出典
三木の解答
(三)のみ以下の動画にて補足しております。
さまざまな解答
- おべんつよ先生(現代文)の解答・解説。(結構いい!)
- Foresightの解答・解説。((二)で「実証主義」を入れているのが特徴的。)
科学哲学・歴史の物語り論を踏まえた解答
1
素粒子の観察実験で得られた水滴や泡が素粒子の飛跡だと認識できるのは、観察者が実験の前提たる現代の物理学理論を共有するからだということ。
解説
「その痕跡」の内容を確認すると、直前の「マクロな痕跡」であるとわかる。そしてその内容は「すなわち」の直前の「水滴や泡」のことである。目に見えるという意味で、「マクロな痕跡」は「水滴や泡」しかない(霧箱実験・泡箱実験がどういうものかについては、下記素粒子のダンス参照)。それを観察者が見たときに「ミクロな粒子の運動」によるものであり「荷電粒子が通過してできた」ものであり、「素粒子の飛跡」だと「理解」できるのは、観察者が現代の物理学理論を「知っている」おかげだということを表現する。これを、科学哲学の用語で、「観察の理論負荷性」という。なお、1996年の東大現代文にも、「科学者はありのままに対象を観察しているわけではない」という趣旨の文章が出題されている。
観察の理論負荷性が解答の中心であることについてもう少し詳しく説明する。野家啓一「『科学の解釈学』への一試論」には、「顕微鏡観察を例にとれば、素人は美しい色模様をしか見ないにもかかわらず、遺伝理論を背負った生物学者であれば染色体の構造を見るであろう。それゆえ観察とは生の事実をあるがままに写し取ることではなく、むしろ理論的枠組に合わせて事実を積極的に<構成>する行為なのである」とある。これは上記の「ありのまま」に観察しているわけではない、につながる。問題文の「霧箱実験・泡箱実験」を例に言い換えれば、「素人はそこに水滴や泡をしか見ないにもかかわらず、物理学理論を背負った物理学者であれば素粒子の飛跡を見るであろう」に言い換えることができる。
また、野家啓一『科学哲学への招待』 (ちくま学芸文庫)190ページでは、本問の素粒子の観察実験を例に観察の理論負荷性の説明をしている。そこでは、実験結果を素粒子の「飛跡として見るためには、あらかじめ物理学の専門的知識や理論を学んでいなくてはならない」と表現している。つまり、素粒子の存在は、物理学の知識を有する観察者による観察結果の認識・意味解釈によってもたらされている、ということである。
筆者は言いたいことを別の著作においても繰り返すということが、ここでも見られる。筆者の表現と例が同一であるから、解釈する際にも、他の著作と矛盾する解釈をしてはいけない。
2
知覚可能なもののみを実在とする実証主義を採用しない科学では、理論的実在は実験等の理論的手続きによって確かな実在を認められるということ。
解説
理論的存在は「れっきとした存在」であるということである。なぜそう言えるのか。それは、「知覚的に観察可能なものだけが存在するという狭隘な実証主義は捨て去」っていること、「他方で」、「理論的探究の手続き」によって実在が認められることからであり、その2つに「留意せねばなりません」とある。
野家啓一「『実証主義』の興亡」 には、「実証主義的科学観のもとでは、『実証性』の根拠は自然科学(特に物理学)をモデルに、観察と実験、検証と反証などの方法的手続きに求められた…ポスト実証主義の科学観は、『観察の理論負荷性』や『決定実験の不可能性』などのテーゼを提起することによって、従来の『実証性』の規定が狭隘で一面的なものにすぎず、自然科学においても、『意味解釈』や『プラグマティックな判断』が不可避的に働いていることを明らかにした」とある。よって、理論的存在が認められるのは、このようなポスト実証主義の科学哲学の下においてであると表現する。ポスト実証主義の問題だというのは、問1が物理学理論を知っている観察者の「意味解釈」の問題であることともつじつまが合う。実験等方法的手続きが要求されるのは、実証主義的科学哲学においても同様であるので、その違いを説明しなければならない。
3
歴史的事実は、五感で認識可能な実体を持たない概念であり、後世の視点から記述する者の思考で事件や出来事を関係づけて構成されるということ。
解説
戦争や軍隊のように、「フランス革命」や「明治維新」は物理的実体をもたないという意味で抽象的である。これらは「名前」・「タイトル」である(筆者はタイトルに関心があり、最終講義のタイトルが「無題(untitled)」である)。本文では、「革命」や「維新」といった後世からみた意味づけがされている点に注意する。「記述」という表現があるので、「思考」の主体は後世の「記述する者」であり、対象は「事件や出来事」である。筆者はカギカッコを多用する傾向があるのは、論文のタイトルから明らかなので、そのまま用いてよい。それらを「思考」する、すなわち「関係の糸で結ぶ」のも「物語り行為」を行う「記述する者」である。
物語りの対象について、野家啓一「『二人称の科学』の可能性」ではこう述べられている。「物語りとは、二つの出来事を時間的進行に従って組織化する叙述形式のことである。」そして「事物」については、「自然科学の領域」だと考えているので、ここでの物語りや歴史を表現するのにはなじまない。
また、歴史の物語り論では、山本與志隆「歴史のニヒリズム : 解釈学と歴史の物語り論」に「現在『
第一次世界大戦』を直接経験したという人がどれほど居るかはわからないが、少なくとも1914年当時勃発した戦争がその当初から『第一次』世界大戦として認識されていたとは考えられない。その後1939年に『第二次』世界大戦が勃発して初めて1914年から18年の戦争は『第一次』世界大戦となったのである。このことは、歴史的事象というものが、後の世代の視点からの解釈を待って初めて同定され、事実として認定されるということを物語っている」とあるように、「後の世代の視点からの解釈」がキーワードである(筆者は、フランス革命、明治維新、前九年の役を例にした) 。
本文における歴史的事実が「理論的存在」だと指摘することについては、消極的に考えるべきであろう。本文中では「理論的構成体」とあえて異なる表現が用いられているし、「理論的存在」は科学哲学の用語である。さらに、「戦争」や「軍隊」は「理論的存在」ではなく、筆者の用語を用いれば、これらは「制度的存在」である。筆者が「理論的存在」と「制度的存在」を区別しているのは、後述の筆者の最終講義の動画でも確認できる。
最後に、出来事と事物の関係について、筆者はどのように考えているのかを明らかにしておきたい。野家啓一『歴史を哲学する――七日間の集中講義』195ページには、「出来事が分解されるとすれば、それは『事物』とその『性質』や『関係』に分解される」とある。すなわち、筆者の考える歴史の物語り論では、歴史的出来事は、複数の出来事を結び付けて意味づけしたものであり、その出来事は、事物と事物の性質や関係から成り立っているのである。したがって、筆者は事物を抽象化するとは言っていないし、出来事は事物に性質や情報が加わった具体的なものとも言えるだろう。もちろん、歴史記述の対象は事物ではないのは本文にある通りである。
4
歴史的出来事は、理論的実在のように直接知覚不可能だが一定の条件の下で実在が確証されるもので、具体的には、個人の物語り行為とその下での発掘調査や史料批判から成る物語りのネットワークによる同定を待って初めて、その存在が認識可能になるから。
解説
「理論を物語りと呼び換える」ことで、それまで説明してきた理論的存在の理屈を歴史的出来事に適用することになる。理論と、理論を前提とする実験によって存在が認識される、ということであったので、それぞれ対応するように表現する。
上記山本論文にあるように、「野家氏による注釈にもあったように、歴史の物語り論の構想は、歴史の内に史実として同定される事象を全て虚構であると主張しているわけでは決してないということである。いや、むしろ歴史の物語り論によれば、物語られる事象の外部には歴史的事象は存在しない以上、物語りによる事象の同定を待って初めて、真なる歴史的事象の把握は可能になると言っても過言ではない」ということである。
各予備校の解答
→明らかなミスだと思える箇所には赤字にした。
東進
(一)知覚しえない素粒子の「実在」を、素粒子の飛跡という知覚可能な実験的証拠によって確信できるのは、背景にある現代物理学の理論の支えがあるからだということ。
(二)(理論的存在は、)直接知覚できないが、実在性に疑いの余地はなく、適切な実験装置と一連の理論的な手続きによってその証明は可能で、決して単なる観念的創造物ではないということ。
(三)歴史記述の対象(歴史的事実)は、事物から具体性を捨象しつつ恣意的に関係づけて概念化したものであり、直接的な観察ではなく(直接間接の証拠に基づき)、理論的手続きを踏まえた構成体(「理論的存在」)であるということ。
(四)物理学や地理学における「理論的存在」と同様に、歴史的事実は過去のもので直接的な知覚が不可能であるため、歴史的出来事の実在を確証するためには、史料批判や発掘物の調査といった、「物語り」行為をもとにした理論的「探究」の手続きが不可欠であるから。(120字)
《別解》物理学や地理学における「理論的存在」同様、歴史的出来事は過去のもので直接の知覚が不可能であるため、それを描いた物語りに関わって存在する、文書や発掘物等の、直接間接の証拠の調査や批判という一連の理論的探求の手続きを経て、実在が確証されるから。(120字)
駿台
(一)素粒子は知覚的に観察できないが、理論に基づくことで実験を通して痕跡として認識可能になり、その実在を証明できるということ。
(二)理論的存在とは、証拠に基づく理論的探求を通じて構成されたものであり、それを無視した恣意的な構築物ではないということ。
(三)歴史的事実は、過去の事象から知覚可能な具体性を捨象し、特定の視点に基づき出来事を関係づけていく思考の産物だということ。
(四)歴史的事実は、物理学における理論的存在と同様、直接知覚することはできないが、史料や調査といった証拠に基づく理論的な探究を通じて、恣意的に捏造された虚構を排し、諸々の出来事を特定のコンテクストにおいて再構成した物語りとして実在するものだから。 ※主述関係が不適切
河合塾
(一)知覚できない素粒子の存在は、その運動の痕跡を観察する実験によって確証されるが、その作業は物理学理論に即してしかなされないということ。
(二)理論的手続きによって導き出されたものが直接知覚できないからといって、ありもしないものを捏造しているわけでは毛頭ないということ。
(三)歴史的出来事は、具体的に知覚される個々の物ではなく、一連の事象を理論的に関連づけ、ひとまとまりの事柄として構成したものだということ。
(四)過去の歴史的出来事は、現在の我々からは直接的に観察できず、その存在は、我々が文書史料の記述や絵画資料、発掘物を理論的に検証する手続きを通じて、個々の事象を関連づけ、一つのまとまった出来事として構成することではじめて確証されるものだから。
代ゼミ
(一)素粒子の存在を証明するのは直接的観察ではなく、その存在を裏付ける、実験的証拠であり、その背景には物理学の理論的支えがあるということ。
(二)理論的存在は知覚では観察できないが、その実在性は実験的証拠と理論的探究によって証明されており、単なる理論的仮説ではないということ。
(三)歴史的事実は具体的事物によってではなく、歴史的な事象を相互に関係づける理論的探究という思考の営みを通して認識可能になるということ。
(四)歴史的出来事の存在は直接的知覚では捉えられず、歴史上の出来事を具体的、客観的な史料に基づいて捉え、それらを「物語り」という意味的な連関によって互いに関係づける理論的探求を通して、初めてその本質を明らかにすることができる認識対象だから。
最終更新:2023年11月22日 04:10