■ 空海の風景 1時間40分


宮内利明
ありがとうございます。最も私の大好きな司馬さんの『空海の風景』本で分らないところを映像音声で補えて感謝です。司馬さんが,これほど仏教に研究精通なさったとは驚愕でした。般若心経と真言を唱える毎日です。なんと弘法大師の偉大さよ。中国でも信仰者がいるとは!!!
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Shin-i-chi Kozima
The genius of Kukai is beyond my imagination and beyond description ,
I believe in the immortality of genius Kukai's soul
(空海の天才ぶりは、私の想像を超えて、筆舌に尽くしがたいものがあります。天才・空海の魂は不滅だと信じています。)
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Flower
21:26 空海が失望した理由が、今の若者が現代の教育制度に失望するのと全く同じ理由(;_;)
いい大学に行くため、いい企業に就職するため、、。学ぶこと自体の喜びが非常に見出しにくい。


 司馬遼太郎の『空海の風景』に異議あり 「エンサイクロメディア空海」より
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 司馬遼太郎が『空海の風景』上・下(中央公論社)を書いたのは昭和50年である。 初出は「中央公論」誌の昭和48年1月号から始まった連載であるから、今から30年以上も前のことになる。
 空海関連の書物の中でも本書の文庫本(中公文庫)は今でも群を抜いた売れ行きをみせている。これに続くのが、陳舜臣の『曼荼羅の人―空海求法伝』上・下(集英社文庫)である。
 司馬遼太郎の代表作といわれる『坂の上の雲』や『龍馬が行く』に比べると、『空海の風景』は分量的には劣るものの、上下二巻の大作である。初版本の帯には「構想十余年、司馬文学の頂点を示す画期作」とある。
 著者の「あとがき」によると、『坂の上の雲』の下調べをしていた頃、空海全集を読んでいたらしい。司馬はこの本で芸術院恩賜賞を受賞している。自他共に「司馬文学の頂点を示す画期作」と認める作品が、『空海の風景』なのである。

 司馬は平成8年に没した。国民作家と呼ばれる小説家の手により空海を広く世に知らしめてくれたということに、空海を宗祖と仰ぐ宗派からも高い評価が下されてきた。

(※mono....中略、詳細はサイト記事で。以下抜粋いくつか)
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 この本で空海を知り、学んだひとは大勢いることだろう。小説なのだからフィクションと割り切ってしまえばよいのだが、ほとんどの読者は、これをフィクションとしてではなく、むしろノンフィクションとして、しかも現代の最も良質な作家の手による空海の伝記として読むだろう。
 そのように読まれることを司馬が期待していたかどうかは分からない。司馬が本書をあくまでも小説として書いたということは事実であり、これを「風景」という曖昧な表題にしたのは、あまりにも偉大な空海そのものを捉えきれないという謙虚な姿勢の表明と受け止められなくもない。
 そうしたことを勘案しても、私は司馬が描き出した空海像をどうしても好きになれないのである。いったいどうしてこの本が、大岡信の言うように、「密教とは何かに関する異色の入門書でもある」のか甚だ疑問に思っている。
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 だから、司馬はそうした万人の常識を追認したにすぎない。いかにも司馬だけが初めて空海を天才と認めたかのような書きぶりは胡散臭い。「筆者は、空海において、ごくばく然と天才の成立ということを考えている」などと、もってまわった言い方をせずに、「万人が認める空海の天才とはいかなるものであったか」と素直に書くべきだった。
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 『空海の風景』は、司馬が空海の生地である四国の讃岐を訪れるところから始まる。
 空海は讃岐の満濃池を修築した。
 満濃池の決壊は永年の課題だった。その解決策を地元民は空海に請うた。その要請に空海はこたえた。国司が京に書き送ったとされる書状にあるように、人々が空海に対して「百姓恋ヒ慕フコト父母ノ如シ」と思っていたというのは事実であろう。だが、そのすべては空海の自作自演であったかのように、司馬は書くのだ。

 「空海のずるいところであり、もし空海が大山師とすれば、日本史上類のない大山師にちがいないという側面が、このあたりにも仄見えるようでもある」(上巻、17頁)

 空海に関して、このような評価を下した人がかつていただろうか。空海はずるくて「日本史上類のない大山師にちがいない」と。
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その大事業の達成をもって、空海は偉大な天才だったと、司馬は認めているのではない。自作自演をした「日本史上類のない大山師」であったというところに、空海の天才を認めているのである。古今まれにみる信じがたい評価(?)である。そうまでいわれても、弘法大師空海を祖と仰ぐわれわれ真言末徒は、この小説家に賛辞を送るのだろうか。
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 なぜ空海は大学を中退したのか。その理由を、司馬は現代的な観点、というより、司馬個人の独断で「性欲」のせいにしている。真言教学上の立場から、これに反論する人は今までいなかったのか。
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 結局、性欲の悩みで出家した空海は、30歳頃それを克服して、僧になってもいいと思った? まさか、である!
 私の考えを端的に言うと、空海は北伝仏教の「釈迦十九歳出家、三十歳成道説」を信じていた。みずから仏陀になろうと決意し、釈迦のように19歳で出奔し、30歳までは世に出まいと修学に励んだのだ。この12年間があればこそ、成道を遂げた空海を一目見た恵果阿闍梨はただちに伝法を決意したのである。
 それが司馬によって、性欲の悩みを克服する期間に矮小化されてしまった。
 伝記が書かれるほどの人物にとって、その人が世に出たときが最も重要である。いかに偉大な人物でも無名の時期がある。伝記作家はその無名の時期をも埋めなければならないわけだが、史料が限られているか、ほとんどない場合、どうするか。
 何を想像して書いてもよいというものではなく、その人物の偉大な功績の準備期間とみるのが最も妥当ではないだろうか。性欲を克服したとおぼしき外国の青年に、大唐帝国の国師が数千人の弟子をさしおいて両部の大法を授けるということがありえようか。

(※mono....全文が重要です。まだまだ続きますので、是非全読を。)













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最終更新:2021年03月17日 08:29