2011年9月1日(木)
金沢 ひがし茶屋街、金沢城
上野から長岡まで上越新幹線。
長岡から金沢まで特急北越。
近江町市場は一部が再開発事業が行われたが、雰囲気は昔のまま。
お昼ごはん後は、今日の宿がある主計町まで荷物を預けに行く。
国道159号…を歩いていく。この道は江戸時代の北国街道で、このあたりの近江町一帯は経済の中心だったところ。
通り沿いに歴史的建築が残っている。
銀行建築が三つあった。江戸時代は両替商だったんだろうか。
伝統的な町家。
つし二階(二階が低い)ものや、二階のもの、三階を増築したものがあって、歴史の積み重ねが見える。
薬屋さんなど、おそらく建てられた当時と同じ用途で現役で使われてる。
昭和初期の鉄筋コンクリート建築も。
マンションが建っているところがちょこちょこあるものの、全体としては古い建築が残っているのは、金沢の商業の中心地が香林坊に移っていったからだろうな。
尾張町の東の端、橋場交差点にあった東内惣構跡。
金沢城の周囲を惣構の堀が二重に囲んでいたが、今はほとんど暗渠になっている。
その町並みの中にある
木津屋旅館が今日の宿。
荷物を預けて出発。
路地へ。
この先がくらがり坂。茶屋へ通う旦那衆が通ったという。
浅野川大橋を渡る。北国街道沿いに町屋が連なる。
三階建ての綿谷小作薬局が圧巻。
手前の建物は元銀行。今はレストランになっている。
そのレストランの右脇を通るのが観音町通り。
珠姫(加賀藩三代利常の正室)の発願で造営された観音院の参道。
ちょうど今の大河ドラマ江でも珠姫が出てきた。
経田屋米穀店。明治時代の建築。
ひがし茶屋街のメインストリート、二番丁。
江戸時代後期から明治時代あたりにかけての伝統的茶屋建築が多く残っている。
三階が増築されたものも少しあるが、主計町のようにたくさんはない。
江戸から明治にかけての景観にきれいに
修景されて統一感のある町並みとなっている。
お茶屋はもう数件しかなく、観光客向けの飲食店や土産物店が増え、街の本来の機能は失われつつある。
朝顔は日本の町並みによくあう。
ひがし茶屋街を見下ろしたくて、観音院の参道を登る。
暑い中汗だくで登ったけど、観音院からは見えなかった。
そうだ、昔行ったのは
寶泉寺…だった、間違えた。
高さは同じくらいだけど、観音院と寶泉寺を結ぶ道がないので、いったん下る。
寶泉寺…に到着。汗だく。でも風が気持ちいい。
眺め。
ひがし茶屋街。
金沢の町は、黒い瓦が特徴。
ひがし茶屋街の建物も黒い瓦が葺かれている。ただ、元々は瓦葺ではなく石置き板葺だった。そのため、普通の瓦葺の屋根に比べて勾配がゆるい。
金沢城も見えた。左が石川門、右が橋爪門。
五本松
寶泉寺本堂。
鳥居で蝉が元気に鳴いていた。
二番丁の茶屋を利用した金箔の専門店、
箔座ひかり藏。蔵が金ぴか。
志摩。
ひがし茶屋街が作られた当時からある最も古い建築。
重要文化財。
現在は茶屋として使われていないが、内装も江戸時代のままとなっている内部を見学できる。
入ってすぐ階段があり、二階にあがると三つの座敷がある。
通り沿いの座敷。
座敷の隣にひかえの間。
客が床の間を背に上座に客が座ると、正面にひかえの間がくるようになっている。
通りに面して張り出した縁側。
中庭に面した座敷のひかえの間。
奥の座敷は他の二つと違って、派手さが抑えられていた。
細部まで凝っている。七宝焼きの引き手。
釘隠し。
石室
台所
茶屋で用意するのは場所と飲み物で、料理は仕出し屋からとり、芸妓は芸妓置屋から呼ぶ。
帳場。会計は後日払いだったらしい。
円長寺にあった方形屋根の蔵造りの建物。
めずらしい形だと思って調べたら、転輪蔵というもの。
経典が回転式の書庫に収められていてそれをまわすと読んだのと同じ利益が得られるとされているらしい。だから正方形の平面なのか。
北国街道沿いの米澤茶店。階高が高く立派な町屋。
大樋美術館。松が見事。すばらしい。
北国街道から路地に入る。大きな屋敷に洋風の離れがある。
寺島蔵人邸跡
尾坂門から金沢城に入る。
金沢城の大手(正門)はこちらで、石川門は搦手(裏門)。だが、門が現存し兼六園に近い石川門に比べ人は少ない。