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高知城跡 - (2006/04/09 (日) 17:59:33) の編集履歴(バックアップ)


高知城跡


高知県高知市丸の内。国指定史跡。戦国時代以前は大高坂山城と呼ばれた。
城郭の形式は梯郭式平山城。
高知平野のほぼ中心に位置し鏡川、江の口川を外堀として利用している。現在見られる城郭は江戸時代初期、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代・忠義の時代に完成を見た。4層5階からなる天守は一豊の前任地・掛川城の天守を模したと言われている。

明治6年(1873年)に発布された廃城令や第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し国の重要文化財に指定されている。高知城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館として資料館(有料)となっている。公園周辺は高知県庁、裁判所、検察庁などの公共施設が建ち並ぶ高知県の中枢となっている。

大高坂城を「おおたかさ」と読むか「おおたかさか」と読むかで揉めている。なお対になる小高坂は「こだかさ」と読む。

歴史

南北朝時代、南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸がこの地(大高坂山)に城を構え大高坂山城とした。
1338年(延元3年)後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎える。
1341年(興国2年)松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦い落城。廃城となる。
1587年(天正15年)豊臣秀吉より土佐一国を安堵された、長宗我部元親がこの地に築城した。
1591年(天正19年)僅か3年で水はけの悪い大高坂山城を捨て、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築城した。
1601年(慶長6年)関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与し改易となり、代わって山内一豊が土佐一国24万2千石を与えられ浦戸城に入城した。
慶長6年8月、浦戸は城下町を開くには狭いため百々綱家(どど つないえ)を総奉行に任じ、翌月より大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備の為に鏡川・江の口川など河川の治水工事に着手した。
1603年(慶長8年)本丸と二の丸が完成。一豊は8月21日(9月26日)に入城した。この際に真如寺の僧・在川(ざいせん)により河中山城(こうちやまじょう)と改名された。
1610年(慶長15年)洪水が相次いだため、2代藩主・忠義は河中の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)により高智山城と改名。この時より後に城の名は省略され高知城と呼ばれるようになり、町名も高知と呼称されるようになった。
1611年(慶長16年)三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成した。
1727年(享保12年)高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが消失した。
1729年(享保14年)8代藩主山内豊敷は深尾帯刀(ふかお たてわき)を普請奉行に任じ、城の再建に着手。
1748年(寛延元年)天守ほか櫓・門などが完成。天守は小振りとなったが焼失前と酷似した外観が保たれた。
1753年(宝暦3年)再建完了、現在見られる建造物の殆どは、この時再建されたものである。
1873年(明治6年)廃城令に伴い高知公園となる。この際に現存建造物以外の建造物が破却された。