+ ニュースサーチ〔生きる喜びと死の恐怖〕



田中希生@kio_tanaka
さて、醜悪な弁明をつづける科学者に科学者としての責任があるのは間違いない。彼らはウイルスに立ち向かうよりも国民の死の恐怖に向かって話しかけていた。ウイルスの実態を見極めるよりも国民の行動変容が目的と化していた。それは科学ではなく政治だ。しかし政治だったから、左派が乗ってしまった。

疫病対策はたしかに国民の行動変容を要求するが、科学者が安易に死の恐怖を煽って国民の行動を一定の方向に誘導することは、科学の範囲を大幅に超える。それをやっていたのが、西浦氏をふくむ一部の対策班である。科学者は、死の恐怖ではなくウイルスのほうを見ていなければならない。

自分は人文学者であり、ウイルスではなく国民の「死の恐怖」の方を見ていたから、一部科学者にまったく同情できなかったが、科学者の言葉は国民がもともと持っている「死の恐怖」に強く作用し、行動変容を促す側に圧倒的な支持が集まることになった。当初は慎重だった政府が不作為に見えたのである。

国民の行動変容を促すことが自己目的化した一部科学者と、それに慎重な政府の不作為を非難したいインテリ左派の思惑が期せずして一致してしまった。それで、言論が死んでしまった。結果として、欧米の倍の年月を効果不明の対策にかけて、100兆の金を湯水のごとく浪費することになった。

これも結局は、「死の恐怖」にもとづいてしか行動できない、いいかえれば「生きる」ために行動できない国民道徳に源泉がある。これでは社会保障費は増大を続ける一方であり、物価の高騰に賃金の上昇が永久に追いつけない。社会保障費は「死の恐怖」の関数、賃金は「生きる欲望」の関数と覚えておこう。

生きようと思う感情が、死を遠ざけようと思う感情を上回らなければ、必然的に社会保障費のほうが上がっていく。賃金がどうあがいてもそれに追いつけないという悪循環に陥る。そこで気づく。結局のところ、一番の原因は人文学者にある。生きることの喜びを、つまり哲学を教えられていないのである。

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最終更新:2024年12月10日 08:51