「ところでさ、あんた期待してるだろ」
「何をよ」
「胸がでかくなるの」
「そんなことないわよ」
核心をつかれて、声がうわずってしまった。
「胸が大きくなったときに備えて、あんたの手持ちの服で一番伸びる服着たんだろ」
図星だった。
「実験に臨んで、リラックスするためよ」
「ふーん。そうなんだ」
明らかに信用していない口ぶりだ。鷹藤が遼子を見た。
「それより、この部屋寒くないか」
「私は暑いくらいだけど」
「嘘だろ。エアコンの設定温度17度ってなんだよ。冷やしすぎだろ」
「だって暑いじゃない。このホテルのエアコンがおかしいのよ」
遼子はあまりに暑いので、ジャージのジッパーを胸の下あたりまで降ろした。それでも足りずに、美鈴の置いていった女性誌でまた扇ぎ始めた。
「それもやめろよ」
「なんでよ」
「風を送られると、なんていうか、香水が」
「香水?着けてないわよ。わたし」
「へ?すげーこう、いい感じの匂いがするんだけど。でも多少きついかな」
「何言ってるのよ。そっちが何か付けてるんじゃないの」
「俺も付けてないよ」
鷹藤は立ち上がると、遼子の方へ歩いてきた。遼子のそばで立ち止まると、しきりに匂いを嗅いでいる。
「やっぱりあんただよ」
遼子自身も、腕やジャージを持ち上げて嗅いでみるが、全くの無臭だ。
「いい匂いなんだけど、わからないか?」
そう言われて、遼子もまた自分の手首のあたりを嗅いでみるが、全くわからなかった。試しに口に手をかざし
息を吐いて、自分の息の匂いも嗅いでみたが、鷹藤が買ってきた焼肉丼のニンニクの残り香がしただけだ。
どう考えても色気のある匂いではない。
「やっぱり何の匂いもしないわよ」
そう言って顔を上げると、間近に鷹藤の顔が来ていて驚いた。
「ホント、いい匂いなんだ。嬉しくなるほど、いい匂いなんだよ」
鷹藤の顔が近づく。
「な、なにしてるのよ」
無意識に首筋に顔を近づけていた鷹藤は、目が覚めたようにして止まった。
「あ、ごめん…。あれ、おっかしいな」
遼子を見つめる目が、いつもの半ば馬鹿にしたような目つきではなくなっている。
「あんたってさ、美人だったのか」
「はあ」
女としては最上級に近い言葉を贈られたはずなのに、遼子の口から出たのは、なんとも間抜けな返事だった。
遼子の妄想の中では遠山からそれに近い言葉を数限りなく言われているが、現実の世界でそんなことを言われ
たことはない。
実際言われた時、まともに返答することが至難の業であることを、この時遼子は思い知った。
だが、自分の恰好と言えば、暑さでだらしなくジッパーを降ろしたジャージに首にはタオルだ。
こんな状況でそんなことを言う鷹藤を疑った。
だがこちらを見つめる鷹藤の目にふざけた感じが無い。それが逆に不気味だった。
「鷹藤君、どうしたの」
鷹藤の目の前で手を振る。
「あんた、いい匂いするな」
陶然としながらこちらを見る鷹藤に異様なものを感じて、遼子は後ずさった。
「逃げるなって」
口元は笑っているが、目つきは真面目そのものだ。
「ちょっと、なんだか普段と違うよ、鷹藤くん」
鷹藤の手が伸びる。それから逃れるべく、別方向に歩みだそうとしたとき、肩を掴まれた。
「逃げないでくれ」
いきなり鷹藤が抱きしめてきた。経験がないだけに、こんな場合どうしていいのかわからずに鷹藤の腕の中
で遼子は慌てていた。
股間をけり上げればいいのだろうか。だがそれは痴漢相手にすることだ。
いま鷹藤がしていることは限りなくそれに近いが、なんとなく、遼子は腕の中で心地よさを感じてしまっている。
鷹藤の温もりが気持ちよくて、遼子は思わず同僚の腕の中で一瞬目を閉じてしまった。
ただ、これは様子がおかしい。
あんなにいつも遼子のことを馬鹿にする鷹藤が突然こんな風になるなんて、やはりあり得ない。
「離して…」
鷹藤の腕の中で抗う。
「離せないんだ。すごく、いい匂いで。ずっとそばにいたくなるような匂いで」
そう言いながら、鷹藤は遼子の顔に乱れて落ちてきた髪を愛しげに梳いている。
なすがままの遼子は、鷹藤の言葉を反芻していた。
匂い。さっきからこの言葉ばかり出てくる。
『グラン・バスト』バカげた商品名のあの薬が頭にひらめいた。
あれを飲んでから、身体が火照って、暑くなってきて…。豊胸剤じゃない。あれは。
みんな飲んでから半日以内に襲われた…。一体あれは何の薬だ。
「鷹藤くん、目を覚まして。おかしいよ」
「目なら開いてるよ。あんたこそ、暴れるなよ」
遼子を抱きしめる鷹藤の腕に力が込められ、二人の身体が密着する。
二人の顔が近づいた。
「怒るわよ」
「怒れよ。あんたが悪いんだ。こんな匂いさせるあんたが」
遼子の中で何かが爆発した。
「匂い匂いって、あなたが欲しいのは私じゃないんでしょ!私の匂いだけでしょ!」
遼子は鷹藤の腕の中で猛烈に暴れはじめた。
この人が求めているのは私じゃなくて、私の出す匂い。
この人が欲しいのは自分じゃないとわかると、どうしようもなく腹が立った。
「いつも馬鹿にしてるくせに!こんな時だけ、こんな時だけ!」
怒りにまかせて、鷹藤の胸板を何度も叩く。何度も叩いているうちに、鷹藤の顔に当たった。
「あれ…」
呆けたような顔をした鷹藤がそこにいた。正気に戻ったかと、遼子は一瞬喜んだ。
「殴ってきても、あんた、かわいいな」
鷹藤は完全に狂気の領域に足を踏み入れてしまったらしい。
「好きでもないくせに、欲望に身をまかせるなんて最低だよ!鷹藤くん、お願い離して!目を覚まして!」
怒りを通り越して、どうしようもない程のむなしさで遼子は悲しくなっていた。
「好きじゃない…。違う。好きだから嬉しいんだ。好きな女からこんないい匂いして、二人でいられるって、
すげー幸せなんだよ」
夢見るような顔をして鷹藤は言った。
官能的な匂いに支配されて言った言葉に違いないが、それでも、遼子はその言葉の中にすこしでも真実があればと願ってしまった。
その遼子の一瞬の空白を鷹藤は見逃さなかった。抱いた腕に力を込め、唇を重ねる。
「んんん!」
遼子は逃れようもなく、なすがまま唇を奪われた。
どうして自分がここまで腹を立てているのか、遼子はようやく気付いた。
自分は、きっと鷹藤に少なからず好意を抱いている。
だからこそこんな形で、本心とは思えない告白を耳にするのがどうしようもなく腹が立つのだ。
なんとか顔を動かし、そこから逃れようとするが、鷹藤の唇は執拗に遼子を求めた。
頬に、首に、切れ目なく唇を落とし続ける。経験がないに等しい遼子にとっても、これは欲望のままの行為というより、
それなりの思いがこもっている行為にも思えた。
もしかしたら、それは遼子の願望なのかもしれないが。
最終更新:2011年04月15日 22:41