問題

次の文章は、()(ぶせ)(ます)()の小説「たま虫を見る」の全文である。これを読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。

 おそらく私ほど幾度も悲しいときにだけ、たま虫(注1)を見たことのある人はあるまいと思う。
 よその標本室に行ってみて、そこの部屋で私(たち)はおびただしい昆虫に|出会《でくわ》すであろうが、たま虫ほど美しい昆虫を発見することは出来ないのである。私達はこの昆虫の()(がい)の前に立ち(どま)って、(ある)いは感動の(ひとみ)をむけながら(ささや)くであろう。
 「めったに見たことのない虫だが、これは()だ生きているのではないかね?」
 「死んじまっても羽根の色は(かわ)らないらしいんだよ。」
 「この色は幸福のシンボルだそうだよ。書物にそういって書いてあるんだ。」
 「()ういって鳴く虫だろう?」
 「まるで生きているようじゃないか!」
 ──ところが私の見たのは標本室のではなくて、生きているやつなのである。

 Ⅰ私が十歳の時、私の兄と私とは、叔母につれられて温泉場へ行った。叔母は私の母よりも以上に口やかましい人で、私があまり度々お湯へ入ることを厳禁して、その(かわ)りに算術の復習を命じた。そのため私は(ほと)んど終日、尺(注2)を里・町・間になおしたり、坪(注3)を町・(たん)・畝になおしたりした。
 或る日、私は便所の壁に(村杉正一郎のバカ)というらくがきを発見した。村杉正一郎は私の兄と同級で級長をしていたので、兄は正一郎を(うらや)んだものに違いなかった。けれど温泉場は私達の学校から幾十(まいる)も隔ったところにあったので、村杉正一郎や彼の知人が、便所のらくがきを見る(はず)はなかったのである。私は兄の(ア)浅慮を全く嘲笑(ちょうしょう)した
 「叔母さんに言いつけてやろう。」
 「言ったらなぐるぞ!」
 兄は実際に私の(ほお)をなぐった。私は木立ちの中に駆け込んで、このことは何うしても叔母に言いつけなくてはならないと考えながら大声に泣いた。この悲しい時、私の頰をくっつけている木の幹に、私は一匹の美しい虫を見つけたのである。私はを捕える時と同様に、忍び寄ってそれを捕えた。そしてこの虫は何ういって鳴くのであろうかと、唖蝉(おしぜみ)(注5)をこころみるときと同様にその虫を耳もとでふってみた。
 美しい虫であった。羽根は光っていた。私はこの虫を兄にも見せてやろうと思ったが、兄の意地悪に気がついた。叔母は私が算術を怠けたといって(しか)るにちがいなかった。(だれ)にこの美しい虫を見せてよいかわからなかった。A私はもとの悲しさに返って、泣くことをつづけたのである
 「何故(なぜ)この虫は折角(せっかく)こんなに美しくっても、私が面白い時に飛んで来なかったのだろう」

 それから十幾年もたって、私は再びこの昆虫を見つけたのである。
 すでに私は大学生になっていて、恋人さえ持っていた。恋人は美しく且つ()(れん)で、彼女は私と一しょに散歩することを最も好んだ。
 郊外の畑地は全く耕されていなかったので、彼女が田舎へ出発してしまう前の日にも、私達はその畑地を野原とみなした。積み重ねた煉瓦(れんが)と材木とは、私達の密会をどの家の二階からも電車の窓からも見えなくした。
 「きっと、お手紙くだされば、私はほんとうに幸福ですわ……空があんなに青く晴れているんですもの。」
 彼女は日常は極めて快活であったが、恋愛を語ろうとする時だけは、少なからず(イ)通俗的でまた感傷的であった。そして物事をすべて厳密に約束する癖があった。
 「明日は午後二時三十分にあそこで待っていますわ。」
 「僕は三時まで学校があります。」
 「では三時三十分(ころ)、そしてきっとお待ちしていますわ。」
 私は決心して彼女の肩の上に手を置いた。そのとき、急にはその名前を思い出せないほどの美しい一ぴきの昆虫が、私のレインコートの胸にとまっていたのである。彼女はすばやく指先でその昆虫をはじき(おと)してしまったので、私は(あわ)てて叫んだ。
 「たま虫ですよ!」
 しかし最早たま虫はその羽根を撃ちくだかれて、腹を見せながら死んでいた。私はそれを拾いとろうとしたが、彼女はそれよりも早く草履でふみにじった。
 「このレインコートの色ね。」
 そして彼女は私の胸に視線をうつしたのであるが、私は彼女の肩に再び手を置く機会を失ってしまった。私達はお(たがい)(しばら)く黙っていた後で、私は言った。
 「あなたは、このレインコートの色は嫌いだったのですね!」
 「あら、ちっともそんなことありませんわ。たま虫って美しい虫ですもの。」
 「でも、あなたはそれをふみつぶしちゃいました。」
 「だってあなたの胸のところに虫がついていたんですもの。」
 B私達はお互に深い吐息をついたり、相手をとがめるような瞳をむけあったりしたのである

 牛込(うしごめ)警察署は、私を注意人物とみなした。私が学生でもなく勤め人でもなく、そして誰よりも貧困であったからなのであろう。
 呼び出しのあった日に、私の友人は顔を()ったり風呂(ふろ)に入ったりしてから、私の代りに警察署へ出頭してくれた。そして彼の報告によれば、私が街で立ちどまっているところを写したキャビネ型写真(注6)を示されたというのである。私は何時(いつ)の間に写されたかそれを知らない。写真では私が冬のインバネス(注7)を着て夏のハンチング(注8)を(かぶ)って(これは最近の私の服装である)エハガキ屋(注9)の飾り看板を顔をしかめながら眺め入っているところだそうだ。そうして写真の横のところには朱でもって──危険思想抱懐せるものの疑いあり──と記入されていたという。

 私はインバネスを着て外に出た。私は牛込署へ出頭するのではなくて、エハガキ屋の店先へ行ったのである。そして飾り看板を見上げながら顔をしかめてみた。飾り看板の(がら)()の中には、数枚の裸体画と活動女優(注10)の絵葉書とが入れてあった。たしかに私はこの姿勢でもってこの表情で……
 「ここに虫がいる!」
 たま虫が、硝子の破れ目に一本の脚をかけてぶら(さが)っている。私は手をのばしてそれを捕えようとした。けれど今も私の()ぐ後ろで警察の人達がカメラをもって私をねらっているかもわからない。彼等は、私が昆虫を(つか)まえようとして手をのばしたところを、絵葉書を盗もうとしている姿勢に写すかもしれない。私は随分ながいあいだたま虫を眺めながら、顔をしかめる表情を続けてみた。C硝子にうつる私の顔は、泣き顔に見えた
 「この昆虫はどうしてこん()んなに私が不機嫌なときに見つかるのだろう?」

 就職口が見つかったので、叔母にそのことを報告してやると、彼女から祝いの手紙が来た。彼女はかつて私達を毎年温泉場へつれて行ってくれたところの叔母であって、今は修道院に入っている。彼女の手紙は実にくどくて、手紙の|終《おわ》りには必ず数行の格言が書いてあったのだ。今度は次のように書いてあった。
 「貧しくとも正しく働け。悩むとも、聖霊とともにそれが如何(いか)に正しき悩みなるかを知れよ。絶望はいびつなる悩みであることを知れ。」
 私は叔母のこの平凡な文章を嘲笑したのではなく、(むし)ろ彼女の(ウ)さしでがましさによって力づけられ慰められるのを知ったのである。しかし私の勤めぶりは上等ではなかった。
(旧古書林校正係(注11))
 自分のこの肩書きを私は自慢にしていたわけではなかったのだが、勤めてから幾らもたたない時、編輯員(へんしゅういん)の松本清太郎は私の頭をなぐった。私が生意気で校正が下手だというのだ。私は自分が(けん)()に弱いと信じていたので、彼に対して反抗しなかった。
 「…………」
 (おれ)は弱いな? そういうことを思いながら彼になぐられたのである。こんな場合には、なぐられた者の方が必ずつまらなく不愉快になるに相違なかった。私は幾度もそれとは反対の考えを持とうと努力したのであるが、それは駄目であった。
 私は髪床屋へ行った。そこを出て、冷たい手で(あご)()ぜてみた時、私は電信柱の根元に一匹のたま虫が死んでいるのを発見したのである。
 「いまに(あり)(むらが)るだろう。」
 私はその昆虫を拾いあげて、それを電信柱にとまらせてみた。けれど動かなくなった彼の脚は、木肌のどの(くぼ)みにも(つかま)ることをしなかった。私は彼を今度は木肌の割れ目にぶらさがらせようとした。ところが私はあまりデリケイトに彼を取扱(とりあつか)わなかったので、枯渇した彼の前脚を折ってしまった。Ⅱ私はゲリラ刷り(注12)の綴針(とじばり)をぬきとって、彼を標本みたいに電信柱にとめつけた。
 「何うだ、Ⅲ生きているように見えないかね?」
 そうして私は、Ⅳ生きているように見えるたま虫を(そで)のなかにしまって、停留場の安全地帯(注13)に入った。人々は電車の来る度(ごと)に私を後ろにおしのけ、電車で行ってしまうと私を前にゆずった。D私は人を押しのけはしないのだと心のなかで思いながら、実は少しばかり人を押しのけながら割り込む必要を覚えた

 Ⅴ数日たって或る夜更けに私はすでに寝床に入っていたのであるが、袖のなかのたま虫を見てみることにした。その夜、私は宝焼酎(たからじょうちゅう)(注14)をのんだので、幾ら水をのんでも(のど)のかわく夢をみて眠れなかったからである。
 Ⅵ私はたま虫のことを忘れてしまっていたのだ──たま虫が着物の袖のなかで少量の醜悪な粉末となっているのを発見して、私はその粉末を窓の外にふきとばした。私は夢ではなしに事実、冷水(おひや)をのみながら考えた。
 「今度たま虫を見ることがあるとすれば、それはどんな時だろう──私の不幸の濃度を一ぴきずつの昆虫が計ってみせてくれる。」
 再び夢で水をのむとき、私は水をのみながらオルガンを上手にひいていた。最近私は、()し失職したならば叔母に依頼して、牧師になるように手続きしてもらおうと思っていたのである。

(注) 
1 たま虫 ── 光沢を持つ甲虫の一種。金緑色に赤紫色の二本の縦線がある。また、光線の具合によって色が変わって見える染め色・織り色をたま虫色という。
2 尺 ── 長さの単位。「里」「町」「間」も同じ。
3 坪 ── 面積の単位。「町」「段」「畝」も同じ。
4 哩 ── 距離の単位。一哩は、約一・六キロメートル。
5 啞蝉 ── 鳴かない蝉、雌の蝉。
6 キャビネ型 ── 写真の大きさの一つ。
7 インバネス ── 和服用に流行した袖なしのオーバーコート。
8 ハンチング ── 前にひさしのついた平たい帽子。
9 エハガキ屋 ── 絵葉書を売る店。二〇世紀初頭に流行した。
10 活動 ── 「活動写真」の略称で、映画の旧称。
11 校正係 ── 印刷の工程で、文字の誤りや不備などを正す仕事。
12 ゲラ刷りの綴針 ── 「ゲラ刷り」は校正用に印刷物の試し刷りをしたもの。「綴針」はそれをじるための針。
13 停留場の安全地帯 ── 路面電車に乗り降りするための場所。
14 宝焼酎 ── 焼酎の銘柄の一つ。

問1 傍線部(ア)~(ウ)の本文中における意味として最も適当なものを、次の各群の①~⑤のうちから、それぞれ一つずつ選べ。

(ア) 浅慮を全く嘲笑した
① 短絡的な考えに対して心の底から見下した
② ()(きょう)なもくろみに対してためらわず(けい)(べつ)した
③ 粗暴な行動に対して極めて冷淡な態度をとった
④ 大人げない計略に対して容赦なく非難した
⑤ 軽率な思いつきに対してひたすら無視した

(イ) 通俗的
① 野卑で品位を欠いているさま ② 素朴で面白みがないさま
③ 気弱で見た目を気にするさま ④ 平凡でありきたりなさま
⑤ 謙虚でひかえ目なさま

(ウ) さしでがましさ
① 人の気持ちを酌んで自分の主張を変えること
② 人のことを思い通りに操ろうとすること
③ 人の事情に踏み込んで無遠慮に意見したがること
④ 人の意向よりも自分の都合を優先したがること
⑤ 人の境遇を自分のことのように思いやること

問2 傍線部A「私はもとの悲しさに返って、泣くことをつづけたのである。」とあるが、その時の心情の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

① 兄になぐられて木立ちの中に駆け込んだ時の悔しさが思い出され、誰とも打ち解けられずひとりでやり過ごすしかない寂しさをかみしめている。
② 抵抗もできずに兄から逃げ出した時の(おく)(びょう)さを思い返し、ひとりで隠れていても兄や叔母にいつ見つかるかわからないという恐怖におののいている。
③ 兄に歯向かうことができなかった情けなさを改めて自覚し、自分の切実な望みが兄や叔母によって妨げられることへの憤りを感じている。
④ 兄の粗暴な振る舞いに対する怒りに再びつき動かされ、仕返しをしようとしても叔母への告げ口しか思いつかない無力感に苦しんでいる。
⑤ 兄の過ちを正面から諭さなかったことを後悔し、自分の行動の意図が兄はもちろん叔母にも理解されないだろうという失望感に襲われている。

問3 傍線部B「私達はお互に深い吐息をついたり、相手をとがめるような瞳をむけあったりしたのである。」に至るまでの二人のやりとりの説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

① 私は、幼い時から好んでいるたま虫が邪険にされたことを悲しみ、恋人の優しさに疑いを抱いて発言しているが、恋人は、自分よりもたま虫を大切に扱うかのような私の態度に驚き悲しんでおり、互いに不信感を持ち、うらめしいような気持ちになっている。
② 私は、悲しい体験を思い出させるたま虫が恋人との密会時に現れたことにとまどい、過去の経験にとらわれているが、恋人は、たま虫を私のコートにとまった虫としてはじき落としたのにその配慮に気づかない私に失望し、互いに相手を理解できない気持ちになっている。
③ 私は、肩に置いた手をたま虫を口実にして恋人に振り払われたと考え、ショックを受けているが、恋人は、その私をなだめようとしたのに私がよそよそしい態度をとり続けているので意外に思い、互いに相手の態度にとまどい、責めるような気持ちになっている。
④ 私は、幸福のシンボルとしてのたま虫が恋人との密会時に現れたので気持ちを高ぶらせ、それを恋人に伝えようとしているが、恋人は、私がいったん肩に手を置きながらたま虫に気をとられたことに傷ついており、互いの言葉が通じないことに(いら)()つ気持ちになっている。
⑤ 私は、突然現れた美しいたま虫を無慈悲に扱われたことに驚き、恋人を責めるような発言をしているが、恋人は、大切な二人の時間を邪魔したたま虫をはじき落としたのに相手が理解してくれないと思い、互いに落胆し、非難するような気持ちになっている。

問4 傍線部C「硝子にうつる私の顔は、泣き顔に見えた。」とあるが、なぜそう見えたのか。その理由として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

① 飾り看板を眺め入っていただけのところを写真に撮られて、警察に疑いをかけられてしまった自分の立場を意識するあまり、思いがけず見つけたたま虫を摑まえることまでためらってしまう自分に情けなさを感じているから。
② 美しいたま虫を見つけたにもかかわらず、貧乏で社会的にも不安定な立場にあるとの理由で警察に疑いをかけられてしまう可能性があるため、たま虫を摑まえたいという長年の希望をかなえられない自分に悔しさを感じているから。
③ たま虫を摑まえようとしていたために警察に誤解されたのだと気がついたが、今おかれている立場ではそれを説明しても誤解は解けないと予想して、たま虫に手をのばすことができない自分に無力さを感じているから。
④ 自分が写真に撮られた理由を確認するという目的があって来たのにもかかわらず、警察に疑われている立場を忘れて突然現れたたま虫の美しさに心を奪われ、ながいあいだたま虫を眺めている自分にふがいなさを感じているから。
⑤ 警察に注意人物とみなされ出頭を命じられるという困難な状況に追い込まれている立場を意識するあまり、以前から好きだったたま虫を偶然に発見しても、その美しさを感じる余裕を持てない自分に寂しさを感じているから。

問5 傍線部D「私は人を押しのけはしないのだと心のなかで思いながら、実は少しばかり人を押しのけながら割り込む必要を覚えた。」とあるが、この時の私の考えはどのようなものか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

① 自分と他人の幸福を比較しても仕方がないと知っているので、他人以上に幸せになろうとしたり、他人の幸福を妨げたりはするまいと思いながら、世の中で自分の幸せを見つけるためには、何か行動を起こして他人とぶつかる必要もあると気づきはじめている。
② 自分の出世のために他人を踏み台にしてもどうしようもないと知っているので、自分に有利な状況を作るようなことはしたくないと思いながら、自分の態度をわずかながら変化させることで、周囲とのより良い関係を保てるという可能性に気づきはじめている。
③ 自分自身は弱い人間だと知っているので、反抗せずに負けて不愉快な状況になるのは仕方がないとあきらめ、人に対して強く自己主張はするまいと思いながら、社会の中で生きていくためには、自分の立場も守らなければならないことに気づきはじめている。
④ 自分は正当な助言や指導を与えられれば素直に従う性格だと知っているので、他人の言葉を受け入れて自らの行動を決めようと思いながら、他人の言葉の裏には自分を支配したい欲求もあるのだから、時にはそれをはねのけた方がよいとも気づきはじめている。
⑤ 自分よりも強い相手には逆らわないようにするのが無難だと知っているので、あらかじめ自分の限界を決めて新しいことには踏みきるまいと思いながら、人々と共に生きるためには相手の気持ちに配慮しつつ、自分の望む形を通すことも大切であると気づきはじめている。

問6 この文章における表現の特徴の説明として適当なものを、次の①~⑥のうちから二つ選べ。ただし、解答の順序は問わない。

① 過去の回想として描かれた各部分の内部は、まず語り手が出来事の概略を述べ、次に登場人物の私に寄り添ってその視点からそれぞれの出来事を主観的に語るという手法をとっている。
② 傍線部Ⅰ以降は、小学生時代、大学生時代、無職時代、校正係時代における私の「悲しいとき」の状況を、羽根の色が幸福のシンボルとされるたま虫との関わりを通して描くという構成になっている。
③ 傍線部Ⅱの「私はゲラ刷りの綴針をぬきとって、彼を標本みたいに電信柱にとめつけた」という描写には()()表現が用いられていて、たま虫に自分自身の境遇を投影する私の心境が効果的に描き出されている。
④ 傍線部Ⅲと傍線部Ⅳで「生きているように」と繰り返すことで、死んだように生きていると感じている私と比べ、より生き生きとして見えるたま虫の様子を明示的に表している。
⑤ 傍線部Ⅴからの最終場面で四回繰り返して述べられている「水をのむ」ことは、たま虫が粉末になったことと対比されていて、たま虫の乾いた死を引き合いに出して、みずみずしさを保っている私の生を強調している。
⑥ 幸福についての私の考え方の変化を、傍線部Ⅵからの「たま虫のことを忘れて」「醜悪な粉末となっているのを発見し」「その粉末を窓の外にふきとばした」という一連の描写を通して象徴的に表現している。

解説

問1
 (ア)「浅慮」は「考えが浅いこと」、「嘲笑」は「あざ笑う=馬鹿にして笑う」ということであることを踏まえて選択肢をチェックすると、「浅慮」の言い換えで①と⑤に絞られるが、「嘲笑」については辞書的定義と完全に一致するものがない。そこで、「馬鹿にする」というニュアンスを踏まえているものはどれかとチェックをかけてみれば、少なくとも⑤が落とせるから、答えは①で確定。
 ①:「短絡的な考え」○、「見下した」○
 ②:「卑怯なもくろみ」×、「軽蔑した」○
 ③:「粗暴な行動」×、「冷淡な態度をとった」○
 ④:「大人げない計略」×、「非難した」○
 ⑤:「軽率な思いつき」○、「無視した」×
 (イ)「通俗的」とは「分かりやすくて、一般の人に親しまれる」ことであるから、④が答え。
 ①:「野卑」×、「品位を欠いている」×
 ②:「素朴」×、「面白みがない」×
 ③:「気弱」×、「見た目を気にする」×
 ④:「平凡」○、「ありきたり」○
 ⑤:「謙虚」×、「ひかえ目」×
 (ウ)「さしでがましい」とは「必要以上に他人に関与し、出しゃばるような感じを与える様子」のことであるから、③が答え。(「彼女の手紙は実にくどくて」という箇所も、解答の確認に使える。)
 ①:「人の気持ちを酌んで」×、「自分の主張を変える」×
 ②:「人のことを思い通りに操ろうとする」×
 ③:「人の事情に踏み込んで」○、「無遠慮に意見したがる」○
 ④:「人の意向よりも」×
 ⑤:「思いやる」××

問2
傍線部を見れば、「悲しさ」「泣く」と心情それ自体は明確です。ですが、「悲しさ」という言葉に「もとの」という修飾語がついていることを押さえてください。言ってみればこれは指示語みたいなもので、少し前に「悲しさ」が一度出てきているはずです。それを遡れば、「兄」が「私の頬をなぐ」り、「大声に泣いた」という行動を示していることはすぐに分かるでしょう。これがポイント(a)。
次に、そういった心情に至るまでの流れを押さえます。すると、直前に「誰にこの美しい虫を見せてよいかわからなかった」(b)とあります。
ですから、まとめるなら、「美しい虫を誰にも見せられない」(b)という悲しさのせいで、もとの悲しさ=「兄に殴られて泣いた」(a)ことが思い出された、ということになります。これを押さえているのは①しかありません。
  ①:「兄になぐられて木立ちの中に駆け込んだ時の悔しさ」a○、「誰とも打ち解けられずひとりでやり過ごすしかない寂しさ」b○
  ②:「抵抗もできずに兄から逃げ出した時の臆病さ」a○、「兄や叔母にいつ見つかるかわからないという恐怖」×
  ③:「兄に歯向かうことができなかった情けなさ」a○、「憤り」×(泣いているのだから、憤慨しているとは考えにくい)
  ④:「兄の粗暴な振る舞いに対する怒り」×、「仕返しをしようとしても叔母への告げ口しか思いつかない無力感」×(無力感があるのは問題ないが…)
  ⑤:「兄の過ちを正面から諭さなかったことを後悔し」×(飛躍)、「自分の行動の意図が兄はもちろん叔母にも理解されないだろうという失望感」×(読み取れない)

問3
傍線部に至るまでの「二人のやりとり」を把握する問題ですが、まずは通常通り心情問題として考えましょう。すると傍線部中には「深い吐息」「相手をとがめるような瞳」という2つの表現があります。そしてこれらの心情は二人両方が抱いている心情です。実はこれを押さえるだけでも、対応している選択肢は⑤しかないことに気付けます。(③の「責める」は「とがめる」の言い換えとして採用できますが、「深い吐息」の言い換えがありません。)
そのうえで、そうした心情的な対立が起こり始めたきっかけをたどれば、「彼女はすばやく指先でその昆虫(=「私のレインコートの胸」にとまっていた「たま虫」)をはじき落してしまった」という箇所から二人の対立やすれ違いが始まっていることが分かります。そして、傍線部直前の2人のやりとり(=会話)では、「でも」→「だって」という流れからも分かるように、「私」はたま虫を「美しい」と考え(a)、一方「彼女」はたま虫を「邪魔だ」と捉えており(b)、ここが2人のそれぞれの価値観・認識と言っていい部分です。そこまで踏まえれば、より精度の高い選択肢チェックが可能で、やはり⑤が答えです。
 ①:「幼い時から好んでいるたま虫が邪険にされたことを悲しみ」a○、「恋人の優しさに疑いを抱いて」×(「優しさ」は無関係)、「自分よりもたま虫を大切に扱うかのような私の態度」×(本文不在の比較)、「不信感を持ち、うらめしいような気持ち」○(傍線部中の「相手をとがめるような瞳」より)
 ②:「悲しい体験を思い出させるたま虫が恋人との密会時に現れたことにとまどい、過去の経験にとらわれている」×(「過去」の「悲しい体験」というのはポイントではない)、「たま虫を私のコートにとまった虫としてはじき落としたのにその配慮に気付かない私に失望し」b○、「相手を理解できない気持ち」○
 ③:「肩に置いた手をたま虫を口実にして恋人に振り払われたと考え、ショックを受けている」×(ショックの内容が違う)、「その私をなだめようとした」×(「その」の内容がそもそも×なので)、「相手の態度にとまどい、責めるような気持ち」×(「とまどい」が×、「責める」は○)
 ④:「恋人との密会時に現れたので気持ちを高ぶらせ、それを恋人に伝えようとしている」×、「私がいったん肩に手を置きながらたま虫に気をとられたことに傷ついており」×、「互いの言葉が通じないことに苛立つ気持ち」○
 ⑤:「突然現れた美しいたま虫を無慈悲に扱われたことに驚き」a○、「恋人を責めるような発言をしている」○(「たま虫ですよ!」とあるのでOK)、「大切な二人の時間を邪魔したたま虫をはじき落としたのに相手が理解してくれないと思い」b○、「落胆し、非難するような気持ち」○(傍線部の「深い吐息」「とがめる」に対応)
なお、②と⑤を選んだ人に言いたいのですが、「たま虫」が「密会時に」「現れた」ときの「私」の心情は描かれていましたか?描かれる間もなく、「彼女」はたま虫をはじき落とすという行動に出てしまいましたよね。今回、本文で描かれている心情というのは、はじき落とされたことに伴う二人の心情なのですから、選択肢で述べられている心情表現に決して流されないようにしてくださいね。あくまで本文で述べられている心情とそれに対応する場面を押さえ、そこをベースに考えてほしいものです。

問4
なぜ「私」は自分の顔が「泣き顔」に見えたのか、という設問要求です。当たり前ながら、この「泣き顔」は、「私」の持つ「泣きたいような気持ち」を象徴(示唆)していると考えることができます。そして、そんな「私」の具体的認識は直前部から明確です。「たま虫」の登場をきっかけに、
 「私」は「硝子の破れ目」にいる「たま虫」を「捕えようとした」(a)
  ↓
 「けれど」「私の直ぐ後ろで警察の人達がカメラをもって私をねらっているかもわからない」(b)
  ↓
 「随分長いあいだたま虫を眺め(a)ながら、顔をしかめる表情を続けてみた
このように心情が動いていることに注目できたかどうかです。つまり、ここでの心情は2つです。一つは、たま虫を捕まえたいという気持ち(a)、そしてもう一つは、それを邪魔する、「警察の人達がいるかもしれない」という邪念(b)です。
より深い分析をするなら、「続けてみた」という意図的行動を示唆する表現があることから、「本来なら美しいたま虫を目の前に喜んだ表情をしたいところだが、警察の人達がいると厄介なので、わざと顔をしかめる表情をした」ことが読み取れるので、「素の表情が出来ないのが辛い」というのがより本質的なポイントになります。
 ①:「警察に疑いをかけられてしまった自分の立場を意識する」b○、「たま虫を摑まえることまでためらってしまう」a○、「情けなさ」○
 ②:「警察に疑いをかけられてしまう可能性がある」b○、「たま虫を摑まえたいという長年の希望」×(「昔から」摑まえたがっていたことは読み取れない)
 ③:「警察に誤解されのだと気がついた」×(警察がそこに存在していた前提になっている。「誤解されるかもしれない」なら○)、「たま虫に手をのばすことができない」a○、「無力さ」○
 ④:「自分が写真に撮られた理由を確認するという目的があって来た」○、「警察に疑われている立場を忘れて」××、「ながいあいだたま虫を眺めている」b○、「ふがいなさ」○
 ⑤:「警察に注意人物とみなされ出頭を命じられるという困難な状況に追い込まれている立場を意識する」b○、「その美しさを感じる余裕を持てない」×(「捕まえられない」というポイントとズレている)

問5
傍線部を分析すると、「私は人を押しのけはしないのだと心のなかで思い」ながらも「人を押しのけながら割り込む必要を覚えた」という、心情の交錯(アンビバレントな心情)と言っていい描写になっています。人によっては、心情の変化と捉えた人もいるでしょう。これまでずっと反抗心を持たずにやってきた「私」が、ついに反抗心を持ち出すという切り替わりの場面であり、こういうところには設問が設置されやすいのです。
そして、設問の要求を見れば、「私」の「考え」となっていますから、「心情」を問うというよりは価値観を問う問題になっていることが分かります。ですから、今回の場面に限定して考える必要はありません。
まず「押しのけはしない」に関しては、近い箇所で言うなら、編集員の松本清太郎に殴られた際に反抗しなかったシーンが対応します。「私は自分が喧嘩に弱いと信じていたので、彼に対して反抗しなかった」(a)と明示されています。より範囲を広げるならば、問2で確認したように、兄に殴られたときに反抗しなかったシーンも同じように結び付けられます。つまり、「私」としては、自分の弱さを自覚しているので、強い人には反抗しないほうが無難だ、という考えでいるわけです。
そんな「私」が、「たま虫」の死を目の前にして、反抗心を持つようになりはじめました。その理由を考えていくことが実は、このあたりに設置されている他の設問(問6の③④)を考えることにも繋がっていきますが、皆さん自身が答えを出せなくても、消去法で十分に答えを絞り出すことは可能です。
 ①:「自分と他人の幸福を比較しても仕方がないと知っている」×(本文不在の比較)
 ②:「自分の出世のために他人を踏み台にしてもどうしようもないと知っている」×
 ③:「自分自身は弱い人間だと知っている」○
 ④:「自分は正当な助言や指導を与えられれば素直に従う性格だと知っている」×
 ⑤:「自分よりも強い相手には逆らわないようにするのが無難だと知っている」×(本文不在の比較)
実はこのように、本文に明示されたものと対応しているものは③しかありません。そして、③を信用するのであれば、③の末尾「社会の中で生きていくためには、自分の立場も守らなければならない」という箇所を利用して本文の理解を深めればいいのです。つまり、無職なうえに、警察にも疑いをかけられ、社会的な立場を失った「私」が、「生きていく」決意をしている、というのがこのシーンなのです。

問6
まずは、以下の4つの選択肢を的確に判断することがスタートでしょう。
 ①:「まず語り手が出来事の概略を述べ」×(この小説は、一人称視点で書かれた「私小説」。すべて「私」の視点で書かれている。)
 ②:「小学生時代、大学生時代、無職時代、校正係時代における私の『悲しいとき』の状況」○、「羽根の色が幸福のシンボルとされるたま虫とのかかわりを通して描く」○
 ⑤:「みずみずしさを保っている私の生」×(「みずみずしい」という語の意味を知らない人が引っかかるように作ってあると思われる。「みずみずしい」は決して「湿っている」「水っぽい」ということではなく、「若々しい」という意味であり、「私の生」が「若々しさを保っている」とは言えないので×)
 ⑥:「幸福についての私の考え方の変化」×(「生き方」の変化は暗示的に示されているが、「幸福についての考え方」の変化は示されていない)
まずこの段階で②が正解の一つです。
すると、残った③④(どちらも同一の場面を問うている)のどちらが正解か、ということになります。ここは選択肢を比較して焦点を炙り出すという比較法が有効でしょう。もちろん、③の「比喩表現」(厳密には直喩)は合っており、表現技法それ自体の説明二関しては特に文句はありません。
 ③:「たま虫に自分自身の境遇を投影する」
 ④:「死んだように生きていると感じている私と比べ、より生き生きとして見えるたま虫」
ここに解釈の差が明確に表れていることに気付けたでしょうか。③では「たま虫=自分(=死)」、④では「たま虫⇔自分」となっています。実際のところどうでしょう? ここでヒントになるのは直前の設問、すなわち問5です。ここで「私」が反抗心を覚えたのは、表面的に見れば「たま虫」の「死」がきっかけですが、本質的には、社会的に立場を失った「私」が生きていく決意をした、というのがポイントでした。となれば、「たま虫の死」と「私の社会的な死」をここは重ね合わせて解釈するのが妥当ではないでしょうか?となれば、③のほうが適切、ということになります。
もちろん、実際に死んでいるたま虫を「より生き生きとして見える」と表現するのは無理があるだろう、と考えて④を消去して頂いても結構です。また、「明示的」というのも無理があります。
ですが、③を積極的に納得して選んでやるためには、他の設問も連動させることによってアグレッシブに解釈できる力が必要です。そのためには、解くスピードも大切です。解いたばかりの問5の内容をここに活かせた人は、速く正確に答えを出すことができたことでしょう。

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最終更新:2023年12月25日 22:03