阿伎留神社
あきるじんじゃ
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東京都あきる野市にある神社。
祭神は大物主神 (おおものぬしのかみ)、味耜高彦根神 (あじすきたかひこねのかみ)、建夷鳥神 (たけひなとりのかみ)、天児屋根命 (あめのこやねのみこと)。
所在地 |
東京都あきる野市五日市1081 |
地図 |
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創建は不詳。
「延喜式神名帳」には「武蔵国多磨郡 阿伎留神社」と記載され、武蔵国多摩郡八座の筆頭とされている。
祭神は『風土記稿』では味耜高彦根神のみを挙げており、味耜高彦根神が元来の祭神とされる。
社名は「阿伎留」・「阿伎瑠」・「秋留」「畔切」とも書かれたが、いずれも「あきる」と読んだ。
当社は秋川の段丘上に鎮座しており眼下には水田が広がるが、この開発を進めた人々によって祭祀が始まったと考えられている。その由来は「あきる(=畔切)」という社名からもうかがわれる。
現在の宮司家は創立以来70余代目とされ、初代神主の土師連男塩が氏神を祭ったのに始まるとも考えられている
940年(天慶3年)鎮守府将軍藤原秀郷(田原藤太)が大原野明神(京春日)を勧請したことから、中世以降「春日大明神」と称されていた。また鎮座地により「松原大明神」と称し、通称は「松原さま」といわれていた。
鎌倉時代以後は武将の崇敬も篤く、源頼朝・足利尊氏・後北条氏からそれぞれ神領が寄進された。
徳川家康は、江戸入府の翌年天正19年(1591年)11月に、武蔵国多西郡秋留郷松原の内で十石を寄せ、それ以後代々の将軍は、家康の先例に従って、同じ土地を寄進し、その朱印状12通が遺されている。
江戸時代、当社神主は触頭(ふれがしら)をつとめ、秋川流域から小河内の28社が触下であった。6月、9月の末日を年中二度の大祭と称し、触下の神主が二班に分かれ、阿伎留社頭で武運長久、天下泰平の祈祷が行われた。
1873年(明治6年)12月には近代社格制度において郷社に列格。
1907年(明治40年)5月神饌幣帛料供進(しんせんへいはくりょうきょうしん)神社に指定された。
1954年(昭和29年)に宗教法人となった。
境内
1830年(天保元年)の五日市大火により、末社・神主宅に至るまで全てが焼けた。
幕府に請うて、江戸府中および武蔵国中の勧化許可を受け、資金資材の準備を進めたが、幕末多端の時で社殿造営にまで至らず、永らく仮殿のままだった。
1888年(明治21年)11月にようやく現在の本殿、拝殿が完成。
その後、大鳥居、神楽殿、神輿殿、社務所、玉垣などが建造された。
1966年(昭和41年)9月の台風25号により、杉、檜など大木が百本以上倒れ、昼なお暗かった境内林は半減した。
境内末社
- 3社合祭(大鳥神社・若電神社・熊野神社)
- 4社合祭(菅原神社・小川神社・占方神社・倭建命神社)
- 6社合祭(日枝神社・伊多弓神社・松尾神社・平野神社・庭津日神社・国造社)
- 4社合祭(稲荷神社・松原稲荷神社・白光稲荷神社・福穂稲荷神社)
境外末社
- 琴平神社 - 入野峰山頂に鎮座(位置)
- 熊野神社 - 中入野熊野山に鎮座
例大祭
9月28日-30日に行われる。別名「五日市祭」。
屋根と胴はすべて珍しい六角形で貴重な天保年中に制作された百貫(600㎏)を超える「六角神輿」 が先頭となり、そのあとに中神輿、さらには各町内の神輿が連合して街を練り歩く。またこの露払いとして五日市入野獅子舞が奉納され、檜原街道には多数の夜店が立ちならぶ。なお例大祭の日付が曜日によって変わることはない。
参考サイト
関連項目
最終更新:2014年01月08日 23:08