ハスカップ


スイカズラ科スイカズラ属の植物。実を食用とする。
北海道で自生、栽培され、菓子、ジャム、果実酒などに加工される。

名称

アイヌ語のハシカプ(ラテン文字表記:haskap)に由来する。その語源はハシ・カ・オ・プ(has-ka-o-p)であり、ハシ(has)は「枝」、カ(ka)は「表面」、オ(o)は「なる」、プ(p)は「もの」の意であるから、合わせて「枝の表面になるもの」という意味になる。

和名はクロミノウグイスカグラ(黒実鶯神楽)。
苫小牧では「ゆのみ」と呼ばれる。

分布

原産地はシベリア。渡り鳥が運んだものが、気候が適したところで自生している。
北海道苫小牧市の勇払原野では大群落で自生している。

特徴

実は熟すと青紫色になる。
野生のものは酸味が強く甘みはほとんどなく、やせた土壌ではより酸味が強くなる。
ビタミンC、アントシアニン、カルシウムなどが豊富に含まれている。
実はやわらかく、時間が経つにつれ溶け出してしまう。

利用の歴史

  • 開拓期~戦前
苫小牧周辺では、自生で群生していたため、つまんで食べられたり、塩漬、砂糖漬、焼酎漬などの保存食とされた。塩漬けは梅干代わりだった。
ハスカップの製品としては、沼ノ端駅で近藤待合所を運営していた近藤武雄氏が昭和8年に考案したハスカップ羊羹・ハスカップ最中が始まり。次にハスカップ飴も生み出された。これらは駅で立ち売りされた。
戦争中には、ハスカップジュースやジャムも販売され、ハスカップの名が広まったが、砂糖の配給が切れたことから製造中止となった。

  • 戦後
昭和30年頃、三星がよいとまけなどのハスカップ製品の製造販売を開始し、その頃からハスカップを摘む人が増えた。
同社がハスカップを原料として買い入
れたことや、同社の製品がハスカップの知名度を一段と広めたため。
市場にも出荷され、苫小牧市内の青果店などに並べられた。

  • 自生地の開発
1970年(昭和45年)に、苫東開発を主眼とした第3期北海道総合開発計画が閣議決定された。
ハスカップの保護が要望され、多くのハスカップが移植された。
苫小牧港と臨海工業地帯の建設で自生地の多くが消え、自生するハスカップが見られるのは、弁天沼周辺など勇払原野の一部と、ウトナイ湖岸などだけとなった。

  • 栽培の歴史
昭和48年頃から、美唄市の北海道立林業試験場で、ハスカップの増殖・栽培の本格的な試験を開始。その成果を受け、千歳市周辺の農家でハスカップ栽培が始められたのが始まり。
その後、新千歳空港工事により群生地が壊されることとなったため、昭和53年(1978年)頃から、千歳市農協と農家が千歳空港周辺や自衛隊演習地に自生するハスカップ株を採集し、農家の転作田に栽植して組織的な栽培が始められた。
美唄市内でも昭和52年(1977年)から、三星から委託されてハスカップ栽培が行われている。
昭和50年代、ハスカップ果実の絶対量が不足したため、取引価格が高騰したため、有利な転作作物として、北海道各地で急速に栽培面積が増加した
昭和55年から57年の3ヶ年で苫小牧西港の臨海工業基地や苫小牧東部工業基地の企業立地予定地から約23,000株が農家に移植され、昭和56年5月2日に苫小牧市農業協同組合が苫小牧市ハスカップ生産振興会を設立してから農作物
としての栽培が本格化した。
栽培面積は、昭和55年(1980年)の13haから、平成2年(1990年)には 167haに達した。
しかし、生産量の急増によって需要と供給のバランスが崩れ、果実価格が下落したことから栽培熱が冷め、平成3年(1991年)の169haをピークに栽培面積が減少し、最近では80ha前後とピーク時の半分までになっている。
しかし近年では、徐々に需要も伸びる傾向にあり、農家もハスカップ栽培に力を入れている。


参考サイト



関連項目




この項目のタグ  
北海道 地域食材 食べ物








最終更新:2018年09月02日 20:42