ハプニング by270さん 投稿日 2012/09/09(日)


天井でミラーボールが回っていた。
薄暗い部屋に紙ふぶきのような小さな光を舞い散らせており、ストリングカーテンで仕切られたボックス席が
立ち並ぶ店内を照らす。
毛足の深い絨毯が敷き詰められた空間を中心にボックス席が円を描くように配置されていた。
店はほぼ満席だ。どのボックスにも仲良く躰を寄せ合うカップルが座っている。
客同士が囁きあう声で店内はざわめいているが、奇妙な緊張感で満ちていた。
そのボックス席のひとつに、遼子と鷹藤が並んで座っていた。
遼子はうつむき、テーブルの上にある自分の飲み物を掴んで固まっている。
隣にいる鷹藤も背もたれに手をかけ、リラックスして座っているように見えるがその表情は硬い。
遼子の隣のボックスから、荒い吐息が聞こえてきた。
「あっ…あんっ…」
鷹藤側のボックスからは紛れもない喘ぎ声。
「た、鷹藤君、あっちでもこっちでも…」
「当たり前だろ。ここは人前でこういうことする場所なんだからさ」
鷹藤が小声で言った。
「何でこの取材わたしにやらせるのよ…」
「編集長命令だ。しかたねえだろ…俺だってこんなところ来たかねえよ。そもそもあんたがうまくやればさあ…」
「それ言わないでよ!」

数時間前のことだ。
「よお!部数アップの救世主!」
自分のデスクに座り原稿を書いていた遼子のそばに、編集長の樫村がやってきた。
樫村が遼子をおだてながら来る時は、何か面倒な仕事を押し付ける時と相場が決まっている。鷹藤はソファで
寝たふりをしながら、聞き耳をたてていた。
「編集長…なんですか」
「最近な、部数の伸びが悪いんだよ」
「みたいですね。でも次の号でまた名無しの権兵衛の特集をすれば」
「権兵衛はなしだ。最近新しい事件も起こしてないのに、焼き直しの記事じゃ部数が伸びないだろ。そこでだ。
 敏腕記者の鳴海君にここの取材をして記事を書いてもらおうと思ってさ」
そう言って、遼子の前に名刺大のカードを置いた。
店名の下に電話番号とURLが印刷してあるだけのシンプルなカードだった。

「BAR NEST…?何のお店ですか?まさかただのバーじゃないですよね」
「女は1,000円で飲み放題の店だ。しかも時間制限なしだぞ」
「そんなおいしい店がどうして取材対象になるんですか」
樫村がやけに陽気なので、遼子にはそれがひっかかったようだ。
「しかも女はチヤホヤされる。どんな女でも。いいだろ?飲み放題でちやほされるんだ。最高じゃないか。
 じゃあ、行ってこい。特集のタイトルは『本誌美人記者が潜入!ハプニングバーの真実』でどうだ」
「どうだ、じゃないですよ!ハプニングバーって、その…男女が…その…」
「見せ合ったり交じり合ったり場所らしい。読者が興味ありそうな場所だからな、いい記事にしてくれよ」
「…どうして私なんですか!」
「巻瀬君は俺が言い終わらないうちに部屋から消えた。里香ちゃんにはそんなことさせられないだろ」
樫村がさも当然といった口調で言う。
「私は社会派記者なんですよ…」
「今は三流週刊誌の社員だってことを忘れるな」
遼子の喉奥からうっ、という声がもれた。

「それに嫁入り前です。断固拒否します」
「心配するな、護衛ならつけてやるから。鷹藤!お前も一緒に行け」
鷹藤が抗議する前に、遼子が口を開いた。
「鷹藤君はいいです!じゃあひとりで行きます!だってその鷹藤君が変な気を起こしたら」
樫村が声を上げて笑った。
「そばに男がいれば寄り付かないからいないよりマシだ。それに、なんといっても鷹藤と鳴海くんじゃ変なこと
になりっこない。そうだろ?」
「それはそうですけど…」
このやり取りを聞いていて、鷹藤は憮然としていた。

明らかに頼りにされていない上に、男とも見られていない。
樫村が続ける。
「国民ジャーナル出身の敏腕記者さんだったら、こんなネタでもいい記事にできるんじゃないか?それとも記事
を書く自信がないのか」
「記事ならかけます!見ててください。いい記事にしてやりますから!鷹藤君、行くわよ!」
遼子がまんまと樫村に乗せられる様子をみて、鷹藤はため息混じりにソファから立ち上がった。

「あんた、編集長に簡単に乗せられすぎなんだよ」
隣のボックスの喘ぎ声が大きくなる。鷹藤は思わず下を向いた。
「な、何よ動揺してるの?」
そういう遼子も、うつむいたままだ。あからさまな行為を眼にして、完全に眼のやり場に困っていた。
「そりゃそうだって。俺だってこんなの見たことねえし。それより、あんたこそ声が上ずってるぞ。
無理だったら無理って言えよ」
「編集長も鷹藤君も…!私は経験豊富だし、こんなことで動揺したりしないわよ!」
「あー、そう。だったら記事よろしく。頑張れよ」
「わかってるわよ…!」
遼子が意を決して顔を上げる。が、やはり隣のボックスの方は見られず、鷹藤の方へ顔を向けていた。
「わかってるんだったら、俺の顔見ないで向こう見ろよ。記事書くのはあんたなんだからさ」
「だって…だってあっちで…」
鷹藤は遼子の肩越しに隣のボックスの様子をちらりと見た。
「…本番してるな。だったら俺の隣のボックス見れば」
「そっちだって…」
鷹藤は背後のボックスを見た。全裸の女が男の上にまたがり腰を振っている。しかもその女の横には男が立ち、女の熱のこもった口淫を受けていた。
「…さらにすごいことしてるな」

見ていられなくなった遼子が中央にあるオープンなスペースに眼をやった。
毛足の深い絨毯の上に、サテン地のクッションがちりばめてある。
そこでは裸の女同士が絡んでいた。寝そべり、大きく脚を開いた女を、もうひとりのボブカットの女が双頭
ディルドで責めている。
「ひっ…女の人同士が繋がってる…」
「オロオロするなら無理すんなって。帰ろうぜ」
鷹藤も平静を装っているが、眼のやり場に困っていた。まだ若く、性欲もそれなりある男が、これだけの光景を
眼にして反応しないはずがない。デニムの下では、鷹藤自身が痛いほど張り詰めていた。
早いところ、ここから退散したかった。
これで隣にいるのが全く関心のない相手だったら気が楽なのだが、そうじゃない相手だから辛かった。
関心があるからこそみっともない姿は見せたくない。
ちらちらと盗み見る遼子の横顔は普段よりもつやを増し、なまめかしく見えていた。
鷹藤の苦悶はそのせいで増した。
「まだ取材するわよ。だって編集長に馬鹿にされたくないもの」
「これだけ見たり聞いたりしたんだ。書けるだろ」
鷹藤は中腰で立ち上がり遼子をせきたてた。
遼子の隣のボックスの男が、相手の女を貫きながら遼子に色目を送っている。
パートナー交換を迫られたらもちろん断るが、この分では遼子に声をかける男は後から後から出てくるだろう。

「…だから駄目だってば」
遼子は立とうとしない。
「…立てないのかよ。あんた、腰抜けたのか?」
「ち。違うわよ」
「だったら帰るぞ。店全体が盛り上がってきて空気も変だしさ。あんたのこと狙っている男があんたを見てる。
 巻き込まれないうちに帰るぞ」
巻き込まれたほうが記者としては美味しい記事になるのだろうが、風俗記者でもない遼子にそこまでの体験記事
を書かせる気はなかったし、たとえ雑誌記者失格と言われようと相棒として遼子が男に誘われる姿を見るのはいやだった。
「それがね…その…」
いつもは即断即決で、どちらかというと考えなしに行動を移す遼子なのだが、今日は違っていた。
「なんだよ。さっきから、もじもじもじもじもじ、あんたらしくねえ」
遼子が下を向いたまま、小さな声で言った。
「躰が熱いから動けない…」
「はぁ?風邪か」

「違うわよ!そうじゃなくて…変なの…。その…躰が熱くて。こんなの見たから…」
遼子は膝の上に手をつき、ますますうつむいた。

「あんたなあ…それ欲情してるっていうんだよ。躰が熱くて変なんていい年こいて中学生みたいなこと言うなよ!」
「欲情ってストレートな言い方しないでしょ!それに中学生って失礼ね!た、鷹藤君だって前かがみじゃない!」
「当たり前だろ!こんなの聞いてりゃ生理現象もおきるだろ」
周囲からは喘ぎ声、湿った蜜の音、荒い吐息、バイブレーターが駆動するモーター音…。
二人は淫らこの上ない音に包囲されている。
しかも最初はルームフレグランスの花のにおいに満ちていた部屋も、客の熱気があがるにつれ雄と牝の匂いに
支配された部屋となっている。
気づかれていないと思っていたが、遼子は鷹藤の躰の変化にしっかり気づいていた。

「前かがみって…あんただって…変なんだろ」
「…いやらしい!」
「いやらしいって、あんただって躰変なんだろうが。どうすんだよ。ずっとここでもじもじして帰らない気かよ」
遼子が顔を上げた。眼が潤んでいた。
「だって家に帰ればお兄ちゃんがいるのよ」
「あ…」
そういえば遼子は兄洸至と同居していた。火照った躰を抱えて家族の下に帰るのは確かに気まずい。
「お兄ちゃんと顔合わせにくいし…」
「…帰るぞ。家に着くまでに熱だって冷めるさ。このままいて、まずいことになるほうが困る。あんたに何か
あって原稿落としたら、お守りで行った俺までどやしつけられるからな」
遼子の事情を考えると、少しかわいそうな気もしたがこのままここにいることの方が更にまずいような気がしていた。

「やけに冷たいじゃない。私が本当に困ってるのに」
「…あのなあ。俺だって困ってるんだよ。こんな様子見て普通でいなきゃいけないのは相当な苦行だぜ。
お互いにおかしくなる前に、離脱しようぜ。じゃないと…」
「じゃないと何よ」
遼子が鷹藤の顔を怪訝そうに見た。
遼子はどこまでも鈍い。鷹藤は仏頂面で答えた。
「…なんでもない。行くぞ。困ってるんなら遠山さんに頼めよ。元カレなんだろ。泊めてもらえよ」
「史郎ちゃんとはいま冷却期間中なの知ってるでしょ。わかってて嫌味ったらしいわね!それにろくな取材
しないで今帰ったら編集長に馬鹿にされるわ!」
「このままいたら俺だってなあ…」
「何よ…」
いつまでも気づかない、いや、気づこうとしない遼子に鷹藤はしびれを切らした。
「…あんたさ、俺が男だってこと、忘れてねえか」
「忘れてないわよ」
そう言ったが、遼子の声は動揺していた。
遼子にとって鷹藤は性別を超えた相棒でしかなく、男としては見ていないのが明らかだったからだ。
それが突然鷹藤に男であることを突きつけられ、内心驚いているようだった。
沈黙して、見つめ合っていたときだ。

「お兄さんと喧嘩したならこっちおいでよ。三人で愉しまない?君なら歓迎だよ」
隣のボックスにいる中年男が遼子に話しかけてきた。男の上で腰を大きくバウンドさせている女が自分の豊かな
胸を誇るようにもみ、蟲惑的に遼子の眼を見つめた。
遼子が身をすくめ鷹藤に躰を寄せる。
鷹藤は遼子の肩を抱き寄せた。
雄と雌の濃厚な匂いが漂う部屋の中にあって、遼子の甘いシャンプーの香りは清らかで心地よく香った。
「…大丈夫です。なあ」
腕の中の遼子に微笑みかけた。

「うん…」
遼子も調子を合わせて鷹藤の胸に顔を寄せる。
相棒の体温を感じて、鼓動が高鳴る。爆音に近くなる。
「俺たちは見てるだけでいいんで」
「そう。そっち派なんだ。残念だなあ。スワッピングが駄目なら、君たちがしてるところ俺たちにも見せてよ。
彼女みたいな子が、どんな風に感じるか観たいからさ。そのあと、その気になったら一緒にどう」

最終更新:2012年10月20日 23:51