傍線部を見てあげると、出題者の意図がじわじわ見えてくるんですよ。出題者の意図が分かれば、解答の方向性が見えてきます。「ああ、きっとこういうことを問いたいんだなあ」「きっとこれを探させたいんだなあ」と。となれは、正解に近づく可能性がぐんと高くなる。
では具体的にどんな分析をすればいいのか。それが以下の三点です。
◎傍線部分析
(1)主語・述語を押さえ、傍線部を単純化(要約)する。
(2)省略を補う ※指示語、主語「~は(が)」や限定条件「~においては」など
(3)対比を整理
意外とおろそかにしがちなのが(1)です。要するに、英語における構文解析と同じで、傍線部の文構造をまずは捉えようということです。短い文であればそんなことはしなくてもいいでしょうが、特に長い文になると、構造が複雑になってきますから、そこで主述の明確化が必要になります。そして(2)です。傍線問題では出題者はどんなところに傍線を引くと思いますか。わりと多いのが、「傍線部を読んだだけでは情報が不完全」だと感じられる箇所に引くというパターンです。不完全であればあるほど、前後から情報を補う必要があります。その作業をやってほしいですね。ちなみに「限定条件」というのを入れましたが、これはめちゃくちゃ重要です。例えばあなたが友達に「明日はいつなら会える?」と聞いたとする。友達は「夕方以降であれば、いつでも大丈夫ですよ」と答えた。このとき、「夕方以降であれば」という限定条件がかなり重要であるということ、わかりますか。「いつでも大丈夫」という表現に制限がかかっています。こういうところを見落とすとコミュニケーションは破綻してしまいますから、現代文の問題を解くときも、このあたりは意識してください。要は、述語にかかってくる要素(主語や修飾語)をしっかり押さえることが大事になってきます。そして最後に(3)です。対比というのはめちゃくちゃ重要で、本文中に対比が出てくると間違いなく狙われる、というレベルのものなのですが、意外とみんなこれに気付きません。なのでここに入れました。対比にもさまざまなパターンがあるので、そのすべてをここで語るのは大変ですが、ひとまず、「対比をつくることば」として、否定、差異、比較、変化、逆説(一見矛盾、実は真理)などを知っておくとよいでしょう。
さて、ここまで分析を行えば、解答の方向性がかなり明確になると思いませんか。問題によってはこれで既に解答できるものもあるでしょう。例えば、傍線部中に指示語があって、その指示内容の理解が出来ていれば解答可能な問題を出題者が作ったとする。となれば、ここまで述べてきた「分析」で既に解答根拠は拾いきれているわけですから、そのまま選択肢に飛び込んでいけば正解が選べますし、記述問題であればそれを書いてしまえばマルがもらえますね。
ちょっとこれは余談になるのですが、今後問題を解くとき、皆さんは「この問題を解くためには、どんな情報を集めればいいのか(何が必要か)」ということに対し、もっと自覚的になってください。例えば、傍線部中に指示語が入っていたときに、それは一概に「指示語問題」とは言い難くて、
A 指示語の指示内容を補えば十分なパターン
B 指示語の指示内容に加え、もう一つ別のキーワードを言い換えさせるパターン
C 指示語の指示内容を踏まえたうえで、傍線部の理由を探させるパターン
D 指示語の指示内容を補ってもほぼ意味がないパターン
など、いろいろあるんですよ。皆さん、一本のペットボトルをイメージしてみてください。このペットボトルに入るジュースが満タンになった状態を「根拠が拾いきれた状態」であるとしたときに、そこにたまっていくジュースの内訳がどうなっているべきなのか。そこを考えてみてください。上記のA~Dをそれぞれ考えてみると、「指示語率100%」のジュースがA、「指示語率50%」ならBやC、「指示語率10%」ならDです。こういうことを解きながらイメージできるのかどうか。これってすごく大事です。これができないと、「指示語があるから指示語の問題だ!」のように、杓子定規的にしか問題が解けなくなってしまいます。この本を読んでいる皆さんにはそうはなってもらいたくない。なので「ジュースの割合」、言い換えれは「問われている実質の内訳」ということにもこだわってみてくださいね。
さて、本題に戻ります。「傍線部にぶつかる→傍線部を分析」。ここまでやったら、あとは「設問要求の確認→それに応じて根拠を拾う」という作業をやっていくのみです。ここで初めて設問のチラ見です。現代文の設問はの大半はどういうことか」と「なぜか」ですから、このそれぞれの解法をマスターしてしまえばいいですね。では、まとめます。
◎「どういうことか」
①換言すべき表現に着目
→直行型か経由型かを意識!
直行型 = 傍線部→選択肢
経由型 = 傍線部→前後→選択肢
→「言い換えの連鎖」を押さえよ!
②補充すべき内容が他にないか考える
→主に「理由」
◎「なぜか」
①結果(論証責任が生じている言葉)を強く押さえる ※基本は主語+述語
②結果につながる条件(理由の一部を構成するもの)があれば押さえる→そこから説明をスタート
③根拠を拾う
因果関係を表す表現は必ず押さえる
接続語タイプ:「だから〈傍〉」「〈傍〉~から」
熟語タイプ:「原因」「背景」「影響」「関係」
因果関係の成立を確認 … 拾った根拠に「だから」をつけて傍線部につなげられるか?
さあ、この二つの解法を飲み込むことができれば皆さんの現代文の能力は飛躍的に向上しますよ。では説明します。まず「どういうことか」に関してですが、この設問要求の本質は、「傍線部が不完全な内容なので、完全な内容に言い換えてくれ」です。例えば、「近年、成人式で暴れる猿がいる」みたいな文があったとします。こういう内容があると、当然、「どういうこと?」って突っ込みたくなりますよね。それは、「猿」という比喩があることによって、傍線部がある意味「不完全」になっているからです。比喩というのはあるものをたとえることによって「間接的に」表現しようとする技法なわけですからね。当然、直接的な内容に言い換えてあげる必要があります。今回のこの例文の場合、言い換えてあげると、結果的に「近年、成人式で暴れるような、モラルの低い人間がいる」という感じでしょうか。こんなふうに言い換えることを要求しているわけです。ですから皆さんは、まず換言すべき表現に着目し、それを言い換える必要があります。そして、その言い換えが本文中(の傍線部以外の箇所)にあるのかないのかによって、解答の方向性が変わってきます。もし「ない」のであれば、直行型。つまり、頭でイメージしたうえでいきなり選択肢に飛び込んでしまえ、ということです。一方「ある」のであれば、当然、それを傍線部前後からつかまえて、そのうえで選択肢に飛び込もう、ということになります。これで基本的には解けるのですが、②「補充すべき内容が他にないか考える」、これも意識してみてください。わりと世間では、「どういうことか=言い換え」というのが浸透していて、傍線部を言い換えさえすればそれで十分、みたいな認識もあるようですが、僕はそうは思いませんね。問題をたくさん解いていると、傍線部の「理由」を問うパターンも結構あったりします。つまり、傍線部が「A」となっていたときに、通常、選択肢を「Aの言い換え」オンリーで構成するところを、「Bなので、A」と構成する。こういうパターンもよくあるんです。ですから、これは、傍線部を分析するなかで、「今回は言い換えただけではダメっぽいなあ。理由も考えないとなあ」と気付いてやる必要があります。え?そんなこと気付かない? だから手順化しておくんです。手順に入れて、毎回意識してやることで、「気付く頭」が作られます。
そして次に「なぜか」に関してです。「なぜか」の問題は、言い換えれば理由の問題です。ではそもそもどういうときに理由が問われるのかといえば、「傍線部単独では、理由の説明が必要になる(=非自明性がある)」場合です。先ほど出した成人式の例をいじくってみましょうか。例えば、「近年、成人式で暴れるようなモラルの低い人間が増えてきた」とあったとします。すると「なんで?」と突っ込みたくなる。逆にこの文がなんの理由・前提もなく受け入れられることはありません。つまり自明的ではない(非自明性がある)。こういうときに理由を問いたくなるんです。解答の方針としては、「どういう前提を足せばそれが帰結するか」「何を補足すればスムーズにつながるか」といった方向で考えるのが基本になります。となれば、根拠を拾うときの頭の動かし方はこんな感じでしょうか。①なんでそういう人間が「増えてきた」んだろう(=結果を押さえる)。②「近年」、何か変化が起こったんだろう。それはなんだろう(=結果につながる条件を押さえる)。③傍線部前後から「近年」の変化を探す。おおむねこんな解き方になると思います。
さて、ここまで書いてきて、ただいまコミケ当日の朝五時前。そろそろ印刷をしないと間に合わない……。というわけで、最後に「付録」的なものを載せて終わりにしたいと思います。
付録 ~「読む」「解く」とはそもそもどんな作業か~
【読む】
・設問にたどりつくまでの読解に関しては、「大まかな内容把握」ができればよい。「大まか」に基準を設けるならば、「どこに何が書いてあったかがわかる(本文を必要に応じて参照できる)」ことができたかどうか、です。
・そして、大まかな内容把握をするためには、ただ読むだけではダメです。最低限、以下のような意識付けは必要ではないでしょうか。
小説文(物語文) 〈主人公の心情の変化を描いた文章〉
→ 「どんな状況(場面)で、誰がどんな心情を抱き、それがどのような描写として描かれているか」といったことを追いかける。
小学生に指導するなら、低~中学年には「状況」の把握をまずは手舘させ、高学年には「心情」や「描写」の把握も加えてやらせられればよいでしょう。
説明文・論説文・評論文 〈何かを主張、ないしは説明するために書かれた文章〉
→ 小説と異なり、主流(=筆者の主張)と傍流(=具体例・比喩・引用文)にある程度分けられます。
そうした「強弱」を意識しながら、筆者の主張を押さえていくような読みが必要でしょう。
随筆文 〈筆者が自分の体験をもとに意見を述べた文章〉
→ 前二者の中間、と捉えればよいでしょう。体験ベースで書かれますから、まずはそこでの筆者の心情を小説文読解と同じスタンスで追いかけます。
そして、体験を踏まえて筆者の意見がその後述べられるはずですから、そこでの主張を、説明文や論説文と同じスタンスでくみ取ります。
【解く】
・設問要求への意識をまずは高めるべきです。
特に「どういうことか」「なぜか」といった問題が何を問うているのか、きちんと区別しましょう。
・設問に付加された条件設定への意識を高めることもまた重要です。
特に抜き出し問題に関しては、問題文の中の条件をきちんとインプットすることで解答の探しやすさがアップします。
・次いで、傍線部や空欄といった、設問設置箇所とその周辺をじっくり分析することが大切です。
そりゃそうですよね。傍線問題は、傍線に関連して問いが作られます。空欄問題は、空欄の前後の情報から空欄に入る言葉が推測できるからこそ設置されます。
(傍線問題の中には、傍線部を分析したところであまり発展性がないというような問題もたまにありますが。)
・傍線部や空欄あたりを分析したときに、どの言葉に注目するのかはかなり重要になってきます。
「注目すべき言葉」をある程度体系的に示してあげることは重要です。そこを起点としてアプローチしていくわけですから。
◎注目すべき表現とそれへの対応
言い換えるうえで重要な表現
(1)中身を明らかにすべき言葉
指示語→指示内容を明らかに ※「指示語」が決め手になる問題とならない問題(指示内容が薄いときなど)があるので、 訓練しながら慣れること!
入れ物表現 「○○って何?」(Aの性質、本質、特徴、意味)→Aの中身を探す
形容詞・形容動詞的な表現 「どう○○?」(価値判断)「Aだ」→何がどうAなのか
レトリック(主に比喩)→一般化
類比表現(似ている、同じ)→共通点を考える 「AもBも~」
(2)それ自体の意味を明らかにすべき言葉
慣用句→一般化
筆者独自の表現、専門用語→言い換えや定義を探す
対比のバリエーション
露骨な対比表現(対立、違う・異なる)→相違点 「Aは~だが、Bは…」
一般論と筆者の主張(AではなくB、AしかしB)→Aを打ち消すような説明、Bにつながる説明を探す
否定表現(Aは誤り、間違い、Aでは不十分、Aではない)→デメリットと本来のあり方(肯定)→「BはダメでAがヨイ」(〇?の図式)
逆説表現(不思議、Aと同時にB)→「本来AなのにB」「AだがB」(対応する対比を別の箇所に探す)
変化(変化、変更、〇〇化、ようになる)→AからBへ(矢印の図式) 理由問題なら変化のきっかけ・タイミングを探す
◎「条件(理由の一部)」のパターン
①AはBだ、AとはBだ→Aの説明かつBにつながる説明を探す
②AするとBだ、AならばB、AしてもB→Aの結果かつBの原因を探す(途中を埋める)
③Aにとって、Aにおいて→Aの立場・状況についての説明を探す
④Aが[こそ]必要・大切・不可欠、Aすべきだ、Aしなければならない→Aのメリット・目的を探す
orAしないデメリット
◎ 根拠の拾い方
(1)文章構成からアプローチ
(2)対比は整理(ないしは対比相手の説明をカット) →選択肢の切り分けが容易になる
(3)具体例はカット(ないしは抽象化)
(4)シンプルに「探す」「追いかける」 ※理由の場合 → Aの説明・結果、Bにつながる説明を探す → 因果関係の成立を確認
◎文章構成からのアプローチ
→傍線部がその意味段落内で前置なのか後置なのか。
*前置=これから詳しく説明することを先にまとめている=オープン(これから開く)
*後置=これまで説明したことをまとめている=クローズ(そこで閉じる)
*よくある型として、以下の論展開を押さえておく。
一般論→逆接→(問題提起)→主張A→具体例・理由→主張A
※「具体例・理由」の部分で、一般論と主張のギャップを埋めている。
◎構文変換
①強調構文「~のは(のが)Aだ」→Aは~する。(例)残ったのは悔しさだけだった。→悔しさだけが残った。
②無生物主語構文「AはBにCさせる」→AによってBはC
3大アプローチ
そもそも論として、現代文の問題へのアプローチ法には大きく分けて以下の3つがあります。教える側がこれを自覚・意識することはかなり大切だと考えます。
①文章構成(論理展開)からアプローチ → 文学的文章なら心情の変化、説明的文章なら筆者の主張をむき出しにする(当然、そこが解答根拠になりやすい)
②設問要求(出題者の条件設定)からアプローチ → 「この問題が出たらこういう手順で解く!」といったものを意識する
③選択肢からアプローチ → ①②が出来ていることが前提。拾った根拠と選択肢を同定する。選択肢判断のときならではのテクニックもある
第2章 方法論の実践
(例題①)傍線部のときののび太の心情は?
ジャイアンに殴られて、のび太は①泣いた。そして②ドラえもんのところへ行った。道具を出してもらった。
(例題②)傍線部の理由は?
僕は居間でテレビを見ていた。そしたらお母さんが、宿題をなかなかやり始めない弟を叱っていた。僕はあわてて自室にもどり勉強をはじめた。
例題1
あなたは、いまどこにいるのだろうか。
あなたがいまいるのは、本屋さんだろうか。図書館だろうか。カフェだろうか。それとも自分の部屋だろうか。どこが一番落ち着いて本が読めるのだろう。
シーンという耳鳴りみたいな音が聞こえてきそうな静かな図書館でないと落ち着いて本が読めない人もいるし、逆にカフェのバックグラウンド・ミュージックがかかっていないと落ち着いて本が読めない人もいる。ぼくの町のコーヒー店には、毎日のように夕方になると本を読みに来るおじいさんがいる。家に本を読む場所がないのではなくて、たぶんそのコーヒー店がいいのだろう。
電車の中でも本が読める人は多い。ぼくもそうだ。通勤電車の中では、幅を取らない新書を、しかも自分の専門外の新書を読むことにしている。電車の中は、会話もろくにできないくらいうるさい。うるさいのに落ち着いて本が読めるのはどこかヘンな気もしている。「落ち着いて本が読める」とはどういうことだろう。それは、周りが気にならないということだ。では、その「周り」とはなんだろう。周りの人のことだろうか。ちょっとした雑音のことだろうか。たぶん、そうではない。①本を読むぼくたちにとって一番「うるさい」のは自分の体だ。だから、ふつう自分の体を気にしなくてもいいような姿勢を整えてから、ぼくたちは本を読む。本に没頭しているときには自分の体を感じていない。体がかゆくなったりくすぐったくなったりしたら、読書に集中できない。読書に体はじゃまなのだ。
もっとじゃまなものがある。それは、自分の意識だ。そもそも自分の体がじゃまだと感じるのは、意識が体に向かっているからである。しかし、本の世界に入り込んでいるときには、ぼくたちは自分の体どころか、自分が自分であることさえ忘れてしまっている。つまり、自分を感じていない。自分の意識が全部本の中に入ってしまって、自分を感じるゆとりもないはずだ。そういう状態を作るためにわざわざ音楽をかける人もいる。別に音楽を聴いているわけではないだろう。意識が自分に向かわないようにすればそれでいいのだ。それが「読書に没頭する」ことだ。
(平成23年 八王子東高校〔四〕 石原千秋「未来形の読書術」)
問1 傍線部①「本を読むぼくたちにとって一番「うるさい」のは自分の体だ。」とあるが、その理由として最も適切なものを、次のうちから選びなさい。
ア 落ち着いた場所で本を読もうとしても、それにふさわしい場所は、そのときの自分の体の調子に影響されてかわるから。
イ 自分では本を読もうと思っていても、自分の体は他のことをしたがっていて、本に意識を集中することが難しくなるから。
ウ 落ち着いて本を読もうとしても、周囲の雑音が絶えず自分の耳に入ってきて、どうしても自分の体を意識してしまうから。
エ 本を読むことに集中しようと思っても、まず自分の体に意識が向かってしまうと、なかなか本の世界に没頭できないから。
例題2
次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。
詩歌などの創作は個性の表現であると、一般には考えられている。二十世紀になってそれに対して、異論を提出したのが、T・S・エリオットである。
エリオットは「伝統と個人の才能」で言う。詩人はつねに、自己をより価値のあるものに服従させなくてはならない。芸術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅である。芸術とはこの脱個性化の過程にほかならない。
そういうことをのべたあとで、エリオットは有名なアナロジーをもち出す。
「詩の創造に際して起るのは、酸素と二酸化炭素(亜硫酸ガス)とのあるところへ、プラチナのフィラメントを入れたときに起る化学反応に似ている」、というのである。後年、この化学的知識は正確でないと言われたけれども、それはともかく、これは触媒反応といわれるものである。
(中略)
詩人は自分の感情を詩にするのだ、個性を表現するのである、という常識に対して、自分を出してはいけない、とした。個性を脱却しなくてはならないというのである。それでは、個性の役割はどうなるのか。そこで、触媒の考えが援用される。
酸素と亜硫酸ガスをいっしょにしただけでは化合はおこらない。そこへプラチナを入れると、化学反応がおこる。ところが、その結果の化合物の中にはプラチナは入っていない。プラチナは完全に中立的に、化合に立ち会い、化合をおこしただけである。
詩人の個性もこのプラチナのごとくあるべきで、それ自体を表現するのではない。その個性が立ち会わなければ決して化合しないようなものを、化合させるところで、"個性的"でありうる。
これは、それまでの芸術的創造の考えに一石を投ずることになり、エリオットの"インパーソナル・セオリー"(没個性説)と呼ばれて有名になった。
欧米では、この考え方は斬新であったけれども、われわれの国の文芸では、さして珍しいものではない。
もともと、わが国の詩歌は、主観の生の表出を嫌い、象徴的に、あるいは、比喩的に心理を表出する方法を洗練させてきた。その端的な例が俳句である。
俳句では、主観は、花鳥風月に仮託されて、間接にしかあらわれない。自然事象の結合は、俳人の主観の介在によってのみ行なわれるけれども、主観がぎらぎら表面に出ているような作品は格が低くなる。主観が積極的に作用しているのは、小さく個性的な作品を生み出す。
真にすぐれた句を生むのは、俳人の主観がいわば、受動的に働いて、あらわれるさまざまな素材が、自然に結び合うのを許す場を提供するときである。一見して、没個性的に見えるであろうこういう作品においてこそ、大きな個性が生かされる、と考える。
(2012年 立川高校〔四〕 外山滋比古「思考の整理学」)
問 傍線部について、その理由として最も適切なものを次のうちから選びなさい。
ア 欧米では一つの事象を個性的に表現することを重視したが、日本では主観を積極的に作用させる技法がもてはやされたから。
イ 欧米では主観が個性を表現するものと考えられてきたが、日本では客観的な表現の中だけに個性が表れると考えられたから。
ウ 欧米では主観を排して間接的に表現する技法が未発達だったが、日本では象徴的に心理を表す方法を洗練してきたから。
エ 欧米では主観を象徴的に表現するという伝統があったが、日本では個性は必要とされずむしろ邪魔だとされてきたから。
例題3
人間とは、「人間とは何なのか、私とは何なのか」と絶えず問う存在である。頭の中で問わないまでも、こころの中で問うている。とすれば常に出会い、常に傍らにあるモノや人や場所があってはじめて、われわれは自己の役割を知り、自分が何ものかの役に立つことを知り、自分が世界の一部であることを知るだろう。こうしてようやくそれなりの自己確証をえることができるだろう。
ヘーゲルが述べたように、人間が社会的な存在であるのは、人は他者から承認されることで初めて自分自身になるからである。「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」という*シューマッハーの言葉は、決して通俗的なヒューマニズムの表明ではなく、人間存在の基本的な条件を述べたものであった。だから、われわれは、一方では、市場経済の無限拡張であるグローバリズムや情報網の世界的な拡張を受け止めると同時に、他方では、小規模な地域、組織、場、集団、仕事を保持してゆかなければならない。「そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えることを学ばなければならない」というわけである。
ひとつの地域は、ただそこに住民票をおいたものが漫然と生活しているのではなく、その土地への愛着や愛郷心によってつながっているはずである。相互に相手がどのような人間であるかを理解でき、地域ぐるみで子供に対して一定の価値観や道徳基準を教育するものである。「共感」があり、その「共感」のうちに自然と道徳心が生じるのが、地域共同体というものである。
組織や集団においてもまた、ただ仕事の分担によってのみ人々はつながっているのではない。仕事によってつながるためにも、ある程度は他人の性格や人柄を知らなければならないだろう。さらにいえばそれだけではなく、ある他人の別の他人に対する関係も知っておかなければならない。一人一人のお互いに対する関わり方もわかっている必要がある。そうして初めて組織や集団はうまくゆく。これは、巨大組織では無理であって、それが可能なある適正な規模というものがあるのだ。こうした相互に信頼できる仲間があって初めて、人は「組織人」「集団人」として何とかやってゆけるであろう。
逆にいえば、この種の、相互に信頼でき、相互に相手の性格や事情を了解できる組織や集団を作れない社会では、人々は、日常の中で神経をすり減らし、人間関係はとげとげしく、創造性に欠け、仕事への責任感を持ちえないであろう。組織と仕事は、人々の道徳性の母体にもなるのである。多くのものが、道徳性や規律を身に付けるのは、個人主義によってではなく、適切な組織においてである。
問 「小規模な地域、組織、場、集団、仕事を保持してゆかなければならない。」とあるが、筆者がこのように述べたのはなぜか。その理由として最も適切なものを、次のうちから選べ。
ア 人間は地域社会の中で一定の価値観や道徳基準を与えられるため、個人主義的な規律で作動しているような会社組織を知るだけでは上手に人間関係を作っていけないから。
イ 人間は経済や情報の拡張や世界の普遍性について理解を深めるとともに、適正な規模の地域社会や組織の中で価値観や道徳性を身に付けて社会的な存在となっていくから。
ウ 人間は相互に相手を理解できる地域との一体感によってつながっており、居住している土地への愛着心が生まれることによって一定の価値観や道徳心が育まれていくから。
エ 人間は相互に信頼したり事情を了解できる適正な規模の組織や集団があって円滑に暮らしていけるので、とげとげしく創造性に欠ける社会の中では生活していけないから。
例題4
いわゆる自然派というヨーロッパ近代文学思想の移入(あやまれる)以来、日本文学はわが人生をふりかえって、過去の生活をいつわりなく紙上に再現することを文学と信じ、未来のために、人生を、理想を、つくりだすために意欲する文学の正しい宿命を忘れた。
単にわが人生を複写するのは綴方(つづりかた)の領域にすぎぬ。そして大の男が綴方に没頭し、面白くもない綴方を、面白くない故に 純粋だの、深遠だの、神聖だなどと途方もないことを言っていた。 小説というものは、我が理想を紙上にもとめる業くれで、理想とは、現実にみたされざるもの、即ち、未来に、人間をあらゆるその可能性の中に探し求め、つかみだしたいという意欲の果であり、個性的な思想に貫かれ、その思想は、常に書き、書きつづけることによって、上昇しつつあるものなのである。
けれども小説は思想そのものではない。思想家が、その思想の解説の方便に小説の形式を用いるという便宜的なものではな い。即ち、芸術というものは、たしかに絶対なもので、小説の形式によってしかわが思想を語り得ないという先天的な資質を必要とする。
小説は、思想を語るものではあっても、思想そのものではなく、読物だ。即ち、小説というものは、思想する人と、小説の戯作者と二人の合作になるもので、戯作の広さ深さ、戯作性の振幅によって、思想自体が発育伸展する性質のものである。 明治末期の自然派の文学以来、戯作性というものが通俗なるもの、純粋ならざるものとして、純文学の埒外(らちがい)へ捨て去られた。それは、実際に於ては、むしろ文学精神の退化であることを、彼らは気付かなかった。
即ち彼らは、戯作性を否定し、小説の面白さを否定することが、実は彼らの思想性の貧困に由来することを知らなかった。
彼らには思想がなかった。理想がなかった。人生を未来に託して、常により高く生き抜こうとする必死な意欲を知らなかった。 「思想性が稀薄であるから、戯作性、面白さと、だき合うことができなくて、戯作性というものによって文学の純粋性が汚されるような被害妄想をいだいたわけだが、本当のところは、戯作性との合作に堪えうるだけの逞しい思想性がなかったからに 外ならぬ。
(坂口安吾「理想の女」より)
問 傍線部のように言うのはどうしてか、わかりやすく説明せよ。
(解答例1 三木作成)
明治末期にヨーロッパ近代文学思想たる自然派が日本に誤解されたまま移入されて以来、自身の過去をありのままに再現することを目指す文学観が肯定されると、小説の面白さたる戯作性が純粋性なき通俗なるものとして否定されるようになったが、この事態は、実のところ、理想を求めて意欲するという文学本来の宿命が看過され、作家自身の持つ思想性が、戯作性と併存不可能なほどに乏しくなっていく状況を露呈したものだと言えるから。
(解答例2 河合塾)
戯作性と思想性とが相即しながら、より高い人間精神の表現へと発展してゆくのが文学精神の本質であるのに、過去の人生を表現するにとどまり戯作性を通俗的で不純なものとして排除する自然派以降の文学傾向は、未来に向けて思想を発展させる契機を自ら捨て去っているものであるから。
最終更新:2023年12月09日 00:44