Twitterにて現代文に関してさまざまな方法論をつぶやかれている小池陽慈先生(
@koike_youji)のツイートを、まとめました。
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現代文について/読解力について:現代文という科目の特質、現代文が苦手な原因、現代文で問われている能力、読解力とは?、「読む」と「解く」の関係、語彙力の重要性、背景知識の重要性、本文へのマークについて、内言について
語彙解説の実例(01~09)
読解訓練の実例(01~23)
大学受験のための小説学習法(01~14)
大学受験のための読書案内(01~31)
読み聞かせたい傑作絵本(01~14)
新学期開講までにやるべきこと(01~07)
医学部受験の現代文対策(01~07)
小池的現代文復習法(01~05)
さまざまな本
その他
現代文について/読解力について
現代文も一緒。
理性から生まれたものではないはずの言語なるものを、理性により分節化していこうとする。そんな不可能性を前提とした科目が、現代文なのだ。
現代文が苦手な人へ。
次の3点のどれかが要因。
1、本文の誤読
2、設問要求の誤解
3、選択肢の誤読
特に、2、3の誤読は自分ではなかなか気がつかない。
2は理由説明なのに、内容一致の頭で解いている等
3は選択肢の趣旨を誤読してる等。センター苦手な人は大抵3。
「先生ー!本文は〇〇なのに、選択肢2はなぜダメなんですか?」という質問でありがちなのは、「本文は〇〇なのに」は正しく、「選択肢2」の解釈がおかしいパターン。
早稲田は「本文は〇〇なのに」の部分に誤読がなければほぼ正解する。
センターは「選択肢」の解釈で勝敗が分かれる。コレ重要!
まともに文章読んだ経験ない人が「論理」とか「解法」学んだって意味ないの! そーいう道具を駆使するためには、まずは圧倒的な言語経験値が必要なの! ホントは皆、うすうす気づいてるはずよ? 方法論に悩む暇あったら、一本でも多く文章読みなさいって。ここでも本とか記事とか、紹介してくからさ。
「国語モンスター」みたいな子も、何かの方法論を意識してるわけじゃない。ちっちゃな時から本読んできたから、読めちゃうし解けちゃうの! 「論理」なんか意識してないのに、書かれた答案は、結果として「論理」的になってるの! きちんと文章読んできたなら、必然的に思考も「論理」的になるのよ。
「侖」って、「ノンブル通りに綴じられた木簡が建物内に整頓されてある状態」を表すの。そこに「言」がくっついて、「論=言葉と言葉の秩序だった繋がり」。で、その「理」が「論理」でしょ? だからそれを体得したけりゃ、その「繋がり」を体現したもの=文章を、とことんじっくり読みまくることさ!
でも、言葉において論理って、万能じゃないのよ。
僕は野球が好きだ。〔 〕サッカーも好きだ。
空欄前後の論理を限定してみ?
……逆接「でも」も、添加「また」も、補足「ただし」も入りうるんじゃない? 「両方とも同じ運動だから」って観点考えれば、順接「だから」も入りうるよ?
ね?
そもそも「論理」は、言葉からその法則性を《抽象》することで生まれた概念。当然そこからは、言葉そのものが有していた他の側面が捨象されることになる。
蝶が〔 〕舞っている。
空欄に入るのは「ひらひら」だよね?じゃ、なんで「もきゅもきゅ」じゃアカンの?
「論理」で説明してみてよ。
っていうか純粋に論理的思考を試したけりゃ、理数科目で問えばいいじゃん! それじゃ問えないことも問いたいから、「現代文」なんて訳わからんもんも試験するわけよ。
じゃ、理数科目じゃ問えないことって何?
簡単に言えば、読書量だよ。
大学は、本読んできた生徒が欲しいの!
だから読むの!
これが真理ですよ。
真理なんて言うと逆に胡散臭くなっちゃうことなど百も承知で、もう一度。
これが真理。
読解力って、そんな単純化できるものじゃないです。
語彙、論理的思考力、一般常識、背景知識、人生経験、気合と根性、その他諸々。
それら全てが総合的に働いて、初めて機能する力なのです。
「本文読めても設問が読めなければ解けない」というのは、理屈としては正しい。が、本文を正確に読める子が「設問を読めない」などということは、現実問題としてありえるのだろうか? 本文精読の訓練を継続し、確実な言語能力を手にすれば、結局は設問も読めるようになっているというのが僕の意見だ。
語彙の増強は必須だ。語句ノートは必ず作ろう。が、そこに「逃げ」てはならない。用語集を完璧に覚えても、読解力は上がらない。とにかく毎日、真摯に文章を読むこと。そこで出会った未知の語を、丹念に調べること。本当に「入試頻出」であるならば、この学習の過程で、その語には必ず出会えるはすだ。
「背景知識」という概念に批判的な先生もいるけど、その主題をめぐって識者たちがどのような発言をしてきたのか、それをイメージできていれば、今読んでいる文章に対してより深く思考することができると思うのだがなぁ。「背景知識」って言い方がよくないのかも。「解釈共同体の既存のコード」とか。
背景知識さえあれば解けるという発想は論外だが、それが読解に無用だという発言も浅薄である。
背景知識とは、先人達がこの時代とどのように格闘してきたか、その軌跡の謂いだ。それを既得のコードとして新たな文章と対峙し、それによりそのコードを不断に読み換えてゆく。読みの本質は、そこにある。
背景知識ってのは、当該テクストに対する対比項なんだよな。既存のテクストと対照されればこそ、当該テクストの持つ固有性(=既存のテクストとのズレ)も明確に意識することができるのだよ。ちなみに、「その文章とだけ向き合っていればよい」などという考えは、とっくに言語学的に否定されております。
マークするのもいいけど、まずは考えろ、ていう。
接続詞の示す(?)論理に着目しているのに、それと同等の働きをするある種の副詞や名詞は無視する、とか、たとえそれらの語で示されてなくとも文と文の間には論理が潜在するはずなのに、そこは考えない、とか、なんかおかしくないすか?
僕が「接続詞にマーク」という作業法に懐疑的な理由は、そこ。
なんかやたらと接続詞に◯とか△とか付けてる生徒見るけど、なんか作業のための作業に堕している子が多い気がするんですよね……。
「接続詞」と「接続語」という表記の誤用を見ると、モヤる。「◯◯詞」は「単語」の機能に付される名称で、「◯◯語(部)」は「(連)文節の文中での役割=文の成分」に対して付される名称。英語でいう条件節(例「雨が降ったので」)なども、国文法では「接続語(部)」と呼ばれる。
学校文法(中学)の範囲。
「内言」という概念は、現代文の精読についても多いに駆使されるべきだ。字面を眺めるのみならず、頭の中で解釈したり要点をまとめたりしながら読み進めること。
国語の音読の際には、「意味のまとまり」を捉えて読んでいるかどうかが大切。噛むことなんて、まったく気にする必要はありません。では、「意味のまとまり」とはなにか? そのもっとも端的な指標が、「文の組み立て」などに代表される、文法的な構造。詳細は、拙ツイ【読解訓練の実例】の前半を参照。
語彙解説の実例
読解訓練の実例
大学受験のための小説学習法
大学受験のための読書案内
読み聞かせたい傑作絵本
新学期開講までにやるべきこと
(例文)〜〜〜〜
(派生知識)ーーーー
例文は本文や漢字テストでの使用例をそのまま抜粋。派生知識は、類義語や対義語、熟語を構成する個々の漢字の意味やそれらが作る他の熟語など。
(例)全国に遍在する風習。
(派生)・遍=訓読み→あまねク
*あまねク=隅々に行き渡る
・普遍、遍歴
・在=ある
・対=偏在
医学部受験の現代文対策
小池的現代文復習法
具体的な作り方は、 #新学期開講までにやるべきこと 参照。
とくに、二字熟語やカタカナ語などの抽象的な評論用語は大切に! これらの語句は、単に本文のキーワードになることが多いのみならず、思考のためのツールとなるがゆえ。
そもそも「現代文の復習」で最も大切なのは、「本文の内容を、可能な限りとことんまで理解し直す」ということだ。テキストに選ばれるのは、「入試で問われやすいテーマ」を扱った文章ばかり。逆に言えば、テキストの精読は、「評論常識」を手に入れるうえでの、最良の方法なのである。模試も同じこと。
「評論常識」、それは、アカデミズムの側が生徒に身につけておいてほしいと望んでいる、学問的バックボーンのことだ。国民国家、ナショナリズム、民主主義、新自由主義、ポピュリズム、ジェンダー、etc...。君たちの目の前にあるテキストは、これでもか!というぐらい、それを語っている。
ただしこの復習を正確に実践するには、授業できちんとした「本文解説」が為されていることが前提となる。逆に言えば、体験授業などで講師を選ぶ際には、「本文解説の重視、およびそのわかりやすさ」を基準にするのがよい。徒らに「設問解説」にのみ終始し「解法」にばかり言及する授業は、危険だ。
かなり扇情的な発言になるのは覚悟の上だが、実は、「本文解説」と「設問解説」とでは、その授業準備において、圧倒的に前者がしんどい。かける時間も労力も、そして知識も、段違いのものが要求される。「本文解説」を疎かにする講師は、その労力を惜しんでいる可能性が高いのだ…あくまで私見ですが。
また、「本文解説」と「設問解説」とでは、圧倒的に、後者の方が生徒のウケがよい。淡々とした「本文解説」って、確かに眠いからねw でも「設問解説」など、良質な問題集を読めばそれで事足りるはずだ。自学自習しがたい、「本文のより深い理解」を求めてこそ、塾に通う意味もあるのではないかな。
注意すべきは以下の点。
★単なる「本文の大事な部分のコピペ」にしない!
例えば「大切な部分」が A B C の3つあるとしよう。初心者は往々にして、この3要素をそのまま貼り付けて、「要約」を作成したつもりになってしまう。大切なのは、A B C の3つなら、その3つが「どうつながっているのか」、
それを可能な限り明示することだ。例えば、
「A しかし B したがって C」
などのように。
どうしても繋がり方が分からない場合は無理に記述する必要はないが、ギリギリまで考えてみよう。
もう一つ、
★「主張文を抜き出しただけ」の答案にならないように注意!
復習としての要約を作成することの意義は、「主張とそれに至るまでの論証プロセス」を俯瞰できることだ。本文の全体像を意識した答案を心がけよう。
なお、字数については気にする必要はない。400字でも800字でもOKです(^^)
そして最後にもう一つ。
作成した要約は、できるかぎり(本当は「必ず」と言いたい)講師に添削してもらうこと!
添削→書き直し&再提出→添削…
と繰り返していくことで、思考力も表現力も鍛えられていく。
実際、「文章うまくなったなぁ」と講師が思った子は、びっくりするくらい偏差値もupします!
大学受験、とくに評論文の学習においては賛否はあるが、「音読」も推したい。身体レベルで硬質な文体に慣れることは、評論文への執拗な恐怖感を払拭することにつながり、何より「表現力」の養成に直結する。どれほど論理的思考を鍛えようとも、表現力だけは、結局は「慣れ」が大きな要因となるゆえ。
さまざまな本
なぜなんだぜ。
を解き明かした、社会心理学の名著!
その他
僕も同感です。
彼は天才だ。
例えば、数学も満点だし、国語も満点なのだ。
という叙述においては、「例えば」以下の内容は、前文に対しての《論拠》です。《主張》と《論拠》は、「=」にはなりえませんよね。
実際いわゆる「具体例」は、《論拠》として用いられるパターンも非常に多いです。
もっと厄介なのは、しばしば、
抽象記述に対する具体例が、最初は抽象記述を忠実に具体化していたのに、徐々にズレていってしまうパターン
がメチャクチャ多いことです。
僕はこの現象を、「具体例が論旨を次へと展開させるパターン」と呼んでいます。
例
優れた人物は、人の意見をよく聞く。
例えばA君は、誰もが羨む天才だが、彼ほど教師の助言に真摯に耳を傾けた人間はいないのである。かくして彼は若くして、様々な栄光を手にするに至ったのだ。
という叙述では、「例えば〜いないのである」までは、単純に前文を具体化しているだけだが、(続く)
「かくして」以降は、「彼」が「優れた人物」であることから生じた「結果」について言及している。この事例では、一文目の抽象記述を「例えば」以降で暫くは忠実に具体化していたが、最終的には、「抽象」と「=」のはずの「具体」が、その「抽象=具体」から生じる「結果」にまで言及しているるわけだ。
「言葉」なるものを「論理」あるいはカント的な「カテゴリー」の概念で説明しきれるという考えは、誤りだと思う。
というか、「具体的な言葉では表現しきれない抽象的観念体系としての論理」の追究に尽力してきた、理数系科目に対して、失礼であるとさえ思う。
理数系は文系が扱えない領域を扱うからこその理数系であり、文系は、理数系が扱えない領域を扱うからこその文系である。
それでよくないですか?
「文理の協同」も、この懸隔を互いに自覚して初めて、可能になると思います。
このページはまだ完成途上にあります。
①一つ一つの項目に黒ポチをつける
②大事なところを赤い太字(他の色や書式でもよい)にする
といった作業を今後やっていこうと思います。
もし、ご協力いただける方がいたら、スイショウまでご連絡ください。
最終更新:2018年04月16日 00:35