設問

子どもの頃に遊んだ『かくれんぼう』は、大人になると遊ばなくなる。なぜなのか。考えるところを601字以上1000字以内で論じなさい。(2019年早稲田大学スポーツ科学部)

解説

設問を分析すると…
子どもの頃に遊んだ『かくれんぼう』は(S)、大人になると(M) 遊ばなくなる(P)。なぜなのか。考えるところを601字以上1000字以内で論じなさい。

主語=主題なので、「かくれんぼう」を分析することから始めるとうまくいく可能性が高い。

「かくれんぼう」を分析するなかで、「遊ばなくなる」につながる根拠をどんどんメモしていこう。もしそれらが題意に対して答えるに値するものでなければ、そのメモは却下し、別の視点(着眼点)を見つけよう。

解答例

小論文 早稲田大学 スポーツ科学部 1/4
【解答例1】
科学とは疑うことである。疑いのないとこ ろに科学は生まれない。ところが日本のスポ ーツ界では、「水を飲むな」といったかつて の非科学的指導に限らず、今日においてもな お疑いを抱かないことがしばしば幅を利かせ、 科学的と言い難い考え方や実践が罷り通って いるのではないか。
例えば、数年来大きな問題となっている鉄 剤注射はその一例といえるだろう。鉄剤注射 が鉄過剰症を引き起こし内臓疾患の大きな原 因となることから、日本陸連は数年前に鉄分 を食品か経口薬で摂ることを推奨し、安易に 注射しないように警鐘を鳴らしてきた。しか しそれ以降も全国高校駅伝の出場校の約2割 が相変わらず不適切に鉄剤注射を行っていた などの事実が判明したため、鉄剤注射は昨年 から原則禁止となり、違反者には制裁が加え られるようになった。
こうした鉄剤注射の不適切使用の背景には、 アスリート、特に女子アスリートにおいて練 習によって鉄分が失われやすいという事情だ けなく、体重維持を理由に練習量に見合った 栄養が適切かつ十分に摂取できていないとい う状況がある。マラソンなどの競技では、確 かに体重が重たい選手よりも軽い選手の方が 断然有利になる。そのため、「太り過ぎ」を 気にして食事を制限する指導者や選手が今も 多い。そうした中、低体重を維持しつつ競技 に必要な鉄分を速やかに補ってくれる「魔法 の薬」があれば、誰もが手を出したくなるに 違いない。だがそうした「魔法」への依存は、 長期的に見れば、一般人として慢性疾患の原 因を抱えるだけでなく、アスリートとしても 身体作りの大切な機会を奪われるという意味 で極めて有害だろう。現場の指導者からすれ
ば、鉄剤注射は勝利を欲する目の前の選手を 「救済」するつもりなのかもしれないが、視 点を換えれば、選手の身体を蝕み、アスリー トとしての将来を奪う「悪魔の薬」=ドーピ ングでしかないのである。
このように、人は時に「不都合」なことか ら目を背け、今目の前にあるものを都合よく 解釈し絶対化してしまう。「疑わない」とは、 目の前のものを絶対化するこうした姿勢や状 態を指していよう。科学はそうした知性のま どろみを脱し、数々の証拠を突きつけること によって「不都合」な事柄にも目を開かせ、 時に選手の健康や生命を助ける役目を負う。 日本のスポーツ界に科学的な発想や思考が不 可欠な所以である。
©河合塾 2020年

小論文 早稲田大学 スポーツ科学部 2/4
【解答例2】
科学とは疑うことである。最近、私がこの ことを深く実感させられたのが、スポーツ性 貧血に関する従来のスポーツ科学的知見の批 判的乗り越えだ。
スポーツ選手は、多量の汗をかくことで、 血液中で酸素を運ぶ役割を果たすヘモグロビ ンの材料となる鉄分が失われる。足裏の衝撃 などにより赤血球が壊れやすくなる。運動中 に胃や腸から微量に出血が起こる。こうした 事態に対して、毎日の食事の中でヘモグロビ ンを作るために必要な鉄分を充分に摂取する ことが必要となるが、必ずしもその必要量が 賄われていないため起こるのがスポーツ性貧 血である。
そして、貧血はスポーツのパフォーマンス に大きな影響を及ぼす。特に持久系のスポー ツの場合、エネルギーを作り出すために、は じめはブドウ糖を燃やし、その後、脂肪や筋 肉中のグリコーゲンが使われエネルギーとな る。有酸素運動と呼ばれるとおりエネルギー を作るには酸素が必要であり、このとき全身 に酸素を運んでいるのがヘモグロビンだ。ヘ モグロビンが多いほうが効率よく酸素を運ぶ ことができるので、持久力の向上、つまりス タミナの向上につながるのである。
よって、スポーツ選手にとってスポーツ性 貧血は大きな課題であるわけだが、このこと が認識された当初はサプリメントによる鉄分 の摂取が推奨された。女子長距離競技者に対 する実証実験の結果、サプリメントで鉄分を 摂取すると、激しいトレーニングの後でもヘ モグロビンの値は低下せず、むしろ有意に上 昇したからである。
ところが、近年ではこうした科学的知見に 疑いの目が向けられている。静脈内注射ほど
ではないにしろ、サプリメントで過剰な鉄分 が内臓などに沈着すると、肝機能障害や肝硬 変、糖尿病などになる危険や、鉄剤の種類に よっては骨軟化症の恐れもあり、また体内の 鉄が多すぎると、人体に必要な他の微量元素 の亜鉛などが吸収されにくくもなり、パフォ ーマンスを上げるどころか健康自体を害して しまう危険性も出ることが明らかになってき たのだ。そうして、食事をとおして鉄分を他 の栄養素とともにバランスよく摂取すること が最近では推奨されるようになった。
このように、科学とは疑うことによって進 歩する。特にスポーツ科学のように新しい科 学ではなおさらだ。疑うことを止めたとき、 科学の進歩もまた止まってしまうのだろう。
©河合塾 2020年

小論文 早稲田大学 スポーツ科学部 3/4
【解答例3】
科学とは疑うことである。2018年にノーベ ル生理学医学賞を受賞した本庶佑氏は、「教 科書に書いてあることを信じない」と発言し ている。科学とは真理の追究であり、そのた めには、「常識」あるいは科学的真理とみな されてきたことでも疑い、新たな角度から検 証する姿勢が必要だ、というわけだ。
ところが私たちは「科学」という言葉を聞 くと、普遍的でニュートラルなものと考えが ちだ。しかし実際には社会的なバイアスがか かっていることが多い。このことはスポーツ 科学にもあてはまる。例えば女性はスポーツ に向かないということが長く「常識」とみな され、女性の生理や華奢な骨格、相対的に男 性よりも少ない筋肉量などがその根拠とされ てきた。ここでは生理学や解剖学と言った科 学的な知が、「常識」を疑うのではなく、固 定化することに貢献してしまっている。
スポーツにおいて男性的な身体が特権化さ れてきたのは、近代の競技が「より速く、よ り高く、より強く」という理念のもと、相対 的に筋肉量の多い男性によって行われ、発展 を遂げてきた結果にすぎない。ところがスポ ーツ科学もこうした男性の身体を基準に発展 してきたために、結果として女性の身体がス ポーツに向かないという誤った「常識」を広 めることに手を貸してきてしまった。
しかし一方で、近年のスポーツには多様化 によってこうした錯覚を乗り越える動きもみ られる。例えば近年幅広い層から人気を集め ているボルダリングは全身運動だが、パワー スポーツに求められるような大きな筋肉は手 足への負担が大きくなるため好まれない。そ れに代わって求められるのは、ホールド(足 場)の選択肢を広げつつ、どんな姿勢でも体
のバランスを保てるような関節の柔軟性や体 幹の強さだ。そうした特性を備えた女性アス リートが登場し、卓越したパフォーマンスを 披露することで、筋力中心の身体観に疑いが 生まれるのである。そこでは「より速く、よ り高く、より強く」というスポーツ理念は再 検討される。
このようにスポーツに女性の参入が促され ることで、多様なスポーツにおける身体のあ り方が研究対象となる。このことが社会的バ イアスを修正し、スポーツ科学そのものを成 熟させていくのだ。こうした好循環を持続さ せるためには、マイナーとされるスポーツの 魅力をいかに発掘し、広く共有していくかが 課題である。
©河合塾 2020年

小論文 早稲田大学 スポーツ科学部 4/4
【解答例4】
科学とは疑うことである。そのとおりであ る。だが、その後にこう付け加えるべきだ。 科学ほど非科学に転じやすいものはないと。 真に科学的な態度とは科学を疑うことである。
エビデンス・ベーストという考え方がある。 最初は医療分野で提唱されたアイデアであり、 因襲や権威に基づく旧来の治療法に対し、そ れには本当に効果があるのかということを、 実証的な数値データ、つまりエビデンスを積 み重ねて批判的に検証しようとするものであ った。このようにエビデンスは古い常識や先 入観を打ち破り、より正しい判断を導く根拠 となる。しかし、このアイデアが他の分野に も広がり一般化していくにつれて、エビデン スという言葉は、それを口にするだけで、あ る意見が科学的であるというお墨付きを与え るマジックワードに変わってしまった。
このエビデンスとしての数値が具体的な文 脈から切り離され、単独で受け取られると、 誤った判断を導くことがある。
数年前、文部科学省は小学校の学級人数を 40人から35人に減らし、教師の目が児童一人 一人に行き届くようにした。だが、その後の 調査で小学校でのいじめ件数は予想に反して 増加したことが判明する。教育費削減をねら う財務省はこれを根拠とし、クラス人数の縮 小にはメリットはなく、元の40人学級に戻す べきだという意見書を出した。だが、財務省 の見方は短絡的である。いじめは、客観的に 確認できる不登校などと違って、認知されな ければ起こったことにならない。たとえいじ めが多発していても、教師や学校がそれを認 知しなければ件数としてはゼロなのである。 つまり、いじめ件数の増加は、教師が努力し、 きめ細かに子どもたちを見るようになった結
果だと考えることもできるのだ。 これは統計データが誤った政策を導きかけ
た事例であるが、自然科学研究の分野におい ても実験や観察から得られた数値の扱いがそ もそも杜撰であったり、恣意的になったりす る危険性はつねにある。さらにまた、科学の 知見が俗化すると、それは権威となり、誤っ た利用をされることが多い。いわゆる疑似科 学である。問題は、金儲け目当てではない真 面目な意図で、無自覚に疑似科学に陥ってし まう人がいることだ。科学的とかエビデンス という言葉をやたら口にする人はあやしい。 自分を疑った方がよい。
©河合塾 2020年

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最終更新:2024年02月02日 15:29