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武士道 (PHP文庫)




■ 本当の「伝統」について考える ― 『武士道の逆襲』菅野覚明著 「洛中乱読乱写日記(2012-07-29)」より
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武士道といえば、新渡戸稲造(旧五千円札のおじさん)の『武士道』という名著があって、今でもここに描かれる気高き日本人の心を賞揚する人は少なからからずいるわけだが、本書は、のっけから新渡戸の説いた武士道に喧嘩を売る。


学問的な研究者を除く一般の人々――とりわけ「武士道精神」を好んで口にする評論家、政治家といった人たち――の持つ武士道イメージは、その大きな部分を新渡戸の著書によっている。そして実はそのことが、今日における武士道概念の混乱を招いている、もっとも大きな原因なのである。
〈中略〉
それは一言でいえば、新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係もないということなのである。


第一章の10数行目でこの啖呵の切り方は、もはやすがすがしと言っていいくらいで、ある意味、読者の期待を否が応でも高めざるをえないが、では新渡戸稲造の書いた武士道とはなんだったのだろう?

(※mono....中略)
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で、明治政府が慎重に排除しようとした「武士道」が、再び論じられるようになったのはなぜか。


日露戦争期における武士道論議は、欧米のメディアと日本国内の言論界で、同時期に高まったものである。それは、大きくは、日本が勝利を得た原因を問う、東西文明論という文脈の中での議論であった。


誤解を招くことを覚悟の上で、簡単にまとめてしまうと「日本は東洋の遅れた文明の国である。それが、欧米(=ロシア)に勝てたのはなぜか。それは武士道という、西洋文明にも負けない立派な精神があるからである」という形で再発見された、という感じのようである。
その「再発見」は、私見によれば、「都合の良い後付の理屈」のようでもあるのだけれど。

もう一つ、新渡戸稲造の場合には、彼が熱心なキリスト教徒であることも、話をややこしくしている。

(※mono....中略)
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      • ま、あれだよ。
「これが日本の伝統だ!」とか言われているもので、じつは、明治時代あたりに急ごしらえで作られたものだったりする、という例は案外多いような気がする。
それって、少なくとも、伝統という観点から言えば、「本物ではない」ことは確かだ。
ま、だからといって「殺し合いで天下をとる」ことを是とする世界で生きていたような、「本当の武士道」を復活させようなんて、土台無理な話だと思うけれど。


■ 正統なる「武士道精神」「大和魂」を護れ 「祖国創生(2017.7.9)」より
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私は、何年かに一度、泉岳寺に行くようにしている。
行くと必ず、白人の男の旅行者グループに出くわす。彼らは、おそらくどこかの国の軍関係者であろう。彼らは、英語の解説書を読みながら、墓の前に立っている。そういう状況で私は100円の線香の束を購入、一つ一つの墓の前に置き、手を合わせる………
外国人の彼らは、墓を眺め、同時に「訪れる日本人」の挙動を観察している……
私は私ができる供養を続ける。こうすれば、日本において「義」が失われることはないであろうと。

そういう私は、泉岳寺では、訪問する外国人たちの存在を意識、別の願をかける………
我々日本人の誰かが、泉岳寺を訪問し続け、『泉岳寺にて、100円線香の煙が絶えない間は、「武士道精神」が絶えることはない』であろうと。

同様に、韓国人たちは靖国で日本人を観察している。明治神宮では中国人たち、アメリカ人たちが日本人を観察している。
どちらにおいても、私は、外国人の存在を意識、願をかけるようにしている。
明治神宮では、『我々日本人の誰かが明治神宮に参拝し続けている間は、皇室に対する崇敬は失われることはない』であろうと。
靖国神社では、『我々日本人の誰かが靖国神社に参拝し続けている間は、祖国を守るために(大東亜戦争を正々堂々と戦い)戦死された多くの無名の軍人の存在は歴史から消されることはなく、戦前の一時期に言論界で盛んに言及された、日本精神(=現在で言う大和魂)が消滅することはない』であろうと。

(※mono....中ほど略、詳細はブログ記事で)
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しかし、多くの日本人は、普段からそう語ることはない。敢えて語らないことが、伝統的に「美徳」とされてきたからだ。
逆に、自ら「愛国者である」、「善人である」、「聖人である」と語る人たちの実相は、その正反対もしくはそうでない確率が非常に高いことは、マスコミが報道しなくてもネット情報で知ることが可能となった。
「愛国者なりすまし」、「善人なりすまし」、「聖人なりすまし」にとっては都合が悪い時代になったのである。
さらに、提言がなく、批判文しか書けない(書かない)のに特攻散華の文章をブログに載せる癖がある(愛国と称する、保守なりすまし?)議員もいた。啓蒙ビジネス好きな言論人の中には、初心者本ばかり書いている人もいた。内容・構成的に酷似している本を見かけたので出版社に問合せたこともある。
要するに、保守なりすましが多いと言いたいのである!
鑑定士中島誠之助の本によると、世の中は、極少数のホンモノと、圧倒的多数のニセモノであふれているそうだ。ただし、ホンモノは、作者の渾身の善意と熱意に溢れ、ホンモノにふさわしい風格、ホンモノならでは表現的な主張があるそうだ。
私は、ノンポリにわか保守の市井の者に過ぎないが、今我々が護るべきもの、ひょっとすると戦後七十年を経て失いつつあるのは、「武士道精神」、「大和魂」ではないのか。

(※mono....以下略、詳細はブログ記事で)



■ 日本を日本人のための国に 「浮世風呂(2014.12.18)」より
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日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。

昭和30年(1955年)、アジア・アフリカ二十九カ国が集まり、バンドン会議が開催されました。日本は招待されました。敗戦後間もない日本でしたから慎重論が多かったのですが、高崎達之助経済審議庁長官や外務省参与の加瀬俊一氏らが出席しました。加瀬氏は日本はいいこともしたけど、わるいことをしなかったわけじゃないので、あまり気が進まなかったと回想しています。ところが、日本は大歓迎を受けました。
(※mono.--中略)
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◆武士道

 武士道といえば、佐賀の「葉隠れ」を思い浮かべる人が多い。その神髄は「武士道とは死ぬことと見つけたり」で、戦時中、軍部がこれを戦意高揚に利用したため、「死に急ぎの哲学」ともいわれた。しかし、葉隠れの真髄(しんずい)は「武士はいつ死んでも悔いがないように日々立派に生きよ」ということにある。進駐軍はこの葉隠れの精神を嫌って剣道の競技まで禁じた。父は後年、「アメリカ人はもっと他に良い生き方があると教えてくれるのかと思ったよ」と笑っていた。

評論家・屋山太郎氏

◆葉隠と三島由紀夫

【佐賀藩士 山本常朝】「葉隠聞書」での一文…

『武士道と云うは死ぬこととみつけたり』

[原文]
『二つ二つの場にて、早く死方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわって進む也、図に当らず、犬死などいふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二 つ二つの場にて、図に当るやうにする事は及ばざる事なり。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。もし図に外れて、生たらば、腰ぬけ也。此境危 き也。図に外れて死にたらば、気遣いにて恥にはならず。是が武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度な く家職を仕課すべき也。』

[訳文]
『二つのうち一つを選ばなければならない状態、つまり死ぬか生きるかというような場面では、死ぬほうに進むほ うがよい。むずかしいことではない。腹をすえて進むだけのことである。思ったようにいかない場合を考えたり、それでは犬死にだなどという意見は、上方風の 思いあがった武士道である。二者択一の場で、思ったようにするなどということは、そうそうできることではない。自分も人も生きるほうが好きである。おそらく好きなほうに理屈がつくであろう。しかし、もし選択を誤って生き延びたととしたら、腰抜けである。思ったように行って生きるのと、思っ たように行かないで生きることとは、紙一重の差である。うまく行かず死ぬことになってっも、「気違い」だというだけで恥にはならない。これが武士道の一番 大切なところである。毎朝毎夕、いつも死ぬ覚悟をしていれば、武士道の自在の境地に達することができ、一生失敗することがなく、家職をまっとうすることが できるのである。』

 常朝は、二者択一の場においては死ぬ確率の高いほうを選べ、犬死でも構わないから腹をすえて進め、と言います。その理由は、切迫した場面では、最善の選択をすることはまず不可能だからです。

  人は誰でも死にたくはありません。ですから死なない方に理由をつけて選ぼうとします。この場合、理由がうまく当たって適切であれば、自分も生き延びて事態 も収まるかもしれません。しかし問題はその選択理由を誤った場合です。その場を生き延びることはできますが、結果は「腰抜け」「腑抜け」となります。
例えば仲間が敵に斬られようとしている時に、助太刀すれば自分も斬られてしまうかも知れません。或いはもし敵を斬り倒したとしても、争いをしたという理由 で切腹を命じられるかも知れません。

 しかし、それらは「気違い」であっても、決して「恥」にはなりません。かえってその勇気を称えられて「見事」と誉めら れることもあります。しかし、見て見ない振りや、逃げた場合は、「恥」になります。もしそれを誰かが見ていれば、武士たる者、切腹は免れません。

 だから、恥にならないよう、どちらにしようかと迷う場では、死ぬ確率の高いほうを選べ、というのです。そのように毎朝毎夕、死の覚悟をしていれば、かえって一生落ち度なく、家職をまっとうすることができる、という訳です。
(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)















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最終更新:2022年09月19日 09:17