日出城跡
ひじじょうあと
1602年(慶長7年)日出藩の初代藩主木下延俊が義兄であった細川忠興の支援を受けて築城。
別名「暘谷城」は、3代木下俊長が 中国の古書、『淮南子』から引用して名づけたと伝えられる。
構造
別府湾に突出した南端の台地に本丸、その東・西・北三方をコの字に囲むように二の丸、その東に三ノ丸が築かれていた梯郭式平山城で、本丸には複合型の3重3階の天守と5基の二重櫓、平櫓1基、大手門から多聞櫓(長屋)を隔てた南部に御殿が建てられていた。
天守
1602年に建てられた天守は、付櫓を付属する複合式の破風のない層塔型天守で、初重が南北9間半、東西8間、2重目が南北6間、東西5間、3重目が南北5間、東西4間あった。このように最下重が上重の逓減を逸脱して大きく造られており、小倉城天守や名古屋城大天守などと同じく、望楼式から層塔式の天守に移行する時期の特徴を持ったものであったと考えられている。
遺構
1874年(明治7年)に廃城令によって破却されたが、石垣が現存している。
本丸跡は、現在、日出町立日出小学校の敷地に利用されている。
また、鬼門櫓・裏門櫓(鐘櫓)・御裏門が部分的に移築されて現存しており、このうち鬼門櫓は日出城北西側に復元工事中である。裏門櫓は2000年(平成12年)に解体保存されている。
関連項目
最終更新:2016年10月20日 18:42