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丸亀城跡 - (2006/12/21 (木) 15:29:46) のソース

*丸亀城跡
**まるがめじょうあと

#ref(丸亀城.jpg)
室町時代から江戸時代に存在した城の跡。

現在は亀山公園として整備されている。
現存する12ヶ所の天守の一つである。石垣の高さは60mで日本一高い。


丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66m)を利用し、日本一高い60mの石垣が扇の勾配と云われる手法で組まれているのが特徴的である。縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りは堀(内堀)に囲まれている。
 
城全域は天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋が現存しており、天守・大手一の門・大手二の門は国の重要文化財に指定されている。外堀は明治頃まで周回していたが、年とともに減少し、一部残されていた南側(丸亀高校の南側)の箇所も今はなく外濠緑道公園として整備されている。

|別名|亀山城、蓬莱城|
|文化財区分|国指定史跡|
|城郭構造|輪郭式平山城|
|天守構造|独立式層塔型|
|所在地|[[香川県]]丸亀市一番丁|

・天守
|料金|200円|
|時間|9:00~16:30|
|休館日|12/25~2/末|

*歴史
・室町時代初期、管領・細川頼之の重臣の奈良元安が亀山に砦を築く。 
・1597年(慶長2年) 豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築く。 
・1602年(慶長7年) 6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成。 
・1615年(元和元年) 一国一城令により破却の危機にさらされるが、時の藩主・生駒正俊は要所要所を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限。城を破却から守った。 
・1640年(寛永17年) 生駒氏、お家騒動(生駒騒動)のため出羽国矢島(現・秋田県由利本荘市)に転封となる。 
・1641年(寛永18年) 山崎家治が肥後国富岡(現・熊本県天草郡苓北町)より5万石で入封。丸亀藩が立藩。 
・1642年(寛永19年) 城の改修に着手。 
・1658年(万治元年) 山崎氏、3代で断絶し改易となる。代わって播磨国龍野(現・兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封。以後、明治時代まで京極氏の居城となる。 
・1660年(万治3年) 現在の3層3階の天守が完成。 
・1673年(延宝元年) 32年の歳月を要し大改修が完了。現存する石垣の大半はこの改修の際に完成したものである。 
・1869年(明治2年) 三の丸の戌亥櫓が火災により焼失。 
・1873年(明治6年) 名東県の広島鎮台第2分営が設置される。 
・1877年(明治10年) 現存の建物以外の櫓・城壁等の解体が始まる。

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・[[2004年春合宿プレ]] (&html(<A href="http://4travel.jp/traveler/piro/album/10008972/" target="_blank">3月5-7日旅行記</A>))
3月7日(日)

・[[城跡一覧]]


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