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- (2006/01/04 (水) 00:09:38) の編集履歴(バックアップ)


はん

1868年(明治元)から1871年(明治4)まで存在していた行政区分。

江戸時代

江戸時代に大名(幕府から1万石以上の領地を与えられた武家)が支配した領域および、その支配機構のことを、江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ「藩」と命名した。
江戸時代は儒学文献上の別称として使われただけで、公式には「藩」とは呼ばれたことはなく、「○○家中」と呼ばれた。

明治時代

1868年(明治1)明治政府が旧幕府領を府・県とし、中央政府から府知事・県令が派遣され、旧大名は東京への移住が命じられた。
旧大名領は藩とし、旧大名の居所の所在地名をつけ「○○藩」が行政区分名になった。274藩あった。大名は従来どおり支配した。(府県藩三治制)
1869年までに版籍奉還が行われ藩は国のものとなり、大名は知藩事に任命され、藩を統治。
藩領と天領とは入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率だった。

廃藩置県

1871年、中央集権を確立して国家財政の安定をはかるため、藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した。(廃藩置県)
知藩事は失職し、新に中央政府から県令(後の県知事)が派遣された。
最初は藩をそのまま県に置き換えたため、3府302県と細かく分かれていた。旧幕府・旗本領や旧中小藩を引き継いだ県では県庁所在地周辺よりも多くの飛地を遠隔地に持つものがが多く地域としてのまとまりがなく、非効率的だった。

府県統合

府県統合によって、各府県の管轄範囲は令制国…・郡を単位とするものに再編され3府72県に統合された。

その後3府(東京府・大阪府・京都府)の数はそのままだが、県の数は69県(1872年)、60県(1873年)、59県(1875年)、35県(1876年)と統合が進んだ。

今度は逆に大き過ぎたために、地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来て、次は分割が進められて、1888年(明治21年)には3府43県(除北海道)となって最終的に落ち着いた。

統合によって出来た府県境は、令制国…のものと重なる部分が多い。
石高を30~60万石の規模の大きさ(後には90万石まで引き上げられた)にして、行財政の負担に耐えうる規模にするように心がけられたという。