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東大寺 - (2011/04/06 (水) 01:37:16) の1つ前との変更点

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*東大寺 とうだいじ #ref(東大寺.jpg) 華厳宗大本山の寺院。「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」ともいう。 本尊は「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。 東大寺大仏殿は、世界最大の木造建築物として知られている。 古代から現代に至るまで貴賎を問わず広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。 古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。 |所在地|[[奈良県]][[奈良市]]雑司町406-1| |電話|0742-22-5511| |料金|境内自由、大仏殿・法華堂・戒壇堂は各500円| |時間|8:00~16:30(季節により30分前後する)| |URL|[[http://www.todaiji.or.jp/>>http://www.todaiji.or.jp/]]| ---- **伽藍 ・南大門([[国宝]]) 平重衡の兵火(1180年)による焼失後、鎌倉時代の1199年(正治元年)に復興されたもの。 東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫(ぬき)と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士像(国宝)と石造獅子1対(重文)を安置する。 ・中門([[重要文化財]]) 金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)。1716年(享保元年)頃の再建。中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至る。 ・金堂(大仏殿)(国宝) ・念仏堂(重要文化財) 鎌倉時代の建築。同じく鎌倉時代の地蔵菩薩坐像(重要文化財)を安置する。 ・鐘楼(国宝) 鎌倉時代、13世紀初頭の建築。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752年)の制作で、中世以前の梵鐘としては最大のもの(高385センチ、口径271センチ)。 ・法華堂(三月堂)(国宝) 境内の東方、若草山麓にある。東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の羂索堂(けんさくどう)として建てられたもので、記録により743年(天平15年)までには完成していたと思われる。 ・二月堂(国宝) 旧暦2月に「お水取り」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け残ったが、1667年(寛文7年)、お水取りの最中に焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない秘仏である。 ・開山堂(国宝) 開山(初代住職)良弁(ろうべん)の肖像を安置するための堂。内陣は1200年(正治2年)、外陣は1250年(建長2年)の建築で、東大寺南大門とともに、大仏様建築の数少ない遺作。本尊木造良弁僧正坐像(国宝)は平安初期9世紀の作品で、良弁の命日の12月16日のみ公開される。 ・三昧堂(四月堂)(重文) 本尊千手観音像(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。 ・大湯屋(重文) 鎌倉時代の建築。内部に鉄湯船(重文)が残る。 ・転害門(国宝) 境内西北、正倉院の西側にある八脚門。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火に焼け残った寺内で数少ない建物の1つ。鎌倉時代に修理されているが、基本的には奈良時代の建物である。 ---- **歴史 733年(天平5年)、若草山麓に創建された金鐘寺(こんしゅじ)が東大寺の起源であるとされる。 741年(天平13年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌742年(天平14年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。 大仏の鋳造が始まったのは747年(天平19年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。 752年(天平勝宝4年)に大仏開眼会(かいげんえ)が挙行され、その後大仏殿の建設工事が始められ、758年(天平宝字2年)に竣工した。 奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門-中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100メートルと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。745年(天平17年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。 また、平安時代には南都の有力権門として黒田庄に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。また、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。 1180年(治承4年)の平重衡の兵火で、近隣の興福寺とともに壊滅的な打撃を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失ったが、1190年(建久元年)に、大仏殿を再建した。 その後、戦国時代の1567年(永禄10年)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。大仏の修理は1691年(元禄4年)に完成し、再建大仏殿は1709年(宝永6年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の3分の2に縮小されており、徳川幕府の援助をもってしても、当初の規模を再現することは不可能だった。 また、講堂、食堂、東西の七重塔などは近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている。 ---- **関連項目 #RELATED ・タグ &TAGS() ----
*東大寺 とうだいじ #ref(東大寺.jpg) 華厳宗大本山の寺院。「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」ともいう。 本尊は「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。 東大寺大仏殿は、世界最大の木造建築物として知られている。 古代から現代に至るまで貴賎を問わず広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。 古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。 |所在地|[[奈良県]][[奈良市]]雑司町406-1| |電話|0742-22-5511| |料金|境内自由、大仏殿・法華堂・戒壇堂は各500円| |時間|8:00~16:30(季節により30分前後する)| |URL|[[http://www.todaiji.or.jp/>>http://www.todaiji.or.jp/]]| ---- **伽藍 ・南大門([[国宝]]) 平重衡の兵火(1180年)による焼失後、鎌倉時代の1199年(正治元年)に復興されたもの。 東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫(ぬき)と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士像(国宝)と石造獅子1対(重文)を安置する。 ・中門([[重要文化財]]) 金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)。1716年(享保元年)頃の再建。中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至る。 ・金堂(大仏殿)(国宝) ・念仏堂(重要文化財) 鎌倉時代の建築。同じく鎌倉時代の地蔵菩薩坐像(重要文化財)を安置する。 ・鐘楼(国宝) 鎌倉時代、13世紀初頭の建築。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752年)の制作で、中世以前の梵鐘としては最大のもの(高385センチ、口径271センチ)。 ・法華堂(三月堂)(国宝) 境内の東方、若草山麓にある。東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の羂索堂(けんさくどう)として建てられたもので、記録により743年(天平15年)までには完成していたと思われる。 ・二月堂(国宝) 旧暦2月に「お水取り」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け残ったが、1667年(寛文7年)、お水取りの最中に焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない秘仏である。 ・開山堂(国宝) 開山(初代住職)良弁(ろうべん)の肖像を安置するための堂。内陣は1200年(正治2年)、外陣は1250年(建長2年)の建築で、東大寺南大門とともに、大仏様建築の数少ない遺作。本尊木造良弁僧正坐像(国宝)は平安初期9世紀の作品で、良弁の命日の12月16日のみ公開される。 ・三昧堂(四月堂)(重文) 本尊千手観音像(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。 ・大湯屋(重文) 鎌倉時代の建築。内部に鉄湯船(重文)が残る。 ・転害門(国宝) 境内西北、正倉院の西側にある八脚門。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火に焼け残った寺内で数少ない建物の1つ。鎌倉時代に修理されているが、基本的には奈良時代の建物である。 ---- **歴史 733年(天平5年)、若草山麓に創建された金鐘寺(こんしゅじ)が東大寺の起源であるとされる。 741年(天平13年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌742年(天平14年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。 大仏の鋳造が始まったのは747年(天平19年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。 752年(天平勝宝4年)に大仏開眼会(かいげんえ)が挙行され、その後大仏殿の建設工事が始められ、758年(天平宝字2年)に竣工した。 奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門-中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100メートルと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。745年(天平17年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。 また、平安時代には南都の有力権門として黒田庄に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。また、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。 1180年(治承4年)の平重衡の兵火で、近隣の興福寺とともに壊滅的な打撃を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失ったが、1190年(建久元年)に、大仏殿を再建した。 その後、戦国時代の1567年(永禄10年)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。大仏の修理は1691年(元禄4年)に完成し、再建大仏殿は1709年(宝永6年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の3分の2に縮小されており、徳川幕府の援助をもってしても、当初の規模を再現することは不可能だった。 また、講堂、食堂、東西の七重塔などは近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている。 ---- **関連項目 #RELATED ・タグ &TAGS() ----

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